七章 進んでいるようで戻るよう
第58話 独りの私
独りでいるのが好きだった。
いや違うね、人といるのが嫌いだった。
なぜって一緒に居る間、ずっと気を遣わないといけないから。私はどうにも人付き合いというのが苦手みたいだった。
他人と自分の価値観の差異に嫌気がさす、これがいいよね、あれがいいよねって言われることに、作り笑いで誤魔化しているのがいたたまれなくなる。
どうにも元から私はネガティブな気質があるみたいで、人がいいよね楽しいよねって言ってることの『あら』がどうしても見えてしまうんだ。
みんなが絶賛する映画の、どうしても救われない登場人物、差別的扱いに注意が行ってしまう。
みんなに沢山褒められている上司の、影では人の悪口を言って蔑む人だと言うことを、何気なく見つけてしまう。
みんなが仕事の成功に喜んでいる最中、その成功のために使い潰された人の存在に、ふと気付いてしまう。
みんなに笑顔を求められたとき、それを否定する言葉が喉から出かかって、そっと口を噤むことを繰り返す。
何度も、何度も言葉を噤んでいるうちに、胸の奥で何かを締め付けるような感覚が湧いてくる。
最初は言葉を躊躇っている間、やがて誰かに感想を求められた瞬間に、そうしていつしか、誰かと一緒に居るだけで。
胸の奥はずっと何かに縛られて、じわじわと苛まれ続けていた。
だから人といるのは嫌いだけど。
独りでいるのも、別に好きでもなかったんだ。
だって独りでいると、嫌なことばかり想い出すから。
小学校での失敗。
先生からの失望の眼。
中学校での劣等。
誰かの恫喝。
高校での猜疑。
親からの罵倒。
別に頼んでもいないのに、私の脳みそは、せっせとそんな過去の痛みを想い返し続けている。
トラウマだと人にお出しするには安っぽくて、過去の些事と水に流すほどは軽くもなくて。
だから、独りでいるときはなるだけ、何もかも忘れられることをしていたんだっけ。
恋愛に関する本や漫画を読むのが好きだったのは、それが原因。
いやあ、恋は、いいよね。
何もかもを忘れられるから。頭が熱で沸騰して、前後も左右も分からなくなって、独りよがりになって、なのに幸せみたいだった。私は持ち合わせがないけど、そういう感情がこの世のどこかにあるんだって、そう想えるだけでよかった。少しの間、自分のことなんて忘れられた。
人と、うまく混じり合えないことも。
誰かの欠点や、何かの汚点も。
それを、口に、出せないことも。
胸の奥で痛み続ける、吐き気も。
何より、軽くて安っぽい私さえ。
その全てを、誰かの想いに焦がれるうちは忘れられた。
だから人の想いが好きだった。
だから他人が嫌いだった。
だから独りは嫌いだった。
―――そんなことを、随分と久しぶりに想いだした。
なんでだろうと考えて、ああ、そうかと納得する。
よくよく考えてみれば、私。
ちゃんと独りになること自体、一か月ぶりなんだ。
仕事の時は言わずもがな、温泉じゃあまなかさんと一緒に居たし、なにより――。
―――それ以外の時間はずっとみそのさんと一緒に居たんだから。
スマホでメッセージを一つ打った。
『私は外で泊まるのでご安心を!』
メッセージの中の私はまるで快活で明るい、世間知らずの少女のようだ。
実態は酷く寒くて虚しいだけの、からっぽの女なのに。
溜息を付きながら、すっかり冷えた身体を橋の欄干にそっと預けた。
いやだなあ、独りでいるの。
でも、あの部屋に帰ることは今はできない。
あの二人の邪魔をすることだけはしちゃいけない。
街の電飾に照らされて、そこまで暗くもない夜空を見上げた。
寒いな、と呟いた。
当たり前だけど、誰も答えを返してはくれなかった。
※
あてもなく夜の街をぽつぽつ歩く。
人っ子一人いない夜を、コンビニと街灯の灯りだけを頼りにして。
まなかさんは、好きなところ泊ってといってくれたけど、なんだかどこかに居つく気にもなれなかった。それで、結局あてもないままに、足をだらだらと動かしている。
ただ、そんな間にも、頭は勝手に思考をべらべらと広げてくれる。
そういえば、私は、いつの間にこんなにわがままになったんだっけ。
昔から、わがままを言わない子だと言うのは自負していた。なにせわがままな弟をもつお姉ちゃんですから、これでも家庭では大人としてふるまっていたのですよ。
今想うと、内弁慶もいいとこだけど。外ではびくびく臆病な癖に、家の中でだけ強がってまともでしっかりしたふりしてた。
