第29話 進むあなたと戸惑うあなた
ここちゃんと温泉に浸かった後は、しばらく食べ歩きでぶらぶらしていた。ひらべったいみたらし団子を食べたり、あったかい焼き芋を室内で出してくれる店で頬張ったり。充分に甘味を堪能する。
その間、ここちゃんの表情はどことなくぼーっとしたまま、読めないままだった。
何を考えているのかわかりにくい……というより、本人もどんな感情なのか整理が出来ていない感じだろうか。
そうして、予定通り夕方に旅館の前で深想乃と合流した。
深想乃の方は。当たり前だけど、普通に温泉を楽しんできたみたいで、あれをしたこれを食べたと楽しげに話してくれる。そうして、ここちゃんはどことなく一歩引いた様子で、ぼーっとしたまま私たちのことを見ていた。
どうにかしてあげたい気持ちがうずうずと湧いてくるけれど、きっと今はそこまで深く触ってはいけないと想う。
いうなればそれは出来立ての想いだ。まだ焼き上がりたてのチーズケーキやチョコケーキのように。熱くて、とろけて、少し触れれば簡単に形が変わってしまう。
そんな熱を持った輪郭が曖昧な想いを、彼女はまだ自分の心に落とし込めきれていないのだ。
きっと少しだけ時間がいる。できれば一人で考える時間が。
よくよくかんがえれば、彼女、深想乃と知り合ってからまともに独りになる時間なんてあったんだろうか。
ないよね、多分。それどころじゃなかっただろうし。
ケーキが固まって、その形を確かに保つにはまだ少しだけ時間がいるのだ。
じっくりと寝かせることで、初めて綺麗な形に想いは出来上がるんだから。
そのための時間を、ちょっと作ってみよう。
それに、私自身が、深想乃と話したいこともあるしね。
そんなことを考えながら、私はその日の夜、深想乃をそっと呼び出した。
※
「なーんですか、告白ですか。それか夜のお誘いですか」
「あはは、初めてが後輩と一緒の旅行で寝取りとは。なかなかまにあっくだねえ、深想乃も」
「それはまなかさんが寝取られるって話ですか? それとも私が寝取られるって話ですか?」
「んー? 両方かな?」
「はは……、自分で振っといてなんですけど。たちの悪い冗談でしたね、やめましょう、この話」
「そう? 私こういうの嫌いじゃないんだけど」
「とんだ処女もいたもんですよ。……私の心臓に悪いので、勘弁してください」
「じゃあ、なんでそんな話降ったの?」
「鼻で嗤われることを期待してたんですよ……」
「ふふーんふ、じゃあ期待通り笑ってあげよう」
「そんな楽し気に笑われるなんて、想定してなかったんですけどね……」
ふらふらと、そろそろ人もまばらになった温泉街を歩きながら、私達はそんな言葉をぼんやり交わす。さすがに年明けの夜なので、浴衣の上に厚着をもこもこに着込んみながらで、ふらふらと街を歩いていく。
深想乃は落ち着いてはいるけれど、どことなく不機嫌な表情で私の後ろをふらふらとついてくる。まあ、私がこの子を振ってから、一緒に居る時、深想乃は大体こんな感じなんだけど。
この子の気兼ねない笑みも、明るい顔も一体いつ以来見ていないんだろうか。
それとも、もう私の前でそれを見せることはなくなってしまったのかな。
知り合いで深想乃の上司にあたる蔵内から送られてきた写真では、屈託のない笑顔を時々見せていると言うのに。
私の前ではもう決して、それは見せない。
まあ、仕方のない話だけどね。
この子の望みに、私は決して応えられないから。
からん、ころんと下駄の音を響かせながら、寒空の下を歩いていく。
温泉街の真ん中を通る川の音と、織りあうように、重なるように、下駄の音を紡ぎながら。
「病気は治んないんですか?」
深想乃は少し震えた声でそう聞いた。
「治んないね。体質みたいなもんだから、そもそも治るとかないんじゃないかなぁ」
期待してもらって悪いけど、決して私の特性が治るなんてことはあり得ない。多分、深想乃もそんなことわかってる。蟷螂に、交尾した相手を喰べてしまう習性は治りましたか? って聞くようなものなのだ。
