第5話
――起立、礼。
さようなら、と全員が挨拶をした瞬間に、クラスの空気が一気にほどけた。
それぞれ、口々に挨拶を交わしながら、女子生徒たちは教室の外に出て、右と左に別れる。校門を出るもの、校舎を移動するもの、外に出るもの。
……あらかた、生徒たちが出てしまってから、藍はのろのろと立ち上がった。書道部は休部しているので、後は家に帰るだけだった。
だが、席から立ちあがる気はしない。
「……帰らなきゃ」
藍は自分を鼓舞した。
帰らないと、お母さんは一人だ。
お姉ちゃんと何があったのか、喧嘩しているのか、今日はちゃんと聞いてあげなくちゃ。
ふいに、昨日の速水由樹を思い出した。
駅から出た時、改札で二人、ばったりと顔を合わせた。
――あの時は、ごめんなさい。
素直に、藍は頭を下げた。
あの時、自分に絡んできたのは普通の生徒じゃない。あとで由樹が仕返しされたらと、不安になったのだが。
――へーきへーき
返って来たのは、明るい笑いだった。
――久しぶりだな、湖川。こうやって話をするの。
藍が不思議に思うほどに、由樹は嬉しそうな笑顔だった。
あのことなら大丈夫だよ、と由樹は言った。
――菊高の空手部員にケンカを売れる奴なんて、ヤクザか自殺願望あるか、どっちかだよ。
――咽喉乾いた。お礼なら、スタバで何か飲ませて。
店での会話は、楽しかった。
事故の事は一切、由樹は聞こうとはしなかった。しゃべっているのは主に由樹だった。学校生活や、部活の事。読んだ本の話。
二時間以上、話し込んでいるのに気がついて、二人で慌てて店を出た。
じゃあね、そう笑って別れた。何で自分は、昔あの由樹が苦手だったのかと、藍は不思議に思う。
「……」
藍は、席を立った。楽しかったが、何度も手に入る楽しみではない。
母の罵声が頭に浮かぶ。
自分が教室に残っている、最後の一人だった。
教室を出て、鍵をかけた。鍵を返しに行くために、職員室の方向へ顔を向けた藍は、大きく口を開けた。
「……お姉ちゃん」
「一緒に帰りましょ。話したいことがあるの」
悠然と、碧が微笑んで立っていた。
帰りましょ、そういったはずだったが、碧は校門の反対方向へ歩いていく。
碧の足は速い。藍は追いかけた。放課後の喧騒が遠くなり、小鳥の鳴声が大きくなっていく。緑の匂いが濃くなった。
聖光学園の敷地は、里山をそのまま利用しており、奥には森がある。
薄暗い樹々の間から、石造りの小さな礼拝堂が現れた。もう老朽化して、今は使用されていない。
取り壊しの話も出ていたが、これもヴォーリスの時代の建築様式で、文化遺産として残すべきとの反対もあり、保留という形でそのままにしてあるらしい。
入り口の鍵は、壊れていた。
「入りましょ」
碧の誘いに、藍は頷いた。自分からか、碧からか。何の話をするにせよ、二人きりには最適な場所に思えた。
礼拝堂の中は薄暗く、荘厳な不吉さがあった。
古びたベンチ椅子に腰掛け、藍は正面を見上げた。
夕刻の淡い光が、ステンドグラスを通過して、古びたイエスと十字架をぼんやりと浮かび上がらせている。
「ずっと昔、まだ生徒がそんなにいなかった頃に、ここを使っていたそうね。今の礼拝は、中央礼拝堂だけど」
「……そうなんだ」
「藍は知ってる? この礼拝堂、ずっと昔に自殺した生徒の幽霊が出るんだって」
「!」
思わず、ベンチ椅子から腰を浮かせた藍に、碧の笑い声が降り注いだ。
「だから、ここに来たのよ。夕方になれば、人は全然来ないの」
「お姉ちゃん!」
「良いじゃない、二人一緒ですもん。怖くないわよ……ところで、お腹空いてない? おやつがあるわよ」
碧が差し出したものに、藍は目を丸くした。薄い皮のようなもの。ビーフジャーキーに似ている。
まず、碧が食べて見せた。
「美味しいわよ」
「……何、これ?」
ビーフジャーキーにしては、表面は滑らかで、琥珀のような色の肉。
舌の感覚が無い今、何を食べても同じだったが、受け取った。
