第5話

――起立、礼。

 さようなら、と全員が挨拶をした瞬間に、クラスの空気が一気にほどけた。

 それぞれ、口々に挨拶を交わしながら、女子生徒たちは教室の外に出て、右と左に別れる。校門を出るもの、校舎を移動するもの、外に出るもの。

……あらかた、生徒たちが出てしまってから、藍はのろのろと立ち上がった。書道部は休部しているので、後は家に帰るだけだった。

 だが、席から立ちあがる気はしない。

「……帰らなきゃ」

 藍は自分を鼓舞した。

 帰らないと、お母さんは一人だ。

 お姉ちゃんと何があったのか、喧嘩しているのか、今日はちゃんと聞いてあげなくちゃ。

 ふいに、昨日の速水由樹を思い出した。

 駅から出た時、改札で二人、ばったりと顔を合わせた。

――あの時は、ごめんなさい。

 素直に、藍は頭を下げた。

 あの時、自分に絡んできたのは普通の生徒じゃない。あとで由樹が仕返しされたらと、不安になったのだが。

――へーきへーき

 返って来たのは、明るい笑いだった。

――久しぶりだな、湖川。こうやって話をするの。

 藍が不思議に思うほどに、由樹は嬉しそうな笑顔だった。

 あのことなら大丈夫だよ、と由樹は言った。

――菊高の空手部員にケンカを売れる奴なんて、ヤクザか自殺願望あるか、どっちかだよ。

――咽喉乾いた。お礼なら、スタバで何か飲ませて。

 店での会話は、楽しかった。

 事故の事は一切、由樹は聞こうとはしなかった。しゃべっているのは主に由樹だった。学校生活や、部活の事。読んだ本の話。

 二時間以上、話し込んでいるのに気がついて、二人で慌てて店を出た。

 じゃあね、そう笑って別れた。何で自分は、昔あの由樹が苦手だったのかと、藍は不思議に思う。

「……」

 藍は、席を立った。楽しかったが、何度も手に入る楽しみではない。

 母の罵声が頭に浮かぶ。

 自分が教室に残っている、最後の一人だった。

 教室を出て、鍵をかけた。鍵を返しに行くために、職員室の方向へ顔を向けた藍は、大きく口を開けた。

「……お姉ちゃん」

「一緒に帰りましょ。話したいことがあるの」

 悠然と、碧が微笑んで立っていた。


 帰りましょ、そういったはずだったが、碧は校門の反対方向へ歩いていく。

 碧の足は速い。藍は追いかけた。放課後の喧騒が遠くなり、小鳥の鳴声が大きくなっていく。緑の匂いが濃くなった。

 聖光学園の敷地は、里山をそのまま利用しており、奥には森がある。

 薄暗い樹々の間から、石造りの小さな礼拝堂が現れた。もう老朽化して、今は使用されていない。

 取り壊しの話も出ていたが、これもヴォーリスの時代の建築様式で、文化遺産として残すべきとの反対もあり、保留という形でそのままにしてあるらしい。

 入り口の鍵は、壊れていた。

「入りましょ」

 碧の誘いに、藍は頷いた。自分からか、碧からか。何の話をするにせよ、二人きりには最適な場所に思えた。

 礼拝堂の中は薄暗く、荘厳な不吉さがあった。

 古びたベンチ椅子に腰掛け、藍は正面を見上げた。

 夕刻の淡い光が、ステンドグラスを通過して、古びたイエスと十字架をぼんやりと浮かび上がらせている。

「ずっと昔、まだ生徒がそんなにいなかった頃に、ここを使っていたそうね。今の礼拝は、中央礼拝堂だけど」

「……そうなんだ」

「藍は知ってる? この礼拝堂、ずっと昔に自殺した生徒の幽霊が出るんだって」

「!」

 思わず、ベンチ椅子から腰を浮かせた藍に、碧の笑い声が降り注いだ。

「だから、ここに来たのよ。夕方になれば、人は全然来ないの」

「お姉ちゃん!」

「良いじゃない、二人一緒ですもん。怖くないわよ……ところで、お腹空いてない? おやつがあるわよ」

 碧が差し出したものに、藍は目を丸くした。薄い皮のようなもの。ビーフジャーキーに似ている。

 まず、碧が食べて見せた。

「美味しいわよ」

「……何、これ?」

 ビーフジャーキーにしては、表面は滑らかで、琥珀のような色の肉。

 舌の感覚が無い今、何を食べても同じだったが、受け取った。

 口に入れ、噛み千切る。見た目より、ずっと柔らかい。

