第2話

 母娘、二人の夕食だった。

 ナチュラルモダンが意識されたダイニング。

 テーブルも椅子も、滑らかな木目のオーダー品だった。食卓には白いクロスが必ずかけられている。

 食卓を飾る花も、母として、主婦として湖川佳子は毎日欠かさない。

 食事も同様だった。レトルトを使わず、出来るだけ手作りを、無農薬でオーガニックな食材を使う事を心掛けている。

 それなのに。

「ご馳走さま」

 娘の碧がスプーンを置いた。ほとんど手が付けられていないラザニアに、佳子は思わず声をとがらせた。

「最近、ほとんど食べないのね。具合でも悪いの?」

「食欲、ないのよ」

「変なダイエットをしてやしないでしょうね。それとも買い食い? 駄目よ、ちゃんと食べてちょうだい。好きなラザニアなら、あなたが食べると思って作ったのよ」

 ホワイトソースから手作りしたラザニアどころか、サラダもスープも、パンにも手を付けていない。

 小さく息をついて、厭そうに碧が再びスプーンを取った。

 あの夏休みの転落事故から、碧の様子がどこか変わった。

 碧は奇跡的に、軽傷で済んだ。病院で手当てを受け、三日ほど検査で入院したが、すぐに退院した。

 警察の事情聴取にも、冷静に応じていた。

 しっかりした、強い娘だと刑事が感心するほどだった。

 学校の新学期が始まり、二週間たった。学校の生活に戻ったことで、表面上、碧は平静に戻ったように見えるが、やっぱりショックは続いているのだと、佳子は思う。

 転落したワゴン車から這いだして、気丈にも藍を見つけて介抱しながら、一昼夜山の中をさまよっていたのだ。

 可哀想に、気丈とはいえまだ一八の娘が、携帯端末もなく、真っ暗な山の中でどんなに怖く、心細かっただろう。

 仲良くしていた友達や、後輩が死んで、自分たち姉妹が生き残ったのだ。

 悲惨な事故に遭遇し、生き残った人間が、なぜ自分が死ななかったのかと己を責めることがある。もしかすれば、碧もそれかもしれない。

 あの時、ドライブへ行かせるんじゃなかったと、ずっと佳子は後悔している。

 本当は一人とはいえ、男の混じるグループで、しかもドライブで遠出なんて反対だった。

 だが一緒に行くのは、旧家の一人娘の貴代美をはじめとした、同じ学園の生徒たちで、男も有名大学の学生だという。

 それなら間違いないだろう、そう思ったのに。

 怪我人運搬中、仮免の貴代美がハンドル操作を誤ったものだと聞いてはいるが、そうなると、事故の原因をたどって行けば、怪我をしたその男ではないか。

 聖光女子学園も、最近どうしたことかと佳子は腹が立つ。

 規律正しく、伝統を重んじて品行方正を掲げている学園だ。生徒には政治家や会社経営者など、良家の娘が多い。だから選んだのだ。

 男とドライブで、娘たちを巻き込む、こんな事故を起こしたばかりか、また別のところで行方不明になっている女子生徒がいるそうではないか。

「藍の様子は、どうなの? お母さん今日は病院へ行った?」

「もう、行っていません。行ったって、どうせ会いたくないって言われるもの」

 藍にも腹が立つ。

 藍は碧より体の傷や、打撲は多かったが骨折はなかった。しかし、精神的に参っていて、いまだに入院している。

 心配して、何度も様子を見に行っても、会いたくないの一点張りだった。

 どれだけ親に心配をかけたと思っているのだろう。それなのに、母親に会いたくないとは何事かと佳子は思う。

 何がどう気に入らないのかは分からないが、看護婦によると、とにかく今は、お母さんに会いたくないと繰り返すという。

 理由も言わない。

 娘にそこまで頑なにされている母親を、看護婦は一体どう見ているのだろうかと、裏で何を言われているのだろうと、佳子は厭な想像をしてしまう。