口に入れ、噛み千切る。見た目より、ずっと柔らかい。
……脳髄に、刺激が走った。
「!」
鈍かった味覚が、突然目を覚ましたことに藍は戸惑った。その味は、味覚を呼び起こすだけの力を持った味だった。
干し肉だった。それが甘さと共に、舌の上で溶けて味蕾に染み渡っていく。
「美味しいでしょ」
碧が悠然と言った「まだ、いっぱいあるわよ」
美味だ。まるで、心も舌も蕩かすような。
その酔いしれるような味覚。藍は慄然となった。甘い禁忌の味だ。忘れようにも忘れられない、封印し、忘れるべき味。
それでも、肉を飲み込んでしまった。目の前に、もう一枚差し出される。
「……お姉ちゃん」
欲求、そして思い当る恐怖に震えながら、藍は口を開いた。
「この肉、な……」
口の中に、肉が放り込まれた。思わず藍は咀嚼した。そして、飲み込んだ。
「あんな不味い料理、家で一生懸命に食べているんだもん。可哀想になったのよ」
碧が立ちあがった。
「いらっしゃい」
礼拝堂の端に、地下に続く階段がある。藍は目を丸くした。
「こんなところに、地下室があったのね……ここも、開いているの?」
「開けたのよ」
こともなげに碧は言った。
「地下よ。階段を下りて」
「……お姉ちゃん」
「なあに?」
「……お姉ちゃんは……」
ざわざわと、悪寒で頭が冷える。
「あの肉は……」
言葉にしたくない記憶がよぎった。
「気を付けてね」
狭い階段を下りていく。分厚い木のドアを、碧が押した。
「元々、防空壕だったみたいね……実はね、貴代美に教えてもらったの」
「……貴代美先輩に……」
「そう。あの子、内部進学組で、しかもトップ階級だったでしょ。だから学園の敷地とか隠れ家に、詳しかったのよ」
真っ暗だ。
本能的に、藍は入ることを躊躇した。見てはならないと、予感が叫ぶ。
ドアが開いた。
明かりが点いた。香しい匂いが内側からあふれ出した。
藍は立ち尽くす。
背中を押されて、部屋に入った。
「どう? キャンプ用のランタンを使ってるの。結構明るいでしょ」
「……」
「びっくりした?」
――お姉ちゃん、 藍は口を動かした。
「調理場には打ってこいだったのよ」
あちこちに吊るされたランタンが、強い光を放っている。
天井から吊るされているのは、人間の手足だった。それは藍の目に突き刺さり、身体の動きを止めていた。
首から針金を通され、小さな乳房のついた胴体が重く揺れている。
碧が手に取って説明した。
「この腕を引っ掛けている針金とかね、百円均一の材料とかロープとか使って、結構工夫したのよ。ほら」
カビの中に混じる、干した肉の匂い。それは人の体臭にも似ていた。禁忌でありながら、甘い鉄の匂いが混じっている。
その匂いに食欲を刺激されている、ほかならぬ自分自身に、藍は愕然となった。
狼狽しながら、顔を振って食欲を忘れようとした藍の目に、白いものが目に入った。
白い服だった。部屋の隅にうち捨てられている。
それは。まだ新しい二着の制服だった。リボンの色は、どちらもえんじ色……一年生だ。
予感に震えながら、藍は制服をつまみ上げた。
縫いこまれたネームは、WAKAGI、SOGA。
「……この二人……」
「ごめんね、内臓は全部食べちゃった。だって、内臓は腐るの早いし、保存するには、内臓抜いて、こうやって干すのが一番いいの。調理実習でアジの干物、作ったでしょ? あれと同じね」
「……お姉ちゃん……」
「そんな声出さないでよ。二人とも旧校舎の植え込みに落ちていたの」
「……落ちていたって……」
――一年生が二人、家出したまま、行方不明らしいの
――書置きみたいなものは、見つかったらしいけどね。二人で遠いところに行くとか、そんな感じ
ぶら下がる腕は、一部が削られていた。生ハムを思わせた。
思い当り、藍は思わず口を押えた。
