第57話 恋された私とあなた

 恋は甘い匂いがする。


 甘く酸っぱく、舐めればしょっぱい。


 人にもよるけれど、苦くはないといのは共通しているだろうか。


 砂糖菓子のような、あるいは果物菓子のような匂いがする。


 出来立ての想いを抱える人ほど、強烈でわかりやすい甘味と酸味を放っていて、どことなく市販の合成菓子を思わせる。


 そして時間をかければかけるほど、そこにいろんな味が入り込んでくる。


 迷い、惑い、後悔、期待、悲嘆、諦め、情愛、愛欲。


 それは苦味であり、雑味であり、酸味であり、甘味であり、深いコクようなうまみに近い物もある。


 今のみそのからは、深い―――深い甘さとうまみとが複雑に交じり合った、コクのある匂いがする。


 少しだけ舐めさせて欲しい気もするけれど、まあ他人様のものに手を出すほど、倫理観はボケてない。


 いつの間にか寝落ちたし君を眺めながら、一人こっそりほくそ笑む。


 みそのとは、出会った日から微かな甘い匂いがした。これはほんと。


 その匂いが私に向けれているのも、経験上なんとなくわかっていた。


 受け容れるわけにはいかない。私は同朋同じ病気を増やす気なんてないんだから。これもほんと。


 言わないとわかんない。これはほんとだけど、半分は嘘。


 あの時、君を受け容れなかったのは、君が伝えてこなかったからじゃない。


 君が君の想いを伝えてきても、私はきっと拒んだだろう。


 私は君が大事だけど、だからこそ君を選ばない。


 君は私の隣にいては欲しいけど、痛みはともに背負っちゃいけないから。


 卒業してから出会った旦那みさねくんと早々に結婚を決めたのは、君が早く私を諦められるようにと想ったから。


 君が早く、私への恋から目覚めてくれることを祈ったから。


 そうすれば君はきっと、新しい幸せを、掴めるんだと―――そう信じていたから。


 「………………まあ実際は、こんなに時間かかっちゃったんだけどねえ」


 眠ったままの君の頭をそっと動かして、自分の膝元まで持ってくる。


 眠ってるはずの人の頭を動かすのって結構難しいはずなんだけど、あっさりとみそのの頭は私の膝に乗ってきた。


 ふふっと笑ってから、軽く一息ついて今までの関係に、思いをはせる。


 それにしても、一体何年かかったんだろう。


 出会ってから……八年。


 卒業してからだから……五年くらい?


 「…………なんで五年もひきずってんだか、はは」


 五年もあれば新しい恋が始まって、終わるくらいはあったでしょうに。


 恋の寿命は三年なんて言うけれど、あてにならんね、いやはやさ。


 「まあ……私が中途半端なことしたせいだね……」


 本当にみそのの幸せを想うなら。


 即刻、縁を切るべきだった。


 理不尽に、身勝手に、そうすれば彼女の恋は早々に終わりを告げて、もっと早く次の誰かに出会えたろうに。


 ……たとえそれで一時、君が傷ついたとしても。


 それでも、私はそういう手段を取るべきだったのかもしれない。


 ……………………。


 まあ、後の祭り、先に立たない後悔だけど。


 それに、もしそんなことをしてしまっていたら。


 今日みたいな夜はきっと二度と訪れなかったんだろう。


 二人で馬鹿みたいに話して愚痴言って、まるでそう長年の腐れ縁のように、気兼ねのないでも大切なそんな風に。


 一緒に隣にいることできなかっただろうから。


 本当に、時間は随分とかかってしまったけれど。


 これで、良かったんだとは思う。


 ま、私の自己満足だけどね。どこまでいっても。


 はあ、それにしても。


 長い、本当に長い回り道だったね。


 はあ、まったく。


 「本当はね、ずっと……ずっと怖かったんだよ」


 「君の想いを否定したら、嫌われちゃうんじゃないかって、私の身体の事情で勝手に距離を取ってるくせにさ。君の想いをちゃんと聞くのが、ずっと、ずっとね怖かった」


 「それでもね、君と何にもない他人になってしまうのは嫌だったんだ」


 「ねえ、みその私との大学時代、楽しかった?」


 「私はね、楽しかった。ほんっとうに楽しかった」


 「親もいなくて、身体もおかしいって分かったばかりのあの頃はね、本当は内心辛くてさ、苦しくて、弱音だって吐きたくて、ずっとずっとしんどくて。夜にね一人で起きたら、自分が誰からも受け容れられないんじゃないかって、怖かった」


