人喰い姉妹

洞見多琴果

第1話

ゴムの焼ける匂い、焦げた匂い、そして土の匂いで目が覚める。

 身体は動かない。

 視線だけで地面を這い、耳を澄ませる。

 地面があった。枯れ葉があった。どこかで小鳥の鳴声がした。風の音がする。

 ……人の気配はない。

 身体の節々が痛かった。湖川藍は、しばらく突っ伏していたが、身体の無事を確かめるために、じりじりと手足を動かした。

 着ている服は、泥と葉っぱ、小枝にまみれていた。

汚れた手足は擦り傷や切り傷から血が流れていた。鼻の奥がつんと痛い。

 爆発しそうな心臓、ようよう声帯を動かした。しわがれた声が出た。

「……おねえちゃん」

 倒れていたのは、山の斜面だった。

 目の前の木々がなぎ倒され、草が地にねじ伏せられていた。何か大きなものが斜面を転がり落ちていったらしい。倒された木々が、斜面の下へと続く。

 自分の全身を確かめる。泥と血で出来た手足だが、何とか立ち上がれた。

骨折はないらしい。

「おねえちゃん」

 次々と、顔が浮かび、その名が口から零れ落ちる。

「きよみセンパイ……みか、さよ、こんどうさん……」

 乗っていたはずのワゴン車を求めて、藍は斜面をゆらゆらと下りた。

 姉を、女子高の先輩を、友を、そして、先輩の恋人の名を呼ぶ。

 脚が震え、手の感覚が無い。頭の中も動かない。

「おねえちゃん」

 姉の碧の姿を、藍は求め彷徨った。

 ワゴン車に乗っていた。近藤を急いで病院へ連れていくために、貴代美先輩が運転することになった。そうしたら、助手席で寝ていた近藤が、突然暴れだした。

 車体が大きく揺れて、それから?

 ワゴン車が、ガードレールを突き破って山の斜面に転落したんだ。

 頭の中で、ようやく状況が整理されかけた時、藍の背中に氷の霜がおりた。

「おねえちゃん!」

 夕刻なのか、樹々で日差しが遮られているのか、森の斜面は薄暗い。

 腕時計は壊れていた。時刻さえ不明瞭な、頼りない陽光の中で藍はワゴン車を追い、下へと下りた。

 斜面の木にせき止められた、シルバーのワゴン車を見つけた。

 すでに、車の形はなかった。ガラスと鉄くずが飛び散り、焦げ臭さと焼けたゴムの匂いが渦を巻いている。

 見つけた安堵と安否の不安で、押し潰されながら藍は車に駆け寄った。横転した車内をのぞき込んだ。

 誰もいない。

「おねえちゃん、貴代美先輩……」

 もしかしたら、どこかで皆が固まって、助けを待っているのかもしれない。

 自分を探してくれているのかもしれない。

 安堵と喜びが、藍の冷えた体を包んだ。

 向こうで音がした。茂みが揺れていた。木々の間で、動く真っ赤なものが見えた。

「!」

 歓喜に突き飛ばされ、藍はふらふらと追った。

 だれ? 真っ赤なシャツは美香?

「みか!」

 茂みの向こうに、ぽっかりと開いた土の空間がある。

 そこに近藤が倒れている。

 地面に膝をつき、藍に背を向けて、近藤の顔をのぞき込んでいるのは、その恋人であり、先輩の貴代美だった。

 見つけた! 