「朝早くに学校に来て、散歩していたの。旧校舎の周りって人気が無いし、樹が多くて静かだから気に入っているのよ。そうしたら、この二人を見つけたの。きっと屋上から、二人一緒に飛び降りたのね。運よく誰にも会わずに、拾ってここに持ってこられたわ」
「なんで……」
警察、先生、通報。
碧はなぜそうしなかったのか? 単語がぐるぐる回る。
「何でって、私が見た時は、とっくに死んでたのよ。それに、自殺するっていう事は、肉体はもう要らないってことでしょ? 要らないなら、もらっても良いじゃないの」
碧の答えは、藍の理性の中にあるものではなかった。
尊厳、感情。
碧の土台にこの二つはない。下級生の遺体は、肉体でもなく、ただの肉だった。
両親の悲嘆、少女たちが悩み、苦しんだ果ての姿だという思いもない。
「何言っているのよ、あなたも食べたじゃない」
「……」
「美味しかったでしょ。可哀想に、藍があの女の不味い料理を、無理やり食べさせられているの、見るに見かねてここに連れて来たんじゃない。ここに二つもあるのに、一人占めも悪いかなって」
「……」
「無理しなくていいのよ、あなたもそうなんでしょ。お姉ちゃんには、分かっているわよ」
「ちがう!」
悪夢が、本質にとって代わる。
貴代美、美香、紗枝に近藤の死に様が、悪夢の中に埋めていた死骸が起き上がり、現実に這い出てきた。
「ちがう、ちがう……ちがう」
「何が違うのよ」
「ちがう!」
それ以外に、口走る言葉も見つからない。藍にとって、今の碧は、理屈も理由も、倫理も、全てを超えていた。
突然、碧は藍の上半身に左の腕をぐるりと回し、強く抱きしめた。
そして自分の右手の指を噛んだ。指から血が流れた。
身動きできずに、もがく藍の口に、碧は血のにじんだ指をねじ入れる。
「!」
血の味が、口腔に広がった。突き抜ける、姉の血の味に藍は目を見開いた。
「美味しいでしょ」
その通りだった。甘く、濃い味。
藍は涙を流した。
姉の言う通り、禁忌を求めるようになった自分に。
すい、と口から指が抜かれた。
碧が耳元で囁いた。
「……あの時、何があったのか聞きたい?」
「私にも、実は何が起きたのか、よくわからないのよ」
貧しい灰色の壁を背にして、碧は、木箱の上に腰掛けて、藍を見下ろした。
藍はぼんやりと、剥きだしのコンクリートの上に脚を崩して座っていた。
腰から下が冷える。
猟奇的な食糧をぶら下げたこの地下室は、今は世界から切り離されていた。
「近藤さんが、車の中で突然暴れだして、私と藍の手に噛みついて、貴代美がハンドルを切り損なった、そして車が落下して……ドアが壊れて開いて、そこから藍は転がり落ちたのよ。全く、でっかいミキサーの中でシェイクされた気分だった。酷いものよ。幸い、ワゴンは斜面の途中で止まって、みんな壊れた車から這い出られたけどね」
藍は思いだす。斜面の木にもたれていたワゴン。
原形は留めていなかったが、窓ガラスが割れていた。あそこから出たのか。
「みんなで、気を失っていた近藤さんを車から引きずり出して、皆で車から這い出た瞬間、私は地面に寝転んだ。もうくたくたで、気分悪くて吐きそうで、立っていられなかったのよ。しばらく気を失っていたの」
獣の咆哮で目が覚めた、と碧は続けた。
「飛び起きたわよ、クマか野犬か。でもね、違ったの。私以外の二組が争っていたのよ、というか、そう見えたの」
「争っていた?」
「そう、貴代美と近藤さん、それから美香と紗枝。最初はそれぞれが掴みあいの喧嘩をしているように見えた。髪を引っ張ったり、腕に噛みついたりね。貴代美と近藤さんが、取っ組み合って地面に転がっていた。制止しようにも気分が悪くて、動けなかったんだけど、何だかおかしい事に気がついてね」
喧嘩に、音声がなかった。
「普通なら、罵りあうじゃない。それが、唸り声や咆哮なのよ。言葉を忘れて、動物のように争っていた、いいえ、殺し合っていたのよ。貴代美は近藤さんの顔に石を叩きつけていた。美香は紗枝の腹を、尖った木の枝で突き殺した」
