第7話
碧は行方不明だと、藍は警察署で知らされた。
灰色の部屋の中で、警官に何を聞かれたのか、どんな警官に何を話したのか、藍は憶えていない。
魂は、半分無くなっていた。
見ているが、見えなかった。聞こえていても、届かない。
あの光景は何なのか、どんな意味を持っていたのか。
そもそも、なぜ母が碧を殺そうとしたのか、なぜそれを碧は知っていたのか。
姉は母を、前から嫌悪していたと言った。
でも、それだけか?
土台が分からない。
分からなければ、見たものの意味は見えなかった。
自分自身が情けなかった。たった三人の家族でありながら、その二人の確執の本質も見抜けず、殺し合いを止めることも出来なかった。
「犯人を、見ていないのかい?」
警察で、何度も聞かれた。
「そいつはね、キミのお母さんを、あんなひどい殺し方をした挙句に逃亡しているんだよ。もしかしたら、お姉さんの行方も、そいつが関係しているかもしれない」
母の死骸は口腔から後ろの壁までナイフが貫通された、釘付けの状態だったという。
大人の身体を持ち上げ、ナイフを口から壁まで貫き通す。
その馬鹿力は、人間の力では考えられない。
傍には、母の指紋が付いた包丁が残されていた。
身体には、何度も蹴られたような跡があり、内臓の破損も著しかった。これも、常人から外れた力で暴行を受けたのだ。
碧は、そんなに母親を憎んでいたのだ。
警察は、犯人を男だと思い込んでいた。
藍は、その間違いを訂正することが、どうしても出来なかった。
警察署の取り調べ、藍の事情聴取がひと段落したのは、事件発生から三日目だった。
犯人像などから、藍は容疑から完全に外れていた。
碧の捜索は、続いていた。
犯人を目撃しているはずの重要参考人、行方不明者として。
家にあった現金は、全て持ち出されていた。
強盗、殺人の線から、しかし、死体の損壊の酷さから怨恨も念頭に置いて、捜査は進められている……
「誰か、世話してくれる人とか、行くところ、あるの?」
心配そうに聞いてくれた婦警に、藍は黙って頷いた。
「……父が、います。小さい時に離婚して、別々に住んでいますけど」
本当だが、ウソだ。
父はアメリカにいる。それしか知らない。
放免となり、藍は外を出た。
警察署の外は、晴れていた。
今日は、何曜日なのか、時刻は何時なのか、藍はもう現実感覚が無くなった。
「……家に戻ろうかな」
碧がいるかも。
ふと、そんな気がした。どこにいるんだろう。警察が探している。そのことをお姉ちゃんは知っているのだろうか。
警察署の入り口から、空を見ながら藍は考える。
これから、独りだった。
今後はどうなるのか分からない、どうすればいいのかも分からないが、今は、時間だけはある。
いや、時間しかないのか。
藍は足を踏み出した。とりあえず、ここにずっと立っているわけには……
カメラを構えた男たちがいる。
こっちに向かってくる。藍は足を止めた。マイクを持った女性が、カメラを持った男が口々に藍へ叫ぶ。
「……お姉さんの行方を……」「……犯人……おかあさんは……」
何を言っているのか、聞き取る前に藍の足がすくんだ。
「湖川!」
突然、腕を取られた。
「こっちこっち!」
強い力で引っ張られた。学生服の……速水由樹。
「走れ!」
言われるままに藍は走った。
叫びや大声が背中に当たったが、追いかけてこない。
「良かった、間に合った。今、学校終わったところ。実は湖川がここを出たら、連絡して欲しいって婦警さんにお願いしていたんだ」
「……速水君」
「家に帰れるのか? 行くとこあるか? とりあえず、一緒に来ない?」
「……」
タクシーから降ろされたのは、藍の家の近所だった。
「家の場所は知っていたよな。近所だし、俺の家」
藍の住んでいる町内から、駅方向へ五〇〇m離れた先だった。藍の住んでいる町内より、下町の趣が残る町内だった。
キジ猫が、軒先で日向ぼっこをしている。
『速水』と表札が掲げられた門の前に、いくつも植木鉢があった。門から玄関に入る間にも、パンジーの鉢植えが並んでいる。
「ただいま」