「貴代美先輩……近藤さん、大丈夫ですか?」

 貴代美に向かい、藍は近藤をのぞき込んだ。

 息が詰まった。

 顔は、原形を留めていない。真っ赤な肉の球体だ。

「……」

 鎮魂の儀式なのか、貴代美は、黙って恋人の赤い顔を撫でていた。手は恋人の血に染まっていた。

 やりきれなさに、藍は目を閉じかけた。

 しかし、手の動きがおかしい事に気が付く。

 貴代美の指は、恋人の顔の裂けた傷口にこじ入れられていた。

 そして肉をぐいぐいと引っ張る。それは、まるで恋人の顔の肉を、骨から引き剥がす動作だった。

「……せんぱい」

 変だ。おかしい。貴代美の表情に、心は見えない。

 狂ったんだ、と藍は思った。恋人の死体を目の前にして、狂ったのだ。

「やめてください、せんぱい」

 藍は貴代美の手を押さえた。

「近藤さんが、可哀想です」

 振り払われた力は、勢い余って藍の頬を叩いた。藍は思わず頬を押さえ、目を疑った。

 近藤の顔の肉が、べりべりと骨から剥ぎ取られた。

 その肉を、貴代美は舌を出して乗せた。

 咀嚼する。藍は全身の毛穴が開いた。

「やめて、吐いて、センパイ!」

 止めようとした。そして、突き飛ばされた。

 起き上がった後、声を失った。

「……きよみ……」

 文字通り、貴代美は恋人の頭に噛り付いていた。血を啜り、目玉をえぐって口に入れた。鼻をかじりとった。

 魂を茹でられたような、恍惚とした顔。それは、恋人を失った女の顔ではない、そして別れのキスでもない。

 もっとおぞましいもの。

 嫌悪と恐怖が、藍を支配した。這ってその場を逃げ出した。

「おねえちゃん!」

 助けを求め、暗い緑と、黒い土の世界を見回し、たった一人の姉を探す。

「紗枝……!」

 赤いシャツが、揺れる茂みの中に見えた。走る。

 茂みをかき分けた。

 土の上に、須永紗枝の顔があった。

 そして、胴体。

 藍は立ち尽くした。

 手足は無い。

手足を持って行った犯人の後を追うように、割かれた腹から腸が伸びている。

「ちがう」

 藍は、震える言葉を取りこぼした。

 違う。これは、車の転落事故の死体じゃない。

 紗枝の目に、鼻の穴に木の枝が突き刺さっている。

 そして、口にも横に一本。まるで咥えさせるかのように。

 事故で出来た死体じゃない。悪趣味な人間が作った死体。

 おねえちゃん、と呻く。

 生きていて。

 貴代美の発狂、紗枝の辱められた死体。この二つで十分だった。転落したこの森に、恐ろしいモノが潜んでいる。

 姉を探し出さないといけない。藍の頭に血が上った。そして生きている仲間がいれば、数秒でも早く、一緒に脱出しなきゃ。

 川の音に気が付いた。優しいせせらぎの音。

 その音に惹かれたように、藍の足が勝手に動く。

 やがて、木々の間から河原が見え始めた。河原の石の間から覗く緑。そして透明な川の流れが、目に染みた。

 川の前に出たその時、咽喉から今度こそ本当の歓喜がほとばしった。

「おねえちゃん!」

 川の流れの中に、姉の碧がいた。

 下着姿で、川の水にひざまで浸かって、顔を洗っている。

 黒く、長い髪も濡れていた。濡れた下着が白い肌に張り付いていた。

 ところどころ、痛々しい赤い傷がある。

 その河原に、もう一つの身体。

 藍は立ち尽くす。

 同級生の木下美香が、うつ伏せになって乱雑に転がっていた。後ろ髪は、血で後頭部にべったりと貼りついている。

 その後輩の横で、水浴びをしている姉の姿が脳内で結びつかない。

 碧の姿が、川の中で沈み、そしてまた浮かんだ。

 やがて川から上がり、倒れている美香のそばにしゃがみこんだ。

 美香の手が、ぴくりと動き、地面をひっかくような仕草をした。

 まだ生きている。

 姉は、美香を手当てするのだ。藍はほっとして、口を開いた。

「おね……」

 碧の手が、河原の石を掴んで振り上げた。そして振り下ろす。

 美香の頭蓋に、石の切っ先が半分まで食い込んだ。

 怪鳥のような声が、河原に響き渡った。

