第59話 なんで
「…………まなかさんの旦那さん?」
「そう、西条 怜。どうぞよろしく、ここねさんはあれだろ? 愛華や深想乃と一緒に旅行に行ったりしたんだろ。色々と話は聞いてるよ」
「あ……はい」
結局、私は西条さん……まなかさんも西条さんか。……旦那さんの車の後部座席に乗って送ってもらうことにした。暖房がしっかりと効いた社内の空気は、否が応にも冷え切った身体を緩めてくる。深夜なのもあるから、さっきまで寒さで忘れた眠気がぼうっと意識を滲ませてくる。
知らない人の独特の車の匂いって私は結構苦手なんだけど、この車はそんな感じもしなかった。芳香剤……といより、消臭剤かな。まなかさん、鼻が敏感だからそういうとこも気にしてるのかな。
「……十五分くらいで着くから、ゆっくりしてていよ。……着くまでは寝るのはよしたほうがいいと想うけど」
「…………はい」
穏やかの声の人だった。穏やかで静かな声だ。快活なまなかさんとはこういう人が、お似合いなのかもしれない。……それで言うと、みそのさんは……どうなんだろ。落ち着いてはいるけれど、慌てるときは結構慌てちゃう人だからな。
返事こそしてみたけれど、気を抜くと意識が持っていかれそうになるのを感じながら、私は窓に映る夜の景色をじっと見た。
何かを考えようとするけれど、曖昧な意識がそれを許してはくれなくて。
眼を閉じるとそれだけで、頭の奥でがんがんとなる頭痛が引いていく。
寒さにかじかんだ指が緩んで、抱きかかえた鞄が腕の中から少しずつずれていく。
眠っちゃいけない。そう想っていた。
「おーい……寝た?」
眼が重く沈むように身体の全部が暗い暗い水底に落ちていくように。
全部が重くなっていた。
今日、寒かったな。
潰える意識の狭間でぼんやりとそんなことを考えた。
※
朝起きると、身体のあちこちが痛かった。
身体を起こして思わずうぐっと唸ってしまう。足に肩、なんでかわき腹まで痛くなってる。寒すぎて身体に力でも入っていたんだろうか。
寝起きの格好は、昨日着ていたまんまで、ただ周りを見回してもいまいち覚えのある場所じゃなかった。
緩い朝日が挿し込む中を、ぐるっと見回す。一月の朝なわけだけど、エアコンがちゃんと入っているから、どことなく温かい。
見回した先は、知らない部屋、私は知らないベッドの上。そこは小綺麗に整頓された一人用のベッド、小物が少しだけ並んだ部屋。あるのは本だなと小さな鏡、あとはそんなに大きくないクローゼット。
なんでこうなったのか、しばらく悩んで、どうにか前夜の記憶に辿り着く。そっか、ここまなかさんと旦那さんのお家なんだ。
窓をそっと覗いて、どうやらここがどこかのマンションの一室であることを把握する。五階くらいかな、結構高い。
まだぼんやりとする頭を抱えながら、私はベッドから這い出して脇にあるカバンを確認する。特に触られた形跡もなかったから、それをもって部屋を出た。
部屋がいくつかあるけれど、よくわからないので一番広い、リビングっぽい場所に向かう。
ひょこっととりあえず首だけ出してみたら、綺麗なキッチンの中で料理する、旦那さんの姿が見えた。
「お、起きた。おはよう」
「おはよう……ございます」
ぼんやりと返事をしながら、私はじっとその人を観察してみる。
改めて見ると、なんだかふんわりとした雰囲気の人だ。優しそうというか、ほんわかしているというか、水色のエプロンがよく似合う。
目玉焼きを作ってるみたいで、焼き終わったそれを軽い掛け声を出しながら、焼いたトーストの上にそっと乗せた。
「じゃ、簡単だけど、ご飯にしよっか」
「…………はい」
ぼんやりしてるから、どうにも気の抜けた返事になっているかもしれない。失礼かなとも想ったけど、なんでか身体はうまく力が入ってくれない。なんでだろ、首を傾げながら、誘導されるがままに、リビングにある小さな座卓に二人で腰を下ろした。座卓の端っこには丁度テレビがあって、二人で座って見れるようになっていた。まなかさんと二人でいつもこうしてテレビをみてるいのかもしれない。
「じゃ、いただきます」
「…………いただきます」
二人してそう声に出して手を合わせてから。食事に向き直る、用意してもらった皿に乗っていたのは、半熟の目玉焼きがのったトーストと、プチトマトが数個。机の橋には電子ケトルとコーヒーと紅茶があった。旦那さんは、慣れた手つきで 自分の分のコーヒーを淹れている。
目線で窺ったら、軽くうなずかれたので、おずおずと私はその紅茶のティーパックに手を伸ばして、自分の分の紅茶を淹れた。牛乳が欲しかったけど、見当たらなかったので、少し砂糖を多めに入れる。
そうしていると、旦那さんは思い出したように冷蔵庫まで歩いていくと、牛乳を持って帰ってきた。……私も欲しかったな。
そう想って、自分の紅茶を眺めていたら、今度は逆にこっちが視線で窺われた。
『牛乳要る?』って聞かれた気がしたので、一応、頷いておく。そうすると、旦那さんは軽く首を傾げながら、私に牛乳を渡してくれた。