 新学期も始まり、あの子の学校の出席日数や授業の遅れなど、気になることもあるが、しばらく放っておこうと佳子は決めた。

 あの病院は完全看護だ。それに、行っても会えないという無駄足を踏むと分かっていながら、遠い場所に行く必要はない。

「今は会いたくないって言われるなら、藍に対してお母さんもそうするしかないでしょう」

「ふぅん」

 一瞬だったか、碧の口元が少し吊り上がった気がした。

「無理ないかもね」

「そうだわ、碧。聞きたいことがあるんだけど」

「なあに?」

「帰って来る駅からの途中で、あなた、道で男の子と一緒に歩いていたわね。あの速水整骨院の息子さんでしょ。あの子があなたに、何の話?」

 彼も学校の帰りらしく、男子校の制服を着ていた。すぐ近所で整骨整体院を開業している家の一人息子。

 父親の腕は評判だが、息子はしょっちゅう女の子と一緒に遊びまわっていると評判で、実際に佳子も彼が何度か、女の子と歩いているのを見たことがあった。

 相手の女の子は毎回違う子で、子供のくせに不潔なものだと、その時佳子は少年に嫌悪感が湧いた。

 あんなイヤらしい少年に近寄られては、碧も藍も、何のために聖光女子に入れたのか分からなくなる。

「ああ、速水由樹君ね。ほら、藍とあの子、小学五年と中学二年の時に、同じクラスだったでしょ。私も中学の時に、生徒会で一緒だったしね」

「その速水君が、あなたに何の話?」

「藍のことよ。最近になって、事故の事聞いたらしいの。大丈夫かって。お見舞い行きたいけど、どうかって」

「駄目よ! 病院の場所、言わなかったでしょうね!」

 碧が軽く笑った。

「言わないわよ。それに、藍はあの子の事が苦手なのよ。小学生の時に、スカートめくられたんだって」

「……スカート……なんてことを」

「中学の時、やけに話しかけてくるのも嫌だったそうよ。勿体ないわね、あんなハンサムな子なのに」

「碧! 変なこと言うのはやめなさい!」

 ただでさえ、碧は人目を惹く子だった。年頃になるにつれて、どれだけ心配しているか分かっているのだろうか。

 そんな碧が、つつしみの無いことを口にしたら、どんな虫が寄ってくるか、分かったものではない。

 藍は碧に比べると、容姿は地味だが、気が弱い。強引に押し切られたらと思うと、不安で仕方がない。

「分かっているわね、お母さんはね、あなたたちに、妙な人に近寄って欲しくないのよ! 人生は出会いで決まるんですからね!」

 死んだ両親、この姉妹の祖父と祖母が、娘である自分にいつも言っていた言葉だった。

「特に藍なんて、危なっかしいんだから。気が弱いのか我儘なのか、よく分からない子だし」

 一三年前に離婚した夫の性質に、藍は似ている。

 母親である自分の言う事を素直に聞いているのか、それとも反発しているのか、表面では分からないのだ。

 ある日、突然爆発した夫のように。

『君は、自分の言葉を持っていない。全部お父さんとお母さんからの借りものだ』

『お父さんとお母さんが、最初から僕との結婚を良く思っていなかったのは知っている。今回の話で、僕との離婚を勧められたのも聞いた。それで、君自身はどうしたい? 家族で一緒にアメリカへ行くか、それとも……』

 行けるはずがない、と佳子は叫んだ。

 誰も知り合いのいない場所で、娘二人を育てることが出来るの? 成功するか失敗するか、分かりもしない事業なんかに、あなたの我儘に、なんで人生を賭けなきゃいけないのよ。

……結果、こうだ。

 娘の佳子に離婚を勧めた両親が、離婚してすぐに無責任にも病気で次々と他界した。

 会社を経営していた両親は、動産不動産、そして会社の権利を売却した金、何もしなくても食べていくだけの財産を、一人娘である佳子に残してくれたし、母娘三人で済むには広すぎる家もある。