 美香は上体を弓なりにしならせて、抵抗の動きをしたが、何度も振り下ろされる石を避ける術もない。

 藍は悲鳴を上げた。姉の碧が顔を上げた。

 自分の殺人を目撃している妹に、ようやく気が付く。

「なんで、なんで……」

 藍は首を振り回した。

 それは、どう見ても、友が殺された現場だった。

 しかも、姉が。

「なんで……」

「殺されかけたからよ」

 動じる風は全くない。冷たい声の切っ先が、藍の言葉に振り下ろされた。

「私、こいつに殺されかけたのよ」

 ここも、また狂っていた。吊り上がる碧の口元を、藍はただ眺めた。

「須永さんを見たでしょう。誰が殺したと思う? 同じようにはなりたくないでしょ……それにね」

 下着のまま、悠々と碧は藍の横を通り過ぎた。

 石の皿に、衣服が畳まれておかれていた。その下から取り出されたサバイバルナイフに、藍は見覚えがあった。確か近藤のものだった。

「切れ目は少しだけね。でないと、人為的に刃物で切られた断面だって分かるから」

「なにを、するの……」

 碧は美香のノースリーブの肩を引き上げて、その付け根にナイフで切れ込みを入れた。

 そして、関節を逆方向に捻じ曲げた。ごきりと音がした。

「……っ」

 美香の肩が、人形のようにねじ切られた。

 腕がもぎ取られたそれは、壊れた肉人形だった。付け根から露出する骨と、肉の歪な断面。滲み出る血が、河原の石に染み入る。

「勿体ない」

 碧は美香の腕を持ち上げて、その断面に口づけた。ふっくらとした唇が、血を吸って濡れた。

 狂った光景が、次は穢れた光景に変わっていく。

 目に入ってくる光景の一つ一つが、藍にとっておぞましい。

 めまいすら起こせない。

 姉と貴代美。近藤に紗枝に美香。数時間前まで、クラブの先輩であり、姉だった人たちが化け物となり、友だった三人が死んでいる。

 気を失っているうちに。

「食べる? 美味しいわよ」

 友人の腕肉の断面を藍に向けて、碧が微笑む。

「おねえちゃん、何を言っているの?」

 問いは悲鳴になった。

「たべるってなによ、美味しいって、ワケわかんない、さっきから!」

 ここに来るとき、碧はドライブにはしゃぐ美香を、笑顔で相手していた。

「みかを、みかが……お姉ちゃんまで、気が狂ったの?」

 貴代美が浮かぶ。そして紗枝。

 唯一の味方が狂気にさらわれた現実に、藍もいっそ狂いたくなった。

 だが、友達の死体を前にして、それは許されないことだった。

 碧が笑った。

「ねえ藍。あなた、とってもお腹すいていない?」

「……お姉ちゃん、何を……」

「とっても、おなかが空いているはずよ」

 碧の声が、ゆっくりと藍の意識を腹に誘導した。

 気が付いた。甘い香りに。

 鉄の匂いだ。生臭く、アンモニアや酢の混じる匂い。

 それが、甘い。

 不快なはずの匂いに、そう感じた違和感。藍はたじろいだ。

 ……目の前に、友の腕肉がある。

 血で濡れ光る肉の断面は、いかにも弾力に飛んでいた。骨と肉、赤と白の、官能的なコントラスト。

 それが目に突き刺さる。

 胃が収縮した。飢えに藍は気が付いた。唾液が湧く。

「厭!」

 藍は混乱した。その意味のおぞましさに。

「違う!」

「無理しないで」

 それは『魔』だった。誘惑が、姉の声と姿でささやく。

「あんただけ、例外のはずはないでしょ」

 姉の碧が言っている意味は分からない。美香の腕から目が離せないまま、藍は後退した。

 姉から逃げようとしていた。しかし、木々の中から出てくる人影に体が止まる。

 碧が声を上げた。

「ああ、貴代美? 生きていたんだ」

「貴代美先輩……」

 間違いない、貴代美だった。

 河原を泳ぐように歩いてくる。裸足だった。光の無い目が、真っすぐに姉妹を見つめている。

 貴代美の血まみれの顔は、近藤の血だった。

「先輩、大丈夫ですか……?」

 狂人に対する声は震える。でも聞かずにはいられない。

「先輩?」

 貴代美が立ち止まる。

……後輩を、友人を見る目ではない。温度もなく、光もない。

