三章 最初のようで最後のよう

第20話 恋した私と誰かを想うあなた

 嵐のような、まなかさんの襲来からはや二日ほど。


 すっかり風邪も治ったそんな頃。


 そろそろ大晦日も近くなって、私とみそのさんは二人で炬燵にくるまってテレビを眺めていた。


 テレビって言っても、映っているのは動画投稿サイトで、みそのさんが適当に面白そうな番組を流して笑っている。


 そういえば、大学生の頃に実家を出てから、年末の特番も見なくなって久しいな。長年見ていたお笑い番組もいつの間にかなくなっちゃったし。


 一人用の小さな炬燵に二人で足を突っ込んでごーろごろ。時々、みそのさんの笑い声を聞きながら、私はぼーっと時間を過ごしていた。


 なんだか気分的には……あれに似てる。


 おばあちゃんちで過ごすお正月みたいな。


 確かに、ここは私の部屋じゃなくて、それのせいで少しだけ落ち着かない気分にはなるんだけれど。


 それなのに、不思議な安心感と違和感のなさがそこにはあった。


 なんでだろう、この人とは確かに数日前に出会ったばかりなのに。


 そう想って私の隣でテレビを見ていたみそのさんを見ていたら、その顔が少し微笑んで寝転がっていた私を見降ろした。


 「加島ちゃん、どしたの? あ、おやつ、いる?」


 あなたはそう言ってころころ笑うと、そっと机に置いてあったチョコレートをそっと私の目の前にぶら下げてきた。


 「ありがとうございます……」


 そういう意図じゃなかったけど、断るのも悪いと想って、手を伸ばした。


 「ほい」


 みそのさんはそう言って、私の目の前でチョコレートを掠めると……そっと自分の口に運び込んだ。


 ……あれ?


 私の手は虚しく空を切ったまま、呆然と空中に伸びていて。


 餌を貰えると想ったら、取り上げられた動物みたいな姿勢で私は停止してしまう。


 「あはは、自分で取りなさーい。もう風邪は治ったでしょ?」


 みそのさんはそう言って、いたずらっぽく笑うと舌をちらっと出した。


 溶けたチョコレートが少し唇に絡みついていて、茶色くなったそれを舐めとるようにみそのさんの舌が口の中に戻っていく。


 …………。


 ああ。


 はあ。


 もう。


 私はゆっくりと身体を起こしながら、みそのさんをじっと見た。


 彼女は、能天気に私の気なんてしらないような顔で、視線はもうテレビの画面に戻っていた。



 そんな彼女の横顔を見ながら。



 頭の中で、まなかさんに告げた私自身の言葉が、ぐるぐると回っていた。


 世の中には、口に出して、初めて理解することっていうのがあるみたいで。


 私にとって、それが『恋』というものだった。


 それが何なのかはわからない。


 性欲?


 愛着?


 信頼?


 願望?


 それとももっと別の何かなのかな。


 名前を付けることはあまりにも難しいのに、それが私の胸のなかに確かに形を持って存在していることだけはよくわかる。


 今の私にはそれが全てなんだ。


 みそのさんの些細な言葉が、何気ないやり取りが、確かな幸せを私にもたらしている。


 ここにいるだけで幸せ。


 ちょっと意地悪されても、それが嫌悪でないことが解っているから。


 たったそれだけで幸せになる。


 そんなことをただ実感する。


 恋を教えて頼んでは見たけれど。


 結局、何かを教えてもらっているわけじゃない。


 でも自分の気持ちは不思議と明確になっていく。


 口に出したことでそれはより一層、明確に形を持って。


 私はみそのさんが好きだ。


 深い想いをもつこの人が好きだ。


 好きな人を想う、この人の表情が、声が、瞳が好きだ。


 もっとも、その想いは私に向けられているわけではないけれど。


 それでも―――この人が好きだ。


 そんなことをただただ実感した、数日間だった。


 そして、あと十数日。


 この人と一緒に暮らすことができるんだ。


 たとえ、これがいずれお試し期間が終わって、遠ざかってしまうような関係だとしても。


 それだけで、夢のような時間なのだと想う。


 だから、きっと、そう。


 後悔のないように過ごさなきゃ。


 あれをすればよかった、これをすればよかった。


 なんて、終わったときに想ってしまわないように。


 この人との想い出を、この一か月の想い出を胸に。残りの一生大事に持って歩けるくらいには。


 この幸せなひと時を精一杯噛みしめないと。

 

 だから私はごそごそと身体を丸めると、炬燵の中に潜ったまま、みそのさんの太ももに頭を載せた。


 細く柔らかい足の感覚が髪の毛越しに伝わってくる。部屋着のズボンのふわりとした感覚と、確かな体温も合わせて、たしかに今、この身体が感じてる。


 炬燵の内側を向いて身体を丸めたから、テレビの画面は見えなくて音だけが聞こえてくるばかり。


 視界にあるのは炬燵の布団と、少し首を回して見えるみそのさんの顔だけ。


 「どしたの? 加島ちゃん。眠くなった?」


 あなたは気楽にころころと笑う。


 私の恋を、気持ちを知ったうえで、それを受容れて優しく笑う。


 そう、今、私に向けられているのはただの優しさ。恋でも愛でもありはしない。


 だってこの人の心はもう、まなかさんのものだから。


 でも、それでもいいと。受け入れたのは私だから。


 「はい、ちょっと眠ってていいですか?」


 そう言葉にすると、まるでそれがスイッチだったみたいに、眠気が瞼を閉じてくれる。


 暗い視界の中で、肩を柔らかく撫でられる感覚があった。


 優しく、慈しみに富んだ、そんな手つきで。


 私は恋をするあなたの膝の上で眠りに落ちる。


 想い出すのは本当に子どもの頃の小さな記憶。


 何の心配もなく、何の懊悩もなく、ただ親の膝元で眠りに落ちていた頃の記憶。


 ただただ、本当にただ幸せな―――そんな記憶。


 そうやって、私はじっと今を感じていた。


 眠りに落ちるただこの一瞬でさえ、決して忘れないように。


 後悔など一欠片だってないように。


 言葉にならない心の波の一つでさえ、感じ損ねてしまわないように。


 心にざわめく静かな波たちが、曖昧な音の中で確かに教えてくれているから。


 きっと、これが私の人生で初めての恋なのだと。


 そして、これが私の生涯で最後の恋なのだと。


 だから、一つだって、一秒だってなくさないように。


 眼を閉じながら私はぎゅっと手のひらを握りしめた。

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