この目で、一部は見た。それでも、信じることは難しい。
「教えて……お姉ちゃん。皆、ほんの少し前まで一緒にドライブして、遊んでいたんだよ? 怪我した近藤さんを、病院へ連れて行く途中だったんじゃないの。それが、どうして、いきなり殺し合うの?」
「さあね。なんでいきなり、皆が喰い合いを始めたのかは分からないけど」
碧が、天上を仰いだ。
「気分が悪くて地面に横になった瞬間に、私は物凄く皆が憎くなったのよ。憎悪っていうのか、獰猛な破壊欲というか……とにかく邪魔。踏みにじり、引き裂いてやるって。心の底にあった淡い負の感情が、瞬間沸騰するどころか、マグマになって咽喉からあふれ出したっていうのかしらね」
「……」
「そうしたら、美香の奴が、武器を振り回しながら私に襲い掛かって来た。もぎ取った、紗枝の脚をバットのように振り回しながらね。私は最初、河原に逃げた」
河原に出たように見せかけ、その手前の樹々の間で待ち伏せをしたのだと、碧は言った。
「後ろから、石で美香を殴り倒した。後はあんたの知っての通りよ」
藍は顔を両手で押さえた。
夢ではない。身が震える。
「なんで、こうなったの? 私たち……お姉ちゃん」
人の肉が食べたい、そう思う自分がおぞましい。これは狂気ではなく、人間以外のモノになったという事じゃないか。
「全然、食べ物が美味しくないの。あれから、食べても全然、味が無くなっちゃった」
好きだった魚、果物、肉に菓子が、草か粘土細工のようだ。
藍は天井を見上げた。飴のように艶やかな色の、吊るされた下級生の塊が目に入る。目から食欲を刺激する、飴色の肉。
少女の体臭の名残なのか、思い出したようにふわりと漂う、酸っぱく甘い、濡れた芳香。
藍は、少女たちから目を背けた。
「駄目だよ、お姉ちゃん」
人として生まれた以上、人のラインを踏み外してはならない。
「私たち、人間なんだから、もう食べたら、人じゃなくなる」
真っすぐに碧を見た。碧の目が、白く光った気がした。
「病院へ行こう。行って、治るかどうかは分からないけれど、でも、ちゃんとしなきゃ。明日、お母さんに言って、一緒に病院へ連れて行ってもらおうよ」
これ以上にはないほど、真剣だった。そして、主張を曲げる気も無い……しかし、碧から返って来たのは冷笑だった。
「つくづく、藍って可愛いわね」
「え?」
「あの女を、親としてアテにしているってことよ」
「それは、だって……」
「それに、私、このままでも全然いいわよ」
碧は平然と言い切った。
藍は絶句した。
信じられない。姉は人間であることを捨てる、そういう意味なのか。
「食べるものが変わっただけじゃない」
「……そんな……」
「病気でもなんでもないわ。どうせ、生きている以上、何か食べなくちゃ生きていけないじゃないの」
「だって、人を食べたいと思う事、それ自体がおかしいんだってば! しかも……それを、本当に……お姉ちゃんは……」
道徳心を無くすこと、人に対する共感を無くす、姉にその意味が分かっているのか。
「何も、人を食べなくても生きていけるんだよ? それでいいじゃない。もうこれ以上、食べないで、お願い。この子たち、家に返してあげて」
「食べ残しを?」
藍は、絶叫を押し潰した。
「そうねえ、考え方を変えてみなさいよ、藍」
姉の口調は、冷静さを無くした妹に対する、憐みだった。
「さっきも言ったでしょう。生きていく以上は、何かを食べないといけないのよ。他の生き物だって同じでしょ。命の犠牲の上に、生命は成り立っているのよ。生態系ピラミッド、授業で習ったわね」
それよ、と碧は続けた。
「何もわざわざ人を、とは言うけど、じゃあ防寒着の毛皮やバックの革はどう? 綿やポリエステル、他にも素材はたくさんあるのに、わざわざ、牛やミンクを殺しているじゃない。同じよ。より嗜好に合う方を殺すの」
そうやって奪う命に、優劣はないのよと笑う碧。