 殺意や狂気もない。ただ、真っ黒な目。

 サメの目だ。

 氷の杭が、藍の脳から背中にかけて貫く。

 貴代美が飛びかかってきた。

 もつれあって、藍は仰向けに転倒した。

 のしかかる貴代美の顔を、藍は力の限り押し戻す。

 貴代美の口元から、口臭とよだれが流れて藍の顔に落ちる。

 口を開けた顔が迫る。

 貴代美ではない。獣へ藍は絶叫した。

「きよみせんぱいっ」

「ぐほぉぉっ」

 ゴキッと鈍い殴打音。貴代美が仰け反って咆哮する。藍の口に、赤い飛沫が飛び込んだ。

 碧が血の付いた石を川へ放り投げた。そして貴代美の髪の毛を掴み、藍の身体から引きずり下ろす。

 河原には、大岩があった。

 碧は貴代美を引きずった。いや、それは持っていくという軽さだった。

 貴代美の後頭部を片手でつかむ。

 藍は目を疑った。

 貴代美の顔面が、岩に叩きつけられた。

 それはまるでパンの生地を叩きつけるような、リズミカルなものだった。

「やめてぇっ」

 怪物の力によって、岩肌に飛び散る血と肉片。

 もう厭だと、藍は絶叫した。もういっそ狂いたい、狂わせて欲しい。

 狂えば、心だけでも逃れることが出来る。

「もう、死んだかな」

 碧の声は、パンが焼けたかと確かめるような調子だった。

「うん、もう心配ない。ちゃんと死んでる」 

 碧は片手で首ごと貴代美を持ち上げ、潰した顔を覗き込んだ。

 そしてリンゴを齧るように、喉笛に食らいついた。

「……っ」

 いやだ、もういやだ。

 きつく目を閉じ、藍は願う。

 もう、消えたい。消えて欲しい。

「……あんたも、飲む?」

 声がした。

 貴代美の赤い顔が、目の前に突きつけられていた。

 碧の笑顔があった。

「美味しそうでしょ?」

 無機物となった先輩へ、藍は咽喉を喘がせた。

「さっき、美香の肉を見て目が変わったわよ」

「……」

「貴代美の血が、口に入らなかった? 美味しいって思わなかったの?」

 うん。

 口に飛び込んだ甘い液体。藍は、首を横に振りたくった。

 そうやって本心を隠した。芳醇な鉄の甘さ。

 口から鼻へ突き抜ける、生々しい香り。

 崩れた赤い肉、剥きだしの血管に、瑞々しい肌。

「何を考えているの!」

 碧と、そして自分自身へ、藍は叫んだ。

「違う、おかしいよ、そんなはずないよ、そんなのが食べたいって思うはずないよ、うそだよ、こんなの変だ!」

「ふぅん、美味しいのに」

「貴代美先輩は……おねえちゃん、友達じゃないの!」

 碧は、美香の腕を拾い上げた。

「食べたら、考え方も変わるわよ」

「……じゃあ、食べない……」

 己に対する不信感と恐怖で、自分が泣いているのか、笑っているのか、感情すらも分からない。

「分かってるの? これは……」

 殺人、そんなものではない。共食いではないか。

 何のために? こんな場所で? こんな時に?

「強情な子ね」

 碧は目を吊り上げて、貴代美を放り投げた。そして藍の腕を後ろに回し、突き飛ばした。

 恐ろしい力だ。抵抗できずに藍は転がった。その下に、貴代美がいた。

 その虚空の目玉と、目が合った。

「ダメよ、お姉ちゃんのいう事聞きなさい」

 顔が、食い千切られた貴代美の咽喉に押し付けられる。

「食べなさいったら! 美味しいのはもう分かっているんでしょ、何をいい子ぶっているの! 食べなさい!」

 死体で塞がれた呼吸に、藍はもがいた。口で呼吸した瞬間、血が口に流れ込んだ。

 口腔に広がる甘い鉄の味に、藍は総毛立つ。

 凶悪な食欲が、理性を殴り飛ばした。口が、歯が勝手に動いた。

 喉笛を噛んだ。肉を歯でちぎった。

 口腔に香りが広がった瞬間、恐怖と混乱が吹き飛ばされた。

 今までに、体験したことのない味。

 わずかな肉片に、滋養と美味が凝縮されている。それが舌の上ではじけ飛んだ。

 味蕾と優しく、そして峻烈に溶け合う甘さとほろ苦さ。

 貴代美の肉が。舌の上で溶けていく。

――ほら、ちゃんと食べられるじゃないの

――美味しいでしょ? 

