第74話 自分のため

 いつかのまなかさんの忠告が、頭を滑る。


 あんまりに遅いから心配になって、トイレを覗きに言ったら洗面台でぐしゃぐしゃに顔をゆがめているここねを見つけてしまった。


 本人が助けを呼ぶまでは助けちゃダメ……だったっけ。


 そうしないと、ここね自身が助けを呼ぶ力を奪ってしまうから。


 でも、ですよ、まなかさん。


 こういう場合も、そのルールって当てはまるんですかねえ。


 崩れた頬も、零れた涙も理由はさっぱりわからないけれど、何かが危ういことだけは明確に感じ取れた。


 うつむくここねの傍にしゃがみ込みながら、どうにか声が柔らかくなるように気を付けながら、声をかける。


 胸の奥が荒れ始めているのが感じられた。


 そうして、思考の隅にこびりついた動揺をどうにか押し殺しながら、ここねに声をかける。


 「大丈夫?」


 それにしても、泣き崩れている人に、どんな言葉を掛けるのが正解なんだろうか。


 「どしたの? 何かしんどかった?」


 共感すればいいのか。問題を解決すればいいのか。励ませばいいのか。一緒に何かに憤ればいいのか。


 「どーした、ここね。ほら、言わないとわかんないぞう」


 優しく、明るく、出来る限りそう努めるけど、胸の奥のざわめきはどうにも収まってくれない。


 こういうのを何と言うんだろう、無力感とでもいうのだろうか。


 「ほれほれ、話してみな。いややっぱいいわ。ぐずぐずで喋れないもんね、いいよ、そのまま泣いてな?」


 蹲る君の頭をそっと胸に抱き寄せて、自分のブラウスに暖かい染みが出来るのを感じながら。


 どうにかゆっくり吐き出した息は、どこまでも冷えていて。


 凍えそうなほど冷たくて、なのに芯の方は焼けてしまいそうに熱くなっていて。


 息に漏れる微かな震えをどうにかここねに隠しながら。


 ゆっくりと笑顔のまま、その小さな頭を撫でていた。


 途中で心配そうに声をかけてくれた店員さんに、大丈夫です、しばらくしたら戻るんで、と軽く笑顔で応対しながら。


 腕の中で震える君の身体を感じてた。


 胸にそっと広がる冷たい染みを感じてた。


 わからない。


 どうするのが正解なんだろ。


 どうすればここねの心は救われるのか。


 わからない。そこそこ社会人やってきて、それなりに経験も積んだけど、答えなんてさっぱり出てこない。


 世の中、答えの出る問いの方が少ないと、頭ではわかっているつもりなのだけど。


 それでも私は必死に答えを探し続けて、それでもなお明確な言葉を見つけ出せずにいた。


 そうして、頭の中を上滑りする言葉たちを眺めながら、ただ嗚咽を漏らす君の声だけを、他愛のない慰めの中聞いていた。





 ※




 その後、どうにか席に戻って、ご飯を食べて少しだけ落ち着いたここねが、ぽつぽつと喋ってくれた。


 今日起こったこと、最近よくあったこと。


 ここねはあくまで自分の失敗談って形で、あたかも笑い話のように喋っていたけど、言葉尻に滲む震えがそこに宿るいたたましさをありありと感じさせた。


 私はどうにかここねの気持ちを落ち着けるように、できるだけ傷つけないように気を付けながら、その話をじっと聞いていた。


 そうすることで、少しでも気持ちを吐き出すことで、ここねが楽になればいいなと想いながら。


 こういう時、隣の部署の関係ない先輩後輩というのは、実務的にはどうしても無力だった。代わりに仕事を背負ってあげるよとも言えないし。じゃあ、上司に相談しようと私が間に入るのもおかしな話だ。


 生憎、総務に同期もいないから、人伝で問題に干渉することすら難しい。そういうのは、大体、部長に任せっぱなしだし。


 偶に飲みに行く友人の一人くらい、あの部署に作っておくべきだったと、若干の後悔を抱きながら私とここねは会社へと帰路についた。


 慰めるのに時間をつかってしまったから、昼休みの終了時間は結構ギリギリだ。


 人もまばらなビルの入り口をくぐりながら、正直、心配な気持ちを込めてここねを見る。


 当のここねは泣き終えてからは、気丈に明るく元気な後輩としてふるまっている。


 「みそのさんに聞いてもらって、元気出ました!」


 ああ。


 「えへへ、やっぱり人に聞いてもらうとスッキリしますね! 午後からも頑張れそうです!」


 これは。


 「さあ、ばりばりやりますよ、えへへ!」


 やばいな。


 ここねの瞳は、さっき泣いたばかりだから、赤く滲んで震えている。


 口角は無理に上げているのがバレバレで、時折不自然に顔の筋肉が固くひきつっている。


 何より、声の奥の方の震えが未だにちゃんと取れてない。


 ……多分、ここ二・三か月一緒に過ごしていなければ気付かなかった、そんな些細な危うい徴候。きっと、ここねのこと知らない人なら、なんだ励まし貰って現金が出たのかと笑って流してしまいそうな、そんななけなしの危うい均衡。