……脳髄に、刺激が走った。

「!」

 鈍かった味覚が、突然目を覚ましたことに藍は戸惑った。その味は、味覚を呼び起こすだけの力を持った味だった。

 干し肉だった。それが甘さと共に、舌の上で溶けて味蕾に染み渡っていく。

「美味しいでしょ」

 碧が悠然と言った「まだ、いっぱいあるわよ」

 美味だ。まるで、心も舌も蕩かすような。

 その酔いしれるような味覚。藍は慄然となった。甘い禁忌の味だ。忘れようにも忘れられない、封印し、忘れるべき味。

 それでも、肉を飲み込んでしまった。目の前に、もう一枚差し出される。

「……お姉ちゃん」

 欲求、そして思い当る恐怖に震えながら、藍は口を開いた。

「この肉、な……」

 口の中に、肉が放り込まれた。思わず藍は咀嚼した。そして、飲み込んだ。

「あんな不味い料理、家で一生懸命に食べているんだもん。可哀想になったのよ」

 碧が立ちあがった。

「いらっしゃい」

 礼拝堂の端に、地下に続く階段がある。藍は目を丸くした。

「こんなところに、地下室があったのね……ここも、開いているの?」

「開けたのよ」

 こともなげに碧は言った。

「地下よ。階段を下りて」

「……お姉ちゃん」

「なあに?」

「……お姉ちゃんは……」

 ざわざわと、悪寒で頭が冷える。

「あの肉は……」

 言葉にしたくない記憶がよぎった。 

「気を付けてね」

 狭い階段を下りていく。分厚い木のドアを、碧が押した。

「元々、防空壕だったみたいね……実はね、貴代美に教えてもらったの」

「……貴代美先輩に……」

「そう。あの子、内部進学組で、しかもトップ階級だったでしょ。だから学園の敷地とか隠れ家に、詳しかったのよ」

 真っ暗だ。

 本能的に、藍は入ることを躊躇した。見てはならないと、予感が叫ぶ。

 ドアが開いた。

 明かりが点いた。香しい匂いが内側からあふれ出した。

 藍は立ち尽くす。

 背中を押されて、部屋に入った。

「どう? キャンプ用のランタンを使ってるの。結構明るいでしょ」

「……」

「びっくりした?」

――お姉ちゃん、 藍は口を動かした。

「調理場には打ってこいだったのよ」

 あちこちに吊るされたランタンが、強い光を放っている。

 天井から吊るされているのは、人間の手足だった。それは藍の目に突き刺さり、身体の動きを止めていた。

 首から針金を通され、小さな乳房のついた胴体が重く揺れている。

 碧が手に取って説明した。

「この腕を引っ掛けている針金とかね、百円均一の材料とかロープとか使って、結構工夫したのよ。ほら」

 カビの中に混じる、干した肉の匂い。それは人の体臭にも似ていた。禁忌でありながら、甘い鉄の匂いが混じっている。

 その匂いに食欲を刺激されている、ほかならぬ自分自身に、藍は愕然となった。

 狼狽しながら、顔を振って食欲を忘れようとした藍の目に、白いものが目に入った。

 白い服だった。部屋の隅にうち捨てられている。

 それは。まだ新しい二着の制服だった。リボンの色は、どちらもえんじ色……一年生だ。

 予感に震えながら、藍は制服をつまみ上げた。

 縫いこまれたネームは、WAKAGI、SOGA。

「……この二人……」

「ごめんね、内臓は全部食べちゃった。だって、内臓は腐るの早いし、保存するには、内臓抜いて、こうやって干すのが一番いいの。調理実習でアジの干物、作ったでしょ? あれと同じね」

「……お姉ちゃん……」

「そんな声出さないでよ。二人とも旧校舎の植え込みに落ちていたの」

「……落ちていたって……」

――一年生が二人、家出したまま、行方不明らしいの

――書置きみたいなものは、見つかったらしいけどね。二人で遠いところに行くとか、そんな感じ

 ぶら下がる腕は、一部が削られていた。生ハムを思わせた。

 思い当り、藍は思わず口を押えた。

「朝早くに学校に来て、散歩していたの。旧校舎の周りって人気が無いし、樹が多くて静かだから気に入っているのよ。そうしたら、この二人を見つけたの。きっと屋上から、二人一緒に飛び降りたのね。運よく誰にも会わずに、拾ってここに持ってこられたわ」