 碧の声が、これまでにないほど甘く、優しい。

 脳がしびれた。藍は咀嚼した肉を飲み込んだ。

 もっと欲しい。

 心の底からそう願う。狂気への切望は、消え失せていた。


         ※


 事故発生は、志賀県境にあるB山の県道。

 八月二八日未明、男女6人を載せたワゴン車が、県境にある山の山道でガードレールの無い道から山の斜面に転落。

 四人が死亡、二人が軽傷。警察は、運転していた女性が、仮免許であったことから、ハンドル操作を間違えて事故を起こしたものとみている。


 志賀県境の山道で起きた、自動車の転落事故の参考人の一人が、ようやく事情聴取に応じられるようになったのは、事故発生から七日目、九月四日の事だった。

 病院を訪れたのは、志賀県警の交通安全課の刑事だった。

「――調書を作るための、形式上の事ですから」

 病室のベッドにいる少女へ向かって、山岸警部補は穏やかに微笑んだ。

「思い出すのもお辛いとは思いますが、あの日に何があったのか、ちゃんと事件の内容にけじめをつけるのも、お友達のためだと、そう思います。ぜひご協力ください」

「……」

 白い寝間着姿で、少女はこっくりと頷いた。

 さっきまで寝ていたのか、ボブカットの髪がやや乱れている。

 湖川藍、一七才。

 開いた手帳の中で、名前を確かめる。

 少女の一つ上の姉、湖川碧からは、すでに話は聞き終えている。

 事故に遭ったワゴン車から、何とか這いだした姉の碧が、傷だらけの姿で意識の無い妹を背負って人里まで下りてきたのだ。

 見るからに、お姉さんとは正反対のタイプだな、と山岸は思った。

 大人し気で、引っ込み思案。

 可愛い子だが、気丈で華やかな、姉の背中に隠れているタイプの典型だ。

 姉妹は同じ女子学園に通っていた。そこは偏差値が高く、カトリック系で規律が厳しいことで有名だ。

 憧れのお姉さんが通う高校に、妹も受験したんだろうかと、ふと山岸は思った。

「ちゃんと、食べてる?」

 相棒であり後輩、雲野が口を開いた。

「ひどく、顔色が悪いよ?」

 事故による精神的ショックからくる、極度の欝と食欲不振状態。欝の方はまだ少しマシになったらしいが、食欲不振の方は、まだ回復していないらしい。

「大丈夫です」

 小さいが、はっきりとした声で藍が答えた。


           ※


 藍は、事情聴取に聞かれたことにはきちんと答えた。

「乗っていたのは、六人です」

 目を伏せた。

「姉と、貴代美先輩と、美香と紗枝ちゃん、そして近藤さんと私です。近藤さん以外は、書道部で……」

「書道部の先輩後輩だってね」

 はい、と藍は言った。

 畳の上に座り、李白の漢詩を写す貴代美を思い出す。

 父親が銀行の役員で、母親がお花の師匠という。それなのに、自由奔放な李白の漢詩が好きで、書道の手本によく使っていた。

 近藤は有名大学の学生で、貴代美の遠い親戚に当たると聞いている。就職は、貴代美の父親のいる銀行に内定していた。

 刑事の声が耳に滑り込む。

「姉妹揃って、お嬢さん学校の聖光女子学園か。あそこは偏差値も高いし、お母さんもご自慢だろうね」

 口が動いた。

「はい」

「しかし、キミの学校ってすごく規律が厳しいんだよね。特に男女交際には厳しいって聞いているけど、男性と一緒に日帰りとはいえドライブなんて、よく親御さんが許してくれたね」

