たとえば すきに けせるものを てにいれたら

白田 灯

たとえば すきに けせるものを てにいれたら

 ひきこもり十年目。今やプロネットサーファーと化した俺、天野あまの麟太郎りんたろうは今日もインターネットの海を放浪していた。

 ひきこもるようになったのは高校三年生の夏だ。バレーボール部だった俺は練習中に怪我をして、高校生のうちにはもう二度とコートに戻って今までと同じようにプレーすることはできないと医者に告げられた。医者の表情は気の毒そうにとでも言いたげな顔だったが、声色は淡々としていた。何度も同じような人間を見てきたから、この表情と声色になるのだろう。

 再び部活に顔を出すと、エースでもなければスタメンでもなかった俺に監督が放ったのは「新しい居場所を見つけろ」という言葉だった。見捨ての意味での言葉ではなかったのかもしれないが、もうお前の居場所はここには無いと言われたような気分だった。最初から無かったのかもしれないが、それを考えると余計に悲しくて惨めになるからやめた。

 家族にも友人にも、特別バレーについて熱く語ったことがなかったせいか、「生きてればいいことあるって!」とか「リハビリ次第でどうにでもなる!頑張れ!」とか、気を遣っているのがバレバレな薄っぺらい言葉で励まされることがほとんどだった。もう少し熱心に取り組んでいる風の姿なり態度なりを見せていれば、与えられる言葉もまた違ったものになっていただろうか。


 埃を被ったシューズとボールが隅に追いやられた暗い部屋で、青白いパソコンの画面を見つめて一日を過ごし、ふとした瞬間に過去を思い出して苦しくなると布団を被って眠りにつく。このまま眠って二度と目なんか醒めなければいいと思いながら。

 来る日も来る日も、飽きもせずそんな暮らしを続けている。

 どうやら俺のせいで家庭も崩壊しているらしい。布団の中に潜って微睡まどろみに意識を奪われつつあるその時に「お前の育て方が悪いんだ」と母さんを罵る父さんの声が聞こえる。

 違うんだ、父さん。俺が悪いんだ。大してうまくもないバレーが無くなっただけなのに、いつまでもこんな風にしている俺が悪いんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…



 ある日、いつものようにネットを見ていると、広告を誤ってクリックしてしまい明らかに怪しげなサイトに飛んだ。幸いワンクリック詐欺のようなものではなかったが、目の前には黒い画面に「貴方の意のままになるデリートキー」という大きく赤い文字が映し出された。人間はどうしてこういう無駄になりそうな物に惹かれるのだろう。悲しいかな、好奇心に負けて購入ボタンを押した。

 一週間後に届いたのはいいものの、部屋の前に母さんが置いてくれたであろうその段ボール箱はデリートキーしか購入していないにもかかわらずたいそう大きなものであった。段ボール箱を開けると、やはりデリートキーひとつしか入っていない。なにもあんなに大きな段ボールに入れなくてもいいだろうに。入っていたデリートキーは、市販のキーボードにあるデリートキーと何ら変わりのない小さくて白いキーだった。

 同包されていた説明書によると、使い方は自分が使っているパソコンのデリートキーを取り外して、そこにはめ込むだけらしい。取り替えについての説明は書かれているが、はめた後の使い方についてはどこにも説明がない。とりあえず説明書を片手に、自分の使っている黒いキーボードのデリートキーを取り外して、そこに届いた白いデリートキーをはめ込んだが、黒いキーボードに白いデリートキーがはまっていてなんだか不格好だ。好奇心に意識を操作されていたのか、何も考えずに白いキーの購入ボタンをクリックしてしまっていた。黒いのを探せばよかったと今になって少しだけ後悔する。


 五分とかからなかったキーの取り替え作業を終え、パソコンの電源をつけてみるといつものホーム画面が映る。何か変わるものかと期待したが、見たところ特に変わった様子はない。あんな怪しげなサイトだったのだから、どうせ面白い売り文句で普通のデリートキーを単体で載せていただけなのだろう。特別大きな期待を抱いていたわけではないが少しがっくりする。

 気を取り直して画面に向き直り、日課である今日のニュースを見るために検索エンジンに「今日のニュース」と打ち込んだつもりが「今日のニュースウ」と打ち込んでしまった。最近は手が震えてどうも上手く文字を打てない。せっかくだからさっき付け替えたデリートキーを使おうと思い、スとウの間にカーソルを移動させる。デリートキーを一度だけ押したつもりだったのに、また手が震えて二回連続で押してしまった。デリートキーなのだから二回押したところで今回は何も問題はない。


 …はずだったのだが、画面が一瞬真っ黒になったと思ったら、白い画面に検索エンジンだけが映し出された画面に切り替わった。検索エンジンの右端には【search】ではなく【delete】というボタンがある。とりあえず先ほどと同じように「今日のニュース」と打ち込んで【delete】をクリックする。すると、『「今日のニュース」をこの世から削除しますか?』という文章が出てきた。その下には【はい】【いいえ】というボタンがある。よくわからないが、さすがにニュースを消されるのは困るので【いいえ】をクリックした。今の文章の感じだと、自分が消したいものを消せるとかそういう話か?まるでSFだな。噓くさい。


 でも、本当だとしたら?

