第12話 舞踏会の夜
一週間が過ぎる。
予定を一日だけ超過して、とうとう明日、フィーア一行は『学究の館』に旅立つ。
今夜は名残の舞踏会が開かれて、それでニクス国王太子に対する歓迎行事は、全て終了だ。
男性用の正装に身を包んで、フィーアは鏡の前、安堵とも
「これで、全て終わりか」
「いいえ、姫様。これからが、学生生活の本当の始まりでございますよ」
侍従長は背筋を伸ばして、フィーアにマントを着せかける。
学生生活。そう言われたとて、フィーアにはまだまだ実感が湧かない。
「こうして、他国の舞踏会に出席なさいますことも、学びの一つでございます。さあ、しゃんとなさいませ。ご立派にお役目を果たして下さい!」
侍従長が、フィーアを鼓舞するように、背中を叩く。フィーアは疲労の気配を振り払って、姿勢を正した。
なすべき事をなす。言うべきことを言い、笑うべき時に笑い、優雅に礼を交わして、退屈な社交を終える。
儀礼用の
大広間では、すでに大勢の賓客たちがフィーアの到着を待っていた。
侍従がラッパを鳴らし、ニクス国王太子の名を大音声で知らせる。フィーアは臆すること無く、会場に入っていった。
大広間には窓が少ない。その代わりに、壁には四季の情景を描いた壁画が精緻に描き込まれていた。窓にかけられたカーテンは、今の季節に合わせて青色。天井画は晴れ渡る空に、見事な竜人や竜王の姿が踊る。
大広間を照らす照明は、数基のシャンデリア。蝋燭の代わりに灯っているのは、天法による明かりだろう。
ゆうに百人以上の人員を収容できる大広間の、三分の一ほどは大楽団が使用していた。
すでに、優雅な前奏曲とでも言える曲が奏でられている。フィーア到着の余韻は、すぐに楽団の調べに紛れた。賓客たちは飲み物や扇を手に、舞踏会の始まり、すなわち今回の主催者、アルフォンス王が現れる時を、今か今かと待ち構えている。
王は衛士たちを連れて、まもなく現れた。
「リド・フォス・ア・レ・メラン=ズ・アルフォンス・アートルム陛下のご到着です!」
侍従の大音声とラッパが、会場内に鳴り響く。賓客たちは一斉に礼を取る。フィーアも立位の礼を向けた。
王は護衛を引き連れて人々の海を渡りきると静かに楽団の前に立つ。彼が一度小さく頷くと、楽団は演奏を止め、賓客たちのざわめきも波のように引いていった。
「みな、よく集まってくれた。今宵はニクス国王太子殿下をお迎えして、
王の合図で、楽団はヴァローナではよく知られたワルツを演奏し始める。
それが、舞踏会の始まりだった。
フィーアは冬の壁画の前で、賓客たちと挨拶を交わす。フィーアをダンスに誘おうと言う剛の者は、なかなか現れない。
もとより、男女、どちらの立場で誘って良いのか、賓客たちやその子女たちは計りかねているようで。フィーアも、積極的にダンス相手を探そうとはしていない。踊ることなど容易いが、踊りの最中に会話することが
フィーアは果実水のグラスを片手に、辺りを見回す。
アルフォンス王は重臣たちにとり囲まれて、何やら忙しそうだ。王弟パトリックは妻と共にワルツに身を委ね、幼すぎる双子姫たちはこの場にはいない。
数日前、パトリックとその妻、オルタンシャと共に行った釣りは、フィーアにとっては愉快な出来事となった。
王弟パトリックの態度は快活で、その妻は相変わらず花のように
用意された船は、フィーアと王弟夫妻、その供回りの者たちが乗り込むのに十分な大きさで。
湖の景色は清々しく、船上で頬に感じる風は優しく、息を吸い込むと水の心地よい香りがした。
湖に住む
面白いように、大きな獲物が針に掛かる。
鮫人たちは、みな見目麗しく、身体の至る所に刺青を施していた。水の中で暮らす亜人種らしく、彼らは身体のあちこちに魚類の特徴を持っている。半身が魚の者、水掻きを指先に持つ者、
彼らは乾燥した陸上では長く生きられず、常に水分を必要とする。そのために、陸上の人々と鮫人の恋は、悲恋となることが多いという。
そんな話を聞かせてくれた鮫人の長は、年若く、やはり目鼻立ちが整っていた。
フィーアが釣った獲物は、結局その日の夕食として食卓に上ることになる。衛士たち、侍従たちに下賜しても、十分に行き渡るほどの収穫だ。
魚を食べ慣れないレイオスは、初めての料理に目を白黒させていた。
『学究の館』に着けば、レイオスを『初等校』に入れようと言うフィーアの考えは変わらない。フィーアは王族やその臣下のための専門院『王宮院』と、騎士や戦士ための専門院『剣統院』を掛け持ちするつもりであるから、生活圏も違ってくるだろう。
かわいい弟のような森の子との生活も、後わずか。フィーアには、それがほんの少しだけ寂しかった。
「……楽しんでいらっしゃいますか? 王太子殿下」
黒衣に金糸の刺繍を施した盛装で、アルフォンス王がフィーアの前に立った。
供回りは二人だけ。略式の王冠を頭上に頂いて、王はにこやかに微笑んでいる。
「はい。アートルム王陛下。わたくしのために、このように盛大な会を催していただいて、心から感謝申し上げます」