――明良が、新車を買ったからドライブしないかって、誘われているんだけれど

 貴代美の誘いがよみがえった。

 厭な光景も一緒に起き上がろうとする。しかし、藍はそれに蓋をした。

「貴代美先輩と、近藤さんは、お互いのご両親公認の恋人同士だったんです」

「ほお」

「将来、貴代美先輩が大学を卒業したら結婚するものと、お互いの家族の間で決まっていたそうです」

「へえ」

「ですけど、やっぱり男の人と二人きりっていうのは、学校にバレたらなんて言われるか分からないからって……特に、今年は受験だから、内申書が気になるって」

「ああ、成程ね」

「だから、貴代美先輩が、私たちについてきて欲しいって。ワゴン車だから、人数は乗れるし、明良……近藤さんは、ちょっと可哀想だけどって」

「近藤明良さん……新車がワゴン車というのも、変わっているね。普通、若い人が最初に買うのはスポーツタイプとかが多いけど」

「一台目はそうらしいですけど、ワゴン車は二台目なんです」

 ああそう、と山岸刑事の顔が白けたが、すぐに元に戻った。

「ああ、そうか。彼も大手企業の役員の息子か……ごめんね、脱線して。ええと、なんであんな志賀の山奥に行こうとしていたんだい?」

「最初は、志賀のK高原に行こうっていう話だったんです」

 藍は述べた。美香が浮かんだ。

 正座がしびれるといって、いつも騒いでいた……そうだ、賑やかな子だった。でも、あの子があんな提案を出さなきゃ……。

「朝に出て、昼前にはK高原に着いている予定だったんですけど、途中で美香が、H村に寄って行こうって言い出したんです」

――ねえ、このすぐ途中に、すっごく有名な村があるの知ってる?

――H村っていうの。もう誰も住んでいないんだけどね、廃墟マニアや怪談マニアには、聖地って言われるくらいにすごい場所なんだよ。

「ああ、あそこね」

 若い方の……雲野という刑事が頷いて見せた。

「確かに、ネットとかによく出ていますね。最強心霊スポットとかなんとか」

「あそこ、ずっと昔、鳥インフルが流行ったところだろ。それで有名になったんじゃないの?」

「そうですよ。元は養鶏がメインの産業だったんだけど、それが鳥インフルで鶏が全滅しちゃって、それで養鶏が出来なくなって、住人が村から出て行って廃村になったんですよ。もう誰も住んでいないはずです」

 そうだったのか。

 ぼんやりと藍は、灰色にさびれた人家を、廃墟を思い出した。

「夜なら嫌だけど、昼なら、明るいうちからなら怖くないって、美香が言い出して」

――怖くないなら、行く楽しみが無いんじゃないの?

――えー、碧センパイ、好奇心ですよお。怖くないし、好奇心マンゾク。これ最高

 あんなふうに、美香はお姉ちゃんと、朝は二人で掛け合っていた。

 ふぅんと山岸刑事が嘆いた。

「それで、H村に行ったの? 人はもう住んでないだろう?」

「はい、空き家ばかりでした」

 陽光の下で、荒涼とした光景が野ざらしになっていた。

「……美香が、二手に別れて、村を探検しようって」

 ――じゃあ、私たち四人と、先輩方お二人で別れましょ。

 紗枝の笑顔。

 気が利くでしょ、と近藤さんをつついて、近藤さんが顔を赤くして。

 じゃ、優しい後輩のお言葉に甘えてと言って、貴代美先輩を連れてどこかへ行ってしまったんだっけ。

「でも、もうすぐに車に乗って帰ろうとしたんだね」

「はい」

 藍は答えた。

 若い刑事の雲野が、自分の話を手帳に書き留めている。

「近藤さんが、犬に噛まれたんです」

「犬? どんな?」

 藍は目を泳がせた。

「私は見ていないんですけど、空き家の中に、犬がいたんだって。すごく痩せていたから、近藤さんが持っていたお菓子、犬に餌をやろうとして近づいたら、噛まれたんです。貴代美先輩のハンカチで、噛まれた手を縛ったんだけど、血が止まらなくて、すごく近藤さんも痛がっていて。だからドライブを中断して、すぐに病院に行こうってことになったんです」

