第56話 恋した私とあなた

 ここねにお礼だけを言って電話を切った。


 上手く言えたかどうかはわからないけど、今はこれが私の限界なので致し方ない。


 余裕がない、ツーツーという電子音が嫌に耳に残る。


 スマホをゆっくりと耳から離して、目の前に座るまなかさんにそっと返した。


 まなかさんは、探るような笑みを浮かべたまま、首肯すらなくそれを受け取った。


 気を取り直しても、あなたは私の目の前で相も変わらず優しく微笑んでいるだけだ。


 少しだけ長く息を吸った。


 ああ、本当に余裕がない。


 呼吸の音が嫌に耳につく、あなたの息遣いまで聞こえてきそうだ。


 これから、言う、伝える。


 全部。私の想い。


 私の八年間、その全てを。


 言う――――。


 そうやって決意を固める私に向かってまなかさんはゆっくりと口を開いた。


 「結論から聞いとくんだけどさ」


 あなたは座椅子に背を預けながら、優しく笑って私を見つめている。


 「今からするのは、『これからの話』? それとも『おもいで話』?」


 そう言って、どこか楽しげな笑みを浮かべたまま、あなたはその手に脇に置いてあった二つの缶を私に見せてきた。


 片方は紅茶の缶、片方はアルコールの缶。


 ……どっちがどっちを示しているのか。


 ちょっと考えて、まあ決まりきっているかと軽く笑った。


 先の話をするやつはこんな時、酒なんて飲みやしない。


 なにせ、今から私がするのはひどく情けない話だ。


 前向きでもないし、発展性もない、なんなら、もう全部何もかもが終わってしまった話。くだらない、とりとめもない過去話。



 でも。



 でも―――、これを終わらせないと、どうやら私は前に進めないみたいだから。


 そう、後輩に言われてしまったから。


 ……肝心な時に人のせいにしても仕方ないか。


 私自身がずっとつけ損ねてきた、恋の幕引きをするだけなのだから。


 ちょっとお付き合い頂こう。


 そして、そう、こんな情けない話をするのだから。


 「想い出話です。―――とびっきりのやつ」


 きっと酒の一つでも飲んでいないと、やってられないのだ。


 あなたは相変わらず優しく笑っていた。でも、どことなくそれだけではないんじゃないかと、その瞳を見て思った。優しいだけじゃないような、寂しいような、嬉しいような。


 そうして、まなかさんはチューハイの缶を私に手渡すと、そのまま脇からもう一本取り出して、軽く目配せした。


 なんとなく息を合わせて、二人揃って、缶を開けた。


 カシュッという、缶の中に詰め込まれた炭酸が抜ける音がする。


 溜まっていた何かが抜けてどこかへ飛んでいく音がする。


 「じゃ、乾杯しよっか」


 「はは、何にですか」


 そう。


 「んー? 若かりし日の青春って奴に?」


 「青臭い失敗談の間違いですよ」


 せっかくだどこまでも飛んでいけ。


 「それこそが青春ってものでしょ」


 「そーいうもんすか」


 「そーいうもんだよ」


 私の想いも、過去も、情けなさも何もかも。


 カンと、金属同士が鈍い音をたてた。


 なんとなく二人でほくそ笑む。


 この飲み会は何もない。酒のあてすらありはしない。肴は想い出話だけだから。


 ここねは、ああは、言ったけど、私の想いを、きっと既にこの人は知っているのだ。


 言葉にしないと伝わらないけど、伝えられないという姿勢だけは、たっぷり見せてしまっているのだから。


