第37話 考える私と眠るあなた
少しだけ彼女のことを心配した。
そろそろ自覚しなよと誰かが言った。
既に絆されはじめているという事実に。
うるせえ馬鹿と誰かが言った。
それから―――。
ずっと心の奥に縫い留めていたまなかさんの影がほんの少しだけ薄くなっていくのを感じた。
前に進むと言うことは、何かを忘れると言うことじゃない?
そんな風に誰かが聞いた。
そうかもしれないと誰かが言った。
別にそうじゃないんじゃない、と誰かが言った。
結局、どっちよと私はぼやいた。
眼を閉じたら、まなかさんのことを想う。
おおよそ三年ばかりに及ぶ、そんな恋を。
瞳を空ければ、ここねのことを思う。
たった一週間と少しばかり過ごしただけの、そんな時間を。
いつか進むときが来るんだよと誰かが言った。
そんなことわかってるよ、と思い出ばかり大事に抱きしめる私は、そう返事をした。
どうすればいいのか、答えはまだ。
出ない。
※
「いいよ、座ってて。つかれてるでしょ?」
「え……あぁ……えと」
「まあ、誤魔化せない程度には疲れてるってことね。おっけー」
「はい……えと……ありがとう……ございます」
年始の仕事明けから早四日、週も遺すところあと一日の木曜日。
終わりが見えてきた時期でもあり、疲労がたまってくる時期でもある。
そんな中、仕事終わりの私はここねを居間に座らせて、一人で夕食の準備を始めていた。っていっても、私もほどほどに疲れたし、今日は簡単に鍋にでもしようかと考える。あったまるし、なにより野菜を肉を切るだけでいいから手間がない。
軽く、欠伸をしながら手早く大きめの鍋に具材を入れて、あとは味付けだけして出来上がるのを待つだけだ。
おおよそ十分ちょっとで作業を終えた私は、座布団に座ってどことなくぼーっとしているここねの隣に腰を下ろした。
「あれ? もう終わったんですか」
「うん、今日は鍋じゃあ。鳥鍋じゃあ」
「あ、いいですね。鳥鍋、あったまりますし」
「んにゃ、あとはちょっと待つだけだねー」
そんなやり取りをしながら、私はスマホを眺めてみた。幾許か更新してみるけれど、特に目立った連絡は入ってない。好みの動画の更新も来てないし、ぶっちゃけやることが無いのである。
十分くらい時間が余るとどうしても暇を持て余してしまうんだよね。そうやって軽く、欠伸をしながら特にあてもなくスマホを眺めていたら、座っていた私の肩にこてんと小さな頭が乗ってきた。
「どしたの、疲れた?」
「はい……ちょっと」
返答するここねの声は確かにどこか気力がなさげだ。いつもそれなりに細い声なのに、今日は、まして細く感じる。ほとんど囁くくらいにしか聞こえてこない。
「出来上がるまで十分くらいだけど、別に寝てていいよ」
一応、おでこに手を当てて確認してみるけれど、熱はない。シンプルに気疲れだろうなとあたりを着けて、私はそう言葉を吐いた。
ここねは黙って頷くと、そっとそのまま寝息を私の隣で響かせ始めた。
すー、すー、と小さく柔らかい、そんな音。
しばらくそれをぼんやりと眺めてから、私はそっとスマホに視線を戻す。
ただ眼がスマホの画面をなぞっているだけで、正直何も見ていない。
肩に当たるほのかな体温を、耳に触る小さな寝息を、ただ感じていただけだった。
まあ、この時が、この瞬間が、心地いいとは確かに想う。
自分を信頼してくれている誰かが隣にいる。
寝姿を預けてもいいと、信じてくれている誰かが隣にいて、その体温を感じ取れる。
それは確かに心地がいい。
ただ、それに想うことは二つだけ、あった。
ここねが私に抱いてくれている、この想いは都合のいい脳のまやかしで。
三年も過ぎれば途絶えて消えてしまうこと。
それとあとは―――。
ブーンと、スマホを通知を鳴らした。
まなかさんのこと。
あんだけ言っといて、私は都合よくあの人のことを忘れるのか。
いや、そうやって忘れることをいろんな人に―――特にまなかさんに、望まれていることは百も承知なのだけど。
『最近進展どーう?』
『特になしです』
それをしてしまったら、あの時の私の気持ちは一体どこに行くのだろう。
私しか覚えていないのに、その私すら忘れてしまったら。
あの時の想いは、あの時の恋は、もう誰も覚えていなくなってしまう。
『まじかー、また旅行でもいく?』
『さすがに、ここねがしんどそうなので、パスで』
いつか踏み越えるべきなのは知ってる。
過去は忘れてさっさと未来を向けばいいのも知ってる。
そして、自分がそんなわかりきっていることさえ、まともに成せない情けないやつであることも。
私はよくよく知っている。
『お、いい感じのムーブね』
『最近、気持ち的には保護者に近いですよ』
どうするべきか。
そんなことはわかってる。
どうしたいか。
それだけはずっとわからないまま。
『それもまた愛よ』
『なにいってんすか……』
そこでスマホの画面を切った。鍋を温めるためにつけていたアラームが鳴ったから。
私はそっと、浅い眠りにつきかけていたお疲れ気味の君の肩を叩いた。
「ほら、ここね。ごはんにしよ」
「……はぁい」
寝ぼけ眼を擦る君を眺めながら、そっと頭を撫でてみた。
少しくすぐったそうにしながら寝ぼけ眼を擦る君は、恋人というよりは飼い猫か何かのようで。付け加えて言うなら、その弱弱しさが、最近拾って来たばかりの捨て猫みたいだった。
うーん……、私のこれは恋じゃねえなあ。
愛かどうかすら怪しい。
庇護欲という奴ですよ、おそらく多分な。
そんなことを考えながら、ぐぐっと背筋を伸ばして、私はキッチンへと歩いていった。
スマホが一つ、最後に通知を鳴らしている。
『まあ、焦んないことよ』
そうは言いますけどね、まなかさん。
この関係、一か月の期限付きなんですよ。
そう考えて、私はふと想いだした。
そろそろ、次の土日で二週間が経とうとしている。
私の家で過ごす時間は終わりを告げて、後はこここねの家で二週間。
もう折り返しが見えている。
そんなことを考えながら、ふと君の方を振り返った。
君は私にくっついて立ち上がってきてはいたけど、まだまだ眠そうで目尻に涙が浮かんでいる。
やれやれと私は苦笑して、彼女が火傷しないように気を付けながら、今日の夕餉の準備をした。
残された時間はあと半月。
それまでに私の心は答えを出してくれるかな。
彼女の答えは何か変化を見せるだろうか。
そんなことを思いながら、年が明けたばかりの、一月の木曜日の夕食は過ぎていく。
何の答えも出さないままに、暖かい鍋の匂いだけを振りまきながら。
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