「なんで……」

 警察、先生、通報。

 碧はなぜそうしなかったのか? 単語がぐるぐる回る。

「何でって、私が見た時は、とっくに死んでたのよ。それに、自殺するっていう事は、肉体はもう要らないってことでしょ? 要らないなら、もらっても良いじゃないの」

 碧の答えは、藍の理性の中にあるものではなかった。

 尊厳、感情。

 碧の土台にこの二つはない。下級生の遺体は、肉体でもなく、ただの肉だった。

 両親の悲嘆、少女たちが悩み、苦しんだ果ての姿だという思いもない。

「何言っているのよ、あなたも食べたじゃない」

「……」

「美味しかったでしょ。可哀想に、藍があの女の不味い料理を、無理やり食べさせられているの、見るに見かねてここに連れて来たんじゃない。ここに二つもあるのに、一人占めも悪いかなって」

「……」

「無理しなくていいのよ、あなたもそうなんでしょ。お姉ちゃんには、分かっているわよ」

「ちがう!」

 悪夢が、本質にとって代わる。

 貴代美、美香、紗枝に近藤の死に様が、悪夢の中に埋めていた死骸が起き上がり、現実に這い出てきた。

「ちがう、ちがう……ちがう」

「何が違うのよ」

「ちがう!」

 それ以外に、口走る言葉も見つからない。藍にとって、今の碧は、理屈も理由も、倫理も、全てを超えていた。

 突然、碧は藍の上半身に左の腕をぐるりと回し、強く抱きしめた。

そして自分の右手の指を噛んだ。指から血が流れた。

 身動きできずに、もがく藍の口に、碧は血のにじんだ指をねじ入れる。

「!」

 血の味が、口腔に広がった。突き抜ける、姉の血の味に藍は目を見開いた。

「美味しいでしょ」

 その通りだった。甘く、濃い味。

 藍は涙を流した。

 姉の言う通り、禁忌を求めるようになった自分に。

 すい、と口から指が抜かれた。

 碧が耳元で囁いた。

「……あの時、何があったのか聞きたい?」


「私にも、実は何が起きたのか、よくわからないのよ」

 貧しい灰色の壁を背にして、碧は、木箱の上に腰掛けて、藍を見下ろした。

 藍はぼんやりと、剥きだしのコンクリートの上に脚を崩して座っていた。

 腰から下が冷える。

 猟奇的な食糧をぶら下げたこの地下室は、今は世界から切り離されていた。

「近藤さんが、車の中で突然暴れだして、私と藍の手に噛みついて、貴代美がハンドルを切り損なった、そして車が落下して……ドアが壊れて開いて、そこから藍は転がり落ちたのよ。全く、でっかいミキサーの中でシェイクされた気分だった。酷いものよ。幸い、ワゴンは斜面の途中で止まって、みんな壊れた車から這い出られたけどね」

 藍は思いだす。斜面の木にもたれていたワゴン。

 原形は留めていなかったが、窓ガラスが割れていた。あそこから出たのか。

「みんなで、気を失っていた近藤さんを車から引きずり出して、皆で車から這い出た瞬間、私は地面に寝転んだ。もうくたくたで、気分悪くて吐きそうで、立っていられなかったのよ。しばらく気を失っていたの」

 獣の咆哮で目が覚めた、と碧は続けた。

「飛び起きたわよ、クマか野犬か。でもね、違ったの。私以外の二組が争っていたのよ、というか、そう見えたの」

「争っていた?」

「そう、貴代美と近藤さん、それから美香と紗枝。最初はそれぞれが掴みあいの喧嘩をしているように見えた。髪を引っ張ったり、腕に噛みついたりね。貴代美と近藤さんが、取っ組み合って地面に転がっていた。制止しようにも気分が悪くて、動けなかったんだけど、何だかおかしい事に気がついてね」

 喧嘩に、音声がなかった。

「普通なら、罵りあうじゃない。それが、唸り声や咆哮なのよ。言葉を忘れて、動物のように争っていた、いいえ、殺し合っていたのよ。貴代美は近藤さんの顔に石を叩きつけていた。美香は紗枝の腹を、尖った木の枝で突き殺した」

 この目で、一部は見た。それでも、信じることは難しい。

「教えて……お姉ちゃん。皆、ほんの少し前まで一緒にドライブして、遊んでいたんだよ? 怪我した近藤さんを、病院へ連れて行く途中だったんじゃないの。それが、どうして、いきなり殺し合うの?」