私はそれを受け取って、ちょぼちょぼと牛乳を紅茶に付け足す。ちょっと甘くなっちゃったから、控えめに。まなかさんの旦那さんはその様子を、なんだか不思議そうに眺めていた。
私は少しいたたまれない空気を感じながらも、もそもそとトーストをかじりだす。お腹が減ってたから、紅茶もトーストも暖かく身体に染みわたってくる。
数分程、黙って二人で食事していたら、軽く笑って旦那さんが口を開いた。
「まるで、借りてきた猫みたいだ」
「…………すいません」
自分でもわかるほど萎むような声が出た。旦那さんは、また軽く笑うとひらひらと手を振った。
「いや、全然いいよ。突然知らない家で朝ごはんだもんな。むしろ自然だ」
「…………」
そうやって、軽く笑ってから、でもじっと私を見据えて言葉を続ける。
「ただね、愛華から聞いてた恋々音さんの像とあんまり一致しなかったから、驚いただけだよ」
「え」、と思わず声が漏れた。一体、私、どういう風に言われていたんだろう。
「……まあ、愛華が言ったのは、『いや、ほんと天使だった』とか、『うちで飼いたい』とか、感想にもなってない感想だったけどね?」
そう言って、旦那さんはくすくす笑う。私は思わず、「はあ」と当たり障りのない返事しか返せなかった。どう答えればいいのか、よくわからない。
「ただまあ、もう少し、明るくて、真っすぐで―――遠慮のない人だって聞いてたかな」
そうして彼はそう言った。今度こそ本当に私は何の答えも返せなかった。
「君は、確か深想乃のことが好きなんだろ? 大変でしょ、あいつも結構ひん曲がってるから」
ドアの方でからっと何かが動く物音がした。
「…………みそのさんは、そんなこと……ないです。ちょっとうまく言葉伝えられなかっただけで……それも仕方がなくて……」
「ん? ああ、そうだね。恋する子の前で、想い人の悪口なんて失礼だ。気を悪くしたらごめんよ、ただあいつとは僕も色々あってね―――」
上手く言葉飲み込めない。吐き出せない。食事をしている手が、どうにもうまく動いてくれない。
そんな私を見て、旦那さんは少し困ったような顔をした。でも数舜すると、
少しだけ笑って見せた。その笑顔が、少しだけなんでか胸をざわつかせた。
「でもまあ、深想乃にも想ってくれる人が出来たんだと想うと感慨深いね。ちょっとは落ち着いてくれるといいんだけど―――」
「………………みそのさんは、私なんかが居なくても落ち着いていますよ」
なんだろう、少しだけ背中のあたりがざわざわする。お腹も少し痛くなる。
「そうかなあ……? あれで結構、独りだと暴走するんだ。前、僕らが深夜に呼ばれていった時とか…………」
頭が痛い。歯も痛む。なんでだろう。ぎりぎりと、何かの痛みが頭の奥をうるさく響かせる。
「………………」
……あれ、なんで、私こんなに歯を食いしばっているんだろう。どうして―――。
「…………ごめん、つい愚痴っぽくなったね。僕とあいつはどうもお互いが遠慮ないからさ……。こういう話は、嫌かい?」
上手く応えられなかった。なんでかはよくわからない。
なんでだろう、この人にみそのさんのことを言われるのが嫌なのか。そもそも、今、みそのさんの話を聴くことが事態がしんどいのか。それとも―――。
私が、どこか―――おかしいのかな。
トンと何かが跳ねる音がした。
え、と思わず漏れた声をよそに白い何かが、私の足の上に飛び乗ってきた。
それはそれはまっしろな猫だった。
ふわふわしていて、私を見たらなんでかにゃあと鳴いてきた。
まるで笑顔を向けるみたいに。
なんだっけ。
そう確か、まなかさんが拾ってきた猫だ。
みそのさんと一緒に暮らしてた時に、拾ってきた。
名前は―――確か。
「しろみそ、珍しいね。知らない人に自分から近づくのは、愛華か深想乃の匂いでもするのかな」
そう、たしかそんな名前。
二人が大事にしてた。小さな猫。
そのネコがごろごろと私のひざで頭を私の足にこすりつけている。
「うわあ、珍しいデレ方だな。さてはよっぽど気に入ったな……? 恋々音さんがよかったら、できたらずっと仲良くしてあげてよ」
それから、旦那さんはそんなことを言った。
『はい』と言葉を返そうとした。
だけど上手く返せなかった。喉が詰まって、痛んで、言葉上手く出てこない。
あれ? 本当に、なんで私はこんなに喋れないんだろう。
どうしてこんなに上手く言葉出てこないんだろう。
まるで、まるでそう―――、何か
落ち着きがなくて、余裕がなくて、身体中が痛く、心が痛くて。
なんで―――。
なんでなんだろ―――。
「………………恋々音さん?」
上手く言葉が聞こえない。
頬から何かが零れてる。
なんで?
私、ご飯食べてただけで。
私、寝て起きただけで。
辛いことなんて、何も、どこにもなかったのに。
なんで―――?
膝の上で、なあなあと猫が鳴いていた。
落ちてくる雫を不思議そうに眺めながら。
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