 その、伝えられなかった最後の答え合わせを、私たちは、ずっと避け続けていただけなんだから。


 私はあなたに恋をして。


 あなたをそれを知っていて。


 私は想いを、ずっと告げないで。


 あなたは想いを、受け入れられなかった。


 そうして、私はその想いをずっと引きずって。


 その間に、あなたは、あなたの身体と心を受容れてくれる人と、どうにか出会えた。


 そうして私の恋は終わりを告げた。


 物語にするなら、たったそれだけ。


 ハラハラするドラマも、息つく間もないどんでん返しも、涙溢れる感動も何もない。


 たった、それだけ。


 「つーか、いつから気づいてたんですか?」


 「え? そりゃあ、出会った時から」


 「うっそだあ、私、まなかさんのこと好きだなって想ったの。二年入ってからですよ?」


 「ええー、自覚があるかどうか知らないけど。みそのは出会った時から結構甘い、いい匂いしてたけど?」


 「うっそだあ、『言わないとわかんない』って言ってませんでしたっけ? ……っていうか、恋の匂いって甘いんですね」


 「そーよ、甘酸っぱい。それに、私がわかるのはほら、身体の反応だけだから。みそのの頭の中までは知らなーい」


 「身体の反応で判断してるって……それ、なんか、えろくないです」


 「だよね? 私もたまにそう思う」


 「……はは」


 これはきっとくだらない話。


 「ていうか、逆に二年からなんだ。私のこと好きだったの。長くない?」


 「ええ、そうですよ。そっから丸々二年間、同居生活の生殺しですわ」


 「うはあ、勢いで衝動に任せて告白しちゃえーってならなかったの?」


 「なんなーいです。だってまなかさん、身体のことで、恋人つくんないって言ってたじゃないですか」


 「そうだけどさー……。いや、みそのはりせー的だねー。私が逆の立場なら言っちゃうな」


 「しょーどーてきですね。あ、そーいやキス魔でしたもんね」


 「はっはっは、なっつかし。してたなー、そんなの」


 これはきっと益体もない話。


 「でもまあ、ぶっちゃけ一人でしてる時、まなかさんのことばっか考えてましたよ」


 「あ…………やっぱり? 正面切って言われると……さすがに恥ずかしいな」


 「存分に恥ずかしがっといてください、二年間好きな人に自慰行為を自己申告し続けた私の羞恥心の分、たっぷり味わいながら恥ずかしがってください」


 「きっつー……かおあっつー……」


 「アルコールのせいですよ。アルコール、なんもかんも酒が悪い」


 「たはは……」


 これはきっと、とりとめもない話。


 「ていうか、私が好き好きアピールしてる時、どういう気持ちで見てたんですか」


 「うん? そりゃあ愛い奴よのおって」


 「ひっでー、この魔性の女」


 「ははは、まあ冗談は置いといて。やっぱりちょっと寂しくはあったかな。応えてはあげられないから」


 これはきっと、一夜の笑い話。


 「ですよねえ。……ていうか、他の人たちって、私らのことどう想ってたんだろ」


 「え? そんなのみんなのことは、みんな知ってるに決まってんじゃん」


 「………………は?」


 「だってバレバレすし、おすし。いやあ、大変だったんだぞう。みそのがいない飲み会でその話題が出たときにさあ。誰かがぽろっと漏らして……そんで、竹沢君ががっつり失恋しちゃってさあ……」


