第6話

佳子はニュースの映像を、ただ目でなぞっていた。音声も耳に入れていたが、その内容を頭に入れてはいなかった。

 姉妹が部屋に入り、眠りにつくのをただ、待っていた。

 時刻は、午前二時。 

 テレビを消すと、家は静寂に染まる。 

 台所に入り、調理台の包丁スタンドに手を伸ばす。

 包丁は毎日研ぐのが佳子の日課だった。

 この中でも特に牛刀は、老舗の金物屋であつらえた一流品で、多くの料亭の調理人が愛用するものだと、店の主人から勧められた品物だ。

 牛刀を手に取る。佳子は息苦しくなった。

 碧が食べていたあの腕は、誰のものだったのか、いまだに分からない。

 しかし、知る必要はあるのだろうか。

 碧そのものに、決着をつけてしまえば、あれはリセットされる。佳子の罪で上書きしてしまえる。

 娘を殺した。世間はそれしか見ないだろう。

 あれは、自分の娘であると、世間に見られているうちに殺すのだ。

 佳子は背筋を伸ばした。

 スーパーで、佳子の所業が知れ渡っているだろう。あのゴミの中身も、もうばれているかもしれない。その予感が、佳子の精神を軋ませる。

 どこをどう探しても、解決策どころか、保留する方法も見つからない。

 母親の手だけでは、碧は手に負えない。頭は良い子だ。

 それが、今は全て佳子の立場では逆に出ていた。母として、どうにかしようとしても、打つ手は封じられている。 

 だが、他人の助けを介入させるには、おぞましすぎて、先が見えない。

 たった一人で、暗闇をただ歩くしかないことに、もう佳子は疲れた。

 先は、地獄でもいい、この場から出ていきたい。

 碧の食人が、世間に知られたら? それだけが、佳子の頭を恐怖で埋める。

 化け物の母親という、おぞましいレッテルが貼られてしまう。それは佳子には耐えがたいことだった。

 碧を、殺そう。

 佳子は、シンプルな決断を下した。

 今なら湖川碧という、成績優秀で美しい少女が、狂った母親に殺されたという悲劇で終わる。

 あの子の名誉は、守られる。人を食べていたことは、濃い悲劇で薄められる。そのうちに誰にも気がつかれず、消えてしまうだろう。

 そして、自分は人殺しだ。化け物の母ではなく、ただの子殺し、それで済む。

 藍は……あの子は、悲劇の中に残された子として、生きていけばいい。

 好奇の目に痛めつけられるかもしれないが、同情と憐みも降り注ぐはずだ。

 人は、あの子にはまだ優しいだろう。

 佳子は、天上を見上げた。

 