 生活には困らない。

 それでも、佳子はいつも不安だった。頼りにできる相手がいない。

 自分の味方であり、自分より強い存在の両親はいない。

 娘をどうやって育てるのか、どんな人間にしたいのか、佳子には明確な理想ははっきりと見えない。ただ、失敗をさせたくないだけだ。

 でも信頼できる助言者がいない。

 そうなると、世間のセオリー、間違いのないコースに姉妹を乗せるのが、確実ではないか。

 今の生活よりも劣る生活を、娘たちにはして欲しくなかった。


 次の朝、碧は登校していった。

「行ってきます」

 まだ夏の白いセーラ服に身を包み、長い黒髪をそよがせる姿は、母親の目から見てもため息が出てしまう綺麗さだ。

 しかし、やはり食事は摂らない。卵料理には全く手を付けず、トーストは一口齧っただけ、ボタージュスープも半分残していた。

 残飯を処理し、食卓を片付けながら、佳子は碧に対し、やはり不穏な気持ちをぬぐえない。

 何かがおかしい。

 反抗的? いや、そうじゃない。

 口調は変わらない。攻撃的なものは微塵もない。

 しかし、食事をほとんど摂っていないのに、全くやつれた様子が見えない。

 買い食い? しかし、小遣いは限られている。

 盗み食い? いや、冷蔵庫に異変はない。 

 家の用事を済ませた昼過ぎ、佳子は二階に上がった。姉妹にはそれぞれ個室を与えている。

 碧の部屋に入った。

 カーテンやクッションに、ローラ・アシュレイの赤いバラのファブリックを使った、大人びた模様の部屋。

 いつもと同じだ。片付いている。

 本棚の中身も変わらないし、変な本も隠していない。クロゼットの中に、買ってあげた覚えのない服はない。アクセサリーの数も変わらない。

 不安の元を探しながら、佳子は匂いに気がついた。

「……何の匂い?」

 鼻をひくつかせた。

 目の前を、大きな蠅が飛んだ。

 気が付いた。蠅は数匹飛んでいる。

「何なの?」

 思わず、部屋の中を見回した。

 薄いが、存在を強く主張する、厭な匂いだった。

 ベッドの下だ。

「食べ物を、腐らせているんじゃないでしょうね」

 佳子は腹を立てた。母の作ったものを食べたくないとか言いながら、お菓子か何かを部屋で食べていたのか。しかも、それを隠して腐らせるなんて。

 ベッドの下に手を突っ込んだ。新聞紙の感触があった。

 取り出した。

「ひぃぃっ」

 声がほとばしる。

 丸められた新聞紙だった。何かを包んでいた。

 紙の合わせ目から、何匹もの白い蛆が零れ落ちている。

 手の中で蠢く、無数の蛆に佳子は新聞紙を取り落とした。

 新聞紙に包まれていたものが、絨毯の上に転がり落ちる。

 悪臭が、一気に鼻腔を刺した。

 絨毯を見下ろした瞬間だった。佳子の毛穴は全て開き、そのまま凍りついた。

――骨だった。

 鳥の骨、いや、違う。太すぎる。

 先端に、肉色の塊が付いていた、

 塊についている、五本の指を何度も見直した。目を凝らした。

 親指、小指、人差し指、薬指、中指。

 スティック部分が骨の形をしている、悪趣味なマジックハンドだと、もしくは、違う動物の骨だと言い聞かせた。

 だが、蛆虫が蠢く五本の細い指は、禍々しいまでに「肉」だった。

「……あの子、何を……」

 碧が持ち込んだのか。何のために?

 この骨は、誰?