 「…………はあ? いや、ちょっとまって、色々と情報が追いつかないです。なにそれ、いつから?」


 「私が四回の頃にはもうみんな知れ渡ってたかな……」


 「はあ、ちょっと、いや待って?! てことは何? 羽根田先輩も友山先輩も同回もみんな知ってたってことですか?!」


 「おう、いえす」


 「は、ちょ、ちょえ、は? はぁぁ~~~?!」


 「逆にバレてないと想ってたんか……」


 「……思ってました、……胸の奥に鍵かけてしまいこんだつもりでした」


 「ははは、カギ閉めても匂いがだだ漏れだったんよ」


 「………………えーーーー…………私、これから同窓会とかどういう顔して行きゃあいいんですか」


 「………………きみはもうちょっと竹沢君の失恋話気にしてやんなー」


 「いやあ……竹沢君は……今でもいい友達ですけど。性的対象には見れませんがすごいいい人ですけどー……、やっぱり。そこは大事じゃないので……」


 「…………いや、みそのも私のこと魔性とか言えなくない?」


 「はあ……」


 着地点はどこにもない。


 「ていうか、みそのはだっれにも相談してなかったでしょ。ちょこちょこ私が言ってあげてたのにさ」


 「言えるわけないじゃないですか、こんなの」


 「羽根田ちゃんはいっつも回生飲みで、みそのmp話題が出たら涙ぐんでたよ。絶対、いい相談相手になったのに」


 「はあ、今となっては後の祭りですねー……」


 「ちっがいなーい。私も改めて考えると、もっといい方法あったんだろなーって感じはする。ごめんねえ」


 「いーえ。……っていうか、下世話な話をしますとね」


 「ほおん」


 「世の中、血液感染……たとえばHIVとかそういうのに罹っても、えっちする方法自体はありまして…………」


 「ふふっ、その気になればできるんじゃないとか、考えてた?」


 「…………妄想はしてました。感染リスクがゼロじゃないから、まなかさんは絶対受け容れないってわかってたけど」


 「まあねえ。多分、断ってた。私のはそういう一般的な病気とはちょっと勝手が違うしね。感染も、一応、実験の上ではするだろうってことだけで。本当に移るかは移してみないとわかんないから」


 「で、実際、移った時点で治療不可。手遅れですもんねえ」


 「まあ、病気っていうか、ほとんど体質みたいなものなんだけどね」


 「うつるって体質ってなんですか?」


 「さあ……吸血鬼とかゾンビみたいなものじゃない?」


 「ああ……納得、実際それっぽいですもんね、まなかさん」


 「誰がぞんびじゃ、こるぅわあ。腐った匂いもしてないぞー」


 「いや、そっちじゃねーですって……」


 この話に解決すべきことなど何もない。






 そう。


 何も、ないんだよ。


 行きつくところなんて、もう、どこにも。






 ふと、時計を見た。


 気付けば、十二時をもう回ってる。


 はあ、時間的に、寝ないと明日しんどいな。ていうか、ここねは、どうしてるんだろ。


 そんなことを考えながら、脇を見渡せば、飲み干した缶が一杯あって、はてさて、いつのまにこんなに飲んだのやら。


 社会人になって、自分の限界も知って無茶な飲み方をすることも減ったんだけど。


 想い返せば、こんなに後先考えずに酒を飲んで、ただ話したのっていつ以来だったろうか。もう数年覚えがない。まなかさんと二人でこうやって、夜を明かしたことも。大学生時代には一杯あった気がするのだけど。


 そんなことを考えながら、ふとスマホを見れば、ここねから『私は外で泊まるのでご安心を!』というメッセージが来ていた。あの子、大丈夫かな。


 「しまった、ここちゃん、大丈夫かな。帰ってきていいんだけどね」


 対面のまなかさんも同じことに思い至ったようで、少し慌てたようにスマホを弄っていた。私は軽く息を吐きながら、残りの酒をちびちびすする。


 「……気を遣われてんですよ」


 「だねえ。いや、しかし甘えちゃったなあ……しくった。宿泊先だけでも確保してあげるべきだったね」


 「明日、二人で謝りましょ。あとお礼も言って」


 「そだね。一応、ラインしとこ。お金出すから好きなとこ泊まっていいよ、あとごめんねって」


 「………………私の分も謝っといてください」


 ほんとにあの子はお節介だなあ。いや、言えた立場じゃないんだけど。


 私は軽く息を吐いて、残っていた缶をそっとおいた。


 まなかさんが連絡してくれてるから、わざわざ私から連絡することもないだろう。ほんとは連絡した方がいい気もするけど、回りに回ったアルコールは、私の指も頭も重くさせる。まあ、シンプルに眠くなっているのだろうか。


