第61話 恋した私と誰かを想うあなた
まなかさんと入れ替わりで、私は自分の家に帰りついた。
色々とやり取りが終わって、腰を落ち着けたのが結局お昼も過ぎたころ。
私とみそのさんは、二人して昨日の酒盛りの後片付け。といっても、大半はまなかさんとみそのさんが片づけてくれていたので、軽く机を拭くくらいだったけど。
みそのさんが飲み終わった缶を袋に入れて縛っているのを、ぼんやりと眺めながら私はどこかあやふやな気持ちのまま机を拭く。
結局のところ、まなかさんの旦那さんの前で泣いたことの決着はついていない。どうしてそれが、納まったのかもよくわかっていない。
わからないまま、ぼんやりとした頭を引きずっている。……散々、泣いたからちょっと疲れているのかもしれない。結局、昨日はあまり寝ることはできなかったしね。
軽く欠伸をかみ殺しながら、机を拭いた。
「ここね、いいよ。私、片づけるから」
「いえ……全然、これくらい」
みそのさんの声に、思わずびくっと肩が揺れる。あれ、どうして私、こんなにこの人の声に動揺しているんだろう。
そんな感じがした。
一通り、机を拭き終えて、やることを探す。……だめだ見つからない。
すべきことは終わってしまった。じんわりと胸が痛くなるのを感じてる。
胸がどきどきと音を立てる。大丈夫、かなあ。これで。
少し迷っていたら、少しだけ今日の朝、言われたことが頭をよぎる。
『怖いなら怖いでいいんだよ』
『湧いた心は仕方ない。あとはできるだけ相手を傷つけないように渡せればそれでいいんだよ』
渡す。
渡す……かあ。
そういえば、私はちゃんと自分の気持ちを、誰かにちゃんと渡せたことって、今まであっただろうか。
どうやればいい? どう伝えればいい? どうすれば相手を傷つけないんだろう。どうすれば、あなたにちゃんと受け取ってもらえるんだろう。
考えても、考えても、答えは出ない。
ううん、少し違う。答えはきっと、渡してみないとわからない。
どれだけ考えても、どれだけ唸ってみても、きっと実際に伝えてみるまではわからない。
自分のわがままをちゃんと誰かに言うことって、こんなに難しいことだったのか。
はあ、気を抜くと、すぐ諦めてしまいそうになる。
だって、私はこの年に至るまでの二十年ちょっと。ずっとそうやって、何かを諦めて続けてきたんだから。
諦めなくてもいいよ、したいことをしてもいいよ、なんて急に言われても。
そんなもの二十年も前に、きっと弟が生まれてきたあたりで、やり方を忘れてしまったというのに。
今更、想いだせっていわれても、ちょっと困る。
どんな大層なことを言えばいいんだろう。どういう言い方をすればいいんだろう。
相手を困らせないで想いを伝えるって、どうすればいいんだろう。
机を拭き終わって息を吐く。
ぷしゅぅ、と何かが抜けるような音が口から漏れる。
緊張か、気負いか、はたまたもっと別の何かなのか。
そもそも、私は一体、みそのさんに何を伝えたいんだろう。
どことなく曖昧な気持ちのまま。布巾をキッチンに戻してから、リビングに座り直した。
みそのさんも最後の片づけを終えて、軽く息を吐くようにして戻ってくる。
お互いリビングに座っているだけの気まずい時間。
口を開いてみようとするけれど、はわはわと喘ぐように口が動くだけで、うまく形をとってくれない。
うーん、と膝を抱えながら唸っていたら、真向いのみそのさんもどことなく困ったような顔をしている。
「………………」
「……………………」
変な時間だった。
一か月とはいえ、ずっと一緒に暮らしてきて、その間なんやかんやと会話はあったのに、今更会話が途絶えている。そしてそれがすっごく、もやもやして、もどかしい。
まるで、出会ったばかりの知らない二人みたいだ。
「みそのさん」
とりあえず、名前を呼ぶだけ呼んでみた。
「ん、なに?」
あなたは何でもないふうに返事をする。でも、どことなくぎこちないというか
、なんというか。
それが少し不思議で、ちょっとだけ可笑しかった。
「まなかさんと、どうでした? ちゃんと話せました?」
「…………うん、話せた。今まで言えなかったこと、ぜんっっぶ話した。話し尽くした……って感じだったなあ」
みそのさんの顔に少しだけ笑顔がともる。それをみて、私も少しだけ笑顔が零れてくる。
「よかったあ……これで、仲違いしてたら、どうしようって想いました。誘った私の責任だし……でもまあ、信じてましたよ? お二人ならちゃんと、お互いの気持ちを伝えあえるって」