藍は動けなくなった。
「ねえ藍、なんでお肉って、魚より牛や豚の方が美味しいか知ってる? 有機化学の授業で習ったわね」
「たんぱく質の形が……人間に近いから」
「ちょっと説明不足ね。食べるという事は、摂取した栄養素を吸収し、代謝して血や肉に作り変える作業。一般的に、人体に近い形の要素を持つ栄養素が、吸収と代謝に優れているのよ。理論的には、人間そのものが、栄養素として一番効率がいいの」
「だからって!」
嗜好ではない、もっと基本的な、大事なもの。それを思い出させようと、藍は躍起になった。
「思い出してよ! 貴代美先輩は、お姉ちゃんのお友達だったのよ! 内部組とか外部組とか、そんな垣根なんか無視して仲が良かったじゃないの! 貴代美先輩は、お姉ちゃんが好きだったのよ!」
「ほんっとに藍って可愛い子」
碧の目が、白っぽくなった。
「貴代美は、私が外部組だから、仲良くしようとしたのよ」
その意味を、一瞬藍は捕らえ損ねた。
聖光女子学園は、中等部から内部進学した「内部組」と、高等部から入学してきた「外部組」の二派がある。この二派の確執は、付属の学園に必ずついて回る問題で、どんな教師も頭を悩ませ、解決は出来ない。
内部組は、裕福な家庭の子供が多く、同じ学園の生徒であることもさながら、家同士、血族などの結びつきがあることが多く、絆が強い。
一方、外部入学者の家庭はサラリーマン家庭や自営業が多く、その目から見れば、内部組は排他的にも見えるのだ。
「あの子は、内部組でも寄付金トップの階級よ。藍も知っているでしょ、貴代美の母親はお花の家元、お父さんは日本屈指のメガバンクの役員。それだけじゃないわ、親戚にも政治家や文化人がぞろぞろよ。下手な新米教師より立場は上よ」
「……」
「学園のお姫様は、民に対して、常に慈悲と愛を示さなきゃいけないの。勿論、スクールカーストの先鋒に立つなんてもってのほか。そんな低レベルの争いはお止めなさいと、下々に示す必要があるのよ。さあ、皆さん、内部と外部にとらわれず、仲良くしましょう。この私と、外部組の碧さんの友情を御覧なさい……ってね」
「……」
「第一、お嬢様が何故私たちをドライブに誘ったか、分かる? 同じ書道部でも、美香も紗枝は外部組。同じ内部組の子はいなかったでしょ? 喜代美はね、内部組のお嬢様方には、あんな近藤みたいな男とドライブなんて、恥ずかしくって知られたくなかったからよ。あんな婚約者を見せたくなかったの」
「……そんな」
「あの日、私も初対面だったけど、近藤を見た瞬間に後じさりしちゃった。大手企業の役員の息子に生まれたおかげで、カバ面に悩むことなく自殺せずに済んだのね。貴代美って、さすがは上流階級だわ。将来にあの白いカバがセットで付いてくるのに、よく耐えられるものね。名家のDNA保存って大変」
姉の口から次々と流れ出す汚水のような言葉に、藍はいたたまれなくなった。
「でも、でも……美香と紗枝は、お姉ちゃんのことを好きだったのよ! 私に、あんなお姉さんがいて、いいなって……」
紗枝の死骸を思い出す。あんな死に方をする子じゃなかった。そして美香。あんな最後を迎えるなんて、非情すぎる。
「私は、お姉ちゃんが、羨ましかったのよ。だって、誰よりも好かれて……」
「何を勝手に羨ましがっているのよ」
碧の口が、酷薄に笑う。
「好かれているのは尊いとか、好いてくれた相手を大事にしなきゃいけないって、決まっているの?」
「……」
「好かれるのと、好きになるのは別問題よ。別に、勝手に憧れられたって、私の知ったことではないわ」
「……お姉ちゃん……」
地面がぐらりと揺れた気がした。
「以前から、皆にそう思っていたの?」
「そうよ、ずっと前から」
「……」
姉が遠いところに行ってしまったのか、それとも、元々遠い存在だったのか、藍には分からなくなった。
地続きの存在だと、そう信じていた。しかし、これからもそう信じていいのか?