 改めて、こういう子なのだと思い知る。


 自分の痛みを人に見せないように、見せないようにと気丈に振舞って。


 大丈夫、大丈夫と、そうやって他人のことばかり世話を焼いて。


 助けを呼ぶだけのことすら、本当にへたくそだ。


 まなかさんの言葉をふと思い浮かべて、あてもなくビルの天井を見た。


 そんな時のことだった。


 私達の脇を、一人の大柄な男性が通り過ぎた。


 突然勢いよく後ろから来たものだから、私が思わずびっくりして肩を寄せていると、隣の方で明確にびくっと震える気配があった。


 その男性はスマホで忙しなく何かを話しながら、どこか苛立たし気に電源を切った。


 どこかで見たことある顔だった。


 そう私が認識する前に、その男性はふと何かに気付いたようにこちらを振りかえると、私を見た。


 知っている人だったかなと少し首をひねりかけて、ああ、と思わず納得する。


 …………違うな、私じゃない、私の隣にいるここねを見ているんだこれは。


 それを認識して、私はようやくこの人物が誰かを想いだす。


 総務部の部長。つまり、ここねの上司だ。


 それから、その男性は眉根を露骨に寄せるとまるで、私なんか見えていないかのようにここねにむけて、剣呑な声を上げた。




 「おい、加島。何飯なんか食ってんだ、お前。さっきの会議の資料、間に合わないんだからさっさとやれ。何回言ったらわかるんだ、お前はほんとうどうしようもない奴だな」


 


 あ。




 「お前のせいで他部署に迷惑がかかるって散々言っただろう。これだから最近の奴は、どれだけの人間に迷惑をかけているのかわかっているのか? へらへらしやがって、そろそろ仕事が出来なくて恥ずかしいとか想わないのか?」




 やばいな、これ。




 「俺はずっと昼休みの間も仕事をしてた。なのに、お前はどうだ? へらへら飯なんか食いやがって。使えないうえに、やる気もないのか? お前のしりぬぐいのせいでどれだけの人間が迷惑を被っているのか、考えたことがあるのか? まったく、最近お前がいない日の方が仕事が進むんじゃないかって気がしてくるよ」


 


 ほんっと。



 「おい、聞いているのか? なんとか言ったらどうなんだ。返事もできないのか? それはつまり、お前が仕事に対して誠意持っていないからじゃないのか? まじめにやっていないからだろう? だから言い返せないんだ。まったく、なんで本当に俺のとこにはお前みたいな奴ばっかり」



 ダメだ。




 こいつは。




 ダメだ。




 隣を見れば、さっきまで、どうにか必死に取り繕っていたここねの表情が、みるみるうちに崩れていく。


 震えて、零れて、目の前に抱いていた掌は指が食い込みそうなほど握られていた。


 段々とここねの顔が俯いていく。前を見れず、応えることもできず、抗うようなことすらもう出来なくなっている。




 ダメだ。




 これは。





 全身が現状にアラートを鳴らしている。




 脳が、内臓が、手が、足が、指先に至るまで、明確に何かを叫んでいる。




 直感達が、声をそろえて必死に何かを叫んでいる。




 まずい。ダメだ。このままじゃ、いけない。




 何が? 何がいけない? このままだと何がダメだ?




 バカ、そんなことわかりきってる。




 このままだと、ダメになる。




 ここねの心が。



 今、ここで。



 きっとダメになる。



 脳が、身体が、意識が、無意識が、直感が、理性が。



 全身全霊で声を一つにして叫んでいる。



 ダメだ、ダメだ。と叫んでいる。



 ここねに対する、心無い罵倒はまだ続いている。



 そうしている間にも、彼女の心は、刻一刻とすり減っていく。



 喉の奥が熱くなって、指先の感覚がいやに鋭敏になっていく。



 ふっと、短く息を吸って、少し止めた時、まなかさんの言葉が少しだけ脳裏をよぎった。



 助けを呼ぶ前に助けたら、ここねが自立する機会を妨げてしまうって。



 もちろん、それはある種の模範解答なわけだけど。



 でも多分それは、ちゃんと助けを呼ぶことができる環境があってのことなんじゃ、ないだろうか。



 だって、何事にも例外はきっとあって。



 今、まさに、助けを呼ぶための喉を潰されかけている人を前にして。



 それでも助けないなんて、ことはないだろう。



 だってこんなの、おかしいでしょう?