「…………はは、信頼に応えられたんなら、何よりかな」
そう言って、あなたはどことなく頼りなさげに笑っている。私はそれに優しく笑みを返すだけ。
「みそのさんも、まなかさんもあーんな綺麗な想いを持っていたんですから、当然です。いわば私の『推し』ですからね。ふふふ」
私がそう言って、指をぴしっと立ててみると、あなたは困ったように笑っていた。
「推しって……、私が聞くのもあれだけど、それでいいもんなの?」
「ええ、私はそういうお二人の関係性が――――」
好きだったんですからと、告げようとした。
ただ、その瞬間にあなたは少しだけ寂しそうな顔をして、私を見た。
「でも、……終わったよ?」
続きを告げようとした顔のまま、私の口はピタリと止まってしまった。指までそのままなのが、どうにも間抜けっぽいけれど、身体が固まってピクリとも動かなくなってしまった。
終わった。
そう。
それは当たり前のこと。
だってこれは叶わなかった恋の話なのだから。
ちゃんと終わらせるってことは、つまりは
実らなかった蕾をちゃんと摘み取って、土に還すこと。
開きかけていた口が思わず噤んでしまう。
いいことをしたのだと言わんばかりだった、さっきまでの自分が恥ずかしい。
私がしたのは結局、どこまでいってもただの幕引き。
これで、まなかさんへ想いが伝わって叶うなんてことは全然ない。
先に進めるかどうかは、結局みそのさん次第なわけで、私なんかがそれをどうこう言えた立場じゃない。
思わず肩が落ちて、下を向いてしまう。そこには私の膝しかないんだけど。
でも、と言おうとした。
だけどその後が続かない。
『これで先に進めますよ』とか『想いがすっきりしたんじゃないですか』とか、口に出しかけたけど。
結局はそんなの私の願望、想い込み。
何を感じたか、どう想ったか、それを踏まえてどうするかは、結局みそのさんにしかわからない。
わからないままに顔を上げた、あなたはごろんと寝転がっていた。
………………え?
「………………不思議な気分なんだよね」
後ろにごろんと寝転がったから、あなたの顔は窺えなくて声ばかりが届くだけだ。
「もっとしんどいって想ってた。改めて叶わなかった自分の心を伝えるなんて、もっとしんどいって。ただでさえ、今くらいに立ち直るのに時間かかったのに。もっと立ち直れなくなるんじゃないかって……そう想ってた」
あなたは横に転がったまま、顔もこちらに見せないままに言葉を続ける。
「でも意外とね、なーんも変わんないの。一晩明けても、普通にまなかさんと話してるし、普通にお互い顔見て笑ってる。なにもかも普通、あんだけ大層なこと伝えた割に、何にも変わらないまま、二人して朝ごはん食べてさ。当たり前だけど、日常って感じで、何も変わらずに続いてく」
みそのさんの指がそっと天井に伸びていった、電灯の光が眩しくて遮っているのかもしれない。
「勝手にさ、小学校の卒業式みたいなものだと想ってたんだ。長い長い式典の後に、大事な物を渡されて、そこから先は全く別の場所に歩んでく。そんな風に想い込んでたんだよね。それで私はずっと、その式典の会場に入れないまんまだったみたい」
そうやって光を遮っていた手が、やがて、諦めるみたいに降ろされた。少しだけ膝を立ててあなたの顔を窺ったら、寝ころんだまま目は閉じられていた。
「でも違ったんだよね、会場に入っても、変わらない日常がそこにあって、後はお互いの気持ちを確認するだけ。ずっとお互い分かりきっていた答え合わせを、何年かぶりにやりきった。それで私の恋は終わりだけど、卒業証書も、環境が変わることも何もない。まあしいて言えば、大学を卒業するのが本来そのタイミングだったんだろうね」
両の手が落ちるみたいに、何かを投げ出すみたいに広げられた。
「もうとっくの昔に、卒業式なんて終わってたんだよね。大学も、まなかさんとの生活も――――私の恋も」
閉じた眼の端が、少しだけ光って見えた。
「だって、恋の寿命は三年だもんね。もうとっくに終わってて、ああ、私はずっとそれを認めることができてなかったんだなって……頭のどこかで知ってたことを、改めて口に出しただけ」
呟くように言葉が漏れる。
「私の恋は―――終わってたんだね。ずっと、ずっと前に」
ゆっくりと、途絶える様に息が吐かれる。
「それがちゃんと、わかったんだ。うん、ちゃんと、やっと」
みそのさんは何かを握るように、ぎゅっと拳を握った。