うーん、色々とため込んでいた分、変な形でぶり返していたんだろうか。
そういえば、みそのさんとのやり取りはどっちかといえば、私がわがままを言って甘えているという形が多かった。まるでそうお姉ちゃんにすがりつく、年端もいかない妹のよう。
たははと思わず独りで苦笑いをしながら。迷惑かけたろうな、きっと、たくさん数えきれないほど。たった一か月なのにね、泣きついたり、看病されたり、励ましてもらったり、色々とわがまま聞いてもらったり。
凍える手を誤魔化すために、自販機で暖かい飲み物を買った。甘ーい紅茶、心地よい睡眠をとるには邪魔だけど、どうせ寝ることもない夜だから、今はこれで丁度いい。
身体を寒さにぶるっと震わせてから、手を暖めるためにじっと小さなペットボトルを握る。じんわりと手から熱が熱いくらいに伝わって来るけれど、身体全部はそれくらいじゃ温まってはくれない。
吐く息は、白くて、ぼやけて、でもすぐに私の目の前から流れてく。
それにしても、ああ。
いっぱい迷惑かけちゃったなあ。
本当にこんなに人に迷惑かけたのっていつ振りくらいだったっけ。
でもまあ、楽しかったな。
この一か月は、本当に、夢みたいだった。
誰かと一緒に過ごして、その暖かさを知って、一緒にご飯食べて、旅行に行って。
私のことを傷つけなくて、私のやりたいことをちゃんと聞いてくれる人と、一緒に居た。
そして、私はその人のことを好きになって―――。
まるで、夢みたいな日々だった。本当に。
多分、今日のやり取りでみそのさんとまなかさんは、吹っ切れる。
そうしたら、どうなるのかはわからないけれど。きっと、二人は私の前に揃って笑顔で現れるんだろうな。あれだけちゃんと想い合っているのだ、しっかりと、話し合うことさえできれば、それは確かだと思う。
そしたら、それから……。
…………私は?
頭の中で、二人が仲良く手を握っている姿は簡単に思い浮かぶのに。
あなたの空いた手が私のことを握ってくれる姿だけは、どうしたって思い浮かばない。……思い浮かべられないんだ。
なんでだろ。
答えなんて、まだ聞いてもいないのに。
態度? 気配? 何となくの感じだろうか?
どうして、よくなる未来がさっぱり思い描けないのだろう。
無意識がその答えをどこかで感じ取ってしまっているからか。
だって、みそのさんが私のことを、あくまで『後輩』として扱っているのは感じてた。
一線を引いて、それを踏み越えないようにしているのを感じてた。
それはなんていうか、大人の対応だ。感情的になりすぎないように、一時の欲で相手を傷つけないようにっていう、そういう対応。
それは、まあつまるところ、要するに。
丁寧に、優しく、だけど、明確に―――私はあくまでも『後輩』の領域を出られないってことを示してる。
踏み込んでいいのはそこまでだと、はっきりと線が引かれている。
私は、そこを越えられない。
喉が痛くなったから、紅茶を一気に流し込んだ。
本当は甘いはずなのにがなんだか変な味がする、苦いようなしょっぱいような。
寒い、凍える、身体が震える。
でもそれとは別に身体の奥が、なんだかぽっかりと穴が開いてしまったような気がしてきた。
その穴は、元は私の本当に大事だったもので、それは一度失ってしまえばもう二度と取り戻せないもの。身体が震えながら教えてくる。
今から失うものが、どれだけ私にとって掛け替えがないか、そしてその喪失がどれだけ差し迫っているのかを。
震えながら教えてる。
ああ、やばいな。
こんなに震えて、こんなにしんどくて。
これからずっと、この穴を抱えて生きていくとして。
私はこれから、ちゃんと生きていくことができるんだろうか。
頭の中で、誰かがせらせら嘲笑う。
心配するなよ。どうせ、元に戻るだけだろうって。
そうだよ。
どうせ、元から何も持ってなかった奴が、元に戻るだけだ。誰かから借りてたものを、とうとう返さなくちゃいけなくなった、ただそれだけだろうって。
うん、そうだよ。
結局、何も変わりはしないよ、元の私に戻るだけって。
…………そうなんだけどね。
……………………そうなんだけどさあ。
身体が震えてた。
今すぐ駆け出したくなった。
呻くような声が口から漏れた。
今すぐあの部屋に戻って、あなたの胸に飛び込みたかった。
ごぼごぼと何かが溢れてきた。
そうして、いつものように慰めて欲しかった。まなかさんと一緒でもいい、二人に今の気持ちを洗いざらいぶつけて、どうにか救ってほしかった。
だめだ、だめだと声がしてる。