「そこで、ワゴン車の運転を、近藤さんから貴代美さんに変わったのかい?」

「はい。すごく痛そうだったから……」

 駄目だ。それ以上話したら、蓋を押さえきれない。

 震え始めた手を、藍はもう片手で押さえつけた。

「おい、藍さん。大丈夫?」

「カーナビで探索したら……」

 藍は続けた。

「病院を、カーナビで、そしたら、周りは山ばっかりで、山を越えないと病院無くって、でも、救急車なんか、待っていられないし、貴代美先輩、仮免だから、近藤さん痛がって運転どころじゃないから、貴代美先輩が運転するって……」

 だめだ、押さえきれない。震えだした藍の肩が、押さえられた。

「もういいよ、無理しなくてもいい」

 雲野が言った。

「運転していたら、近藤さんが暴れだしたんです……こんどうさん……」

 きつく閉じた目から、涙がにじんでいる。

「気が狂ったようになって、手や頭を振り回して、止めようとしたら、私も、お姉ちゃんも、手を、噛まれて……」

 近藤は、まるで狂犬のようだった。

「もういいよ、ごめんね、無理をさせて」

 雲野が藍の身体を抱きかかえるようにして、優しくゆすぶった。

「そしたら、車がぐらってきて、貴代美先輩は……」

 貴代美先輩は近藤に噛まれた手を、振り払った拍子に、ハンドルから手を離したのだ。

 何で。

 藍は、突っ伏した。

「すいません……もう……」

 動悸がする。震える体から、体温が流れ出していく。これ以上、この先を思い出したら、壊れてしまう。

 空腹だった。食べたい、でも食べたくない。食べたいなんて、思っちゃいけない。

 肩を押さえる男の手の、力強い肉質を感じながら、藍は自分で自分を振り払った。

「ごめんね、今日のところはこれで止めようね」

 看護婦さんの、靴の足音。誰かが怒られている。そして謝っている。

「もう帰るよ、ごめんね」

 藍は、顔を上げた。

 看護婦に引っ張られるように、二人の刑事がドアから退出しようとしていた。

 山岸刑事と目が合う。しかし、それは一瞬だった。

 ドアが閉まった。

             ※


 二人は、看護婦に怒られた。

「事件の後遺症で、苦しんでいる女の子に無理させてどうするんです! 警察官としてというより、大人の男としてどうですか!」

 怒られることには慣れている。それに、怒られるような領域にまで踏み込まなければ、出来ない職業でもあった。

「犬に噛まれた怪我の激痛で、我を失った男が車内で暴れだし、その拍子で仮免の運転ドライバーがハンドルミスを起こしたと。それでワゴン車が山の斜面に転落か」

「六人のうち、生き残ったのはあの湖川姉妹だけ。後の四人は車から這い出るも、崖から転落、出血のショックなど、それぞれの原因で死亡。遺体は行方の分からぬ二日間の間に野犬か野生動物に食い荒らされ、原形をほとんど留めていない」

 病院を出て、署に戻る道すがら、山岸刑事は青空を見上げた。

「……近藤明良が、突然暴れだしたっていう原因が、分からんなあ。薬物反応は、無かったんだろ?」

 そして、行方不明の捜索では一番手掛かりになる携帯端末は、全員のものが壊されていた。

「それにねえ、あの山に、死体を食い荒らすような野犬も熊もいるって話は、聞いたことが無いんですよ」

 雲野刑事が、頭を振った。

「僕のじいちゃんが、しょっちゅう山菜取りに入っていた山ですけどね」

 しかし、山道のスリップ痕や、生存者の話の状況からしても、事故であることには変わりはなかった。

 何だろうな、と山岸刑事は頭を振った。しかし九九%、この案件は事故として処理されるだろう。

 何が頭に引っ掛かっているんだ?

「ああ、あれか」

 つい、呟いた。

「あの子の目だ」

……あの湖川藍と、病室の退出寸前に最後に合わせた目。

 あの子の目が、一瞬、サメを思わせたのだ。


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