玄関に、太り気味の女性が現れた。お帰り、そう言いかけ、由樹の後ろにいる藍に気が付いた。目を丸くした。
「今日は、父さんもばあちゃんも家にいるよな」
「いるわよ」
瞬きを繰り返し、由樹の母親らしき女性は藍を見た。何かじっと考え込んでいたが、あ、と口を開く。
「もしかしてこの子?」
「そう、湖川。おい、入りなよ」
「……あの……」
躊躇する藍に、由樹の母親らしい女性がちょっと笑った。
「入りなさい」
「……しばらく、訳があって置いて欲しい友達って、この娘の事だったのか?」
呆れ返った口調で、速水家の家長、由樹の父親の定行が、皆の顔が揃ったダイニングのテーブルでお茶をすすった。
「学校のお友達だって思った」
祖母、雪代がしみじみと嘆いた。
「それでも、理由によりけりですけどね。子供はちゃんと家に帰らせないと」
由樹の母親、サツキが二杯目のお茶を自分の湯飲みに注ぎ、気が付いたように客用の湯飲みを、藍の前に押した。
「ホラ、飲みなさい」
「事が事だろ」
由樹が言い放つ。
「だって湖川、噂じゃ親父さんアメリカだって言うじゃないか。湖川、キミの親父さん、この事件の事知っているのか? 連絡は?」
「……それは……」
藍は言い淀んだ。
「警察の人が、連絡出来るように、頑張ってくれているって」
「うーん」
定行が呻いた。
「ご親戚や、お友達は?」
「あのさあ、そんな頼れる人間いたら、湖川も警察署の前で三〇分も、ぼーっと突っ立ってやしないって!」
見られていたのか、藍は赤面した。
「別にいいだろ、人助けだ。それに、皆、湖川の身に何が起きているかくらい、父さんたちも知ってんだろ」
警察に通報したのは、由樹なのだ。
コンビニに夜食の買い出しに出て、藍が由樹に助けを求めたのは、その帰り道だったという。
うーん、と三人の大人の頭が沈んだ。
当たり前だ、息子が連れてきたのは、同い年の少女で、重い背景を抱えている。猫の子一匹を家に置くようにはならない。
身の置き所が無い。藍は何度も何か言おうとしたが、由樹に遮られてしまう。
もう良いです、大丈夫ですから。
それでも、藍がそういいかけた時だった。
「分かった。もうはっきり言うよ」
由樹は顔を上げて、祖母と両親をしっかりと見つめた。おや、と母親と祖母が顔を見合わせた。
「俺、この娘が好きなんだ」
……ダイニングに、空白が出来た。
大人三人の目が、由樹に集まった。
そして、藍を見る。
藍も呆然と由樹を見つめ、さっきの言葉、その意味を考える。
おい、と定行が呻いた。
「俺、湖川が好きなんだ」
由樹は繰り返す。言葉は完全になった。
「本気で好きだ。だから力になりたい。ここに一緒に住むからって、弱みに付け込んで着替えや風呂覗いたり、夜に忍び込んだり下着漁ったりするような、嫌われることはしない」
「……」
四人分の絶句の中で、由樹は続けた。
「ちゃんと大学入って、就職して大人になったら結婚を申し込む。心配しないでくれ」
「はやみくんっ」
完全に混乱していた。何を言われているのか、耳では理解できるが、理性がついていけない。
再会はつい最近で、クラスが二回同じになった、それだけの関係だと思っていた。
この場をどう処理すればいいのか、言葉も考えもまとまらない藍の耳に、感心した声が入った。
「そこまで言い切るならねえ。真剣な純愛ならまあいいか」
母のサツキが、丸い顔を祖母の雪代に向けた。
細い顔の老婦人は、湯飲みの茶を一気に飲んだ。
「嫁にするなら、早いうちに家風に馴染んでもらうのもありかね」
定行は、口を大きく開けたまま由樹を見つめている。
そして、たまに藍を見る。
話に振り落とされているのは、彼も藍と同様らしかった。
突然、サツキが口を開いた。
「……実は私、女の子が欲しかったのよ」
続いて、雪代が頷く。
「私もよ。サツキさん、もういっそ、あんた似でも良いから孫娘が欲しいって、願掛けまでしたのよ」
「そこまで譲歩しても願いを叶えてもらえないなんて、お義母さんてば、どこまで日頃の行いが悪いんですか」
「まあ、ちょっと安心したわ。孫は女癖悪いのかって、私は心配でねえ。デートの相手がコロコロ変わっていたでしょ」