あと一か月、約束の時間を伸ばしてください。そう言って、もう少しだけ二人で一緒に居たかった。
無理だ、無理だと誰かが言ってる。
そういった時に、あなたがどんな顔をするのかを――――。
迷惑だろ、と誰かの声がいっていた。
―――上手く想像できなかった。
………………もし、もし私のこのわがままが、あなたを困らせてしまったら。
……だってあなたは優しいから、きっと私がわがままを言ってしまったら、無理にでも叶えようとしてしまうだろう。
それがたまらなく嬉しくて―――それがたまらなく怖かった。
あなたの心の重りになることが、私なんかがなることが、どうしたって怖かった。
ああ……ああ。
息を吐く。
少しだけ落ち着いてきた。
涙に濡れた顔はきっと酷いことになっているけれど。
どうせ、誰もいない夜の街だ。
きっと、構いやしないのだ。
………………はあ。
ふらふらと歩いていた。
足が棒になりそう。でも歩く。痛くて、しんどくなったとしても。
頭のどこかが麻痺してる。
痛くても、痛くなくても、どっちでもいいよ。
だって、ただの脳の信号だし。
生理を我慢するときと、感覚は似てるでしょ。
痛いこと、苦しいこと、辛いこと。
全部ただの信号なんだ。無視していい、気付かなくていい、踏みにじって、なくしてしまえば、苦しまなくて済むんだから。
そうすれば、何も感じない体なら、何も思わない心なら、きっと私は平気な顔をしていられるから。
ふらふらと歩いてく私の前を、車が一台通り過ぎた。
…………こんな夜中になにやっているんだろうね。
まあ、いろんな人にいろんな事情があるんだろう。
真夜中に車を走らせる事情だって、きっとどこかにはあるんだね。
私が今こうして、独りでふらふら歩いているのと同じように。
はあ…………。
きいと音がして、振り返った。どうやらさっきの車が道をUターンしているみたいだ。公道のど真ん中でUターン、真夜中しか許されない芸当だねと、ほくそ笑む。
それから車は私の隣を再び通り過ぎ――――。
………………?
きいと音がして、車が止まった。私の隣で。
うぃーんと窓ガラスが開いて、ひょこっと知らない男の人が顔を出す。
男……なのかな。どことなく儚げで、青年と言われれば確かにそうだけど、女の人のようにも、年老いた人のようにも見えた。そんな、不思議な人。
その人は私をじっと見て、困ったような笑いを浮かべてきた。
「ごめんなさい……え……と、人違いだったら本当に申し訳ない。加島 恋々音さん……だったりしない?」
……………………は?
思わず口があんぐりと開くのを感じる。
「いや、うーん。示す証拠がないんだけど、不審者ではないんだよ。こんな深夜に女性に声をかける男が怪しいのは、重々承知ではあるんだけど……まあ、そこんとこはまなかに文句を言ってもらうとして……えと、人違いじゃないよね?」
そう言って、男の人は少し探るように私を窺う。
え、本当に誰だろう。というか、なんなんだろう。
この人が言う様に、結構状況としては、かなりやばい。
例えば、私がここで攫われたとしても、誰も何も知る余地はない。犯罪に巻き込まれる確率も正直、全然あると思う。
ただ、会話に緊張感がないのが少しばかり変な感じではあるけれど。
警戒していまいち喋らない私に、男の人は困ったように頬を掻くと、携帯を出して電話をかけ出した。そうして誰かと話し出す。
「うん、みつけた。たぶんね、ただ答えてくれないから、本人確認的な意味でさ…………うん、うん。よろしく」
そう言って、困ったような笑みを変えないまま、携帯を私にすっと差し出した。
スピーカーになってるみたいで、その携帯からけっこう大きな声が聞こえてくる。
『あー、ここちゃん?! ごめんね、まなかさんだよ! よく考えたらこんな時間、ホテルとかどこも空いてないよね?! なんでうちの人に拾ってもらってって頼んだの!』
聞き慣れた声がした。まなかさんの声だった。
え、と思わず声が漏れる。
なんでだろう。
なんでか、それだけ泣きそうになる。
困惑する私をよそに男の人は、少し安心したような笑みを浮かべてから、車の後部座席を指さした。
「というわけで、愛華のパートナーの西条 怜です。とりあえず寒いし、乗っちゃってくださいな」
そう言って優しげに私に笑いかけた。
私は流されるままに、頷くことしか出来なかった。
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