それから反動をつけて、身体をごろんと起き上がらせる。
そうして、私の眼をじっと見た。
「ここねのおかげだね、ありがと」
そうしてゆっくりと、何かを噛みしめるみたいにそう告げた。
上手く言葉が返せない。
喉の奥がじんじんと痛んで、震えそうになる。
胸も震えて、どうしようもなくなってくる。
喉の奥で誰かが叫んでた。今、今、言わなきゃって。
伝えなきゃって。
震えそうになりながら、でも、心の中の何かを思いっきり押し出すみたいに吐き出した。
「あのっ!」「それでね」
二人の言葉が同時に重なって、思わず二人ともちょっと驚いた顔になる。
みそのさんは少しだけふむと考えこんだ後、すっと私に掌を向けてきた。
『お先にどうぞ』……ってことでいいのかな。
「あの……ですね!」
震えそうな口を思いっきり開く、眼と喉の奥が熱くて、顔が焼けてしまいそうなほど熱くなっているのを感じる。
口を噤んでしまいそうになる。挫けてしまいそうになる。
私なんかの気持ちなんか。
私なんかのお願いなんか。
私なんかの想いなんか。
そんな言葉が頭の中で何度も、口に出すはずの言葉を止めに来る。
唇がふるふると震えてくる、顔じゅうに変な力が入って、怖くなる。こんな感覚知らない、知らないけど言っていいのかな。
言ったところでどうなるの?
わからない。
相手を困らせてしまわない?
わからない。
そんな伝え方でいいの? 今でいいの? ここでいいの?
わかんないよ!!
なんにも! わかんないから!
伝えてみるしか、ないんだよ!
「あの!」
「もう、……もうちょっとだけ!」
「私と一緒に! 暮らして……みませんか!!?」
「その、あの。本当は、明日、答えを聴くって約束だったんですけど……」
「まだ、まだ……みそのさんのこと、知りたいっていうか……。まなかさんとのことは一杯知れたんですけど、まだ、みそのさん自身のことは……ちゃんと聞けてない気がして……」
「だから、えと、本当に嫌だったら全然、断ってくれて大丈夫なんですけど!」
「まだ……まだ私は、みそのさんと一緒に居たいです!」
「だから、えと、その……どうでしょうか?!」
顔が熱い。
燃えるみたいに熱い。
どうしよう。どうしよう。嫌われてない? 引かれてない?
わがままを言うのって、自分のやりたいことを言うのって、こんなに大変なの?
どうしよう、怖い。怖い。怖い。
怖いけど。
『わからない』ってずっと想ってた。
実際、みそのさんがどんな反応するかなんてわからない。
でもちょっとだけ嘘があった。
本当は心の隅にあるその予想を、私はずっと見ないふりをしていたんだろう。
それか、私の想いを否定してきた誰かを、その予想に重なてしまっていたのかもしれない。
例えば、私がもう少し一緒に暮らしたいっていったとして。
みそのさん、滅茶苦茶怒ったり、酷いこと言ったりするかなあ。
多分、しないよね。
私が、誰にもわかってもらえなかった『好きな人が出来ない』っていうことすら、すんなり受け入れてくれたんだから。みそのさんはそういう人じゃないんだよね。
だって私の心の一番重く動かすことの出来なかった部分を、受け入れてくれた人だったんだから。
本当は知ってたんだ。
信頼できる人がいるなんて、そんなのずっと昔から。
でもそれを勇気をもって信頼できなかったのは、他の誰でもない私自身。
自分のやりたいことをちゃんと聞いてくれる人がいるって、そんなことをわかっていたのに、相手の胸に飛び込めなかったのは私自身。
迷惑になっちゃわないかなっていうのは少し、心配だったけど。
それはちょっとずつでも、言葉に出して聞いてみれば大丈夫。
『言葉にしないと伝わらないよ』って、そう私達に教えてくれた人がいたんだから。
だから、だからそう。
私はきっと、心のどこかで。
この言葉をしってたんだ。
「いーよ」
「というかね、私から言おうとしたことも、実はそれなんだよね」
「この二週間は、本当にまなかさんばっかだったからね。お互いのことを知るっていうのは全然できてなかったわけだし」
「私もまだまだ、ここねのこと、ちゃんと知らないし、ね?」
「無理? してないしてない。しんどかったら言うからさ」
「それと一つ誤解を解いとくと―――」
「――――私もう、結構ここねのこと好きだけどね?」
え?
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