 手首から肘までの腕。手首部分だけ肉がある。

 恐怖にまみれて疑問が渦巻く。どこまで思考を広げても、答えどころか解決策も見つからない。

 座り込んだまま、佳子は虚空と手と骨を、交互に見つめていた。


 どこまでも続く、真っ白い思考の中に、ドアの音が放り込まれた。

 佳子は振り返った。

「みどり」

 ドアを開けた碧がいた。

 その頭の上にある壁時計が、いつのまにか午後六時を示していた。

 事故以来、部活は休んでいるはずなのに、いつも帰りが遅い。

 いや、そんなことじゃなくて……

「これは……」

 この骨は……そう言った瞬間だった。

「ああ、お母さん、見たのね」

 碧は鞄と、補助鞄を下に置いた。

「いつも部屋の中、勝手に入って、クロゼットや机の中を漁って調べているものね」

 それを知られていたことより、骨の存在が大きすぎた。

「何なの、これは!」

「何だっていいでしょう。何に見えるの?」

「人の、手じゃないの」

「じゃあ、そうでしょ」

「何でそんなものが、この部屋のベッドの下にあるのよ!」

 言ってから気がつく。言葉の馬鹿馬鹿しさに。

「どうしてそんなものを持っているの? 誰の手なの?」

「説明する前に、もう少し冷静になってくれる?」

「何があったの、ねえ、教えてちょうだい」

「冷静になってったら」

「こんなものを見て、なれるはずないでしょう!」

「分かったわよ、コレ、捨てるわよ」

 碧が新聞紙を掴み、ごみ箱に入れるのを見て佳子は悲鳴を上げた。

「やめなさい!」

 この骨を、無造作に捨ててはならない。

 白いままの頭と、カラカラになった咽喉のまま、佳子は一度部屋を出た。

 マスクをした。ゴム手袋をつけた。

 そして、戻った。息を止めて、もう一度新聞紙を手にした。

「……!」

 新聞紙の破れ目から、蛆がポロポロこぼれた。詰め込まれていた死臭が拡散し、マスクの布地を突き破った。佳子は吐きかけた。

 ゴム手袋をしても、くねる蛆の動きが目から皮膚に伝わる。

 腐った肉と血が付着している骨を、史恵は生ゴミだと自分に言い聞かせた。目をそらしながら新聞に新聞を重ねた。

 どれだけ重ねても、腐臭が漏れるような気がした。気がつくと、包の大きさは当初の倍になった。

 ゴミ袋に入れた。四重にして、台所の片隅に置いた。

 明日の朝、ごみ収集車が来る直後に、出さなくては。

「説明、聞きたい?」

 心臓が跳ね上がった。

 台所に下りてきた碧が、後ろに立っている。

 長い髪に、白い顔は間違いなく、娘の碧だ。だが、あんなものを何故持っていたのか、得体のしれない恐怖が心を締め上げる。

「そんな表情、初めて見た」

 軽やかに碧が笑う。

「怒らないの? 藍が中三の頃、聖光学園に入りたくないって受験を嫌がった時は、問答無用でひっぱたいたくせに」

「そんな問題じゃないでしょう!」

 日常の範囲では、処理しきれない。

「そうねえ、どこから話そうかな……」

「もういい、やめて!」

 見てしまったものを、無かったことにしたかった。

 碧の口から直接聞いてしまえば、それは現実となる。

 事が確定してしまう。

「もういい、見なかったことにするから、もうやめて」

 哀願だった。

「もう、やめて頂戴。聞かないから、無かったことにして。それから、もう二度としないで。碧、お母さんと約束して」

「……」

「お母さんを、困らせないでちょうだい。あなたは、とっても良い子じゃないの。お母さんにとって、自慢の娘なのよ」

 そうだ、この碧は自慢の娘だったのだと、佳子は自分を立て直した。

 綺麗で成績も良く、礼儀も正しい。非の打ちどころの無い少女だと、近所でも親戚からでも評判なのだ。

 そんな碧が、あんなものを持っているなんて、それは何かの間違いであり、過ちだ。

 一度くらいなら、母として許してあげなくては。

「ね、碧、そうでしょう。あなたを信じているのよ」

 佳子はたたみかけた。現実を維持するために。

「許してあげるから」

「あら、許してくれるの」

 碧が笑った。

 