「さあね。なんでいきなり、皆が喰い合いを始めたのかは分からないけど」

 碧が、天上を仰いだ。

「気分が悪くて地面に横になった瞬間に、私は物凄く皆が憎くなったのよ。憎悪っていうのか、獰猛な破壊欲というか……とにかく邪魔。踏みにじり、引き裂いてやるって。心の底にあった淡い負の感情が、瞬間沸騰するどころか、マグマになって咽喉からあふれ出したっていうのかしらね」

「……」

「そうしたら、美香の奴が、武器を振り回しながら私に襲い掛かって来た。もぎ取った、紗枝の脚をバットのように振り回しながらね。私は最初、河原に逃げた」

 河原に出たように見せかけ、その手前の樹々の間で待ち伏せをしたのだと、碧は言った。

「後ろから、石で美香を殴り倒した。後はあんたの知っての通りよ」

 藍は顔を両手で押さえた。

 夢ではない。身が震える。

「なんで、こうなったの? 私たち……お姉ちゃん」

 人の肉が食べたい、そう思う自分がおぞましい。これは狂気ではなく、人間以外のモノになったという事じゃないか。

「全然、食べ物が美味しくないの。あれから、食べても全然、味が無くなっちゃった」

 好きだった魚、果物、肉に菓子が、草か粘土細工のようだ。

 藍は天井を見上げた。飴のように艶やかな色の、吊るされた下級生の塊が目に入る。目から食欲を刺激する、飴色の肉。

 少女の体臭の名残なのか、思い出したようにふわりと漂う、酸っぱく甘い、濡れた芳香。

 藍は、少女たちから目を背けた。

「駄目だよ、お姉ちゃん」

 人として生まれた以上、人のラインを踏み外してはならない。

「私たち、人間なんだから、もう食べたら、人じゃなくなる」

 真っすぐに碧を見た。碧の目が、白く光った気がした。

「病院へ行こう。行って、治るかどうかは分からないけれど、でも、ちゃんとしなきゃ。明日、お母さんに言って、一緒に病院へ連れて行ってもらおうよ」

 これ以上にはないほど、真剣だった。そして、主張を曲げる気も無い……しかし、碧から返って来たのは冷笑だった。

「つくづく、藍って可愛いわね」

「え?」

「あの女を、親としてアテにしているってことよ」

「それは、だって……」

「それに、私、このままでも全然いいわよ」

 碧は平然と言い切った。

 藍は絶句した。

 信じられない。姉は人間であることを捨てる、そういう意味なのか。

「食べるものが変わっただけじゃない」

「……そんな……」

「病気でもなんでもないわ。どうせ、生きている以上、何か食べなくちゃ生きていけないじゃないの」

「だって、人を食べたいと思う事、それ自体がおかしいんだってば! しかも……それを、本当に……お姉ちゃんは……」

 道徳心を無くすこと、人に対する共感を無くす、姉にその意味が分かっているのか。

「何も、人を食べなくても生きていけるんだよ? それでいいじゃない。もうこれ以上、食べないで、お願い。この子たち、家に返してあげて」

「食べ残しを?」

 藍は、絶叫を押し潰した。

「そうねえ、考え方を変えてみなさいよ、藍」

 姉の口調は、冷静さを無くした妹に対する、憐みだった。

「さっきも言ったでしょう。生きていく以上は、何かを食べないといけないのよ。他の生き物だって同じでしょ。命の犠牲の上に、生命は成り立っているのよ。生態系ピラミッド、授業で習ったわね」

 それよ、と碧は続けた。

「何もわざわざ人を、とは言うけど、じゃあ防寒着の毛皮やバックの革はどう? 綿やポリエステル、他にも素材はたくさんあるのに、わざわざ、牛やミンクを殺しているじゃない。同じよ。より嗜好に合う方を殺すの」

 そうやって奪う命に、優劣はないのよと笑う碧。

 藍は動けなくなった。

「ねえ藍、なんでお肉って、魚より牛や豚の方が美味しいか知ってる? 有機化学の授業で習ったわね」

「たんぱく質の形が……人間に近いから」

「ちょっと説明不足ね。食べるという事は、摂取した栄養素を吸収し、代謝して血や肉に作り変える作業。一般的に、人体に近い形の要素を持つ栄養素が、吸収と代謝に優れているのよ。理論的には、人間そのものが、栄養素として一番効率がいいの」