 そうしているうちに、ふと、会話が途切れ、しんとした時間が流れた。


 冷蔵庫の小さく響く音と、エアコンが動く音だけが、耳に張り付いて離れない。


 こんな夜を大学生の時、何度も過ごしていたんだっけ。


 横になりながら、いつのまにやら電話をかけだしたあなたを眺めて、そんなことを考えた。


 頭が熱くてぼーっとする。眼も、手も、口も、心臓も、何もかがぼやけてあやふやになったみたいだ。


 そうしていると、ふとした瞬間に喉の奥に何かがつっかえた。


 棘のようなひっかりが喉の裏に張り付くような。


 胸の奥の奥、口から喉に繋がって、その奥にある大事な何かが。


 黒くて、重くて、でも小さくて大事な物が。


 私の喉を押している。


 でたいよう、でたいようって、押している。


 だしてよ、ここからだしてよって。


 きっと、その声を、私は今まで、何度も、何度も、無視してきたんだ。


 気づかないふりをして、見つけては叱って、口を噤んで、鉛みたいなそれを、何度も何度も飲み込んだ。


 この想いが間違っても出ていかないように、あなたに届いてしまわないように。


 ……そんな夜をいったい、いくつ過ごしてきたんだっけ。


 もう、覚えてもいないけど。


 指をそっとあなたの手に伸ばしてみた。


 触れられる、八年間経っても何も変わらないあなたの指。あなたの皮膚。


 ふんわりと柔らかくて、まっさらに白くて、綺麗なあなたの指。


 そこに私の指を重ねてみた。


 電話を終えたあなたが、不思議そうに私の方に向かって首を傾げる。


 ねえ、まなかさん。


 「どーした、みその。ねむい? しんどい?」


 ねえ。


 「ほらあ、もう。



 …………。


 そう。



 そうでしたね。





 胸の奥に、誰かがいる。


 ずっと押し殺してきた、誰かがいる。


 ずっとずっと、出てこれないように蓋をしてきた。


 自分が傷つかないように、みっともない想いを知られないように、今の関係を壊さないように、怖い想いをしないように。


 ―――あなたの幸せの邪魔にならないように。


 ずっと蓋をしてきた、私自身が、そこにいた。


 ねえ、まなかさん。


 「ほらー、みその、どした?」


 ずっと。



 ずっと。





 ずっと。








 ずっと。













 「ずっと」





 「好きでした」






 「出会った時から、倒れたのを助けてもらった時から、委員会に誘ってもらった時から、卒業してからも、ずっとずっと」







 「ずっと好きでした」






 「ずっと」





 「ずっと好きだったんです」






 「ごめんなさい」





 「こんな簡単なことをずっと、ずっと言えませんでした」






 「ごめんなさい。傷つくのが怖くて、知られてしまうのが怖くて、拒否されるのが怖くて、あなたの幸せを邪魔してしまうのが怖かったから」








 「ずっとずっと言えませんでした」







 「でも、ずっとずっと好きでした」






 「ずっとずっと、あの頃から本当にずっと」






 「あなたに恋をしていました」



















 ※



 あなたの胸の中で、私はずっと泣いていた。


 八年間蓋をしていた、小さな言葉たちは、どうしたって止めようがなくて。


 零れるみたいに、溢れるみたいに、涙と一緒に同じ言葉を延々と繰り返していた。


 その間、あなたはずっと私を抱きしめて。


 どこか嬉しそうに、でもどこか寂しそうに笑っていた。


 零れ落ちるものは止め処なく、終わりなんてどこにもないみたいに、溢れていく。


 「ごめんね」


 「ごめんなさい」


 「ごめんね」


 「ごめんなさい」


 そんな言葉を二人で延々と繰り返していた。


 冬の小さな夜のこと、静かな時間の中で同じことを、ずっと、ずっと。


 八年間、溜め続けた想いが枯れ果てるまで、ずっと、ずっと。


 抱き合う身体と涙の熱さだけを感じながら。


 想いを、ただ、零していた。


 ずっと、ずっと。

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