息を長く吐くと、白い雲が口の端から漏れていく。
今だけはまるで、私がかみさまか何かになって、雲を口から生み出しているみたいだった。
「そーですか、まあ、そりゃそーですね」
明るい声はその奥の方でどことなく震えていた。
私は特に返事もせず、代わりに雲を生み出し続ける。
三歩ほど後ろから歩いてくる深想乃の顔はもちろん伺えない。
「というーか、まなかさん。万が一、病気が治ったら、私と旦那どっち取るんですか?」
恐らく、万が一ですらおこりえない、そんな他愛のない質問。
「さあ、そんなのその時になってみないと、わかんなくない?」
「……ま、確かに」
深想乃の顔は窺えない。
そう想って暗い空の上の雲を眺めたら、ふとここちゃんのことを思い出した。
精々一週間弱前に初めて出会った子。
でも、どん詰まりだった私と深想乃の関係に、初めて明確に何かを告げた子だった。
お互いが、お互いへの罪悪感で、足を止めていた私たちの。
背中をぽんと押した彼女のことを。
私は何となく想い出していた。
今までの私達なら、ここで話は終わる。途切れる。
そうして、何事もなかったように、いつものやり取りに戻っていく。
深想乃は想いに蓋をしたまま、私はそれに気づきながら無視したまま。
お互い、何も伝えないまま。
どこか胸の痛みだけを抱えながら、それぞれの日常に戻っていく。
それが私たちの当たり前。日常。閉ざされた、どん詰まりの関係の終着点。
その―――はず、だったんだけど。
ふと今まで、窺えなかった深想乃の顔が視界に映った。
……いや、窺えなかった、じゃないね。―――窺わなかったんだ。誰より私自身が。
この子の気持ちを直視することに私自身がどこか耐えられていなかったんだ。
そんな事を想いながら、そっと。
とても久しぶりに、それこそ何年ぶりかくらいに、私は深想乃の瞳を直視した。
突然、立ち止まって振り返った私に、深想乃はどことなく不思議そうな目を向けてくる。
改めて見ると、初めて会った時より、随分と健康そうな顔をしている。
年を取って、確実に小さな傷や跡が見られるようになったけど、どことなく穏やかさや寛容さが瞳の奥から滲みでている。そういえば、昔の深想乃は顔の皴なんて、誇張抜きでほとんど見当たらなかったんだけど。
今は少し目元と、口元に笑みを作るときの小さな跡が見えていた。
昔よりはそう、よく笑うようになった証だろうか。
いつか、まともに部屋から出られなかった彼女は、今立派にこの世の中で自分の足で生きて、笑っているんだ。
それをどことなく嬉しいと想ってしまうのは。
なんだろう、愛ゆえかな。なんて。
「……どーしたんですか、まなかさん?」
何も言わない私に、どこか戸惑ったような顔で、君はそう尋ねてくる。
だから―――私は。
「大人になったね、
そう言って、その頭をそっと撫でた。私より少し高い位置にある頭をそっと、小さな想いをゆっくり込めて。
「……は?」
戸惑う君を置いたまま。
「なんかさ、久しぶりにみそのの顔、ちゃんと見たよ」
それからそっと、その頭を胸に抱き留める。
「え、いや、ちょっと」
君の声は聞こえているけど、聞いてあげない。耳の奥までその声を、大事にするけど離してあげない。
「まあ、ずっと見てたけど。もしかしたら、ちょっと目を逸らしてのかなあ」
「説明を、えと、説明をお願い……します」
困惑する割には、離れていかない頭を、にやにやと見ながら、撫で続ける。
人の少ない街の中で、ひっそりと。
「いや、そういえばね、みそのが愛しい奴だと言うことを想いだしただけだよ」
寒空の下だけど、どことなく胸の奥は暖かいまま。
「……なんすか、それ」
胸の奥で君が呼吸する音を感じながら。
「ねえ、みそのちゃんと幸せになるんだよ?」
私は私の身体があるからさ、あなたの
それでもどうか、君への
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