「だからって!」

 嗜好ではない、もっと基本的な、大事なもの。それを思い出させようと、藍は躍起になった。

「思い出してよ! 貴代美先輩は、お姉ちゃんのお友達だったのよ! 内部組とか外部組とか、そんな垣根なんか無視して仲が良かったじゃないの! 貴代美先輩は、お姉ちゃんが好きだったのよ!」

「ほんっとに藍って可愛い子」

 碧の目が、白っぽくなった。

「貴代美は、私が外部組だから、仲良くしようとしたのよ」

 その意味を、一瞬藍は捕らえ損ねた。

 聖光女子学園は、中等部から内部進学した「内部組」と、高等部から入学してきた「外部組」の二派がある。この二派の確執は、付属の学園に必ずついて回る問題で、どんな教師も頭を悩ませ、解決は出来ない。

 内部組は、裕福な家庭の子供が多く、同じ学園の生徒であることもさながら、家同士、血族などの結びつきがあることが多く、絆が強い。

 一方、外部入学者の家庭はサラリーマン家庭や自営業が多く、その目から見れば、内部組は排他的にも見えるのだ。

「あの子は、内部組でも寄付金トップの階級よ。藍も知っているでしょ、貴代美の母親はお花の家元、お父さんは日本屈指のメガバンクの役員。それだけじゃないわ、親戚にも政治家や文化人がぞろぞろよ。下手な新米教師より立場は上よ」

「……」

「学園のお姫様は、民に対して、常に慈悲と愛を示さなきゃいけないの。勿論、スクールカーストの先鋒に立つなんてもってのほか。そんな低レベルの争いはお止めなさいと、下々に示す必要があるのよ。さあ、皆さん、内部と外部にとらわれず、仲良くしましょう。この私と、外部組の碧さんの友情を御覧なさい……ってね」

「……」

「第一、お嬢様が何故私たちをドライブに誘ったか、分かる? 同じ書道部でも、美香も紗枝は外部組。同じ内部組の子はいなかったでしょ? 喜代美はね、内部組のお嬢様方には、あんな近藤みたいな男とドライブなんて、恥ずかしくって知られたくなかったからよ。あんな婚約者を見せたくなかったの」

「……そんな」

「あの日、私も初対面だったけど、近藤を見た瞬間に後じさりしちゃった。大手企業の役員の息子に生まれたおかげで、カバ面に悩むことなく自殺せずに済んだのね。貴代美って、さすがは上流階級だわ。将来にあの白いカバがセットで付いてくるのに、よく耐えられるものね。名家のDNA保存って大変」

 姉の口から次々と流れ出す汚水のような言葉に、藍はいたたまれなくなった。

「でも、でも……美香と紗枝は、お姉ちゃんのことを好きだったのよ! 私に、あんなお姉さんがいて、いいなって……」

 紗枝の死骸を思い出す。あんな死に方をする子じゃなかった。そして美香。あんな最後を迎えるなんて、非情すぎる。

「私は、お姉ちゃんが、羨ましかったのよ。だって、誰よりも好かれて……」

「何を勝手に羨ましがっているのよ」

 碧の口が、酷薄に笑う。

「好かれているのは尊いとか、好いてくれた相手を大事にしなきゃいけないって、決まっているの?」

「……」

「好かれるのと、好きになるのは別問題よ。別に、勝手に憧れられたって、私の知ったことではないわ」

「……お姉ちゃん……」

 地面がぐらりと揺れた気がした。

「以前から、皆にそう思っていたの?」

「そうよ、ずっと前から」

「……」

 姉が遠いところに行ってしまったのか、それとも、元々遠い存在だったのか、藍には分からなくなった。

 地続きの存在だと、そう信じていた。しかし、これからもそう信じていいのか?

