第76話 とどのつまりの、その後で

 ぱあん、という乾いた破裂音を聞きながら。


 私はただ目の前で繰り返される情景を、ただ唖然と眺めていた。


 何度、眼を閉じてもその情景は壊れた動画データみたいに、繰り返し繰り返し再生される。


 みそのさんが振り切った手。頬に感じた感覚がなんなのかすら、まだ理解していない部長。その後ろから慌てたように走ってくる、誰かの顔。


 あの場面でみそのさんが、どうしようもなく怒っているのはわかってた。


 優しい人だから、私みたいなやつのことでも、あんなふうにまるで自分のことのように怒れてしまうのだ。


 当の私はというと、正直、それどころじゃ、なくなってて。


 怖くて、辛くて、仕方ないけど、それをみそのさんに見られていると言うのがあんまりに情けなくて。そのままどこかに消えたいのに、どこにも消えられそうにすらなくて。


 みそのさんが怒っているのを見たときも、私なんかのために、みそのさんが変なリスクをしょい込むことなんてあっちゃだめだって。


 そればっかり、考えて、無理くりに笑おうとして、止めようとして。だけど止めきれなくて。


 ただやってしまったと、そればかり考えていて。



 だって、これは私が解決するべき問題だったのに。



 私が、私一人で、解決しなきゃいけない、私の問題だったのに。



 本当は、隣の部の部長さんとか、遠山さんにも助けてもらっているのすら、どこか申し訳なかったのに。



 なのに、こんなことになっちゃった。


 

 私の、せいで。



 私が、自分で解決できなかったから。



 というか私が、そもそも仕事をちゃんとできる人間だったなら。



 そもそも、私が、役立たずの癖にいつまでも、不相応にここに居ついてしまっていたから。



 全部、私の、せいなのに。




 「初めに言っておくと、今回の件で君は悪くないからね」




 「長年の勘で物を言って申し訳ないが、君はどうにも背負い込みやすいように見える。難しいとは想うが、あまり思い悩まないようにしておきなさい」




 「起こるべくして起こったことだ。どうせ四月に異動は決まっていたことだし、その前に少し休養期間が出来たと思えば、それでいい」




 「君に代わりに怒った彼女についても、悪いようにはしないから。何も心配しないこと」




 「色々と急で飲み込むのに時間はかかると想うが。一つだけ覚えて帰りなさい、問題が起こったときに、誰か一人が悪かったなんてこと、そうそうはないものだよ」




 「だから、君一人が思い悩む必要は、どこにもないんだ。それだけは、忘れないように」







 面談に来た大柄の人事部長さんの優しい声色を聞きながら、私は何の言葉も返せないままでいた。




 言われた通り、今の状況も感情も、飲み込むなんて一欠けらだってできそうにもなかったから。



 ただ呆けて、てきぱきと先輩たちが後始末をつけている様だけを、ぼんやりと見ていることしか出来なかった。



 そうして、私はその日、結局総務部に再度、顔を出すことすらしないまま、随分と早い時間に一人で帰路についていた。





 ※




 ぼーっとしたまま、電車に乗った。



 昼間の電車は通勤ラッシュに比べたら人は少ないけど、意外といろんな人が思い思いの姿で乗っていた。大学生っぽい若い集団。不愛想に宙を見つめる老人。はしゃぐ子供とそれをたしなめる親。何をしているのか、どこにいくのか、それすらよくわからないたくさんの人たち。


 まだ明るい中を、駅から降りてふらふらと自宅へ向かう。


 足に上手く力が入らない。足取りが覚束なくて、揺れて、惑ってどこに向かっているかすら分からない。私の意思が行き先を決めないままに、ただ身体は自動的に自宅らしき場所を目指すだけ。


 これでよかったのかな、と曖昧な声が頭の中から響いてくる。


 これからどうなるのかな、と怯えた声が小さく口から漏れている。


 こんな私でいいのかな、と口に出しかけて、なんとなくそっと噤んだ。


 ふらふらと、ぼやけた意識のまま、気付けば自宅についていて。


 靴を脱いで、鞄を置いて、少しだけ迷ってからスーツ姿のまま、ぼふんとベッドに倒れ込んだ。


 無機質な、自分の身体の臭いが染みついたベッドの匂いがする。


 安心もしないし、不安にもならない、ただそこにあって、何も言わずに私の身体を受け止めている。


 それから、そこでごろんとひとつ転がって、はぁとため息を少しついてみた。


 胸が痛い。


 息が浅い。


 マラソンを走り終えた後みたいに、全身が重くてだるい。


 これから―――これまで。


 色々と思考が泡のように浮かびかけて、でも程なくしてその全部がしんと静まり返るようになくなった。たくさんのデータをいっぺんに処理したパソコンが、ふとした瞬間にその画面の光を落とすように。


 ふーと長く息を吐くたびに、身体のあちこちで痛みがじんわりと実感できる。


 手も、足も、指先も、胸も、肺も、胃も、下腹部も、眼も、耳も、頬も、頭の裏まで。


 どこもかしこも、弱い痛みがじんわりとその存在を、私に語り掛けてくる。


 痛いとこ、こんなにあったっけ、なんで今まで気づいてなかったんだっけ。


 そんなことを考えて、ふーっと息を吐くたびに、じんわりと広がる痛みたちを見つめながら、なんとなく気づき始める。


 この痛みたちは、きっと今、ぽっと生まれたわけじゃない。


 ただ長い間、私の身体に染みついていて、でもそれどころじゃないからずっと焦って、忘れていて。意識の奥の奥まで、誰も知らぬうちに沈み込んでいたのだろう。


 ただ、それが今、たまたま、浮かび上がってきただけだ。


 痛いことは苦しいはずなのに。


 つらいことはしんどいはずなのに。


 なんでか今は、そう感じることすら、うまくできなくて。


 なんでだろうって考えて、疲れてるからだよって誰かが言った。


 疲れてる? 私、あんなに頑張ってなかったのに?


 私、ずっと結果が出てなかったから、疲れてるわけないはずなのに?


 ふぅと息を吐くと、ゆっくりと瞼が落ちてくる。


 わからない、答えも出ない。


 でも、何もできない。指先一つだって動かない。


 今、私がこの世界に向けてできることは何もない。


 堕ちるまま、視界が暗くなっていく。


 その意識が途絶えるころ。


 ぽつり、と小さく口が動いだ。


 疲れたな。


 って、ただ、それだけ。


 疲れたね。


 疲れたよ。


 だから、おやすみ。


 そう思って眼を閉じた。


 曖昧な意識の底に沈むように、ゆっくりと柔らかい泥のような水底まで、私の意識は堕ちていった。


 疲れたね。疲れたよ。


 だから、今はね。


 そのまま、おやすみ。


 瞼の裏に、あなたの顔が少しだけ滲んで消えた。


 そんな想いすら今は置いて。


 ただ、おやすみ。

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