「コロコロって、そんなにねえよ!」
「いいえ、コロコロです」
サツキが立ち上がり、冷蔵庫の横に吊るしたノートを取って戻った。
「ほら、献立日記のこの日とこの日とこの日、由樹が女の子とデートって、ちゃんと記録してるの。ほらほら、デート相手の名前も違う」
「べ、別に仕方がないだろ! 向こうが誘ってきたんだから! 映画おごってくれるって言うし、別に断る理由もない!」
真っ赤を通り越し、由樹の顔が赤黒く変色した。
献立ノートをめくりながら、しみじみと定行がため息をつく。
「おごってくれるからって、ほいほい異性について行くのか。由樹が女の子に生まれなくて正解だったかもしれん……それにしても、南蛮漬けに焼き魚にフライと、我が家の魚料理はアジが多くないか?」
「私たちが好きなのよ」
「ねえ。アジは美味しいわよね」
嫁と姑が声を合わせた。
「まあ、それじゃ藍ちゃんには、お客さん用のお部屋を使ってもらいましょ」
どさくさに紛れて、話が通る。ひょいとサツキが立ち上がり、そして藍をじっと見つめた。
「もしかしてだけど、あなた、由樹が小学校の頃にスカートめくって泣かした女の子じゃなかったかしらね」
突然、記憶がよみがえる。顔が焼けるほど熱くなった藍の横で、由樹が怒鳴った。
「母さん! 余計なこと言うな!」
「そうだよ、サツキさん。この子はあの時、帰りのH・Rで学級裁判にかけられて、放課後は職員室に呼び出しされて、担任の佐藤先生だっけ? 散々怒られたんだから。もう忘れてあげましょ」
「ばーちゃん!」
姑と息子の言い争いに背を向けて、サツキは藍の肩を押した。
「さあさ、お二階へ行きましょ」
速水由樹と、クラスが一緒だった頃を藍は思い出した。
小学五年生の頃と、中学二年生の頃。
小学五年、由樹がどんな男の子だったか、藍はよく覚えていない。当時は母と碧、祖父母の五人で、乱暴でやんちゃな存在そのものに慣れていなかった。男の子が怖かったおぼえがある。
あの日、確か日直だった。先生の手伝いで、職員室からクラスの皆に配るプリントを両手で持って、廊下を歩いていたのだ。
そこに、由樹が走って来た。前で立ち止まった。
『?』
通せんぼされる形になって、藍は足を止めた。由樹の行動の意味が分からなかった。
瞬間、スカートの端が舞い上がった。両手がプリントで塞がっていたせいで、藍はスカートをとっさに抑えることが出来なかった。
廊下で爆発したのは、男の子たちの笑い声、由樹をはやし立てる声に手を叩く音。
何があったのか、分からなかった。しかし、傍にいた女の子の悲鳴や、怒鳴り声でようやく、藍は自分に何が起きたのか、意味が掴めた。
ショックでプリントが手から落ちた。廊下に広がるプリントを下敷きにして、藍は泣いた。女の子が周囲に集まり、先生が呼ばれて、それで……
「――父さんが悪い」
茶碗のお代わりを差し出しながら、由樹が口を曲げた。
定行が眉間に皺を寄せた。
「俺は、女の子にそんな破廉恥な行いをしろと、一度も言った事はない」
「男は好きな子のスカートをめくるものだって、父さん言っただろ」
「いつどこで何時何分何秒、そんなこと言った?」
「もうやめなさいよ、まったく情けない」
息子と夫の争いに、サツキがよそったご飯が割って入った。
全くだよと、雪代が嘆いた。
「この娘が困っているでしょ、恥ずかしいったら」
藍はうつむいた。目の前に、夕食の膳が並んでいる。
焼いた魚と、ホウレンソウの胡麻和え、茶碗蒸しと味噌汁が湯気を立てていた。
「ほら、残しても良いから、少しでも食べなさい」
美味しそうだと、そう思う。しかしこの食事も『あの味』には……
悲しくなった。自分のために、手をかけてくれている好意を、受け止める身体ではないなんて。
それでも。
一口、ご飯を口に入れた。
「!」
刺さった味覚に、藍は思わず顔を上げた。サツキが笑顔になった。
「そうそ、ちゃんと食べなさい」
気が付くと、他の三人も藍を見守っている。
涙が出かけた。藍は慌てて目をぬぐった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます