第60話 独り語り
当たり前の事実が一つ。
目の前で誰かが泣くと僕は困る。
まなかが泣くときも正直困るし。
みそのが泣くときも、腹立つなあって気持ちが少し薄れて、お前も大変なんだなって気持ちになる。
ほぼ初対面の女性に泣かれたら、それは尚のこと。
何かやってはいけないことしたか? と数瞬、考えるけれどすぐに思考は行き詰る。当たり前だけど、出会ってから丸一日も経ってない人だ。そんな大層なやり取りもしていない。
つまるところ、僕が何かしたというよりは、僕が言った何かを呼び水に彼女の辛い何かを呼び起こしてしまったのだ。
それが具体的になんなのかは、僕にはわかりはしないけど。口に出されていない以上、わかりようもない。
手に持ったパンの最後の一かけらを口の中に突っ込んだ。
涙をぽつぽつと落とす彼女を、うちの飼い猫は、不思議そうな顔をして見上げている。時々、堕ちる涙を何かと勘違いしてひっかきながら。
別に放っておいてもいい。僕は彼女のことをよく知らない。強いて言えば、まなかと深想乃の間を取り持った人ってだけだ。ただ、おかげさまでというか、深想乃の話をするとき、いつも少しあったまなかの影が、ここ一か月は少し紛れている気はするけれど。
だからと言って、別に彼女の事情に深く突っ込む意味はない。
意味はない………………けどねえ。
「…………大丈夫?」
我ながら、もう少し気の利いた言葉を吐けよとは思う。まあ、そんなセンス生まれてこの方、持ち合わせがないんだけど。
「…………大丈夫……です」
帰ってきた返事は涙で濁って、うまく吐ききれていなかった。いやあ、どこが大丈夫だというのか。大丈夫じゃないですって言ってるのと何も変わらない。
軽くため息をつきながら、うーんと唸る。はてさて、一体どうしたものやら。
「まなかがなんか、しんどいこと言った?」
首が横に振られる。
「じゃあ、みそのがなんかした?」
首が横に振られる。
おいおい、その二人の関連じゃなかったら僕は想像するあてすらないよ。仕事のこととかだったら、僕より深想乃に相談した方がいいだろうし。
「………………うーん、あとは…………自分で自分が嫌になった……とか?」
正直、自信のない発言だった。でも予想とは裏腹に、少しの逡巡の後、首はゆっくりと縦に振られた。
聞いといてなんだけど、想った以上にデリケートだな、この話題。
そうやすやすと踏み込んでいいものだろうか。
「………………」
迷ってこそ見るけれど、特に向こうから何か喋り出してくれるわけでもない。
しかしねえ。自分のことでなんか悩んでる。それも泣きそうなくらい悩んでるか。
ふうん…………。
「自分のこと……自分のことかあ…………」
悩む話題としてはそれなりにありがちで、解決策の少なさとしてはトップクラスのそれだろう。なにせ、理屈でわかっていても、感情がどうにもできないのが自分というものなのだ。仏陀が数千も前に自分を抜け出す方法を編み出して、それを実行できたのがこの歴史上でいったい何人いたのやら。
軽く欠伸をしながら、僕はもう一杯コーヒーを淹れだした。これは長くかかりそうだ、となんとなく想ったから。しろみそのやつも、なんだか彼女の膝を完全に自分のクッションだと勘違いし始めているし。
「……僕でよければ聞こうか? カウンセリングじゃないから、適当だし、守秘義務もまあ出来る限りしか守らないけど」
僕はずるずるとコーヒーをすすりながら、そう尋ねてみた。彼女はうつむいたまま、返事もない。まあ、そう簡単に口に出せる悩みなら、苦労はしないだろう。しょいこむ性格っていうのは、なんとなく見てて分かるけど。
うーん、と唸る。口を手元にあててしばらく思考する。
……だめだ、妙案が浮かばない。まあ、でも仕方ないか。なにせ彼女自身から話してくれないのだ。こちらとしては、打てる手も正直ない。
「まあ、話したくないなら無理には聞かないよ。出来るなら口に出した方がいいとは想うけど」
そう言って、軽く手のひらをふりふり振った。対面の彼女が少しだけ落ち込んだような気配がある。
あー……うん、これは。
何となくしてほしいことがあるのは……わかるんだけど。
彼女がそれを口に出さないと、僕としてはどうしようもない。
それをわかっていても口に出せないから辛いのだろう。
僕は軽く息を吐いた。
「……じゃあ、箸休め的に僕の話でもしようか。しかし自分のことで悩むかあ……いっぱいあるなキリがない……うーん」
想い返せば、小学生頃ののあんなことから、高校生の頃のそんなこと、大人になってからの口には出せないようなことまで。悩みの種は甚だ尽きなかったわけだけど、一体何を話したものだろう。
しばらく思考して、そういえばこの子はまなかと深想乃のことを知っているだと想い出した。つまりまあ、僕とまなかの関係の話ができる。
「そうだ。僕がいわゆる性的な欲求がないって聞いてる?」
軽く手を打って、そう口を開いた。対面の顔が少しだけこっちを見る。おや、多少意識は引けたかな。
「まあ、厳密に言うとあるんだけど。僕は『そういうこと』はしない。そんな僕だから、まなかと一緒に暮らしていける……って話なんだけど、ここまでは聞いたことある?」
僕の問いに、加島さんは軽くうなずいた。よしよし、ちょっとは調子乗れてきたね。
「今でこそ、そうやって割り切って暮らしていけるけど。昔は結構ね悩みもしたよ。それこそ自分のことで悩むとさ、解決策がどこにもないんだよね。だって悪い原因は全部自分由来。どうにか解決しようにも、自分なんて、人生からどうしたってひっぺがせないものだしさ。究極的な解決は自殺くらいしか、思い浮かばないけど。まあでも死ぬのは痛いし、やるせない」
しろみそが、なあなあ言って加島さんに撫でるのを要求している。思わずくすっと笑ったら、対面の泣き顔もつられてくすっと笑っていた。
「というかね、最初は何で悩んでいるのか、さっぱりわかってなかったんだ。高校生になって彼女が出来た。それで、そういう関係を持ってやり遂げて――――やり遂げたのに何かが辛い」
しろみそが軽く飛び上がって、加島さんの涙と鼻水で濡れた鼻を叩こうとする。思わず仰け反る彼女に軽く笑いながら、僕は脇に置いてあったティッシュを彼女に渡した。
「何が辛いのかがわからない。分からないままに、なんだか嫌な気分だけが自分の中に積もったままで。その彼女とは、そんなに経たないうちに別れちゃったんだ。でも段々と繰り返していくうちに何が原因かわかってくる」
軽く頭を下げて、彼女はティッシュを受け取った。ずびずびとえらく豪快な音を立てながら、涙と鼻水が一斉に吹かれる。ただ肝心のしろみそはティッシュを新しいおもちゃとしか見ていない。
「一人、二人、三人、四人。付き合ってみるけど、どれもかれも上手くいかない。確かに好きだったのに、『そういう関係』になった途端、自分の心がどうしようもなく嫌な気分に襲われる」
案の定、ぺしぺしとティッシュに攻撃しだす。加島さんは最初は慌てていたけれど、しばらくすると、猫じゃらしみたいにして遊び始めた。うんうん、楽しそうで何より。
「ふとした瞬間に、なんだか全部グロテスクに見えてくるんだよね。魅力的に感じていたはずの相手が、唐突にただの意思のない人形に見えてきたり。必死になってやっている行為が、死ぬほどにバカらしく見えてきたり。そういう行為を想像するだけで、一緒にデートするときに吐いちゃったり」
加島さんがティッシュをゴミ箱にそっと入れた。しろみそはしばらくそっちを見ていたけれど、やがて何かを諦める様にしっぽを振ると、そそくさとどこかへ行ってしまった。やれやれ、もう遊び飽きたのかね。
誰かの身体の臭いが嫌いだった。嗅いでいるとどうしようもなく吐き気がする。
誰かに身体を触れられることも嫌いだった、そこから自分がどうしようもない何かに浸食されてしまいそうだったから。
誰かの裸体を見るのが、怖かった。何で怖いかはわからない。でもそれを想像するだけで、胸の奥に穴が開いて、自分の中の大事な何かがぼたぼたと零れる感覚がした。
誰にも理解されたことはなかった。湧き上がる吐き気より実はそっちの方がずっと辛かったかもしれない。
ま、そこまで具体的に説明する意味はないので、しないけどね。人のトラウマ体験なんて、話半分に聞くくらいで丁度いい。うっかり引きずり込まれてもことなわけだし。
「友達に相談してもね、『モテる自慢か』とか言われたり、シンプルに共感されなかったり。聞いてくれる人もいはしたけど、当然、解決策なんて出てこない。僕と僕自身の身体に引っ付いてる問題だから。僕が僕を辞めない限り、解決策なんてどこにもなかった」
しろみそとの遊びを終えた彼女は、改めてといった感じで姿勢を正してこっちをみた。ああ、よかった。話そのものに興味がないわけでもないらしい。まあ、気が逸れたらなら別にそれでもよかったのだけど。
「四人目の人に、『それ』を求められたとき、必死に説明した。どうしてそれが出来ないか、何を感じるか、それで妥協案を探して、お互いの落としどころを見つけようとした。ただまあ、上手くは納得してくれなくてね。最初は我慢してくれてたけど。そういう行為をしないと愛情が信じられないって。それでこっちから無理に合わせては見たけどね、当然上手くいかなくて、結局別れを切り出された」
コーヒーをずるずると啜る。お上品さはどこにもないけど、トラウマ話なんてそんなもんだ。笑い話になるように努めて話す。
「そこまで来て、ようやく思い知るんだよね。どうにも、自分はいくら無理しても変わらないってことに。そんな自分と付き合っていかなくちゃいけないことに。ああ、これはどうしようもないんだって。どうやら僕は製造過程でなにか失敗した歯車で、この世の中のどこにだって僕と噛み合う歯車はないんだなって。―――そう、思い知った」
ケトルを向けて、いる? って目線で聞いてみたら、彼女はいそいそとコップを差し出してきた。僕は軽くうなずいて、お湯を入れてあげた。ティーパックはすぐ隣においてあるから、あとは自分で淹れてくれるだろう。
「解決策なんて、どこにもなかった。いつしかそういう自分が、できそこないみたいに感じて、人に話すことも少なくなった。気づいたら、全く関係のない自分のことさえ、誰かに上手く喋れくなっていた」
コーヒーをもう一杯、飲もうか迷った。ただしばらく悩んで辞めておいた。
どうせ、この話も、もう終わり際だ。
「ある時、友人に無理矢理誘われて、まなかに出会った。向こうも友人に誘われてきたらしくて、お互いそんなに必死こいてなかったから、少し離れたところで色々と喋ってた」
しろみその声がする。なぁ、とどこかで鳴いている。こっちを呼んででもいるのかね。まあ、話が終わったらかまってあげよう。
「『あなた女の人、苦手でしょ』って言われたんだ。何の脈絡もなく、唐突に。え? って返したら、匂いでわかるっ、ていうんだよ。知ってる? 彼女、そういうとこあるだろ」
ティースプーンをかちゃりと置いた。
「最初は怖かった言い当てられて、なんだよこいつってなった。でも、あんまり打ち解けるのに時間はかからなかった。彼女の身体の事情もあったし、破れ鍋に綴じ蓋というか、なんにせお互い都合がよかった」
軽く、息を吐いた。
「まなかには感謝してる。彼女が居なけりゃ僕はずっと、僕のことを認められないままだった。こんな自分でも誰かと一緒に居ていいんだって、きっと思えなかっただろう」
ふう。
「――――でもね、今でも正直、時々自信がなくなるんだ」
「こんな自分でいいのかな。こんな自分じゃダメなんじゃないか。まなかと出会ったのにいまいち変わった気がしなくてさ」
「まあ、当たり前なんだよ。僕は高校生の頃から十年近く、自分のことを出来損ないだって、ずっと自分に言い聞かせてきたんだから」
「十年言い聞かせたら、単純に考えて抜けるまで十年かかるだろ? もしかしたらもっとかかるかも。なにせしんどい時に自分に言い聞かせてきた否定の言葉は、きっと百や千じゃ足りないんだから。その否定の言葉を塗り変えるために、僕はまだまだ自分を肯定する言葉を、何千も何万も積み重ねないといけないんだ」
「ただそう考えると、少し楽にもなるんだよね」
「焦らなくたっていいのさ。良くも悪くも、人間の根っこはそうそう簡単に変わらない。ゆっくりと時間をかけて、街を散歩するみたいに適当に、一歩ずつ自分を確かめられたらそれでいいんだ」
「ははは、聞いてる? まあ、聞いてなくてもいいけどさ。ああ、聞いてた? そりゃなにより」
「君が何で悩んでいるのか、自分のどういう感情に悩んでいるのかを僕は知らないけどさ」
「湧いてきた自分の感情を、わざわざ否定する必要もないんだよ、とは想う。どうにも抑え込みがちな性格に見えるしね」
「怖いなら怖いでいいし。嫉妬も怒りも、まあ湧いてきたっていいじゃないか人間だもの」
「湧いた心は仕方ない。あとはそれをできるだけ、相手を傷つけないようにちゃんと渡せればいいんだよ」
「そう、ちゃんと渡す。基本、心を閉じ込めていいことなんて一つもないからね」
「ふう……あ、話す? 自分のこと」
「え、それはいい? 深想乃に話す? うん、そりゃあ何より」
「それからそうだ、改めて、ありがとう」
「君のお陰で、最近のまなかの笑顔が増えた。それが何より僕は嬉しい」
「それじゃあ、そろそろ君のうちまで送るよ。ついでにまなかも回収しにいこう」
「ん? ああ、どういたしまして。じゃあいこっか」
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