 そりゃあ、本当はさ、もっと理性的に、ちゃんとした手続きを踏んで、段階的に解決していく方がいいのはわかってるよ。



 今、私が熱に浮かされるままに、物事をどうにかしようとするのは、色んな所に迷惑をかけるし、長い目で見たらここねのためにもならないのかもしれない。



 でも、それだけちゃんと手順を踏んで、それだけ理性的に解決して。



 そうして最後、散々と暴力に晒されたここねの心は、ちゃんと無事だったって胸を張って言えるだろうか。



 そうやって全てを解決できたころに、ここねは、心から笑うことができる保証があるだろうか。



 頭の奥から湧いてくる熱に侵されながら、じっと握り込んだ拳の端に、少しだけ微かな感覚をふと感じた。



 少し我に返って隣を見ると、泣きながら震えながら、ぐちゃぐちゃになって何も言えないはずのここねが私の袖を少しだけ摘まんでいた。



 当の上司には見えないように、些細に、でも確かに私を引き留めていた。



 ふと気づけば、私の足は一歩前に、勝手に出ていて。握り込んだ拳は、今にもどこかに振るわれそうだった。



 …………はあ、こんな状況で、人のこと気にしてどうすんの、ここね。



 まったく、本当にこの子は…………。



 でもそれのおかげで、ようやく私は一息ついた。



 ああ、そうだ。冷静になれ。



 今、ここで、私がここねのために、何かするのは間違っている。



 他人のためって大義名分を使って、私だけの正義感で気持ちよくなろうとしてた。



 それはよくない、他人のためって言いながら、その人に依存して自分の気持ちをだましてる。それじゃあ誰のためにもならないと、まなかさんの一件で学んだはずじゃんね。



 だから、上司にそっと見えないように、ここねに小さく笑いかけた。



 もう、大丈夫、冷静になったよと、手のひらをひらひら泳がせる。



 それを見て、ぼろぼろに顔を崩した君が、どこかほっとしたように笑ったのを見てしまった。



 ああ、まったく本当に。



 君は、今、私が上司に歯向かうことで、私の立場がまずくなることを気にしてくれているんだろうけど。



 今、そこを気にしてる場合じゃないでしょう?



 本当に、笑っちゃうよね、まったく。



 そんな君を見て、心が決まった。



 そう、答えなんて、はなから決まってたっていうのにね。



 私が本当になすべきことなんて、最初からわかりきっていた。



 だから、私は笑顔のまま泳がせた掌を――。


















 ――――





 「―――――っな」



 「え―――――」



 「あー、よくない、ほんっとよくない。自分がむかついてんのに、その理由を他人のせいにするとか、ほんっとよくない。どうかしてた。私自身がシンプルに、。私の責任でキレないと意味ないじゃん―――ね」



 「おま―――」



 「さっきから聞いてたらさあ。何、無茶苦茶言ってんですか、あなた? 返事が出来ない? あなたが怖がらせてるから返事が出来ないんでしょうが。自分がどれだけ周りにプレッシャー与えてるか、考えたことあります? 第一、休憩時間に休憩してて何がおかしいの、その時間まで自分が仕事してんのはあんたの裁量の問題でしょうが」



 「みそのさ―――」



 「自分の周りに無能しかいない? うちの若手は私よりよっぽど仕事ができる優秀野郎なんですけど、何であなたの元では無能だったんでしょうね。不思議ですね? 理由がどっちにあるかなんて、わざわざ口に出さないとわかりませんか?」



 「――――」



 「いい加減、目え覚ましてくださいよ。そうやって誰かを怯えさせることでしか、自分の不安をぬぐえないんですか? わかってるんでしょ? あなた自身。自分の所に来た新人が両方とも振るわない、なのにそのうち片方は違うの人間の元で優秀だと触れ込まれてる。どっちに理由があるのかなんて明白なのに、そこを直視することもできずに、一番弱い立場の人間に自分の後ろ暗いところを押し付けてる」



 「―――」



 「そろそろ終わりにしませんか。会社にとって何よりの損益は、どう考えたって人を潰すことなんですから。人件費、求人費、保険とetc。会社にとって、人間って言うのは、綺麗ごとじゃなくて明確な資源です。それを使い潰すっていうのは、会社の金を溝に捨ててるのと変わらない。一つの会議で自分の部署の印象をどうたら言う前に、もっと見るべきものがあるでしょう。あなたのやってきたことは、本当は誰のためですか?」




 「―――」





 「ちなみに私は私情です、100%純粋に、私のためです。くだらない物を見せられて私が腹が立ったから、私がよしと思ってるものを傷つけたあなたが許せなかったから。だからこれは、全部私のわがままでです。ですので、人事への報告は、どうぞしていただいて構いません。ただ、その場合は、あなたの今後の身の振り方をもう一度考える機会にすべきだと想いますけどね。一度、自分が今まで部下に何をしてきたか、丁寧に振り返るにはいい機会かもしれませんね?」





 最後に、驚愕と動揺に満ちたその顔に、想いっきりの笑顔を向けた。





 「ではでは、またいずれ。―――二度と私の後輩を泣かせるな」





 そうしてそのまま、ここねの手を引いて、むかつく男の隣を通り過ぎた。




 後で部長に怒られるなあこれ、と三メートルほど歩いてから、思わずが苦笑いが零れ落ちた。




 ふと隣を見てみたら、君は相も変わらずぼろぼろに泣いていた。



 ごめんごめんって謝れど、君は私のことをぽかぽかと叩きながら、零れるほどに泣いていた。

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