 「なんで私ばっかりって、どうしてこんな辛いことばっかり自分に降りかかってくるんだろ、嫌になっちゃいそうでさ」


 「もしかしたら、私はもう誰にも必要とされないんじゃないかって。そんなことをずっと、ずっと考えてたの」


 「信じらんない? だって見せてこなかったからね」


 「私はね、君の前でなら強い先輩でいられたの」


 「頼りがいがあって、カッコよくて、言いたいことはずばずば言って、そんな先輩でいさせてくれたの」


 「みそのと離れて気づいたんだけど、私ね、結構頼りないよ? おっちょこちょいだし、よくものも忘れるし、旦那にも細かいことであれこれ注意されてばっかりでさ」


 「君の前でだから、私はずっと頑張ってたんだって気が付いたんだ」


 「いつかの私みたいに、無茶して、うまく言葉にできなくて、迷ってばかりの君の前でだったから」


 「私はかっこいい先輩でいられたの、完全むてきなまなかさんでいられたの」


 「―――楽しかった。本当に夢みたいな、気の迷いみたいな、そんな儚い時間だったけどさ」


 「君とのあの時間は本当に、本当に楽しかったよ」


 「ありがと、みその」


 「ごめんね、こんな先輩で」



 ごぼごぼと溢れたものが止まらない。


 情けない先輩らしくない雫ばかりが目の隙間から零れてくる。


 ほんとにもうなんでかなあ。


 でもまあ、きっとこれでいいんだろう。


 だって、今日はそういう夜なのだから。


 いつか君が私の前で涙を見せたときみたいに。


 きっと正直になっていい、夜なのだから。


 ふと目線を上げたら、空が白み始めていた。


 どこかで鳥の声が響き始める、長い長い夜が終わりを告げてどこかに去っていく。


 零れるものをぐしゃぐしゃと拭った。君へ落ちていかないように袖で擦ってみるけれど、涙だか鼻水だかよくわからいままに顔ごとぐちゃぐちゃになっていく。


 ああ、情けないったらありゃしない。


 でもきっと今はそれでいいんだろう。


 だって夜が明けるから。


 君とこれだけの話をしても、またこうして朝はくるのだから。


 何もかもが終わるなんてことはない。


 何かが終わっても、またどこかで始まりへと歯車は回るのだ。夜が来てもやがて朝が来るように。冬を越えた木々たちがまた春に花を咲かすように。


 それはきっと誰かにとって残酷な事実だけど、きっとどこかの誰かにとって紛れもない救いなんだから。


 長い、長い、夜が終わる。


 「こら、起きてるでしょ、みその。眼ぇ開けなさい」


 「………………いつからバレてました?」


 「もちろん、最初から。まなかさんを舐めてはいかんぞ?」


 抱き起すように、横になった君の身体を抱きしめる。


 とてもいい匂いがする。


 初めてあった君の香りをそのままに。


 たくさんのたくさんの想いが、混ざり、溶け合い、形を成した。


 深い深い、確かな想いの匂いがする。


 その匂いにもう恋の香りはないけれど。


 それでも確かに大事な想いが残ってる。


 しばらくじっと抱き合って、私は恋の終わりをそっと悼んだ。


 そうしてそっと身体を離しゆっくりと君に笑いかけた。


 それでもまだ、大事な想いはきっと残ったままだから。


 「朝ですね」


 「そーだね」


 「おはようございます」


 「うん、おはよう」


 そうしてまた君との時間が始まっていく。


 懐かしいような、新鮮なような。何度も繰り返したような、今日初めてのような。


 そんな感覚を、朝の静かな時間に二人でそっと確かめた。

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