 ゆっくりと、佳子は階段を上がった。

 階段を上がり切って、廊下の照明を消した。そして、ゆっくりと碧の部屋へ歩く。

 娘たちの部屋に、鍵はついていない。

 包丁を片手に、碧の部屋のノブを回した。静かにドアは開いた。

 カーテンはぴったりと閉められ、月の明かりすらない。

 暗闇の中を、ゆっくり佳子は歩いた。

 暗闇の中に浮かぶ、ベッドの輪郭の前で佳子は止まる。

 包丁を握りなおす。汗をかいている。心臓も痛いほど波打っていた。

 子殺しの、強烈な背徳感と愛情が、佳子の中で沸き起こった。

 止めようか、と母親の情が佳子の包丁を止めた。しかし、碧と自分の名誉を守るためだと、理性が情を押しのけた。

 謝罪も、祈りも、佳子は口にせずにベッドの毛布を払いのけた。

 そして、一気に包丁を振り下ろした。

 小さな悲鳴が聞こえた。佳子は刺した。

 やめてと声が聞こえた。だが、刺した。

 一刺しごとに、事態は終息に向かっている……その思いだけで、佳子は刺した。

 情けをかけて、刃の勢いを弱めてしまう方が、碧に死を与えられないほうが、今の佳子にとって、母親失格だった。

 幼い日の、あどけない顔の碧がよみがえった。花が開いたような笑顔の、碧が脳裏によみがえる。

 この碧を守るために、佳子は刺し続けた。

……遅れてきた違和感に、佳子の手が止まった。

 碧が、動かない。

「……」

 動かなくなったのではなく、動かない。あれだけ刺したのに、抵抗が無い。

 部屋の空気が動いた。

 がたん、と音がした。ベッドではなく、部屋の脇のクロゼットの位置から。

 目の前が明るくなった。ぐわっと佳子の心臓は掴み潰された。

 開いたクロゼットの前に、藍がへたりこんでいた。

「……おかあさん」

 藍が泣いた。

 碧が、藍の横に立っている。

 死人が生き返った、一瞬そんな馬鹿な想いに囚われかけて、佳子は殺人の失敗にようやく思い当った。

 茫洋と、佳子は碧が寝ていると、そう思い込んでいたベッドを見た。羽根布団の中身が散乱していた。

 碧の代わりに、ディズニーねずみキャラクターの、大きなぬいぐるみがあった。

 ぬいぐるみは、惨殺されていた。

「分かったでしょう、藍。この女に得るものは何もないって。いたら不自由、それどころか……」

 碧は、ぬいぐるみを指さした。

「殺されていたわ」

 藍が、ぬいぐるみを見た。

 顔を背けた藍へ、碧が叱咤した。

「よく見なさい、あれが人殺しの表情。あんなの母親でもない。いい年して世間知らずで、自分の力では何も出来ない鬼の顔よ」

 横にある姿見に映る自分に、佳子は気がついた。

 鬼だ、と思った。

 吊り上がった目、蒼白で冷酷な能面が、そこにあった。

 己の醜さを、弱さを、非情さを、全てを顔の中心に集約したような。

「……あんたは……」

 佳子は口を動かした。

 碧は、私の行動を読んでいたのか。

 そして、藍にそれを見せた。

 藍の涙は佳子にとって、失敗というには重すぎた。深すぎる屈辱と恥辱に、身を焼かれる思いだった。

「碧、あんた、なんて格好を……」

 佳子は喘いだ。

 寝間着姿の藍に対し、碧はショーツ一枚の、全裸だった。

 佳子を目で射貫く。例え偽りではあっても、今だけは審判の女神だった。

「断っておくけど、正当防衛よ。何しろ、相手は娘を殺した女ですからね」

「みどり……」

 許しを得ようとしているのか、言いくるめようとしているのか、佳子はどうしていいのか分からない。

 碧が冷酷な笑顔を向ける。その内に潜む、自分の結末。

 包丁を構え直した。それは身を守る本能か、それとも決意か。

 声を上げて、佳子は碧へ突進した。



 やめて

 叫んだのかどうか、藍は分からない。

 包丁を構え、突進してくる佳子。その先にいる碧に、藍は悲鳴を上げた。

「逃げて、やめてっ」

 腰に力が入らなかった。藍は掴まり立ちしようとし。また腰が落ちた。

「おかあさ……っ」

 全裸の碧が、腕をふるった。大きく開いた母親の口に、何かが飛び込んだ。

 ごぼぼと、配水管から水があふれた音。

 佳子の口から、ナイフの柄が生えていた。