フィーアは社交用の仮面を作り、アルフォンス王に微笑み返す。
「舞踏会には双子たちも来たがったのですが……公の場に出るにはまだすこし早い」
「私は、十三でした。初めて他国の使者の前に立つ役目を任されたのは」
五大国の習俗では、子供たちは十八歳の年に、正式に成人として社会に迎え入れられる。それは王族とて例外ではない。
子供が六歳になると、余裕のある家庭は教育を始め、六年で初等教育を修める。
王侯貴族の子女たちは、初等教育を終えた十二歳で正式な社交デビューを果たすのが一般的だった。
十二の年に国が疫病の混乱に襲われたことで、フィーアのお披露目は一年延期される。
彼女が公の場に初めて立ったのは、立太子の式典で。その時からフィーアは男物の正装を身に着けている。
結果的に、彼女がドレスをまとって、社交の舞台に立つ機会は来なかった。
「……フィーア様は、踊りはお好みではないですか?」
アルフォンス王は声を潜めて、悪戯っぽく笑った。
「本音を言えば、苦手です。踊っている間に、相手と何を話したら良いのか解らないのです」
「私も、苦手です。フィーア様。これから、少しバルコニーに出ませんか? もちろん、踊りは無しで」
アルフォンス王の誘いは、今のフィーアには魅力的に思えた。彼女が承諾すると、アルフォンス王は先立ってバルコニーに向かう。
互いの護衛たちをカーテンの向こうに残して、アルフォンスとフィーアは二人だけで夜風が心地よく香る、大きなバルコニーに立った。
ここからは、湖が一望できる。夜の湖面はさざ波立って、城から漏れる明かりと双子の兄月とを青白く反射していた。
「美しい……」
アルフォンスの呟きに、フィーアは頷いた。
「夜半も
アルフォンスの独白に、フィーアは戸惑う。
「貴方はいつでも、心穏やかに過ごされているのだと思っていました」
フィーアの疑問に、アルフォンスは首を振った。
「……フィーア様。私が踊りが苦手な訳はね、私と踊りたいと言う女性は、私の妻になりたいと思うか、娘を妻にしたいと思うか、そのいずれか、だからですよ。もちろん、私もいずれ妻を
珍しく、アルフォンスは言い淀んだ。
「……忘れられない人が、いるのです」
それが、アルフォンスの本音か。忘れられない人とは、どんな女性なのだろう。王が本気で望めば、その人を妻に迎えることも出来るのではないだろか? それなのに、そうしないと言うことは。
フィーアはアルフォンスを見つめる。微笑んでいるのに、どこか寂しげなアルフォンスの横顔。
叶わぬ恋。そんな単語がフィーアの脳裏に閃いた。
「……なんて。そんなことを考えていたら、弟に先を越されてしまいました」
少しおどけた仕草で、アルフォンスは笑う。
どうして、この人はこんなにも気安く内心を吐露してくれるのだろうか。フィーアは戸惑いながら、アルフォンスの隣に立った。
「……私には、想い人はいません。そんな人が現れるかどうかも解りません。父上が……ニクス国王陛下がお決めになった相手を夫として、いずれは子も生すでしょう。そのことに疑問を抱いたことも、不満を持ったこともない」
光踊る湖面に視線を彷徨わせて、フィーアは続けた。
「……私は兄上の代わりです。だから、私は私の役目を全うする。その事はすでに決まっているのです。でも、それは果たして『私』で無くてはならないのか。時々、不安でたまらなくなります。私は兄上のようになれるのか。私は兄上のように賢くも無ければ優しくも無い。本当に私で良いのか……」
本心を言葉にするフィーアの横顔は、年相応の少女に見える。アルフォンスはバルコニーの欄干に腕を預けて、フィーアと同じ方向を見つめた。
「フィーア様。王になることに戸惑わぬ者はいません」
「それは、貴方もだったのですか、アルフォンス様」
フィーアは戸惑いがちに、長身の王を見上げた。アルフォンスは優美に微笑みを浮かべて、首肯した。
「ええ。私も随分迷いました。私は長子ではあるけれど、正妃の子ではありませんでしたからね。反対も多かったのです」
「アルフォンス様は、どのように迷いをお捨てになったのですか?」
「……友が……親しい友が言ってくれたのです。『お前がやると決めたら、どんなことでも出来る』と。それに私にはこれがあった」
アルフォンスは、右の掌に光球を浮かべてみせる。それが初歩的な天法であると、フィーアにも解る。
「弟には、天法の才は現れなかったのです。ヴァローナの国王になるためには無くてはならない才です。フィーア様、貴方には誇るべき才はありますか?」
「……剣だけは……剣術の稽古をしているときだけは……鼓動が躍るのです。私は、私でいられる」
どうして、この人にこんなことを話してしまったのだろう。不思議とアルフォンスの前では、飾り立てない自分でいられる。
アルフォンスの眼差しは優しく、緑の
「……それなら、それで、構わないじゃありませんか」
事も無げに、アルフォンスは告げた。
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