 これで終わるはずだと、佳子は自分に安心するように言い聞かせた。

 碧は、子供の頃から聡明な子だった。逸脱や愚かな真似は絶対にしない。

 次の日から、碧の振る舞いに、何もおかしなものはなくなった。

 佳子もそれを無言で容認した。

 食べたくないならそれでいいと、食事を抜くのも黙認した。

 しかし、佳子は碧に対して、あの骨を何のために持っていたのか、どうしても聞くことは出来なかった。

 ネットや新聞で、ニュースを隅々まで調べても、この最近バラバラ死体や、殺人の記事はのっていない。

「あれは、玩具だったのね」

 蛆もどこからか入ってきたのだろう。

 最近は悪趣味なおもちゃが売られている。あれはリアルな偽物だったのだ。

 碧は、母親の自分が勝手に部屋に出入りしていることに気が付いていた。

 だから、仕返しにあんな悪戯を思いついたのだろう。

「趣味の悪い悪戯だわ」

 佳子は安心しながら、嘆いた。

 ……四日後、夕食の支度をしている時だった。冷蔵庫から肉や野菜を取り出そうとして、佳子は見慣れないタッパーを見つけた。

「なにこれ」

 持ち上げた。何の塊なのか、結構重い。そして随分大きい。

 碧が入れたのか……佳子はタッパーの蓋を開けた。

「……何の肉?」

 変わった肉だ。牛肉の赤さはない。だが、豚肉の色でもなく、鶏肉でもない。

 スーパーや精肉店で見る肉とは違う。だが既視感がある。

「……」

 見ているうち、佳子の内側から妙なざわめきが起きた。肉の表面についている、乾いた皮。そして細かな毛。

 タッパーを持つ手と、その肉は質感が似ている。

 表面に、茶色の点がある。そこから、黒い毛が生えていた。

「……ほくろ……」

 取り落としたタッパーから、棒状の肉が二本転がり落ちた。

「みどりぃっ」

 ……凍りついた咽喉が、突如壊れた。佳子は内臓が出るほどに絶叫した。

「みどりぃっ きなさいぃっ」

 碧が降りてきた。母の姿を一瞥し、床に転がる肉を見た。

「あ、あなた、何なの、またこれは、何!」

 これもおもちゃだ、また悪趣味ないたずらを仕掛けられているんだと、佳子は無理やり自分を奮い起こした。

「これで、何をしようっていうの!」

「何をしようって、食べるから、冷蔵庫にいれたんじゃないの」

「何をおかしなこと言っているの!」

「本当よ、ほら」

 碧が転がる棒肉を拾い上げ、そして齧りつき、咀嚼する。

 その碧の表情に、佳子は絶句した。

「……碧、なに、それは……」

 見せつけるでも、演技でもない。

 目を細め、愛し気に肉を食べる碧の表情は、本当の美味そのものだった。

「……本当に、美味しい」

 骨についている肉まで歯でこそげおとし、骨を文字通りしゃぶりつくすようにして、碧が息をついた。

 みどり、と佳子は口を動かした。

「……その肉は、どこで……」

「落ちていたのよ」

「それは、にくなの……? だれの、なんで、そんな……たべて」

「なんでって、だから美味しいのよ。分からない?」

「いやあぁぁぁっ」

 佳子は頭を掻きむしった。碧のいる風景を追い出そうとし、うぶ毛の生えた皮に、黒子があった、肉を否定した。

「そんなもの、どこで落ちているのよ、そんな肉、道端とかにあるはずないでしょう! なんでそんなものが食べられるのよ、ふざけないで!」

「それが落ちていたから、私も驚いたの」

 碧が頷く。わざとらしく。

「殺したわけじゃないわ」

 佳子は立つことすら出来なくなった。

 床に膝をついた。

「これ、すごく美味しいのよ」

 中学の時の音楽祭で、独唱で舞台に立ったことのある、碧の甘い声。

「食べられるのに、勿体ないじゃない」

「だからって……そんなもの、冷蔵庫に入れないで……」

 他の食材が、真っ黒に汚染された気がした。

 佳子は気がついた。碧が食べ残しの骨をどうするのか。

「三角コーナーに捨てないでちょうだいぃ!」

「じゃあ、どうするのよ」

 佳子は碧の手から、骨をひったくった。新聞で何重にも包み、重ねたポリ袋に入れてきつく縛った。

「もう、やめて!」

 娘の碧が、碧ではない。

 鬼だ。化け物だ。

 母親として壊れそうな理性を、必死に制しながら佳子は娘へ叫ぶ。

「もうやめてって、そう言ったでしょ! わるふざけはもうやめなさい、あなたを信じているから、もう二度としないっていうならって、許してあげたのよ!」

「信じているって、なにそれ?」

 叫びは、紙のように切り捨てられた。

「私の何をどう、信じていたの?」

「お母さんの娘だもの……だから、お母さんの、子供だから……」

「だから信じられるの? 自分の娘だから大丈夫って、実際にはこうなっているのに、よくもまあそこまで思考停止できるわね。勝手に期待しないでよ。そう口にすれば、私がお母さんに認められたいから、期待通りに動くってそう思っていたんでしょ? 今まで、そうだったものね」

「……」

「美味しいモノ、食べちゃダメなの?」

「違う、それは、ちがう……」

 土台がずれている。言葉が通じない。

「でもさっき、お母さん、私を許してくれたのよね」

 碧が声を出して笑う。

 自慢だった娘が、恐怖、嫌悪、禁忌に裏返る。

 佳子は何かに問うた。この娘は、本当に自分が産んだ娘なのか。どこで狂い、どこからずれていったのか。

「私がこうなったのに何があったのか、どこから話せばいい? お母さん」

 お母さん、自分への呼びかけが、今は戦慄となっていた。

 碧に向かって、佳子は横に首を振った。

 碧に何が起きたのか、どうしてなのか聞きたくない。聞けば、母親である自信が消えうせる。

 それは、敗北だった。

 

 佳子は、台所の片隅に小さなゴミ箱を置き、新聞紙やポリ袋を何重にも重ね入れて、碧に命令した。

「……これから、この中に入れなさい」

 何を、とは口に出したくなかった。

 命令口調は、母としてのプライドだった。

 そして、もう一度念入りにチェックした。

 ネットや新聞、テレビに至るまで。バラバラ死体が関係するような、そんなニュースはやはりない。

 肉が誰なのか、碧に聞けば分かることだ。

 だが、聞いてしまえば、自分が保てなくなるだろう。

 知らないほうが良い。今、自分が壊れてしまう訳にはいかない。

 碧は頭が良い子だ。そう簡単に破滅に向かう真似はしないだろう。

 だとしたら、後は自分次第だ。この重圧に耐えること。

 そして様子をうかがいながら、母親として、碧に言って聞かせよう。

 毎日毎日、ごみ箱には生臭い新聞紙の包みがあった。

 佳子の決意を笑いながら試しているのか、紙に生々しい赤い色が滲んでいる日もあり、粘液にまみれた紐状の肉が、新聞紙からはみ出している事もあった。 

 ゴミ袋を何重にも重ね、口をきつく縛る。

 吐き気をこらえ、己を欺きながら佳子は捨て続けた。

 そうしているうちに、病院から電話があった。

――藍の退院の話だった。

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