 こんな時にまで好奇心は膨らむのだから人間は面白い存在だと思う。

 試しに、「天野麟太郎の目の前にあるビールの缶」と打ち込んで【delete】をクリックする。『「天野麟太郎の目の前にあるビールの缶」をこの世から削除しますか?』という文章が出てくるので下にある【はい】をクリックする。

 その刹那、目の前にあったはずのビールの缶がパッと消えた。散らかったデスク周りのどこを探してみても、先ほどまで目の前にあったビールの缶は見つからない。もう一度、同じ手順で「天野麟太郎の部屋にあるゴミ」と打ち込んで【delete】、【はい】をクリックする。信じられないが、部屋にあったゴミと思しきものはすべて無くなっていた。

 …本物だ、これ。夢みたいな話だ。俺が消したいものを消せるなんて。俺が消したいものって何なんだろうな。

 消したいもの、消したいもの、消したいもの。…ああ。俺がもう戻ることのできないあの場所にしよう。俺の通っていた舞豊まいほう高校のバレーボール部を消してしまおう。そしたらもう、こんなに苦しい思いを抱えて過ごさなくても良くなる。だってこの世には存在しないのだから。ゆっくりと一つ一つのキーを押して「舞豊高校の男子バレーボール部」と打ち込む。震える手には汗が滲んでいて、熱くなってきている体には似つかわしいほどに指先は変に冷えている。【delete】をクリックすると、こちらのうるさい心臓の存在など知らずに『「舞豊高校の男子バレーボール部」をこの世から削除しますか?』という丁寧で無機質な文字列が浮かぶ。

 本当に、いいのか。俺は、あの場所を消して後悔しないか?いや、自問自答するだけ無駄か。俺はあの場所に戻れないんだ。もう、どうにでもなってしまえ。震える手で【はい】をクリックした。目の前では、検索エンジンに何も打ち込まれていない白い画面が光っている。カーソルを右上に移動させ、赤く光る×を押して画面を閉じ、普通の検索エンジンに戻す。「舞豊高校 男子バレーボール部」と検索しても何もヒットしない。高校の公式サイトを開いて部活動紹介のページに移動しても、最初から男子バレーボール部などこの世に存在しないかのように男子バレーボール部の紹介はなかった。本当に消してしまったみたいだ。

 耳鳴りがする。手の感覚がない。息が苦しい。今日はもう寝よう。



 ドンドンと乱暴にドアを叩く音で目が覚める。続けて聞こえるのは父さんの怒鳴り声。

「おい!お前のせいで母さんが出ていったぞ!早く出てこい!もうお前なんて病院にでも入ってしまえ!あいつの育て方が悪いうえ、お前もどうしようもない人間だ!さっさと出てこい!」

 …うるさい。うるさいうるさいうるさい。

 醒めきらない意識のままパソコンの電源をつけ、デリートキーを押してあの画面を開く。「天野麟太郎の父 天野あまの公平こうへい」と打ち込んで【delete】をクリックし、『「天野麟太郎の父 天野公平」をこの世から削除しますか?』という文章を最後まで読み切らないうちに、【はい】を押した。迷いなど無かった。いらないんだ。どこかに消えてしまえ。俺を傷つけるものなんて、全部。

 気づけば父さんの声は止んでいた。

 耳鳴りが止まらなかった。

 止まらない耳鳴りに顔を歪めながら、いつぶりかわからない自室の外に出る。階段を下りて久しぶりにリビングに足を踏み入れる。何年も前からみんなで食卓を囲むことなど無くなったというのに、団欒を強要してくるような丸いダイニングテーブルの上にはぐしゃぐしゃになった紙が置いてあった。さっき父さんが言っていた母さんの置き手紙だろう。おおかた父さんが怒りに任せて握ったのだろう。読む気にはなれなかった。

 その父さんも、本当に消えたようだ。独りになってしまったが、孤独というものは案外苦しくない。助けなど望んでいないし、誰も来てほしくない。むしろ独りになれて清々しているくらいだ。

 暖かい陽光に包まれたリビングから青白いパソコンの画面だけが飄々と光る薄闇の部屋に戻る。パソコンはあの【delete】が存在するシンプルな画面のままだ。

ふと思う。「天野麟太郎」と打ち込めばどうなるのだろう。消えることができるのだろうか。長年引きこもり生活を続けてきて、死にたいと思ったことは数え切れないほどあった。それでも死ねなかったのは、死が怖かったからだ。そうだ。死ぬのは怖い。痛くて苦しいのはごめんだ。でも、消えるとなれば、痛みもなにも伴わないのではないだろうか。

 「消える」ということが、とても魅力的に思えた。

 「天野麟太郎」と打ち込み、【delete】をクリックする。『「天野麟太郎」をこの世から削除しますか?』という文章にあたたかさまで覚えてしまう。【はい】にカーソルを移動させる。このまま左クリックをすれば、俺は消えられる。この苦しい世界から。この世界は俺には厳しすぎた。この世界に越えられない壁はない、なんて誰が言ったんだろう。その世界自体が俺にとってどれだけ目を凝らして仰いでも天辺が見えない壁なんだよ。

 深く、息を吸って吐き、マウスを握る手に力を籠める。部屋の隅には埃を被ったシューズとボールが残ったままだ。部屋にあるゴミを消したときに、一緒に消えていたものだと思っていた。

 そうか、俺にとって、その二つは、あの場所は、いつまでも大切だったんだな。パソコンの前から腰を上げてシューズとボールの方へ向かう。シューズとボールの埃を払って、そっと抱きかかえ、もう一度パソコンの前に腰を下ろした。今さら大切だと気付いたところで、あの場所は消してしまった。

 「天野麟太郎」という文字列を消して、新たに「天野麟太郎 天野麟太郎が抱えているシューズとボール」と打ち込み、【delete】をクリックする。『「天野麟太郎 天野麟太郎が抱えているシューズとボール」をこの世から削除しますか?』という文章を読んで、カーソルを【はい】に移動させる。


 もう一度、深い深呼吸をして、俺は【はい】をクリックした。

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