「……おかあさ……」

 藍の声を、佳子は聞いてなどいなかった。口からナイフの柄を出して、ゆらゆら碧に向かう。

 構えた包丁が床に落ちた。それでも惰性のように、佳子は碧へ歩む。

 げぼっと、滝のように佳子の口から血があふれた。

 棒のように、佳子が仰向けに倒れた。

 目は完全に死んだまま、佳子は手足を痙攣させる。

「ふん」

 碧が佳子を見下ろし、わき腹を蹴りつけた。

 押し出すように、佳子の口から血が吹いた。

 その反応を楽しみながら、碧は何度も母親を蹴りつけた。

「見なさいよ、藍。蹴ったら血を吹くの、まるでオモチャみたい」

 おねえちゃん、と藍は無音で叫ぶ。やめて、と出せない声で絶叫する。

「口の中にナイフ刺さったくらいじゃ、まだ生きてるのかしら、指はぴくぴくしているけどね」

 ほら、何よその顔はと、碧は藍に凄惨に微笑んだ。

「この女はね、自分の力じゃ、どうすることも出来ないからって、夜中に忍び込んで、お姉ちゃんをこっそり殺そうとしていたのよ。あんたも見たでしょ?」

「……」

「今まで、散々干渉して、人の部屋に勝手に入って漁って、ずけずけと私たちの友達の悪口も言ってさ。そこまでやっといて、いざとなると、私は母親として無力ですって白旗挙げるなんて、卑怯もいいところ。藍、あんたなんか、聖光行きたくないって、行きたい高校を自分で考えただけで、殴られたじゃないの」

「……それは……」

 そんなに母親を嫌っていたのか。憎んでいたのか。

 今まで、母親のお気に入りだったはずの姉の真実、心の闇。

 藍はそれに呑まれた

 足元で痙攣を続ける母親に、碧は唾を吐いた。

「人に自慢できる娘の金型作って、頑張っていたのにねえ、結局、無様よねえ……あら、まだ生きているのかな?」

 碧が佳子の髪の毛を掴み、持ちあげた。

「お姉ちゃん、もお、やめて!」

「なかなか死なないのね……ふうん、色だけは美味しそうね」

 碧が、母の顔に口を寄せた。

「味見しても、イイと思う? ねえ藍」

 憎悪よりも、恐ろしい言葉だった。

 食べようとしている。母親を。

 藍は叫んだ。声にならない、咽喉からほとばしる音。

 碧の腕にしがみついたが、子猫のように藍は振り払われる。

 藍はドアから飛び出した。

 階段を転がり落ち、背中を強く打った。痛みよりも恐怖と焦燥で、藍は立ち上がり、外に飛び出した。

 静寂に沈んでいる住宅地を、藍は裸足で駆けた。

 誰でもいい、人はいないのか。

 誰でもいい、どうなってもいい、お姉ちゃんを止めて。

 お母さんが死んじゃう、お姉ちゃんが人殺しになっちゃう。

 泣いていた、泣きながら走った。

 角を曲がれば、コンビニがある。あそこへ……

 角から人影が現れた。その人影に手を伸ばした途端、藍は転倒した。

「おい、大丈夫!」

 若い男の声。

 藍は顔を上げて、口を動かした。男と目が合った。

「湖川!」

「……ア……」

 助けを求めようと、藍は口を動かしたが、咽喉は声を出すのを拒否した。声を出そうとすると、それを阻止するかのように、嗚咽がこぼれる。

「どうした、湖川、おい、立てるか?」

 速水由樹が藍を抱き起した。

「何があった? おい、裸足じゃん、家から出てきたのか?」

 頷いた。そして、携帯を取り出そうとする由樹の腕を、懸命に引いた。

「分かった分かった、先に家だ。ほら、行こう」

 由樹の腕で支えられながら、藍は歩く。

「何があった? ドロボー?」

 頭を横に振り続けた。説明できなかった。説明するには、逸脱し過ぎていた。

 外から見た家は、静まり返っていた。

 ドアは開きっ放しだった。

「ここにいろ」

 由樹が土足で飛び込んだ。

 しばらくして、由樹の叫びが響いた。

「うわ!」

「お姉ちゃん!」

 藍は階段を上がり、部屋のドアを開けた。

 悲鳴なのか、泣き声なのか、自分でも分からない塊が咽喉からほとばしる。

 壁を背に、佳子が立っていた。

 ぱっくり開いた口から、ナイフの柄が飛び出していた。

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