「ねえ、藍。家にいるあの女を、どう思う?」
優しい声が耳に滑り込んだ。気がつくと、碧が横にいた。
「家にいるあの女って……お母さんを……」
「処分しちゃおうか?」
碧の言っている意味を、藍の理性は拒否した。
「邪魔よ。我慢できなくなってきた」
「お姉ちゃん! 言っている意味、分かっているの? お母さんなんだよ、たった一人しかいないのよ!」
これ以上、姉が壊れていくのを見たくない。
しかし、碧の崩壊は止まらなかった。
「あんなのが二人もいて、たまるものですか。あのね、藍……あれは、母親って言わないの」
「……お父さんと、離婚した後に、私たちを育てて……」
「あれが育てるっていうのかしらね」
碧は顎に指を添え、わざとらしく低い天井を仰ぎ見た。
「あの女が私たちに対してこなしているのは、家事だけよ。育てるって、自分が今までに獲得してきた教訓や言葉を使って、見守り、教え導くことじゃない?」
「それは、お母さんは……弱い、かもしれないけど……」
母親は、器が小さい。それは藍でも気がついている。
部屋に勝手に入り、持ち物を点検し、行動を制限することで、娘たちへ目を配っていると思い込んでいる狭量さ。
碧と藍に、何一つ、母親なりに考えた将来のビジョンを提示することが出来ず、ただ失敗さえ回避すればいいと思っている。
しかし、その失敗の定義さえ自分の物差しがない。結果、正解だけを追い求め、娘に対して高圧的にするしか出来ず、見えない不安にいつも怯えていた。
「あの女から、母親として得るものは何もないわよ。むしろ、いたら危険かも」
「でも、お姉ちゃんはお母さんの自慢で……」
「誤解しないで。私が今まで優等生だったのは、あの女の功績じゃないわよ。そうでもしないと煩いから、仕方なくの処世術よ。そんな私の事もいざ知らず、自慢げに、この娘はワタシの作品と言わんばかりのあの態度。そろそろ我慢するのも飽きたわ」
「でも、だからってお母さんって、そんな簡単に処分するしないの存在じゃないんだよ、お姉ちゃん、おかしいよ、もうやめて!」
碧のセーラカラーを握りしめて、泣いている自分に藍は気がついた。
「お母さん、悲しむよ、絶対そう!」
「……もうお母さんじゃ、なくなっているかもね」
含みのある笑いに、藍は戸惑う。セーラカラーを掴む藍の手に、碧が手を添え、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ出ましょ、警備員が見回りに来る頃よ」
主に業者や運搬に使う、出入り口の裏門から二人は学園を出て、坂道を下りていく。
道は市街へと続くが、正門とは逆の、駅とは反対の方向になるので、他に帰宅中の生徒はいなかった。
「スカート、少し汚れたわね。藍、ちょっと後ろ向いて」
スカートのほこりを掃ってくれるのは、やはり姉の所作だった。
藍にとって、今の碧は二つに分かれていた。優しい姉、壊れた姉。この二つを一つにまとめることが、どうしても出来ない。
家の最寄り駅に着いた。サラリーマンやOLと一緒に、改札へ吐き出されながら、藍は碧を見上げた。
「お姉ちゃん……」
これだけはと、藍は願った。
「お母さんのこと、冗談よね?」
「向こうの出方次第ね」
放り投げられた答えに、意味が分からない。しかし、藍は碧に向かって、それを掘り下げるだけの勇気が出ない。
不安だけを抱えながら、家が見えてきた。
ふと、藍は気がついた。
家路につき、家が見えてくる……家に入ること、迎え入れられること。それが今まで、嬉しいと思ったことが無い事に。
――お帰りなさいと、戻った二人に、母はやけに上機嫌で迎え入れた。
「お風呂、沸いているわ。入りなさい、二人とも」
帰宅時間は、すでに二〇時を回っていた。
夕食どころではない。いつもなら、母は激怒している。
しかし、夕食をすっぽかした怒りを、逆説的な笑顔で表しているようでもなかった。
目的も見えない、その心情の変化も分からない、ただの笑顔。
「じゃあ、先に入るわ」
先に碧が浴室に入る。やがて、聞こえてくる鼻歌と水の音を、リビングで藍は聞いていた。母の佳子はソファでニュースを見ている。
おかしい。
いつもとは違う母親に、何かを話しかけようと、探ろうと話題を探す。ニュースは外交問題を扱っている。
「……」
藍は、何かを言いかけた。しかし、単語が出ないまま、佳子の空っぽな横顔を見つめた。
「藍」
突然、話しかけられて藍は振り返った。風呂上がりの碧だった。
花とハーブの香りを放つ、濡れた長い髪をタオルでまとめ上げ、バスタオルを一枚巻いた姿だった。
「お風呂、入りなさいよ」
地下室の時間など、初めから無かった、消えてしまったかのような笑顔。
うん、と頷き、藍は碧の脇をすり抜け、リビングから出た。碧が後に続いた。
浴室に入ろうとした藍に、碧が囁いた。
「後で、部屋に来て」
いいものを見せてあげるわ。
碧が微笑んだ。
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