「ねえ、藍。家にいるあの女を、どう思う?」

 優しい声が耳に滑り込んだ。気がつくと、碧が横にいた。

「家にいるあの女って……お母さんを……」

「処分しちゃおうか?」

 碧の言っている意味を、藍の理性は拒否した。

「邪魔よ。我慢できなくなってきた」

「お姉ちゃん! 言っている意味、分かっているの? お母さんなんだよ、たった一人しかいないのよ!」

 これ以上、姉が壊れていくのを見たくない。

 しかし、碧の崩壊は止まらなかった。

「あんなのが二人もいて、たまるものですか。あのね、藍……あれは、母親って言わないの」

「……お父さんと、離婚した後に、私たちを育てて……」

「あれが育てるっていうのかしらね」

 碧は顎に指を添え、わざとらしく低い天井を仰ぎ見た。

「あの女が私たちに対してこなしているのは、家事だけよ。育てるって、自分が今までに獲得してきた教訓や言葉を使って、見守り、教え導くことじゃない?」

「それは、お母さんは……弱い、かもしれないけど……」

 母親は、器が小さい。それは藍でも気がついている。

 部屋に勝手に入り、持ち物を点検し、行動を制限することで、娘たちへ目を配っていると思い込んでいる狭量さ。

 碧と藍に、何一つ、母親なりに考えた将来のビジョンを提示することが出来ず、ただ失敗さえ回避すればいいと思っている。

 しかし、その失敗の定義さえ自分の物差しがない。結果、正解だけを追い求め、娘に対して高圧的にするしか出来ず、見えない不安にいつも怯えていた。

「あの女から、母親として得るものは何もないわよ。むしろ、いたら危険かも」

「でも、お姉ちゃんはお母さんの自慢で……」

「誤解しないで。私が今まで優等生だったのは、あの女の功績じゃないわよ。そうでもしないと煩いから、仕方なくの処世術よ。そんな私の事もいざ知らず、自慢げに、この娘はワタシの作品と言わんばかりのあの態度。そろそろ我慢するのも飽きたわ」

「でも、だからってお母さんって、そんな簡単に処分するしないの存在じゃないんだよ、お姉ちゃん、おかしいよ、もうやめて!」

 碧のセーラカラーを握りしめて、泣いている自分に藍は気がついた。

「お母さん、悲しむよ、絶対そう!」

「……もうお母さんじゃ、なくなっているかもね」

 含みのある笑いに、藍は戸惑う。セーラカラーを掴む藍の手に、碧が手を添え、ゆっくりと立ち上がった。

「そろそろ出ましょ、警備員が見回りに来る頃よ」


 主に業者や運搬に使う、出入り口の裏門から二人は学園を出て、坂道を下りていく。

 道は市街へと続くが、正門とは逆の、駅とは反対の方向になるので、他に帰宅中の生徒はいなかった。

「スカート、少し汚れたわね。藍、ちょっと後ろ向いて」

 スカートのほこりを掃ってくれるのは、やはり姉の所作だった。

 藍にとって、今の碧は二つに分かれていた。優しい姉、壊れた姉。この二つを一つにまとめることが、どうしても出来ない。

 家の最寄り駅に着いた。サラリーマンやOLと一緒に、改札へ吐き出されながら、藍は碧を見上げた。

「お姉ちゃん……」

 これだけはと、藍は願った。

「お母さんのこと、冗談よね?」

「向こうの出方次第ね」

 放り投げられた答えに、意味が分からない。しかし、藍は碧に向かって、それを掘り下げるだけの勇気が出ない。

 不安だけを抱えながら、家が見えてきた。

 ふと、藍は気がついた。

 家路につき、家が見えてくる……家に入ること、迎え入れられること。それが今まで、嬉しいと思ったことが無い事に。


――お帰りなさいと、戻った二人に、母はやけに上機嫌で迎え入れた。

「お風呂、沸いているわ。入りなさい、二人とも」

 帰宅時間は、すでに二〇時を回っていた。

 夕食どころではない。いつもなら、母は激怒している。

 しかし、夕食をすっぽかした怒りを、逆説的な笑顔で表しているようでもなかった。

 目的も見えない、その心情の変化も分からない、ただの笑顔。

「じゃあ、先に入るわ」

 先に碧が浴室に入る。やがて、聞こえてくる鼻歌と水の音を、リビングで藍は聞いていた。母の佳子はソファでニュースを見ている。

 おかしい。

 いつもとは違う母親に、何かを話しかけようと、探ろうと話題を探す。ニュースは外交問題を扱っている。

「……」

 藍は、何かを言いかけた。しかし、単語が出ないまま、佳子の空っぽな横顔を見つめた。

「藍」

 突然、話しかけられて藍は振り返った。風呂上がりの碧だった。

 花とハーブの香りを放つ、濡れた長い髪をタオルでまとめ上げ、バスタオルを一枚巻いた姿だった。

「お風呂、入りなさいよ」

 地下室の時間など、初めから無かった、消えてしまったかのような笑顔。

 うん、と頷き、藍は碧の脇をすり抜け、リビングから出た。碧が後に続いた。

 浴室に入ろうとした藍に、碧が囁いた。

「後で、部屋に来て」

 いいものを見せてあげるわ。

 碧が微笑んだ。


 

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