第11話 暇を持て余す私と無理をしていたあなた—②
さあ、どうでしょう……、と返しかけたところで、ガチャンと音がした。
丁度、噂をしていた加島さんが部屋から出てきたところだった。両手一杯に書類を抱えて、見るからに慌てた様子で。
非常階段の隅にいる私達にはもちろん、気付く様子などどこにもない。
よっぽど慌てているのだろう、足取りもどこかおぼつかないし、目線もどこか胡乱であぶなかっしいというか―――「「あ」」
その様子に、私と部長が、同時に声を上げた。
多量の書類を抱えた加島さんが、思いっきりごてんとつまずいていた。
ほぼ、何もない場所だったはずだけれど、随分と景気よく転んだものだ。
抱えていた書類は案の定、バラバラに零れて床に散らばる。
あちゃー、っと背後で部長が声を上げて、私は思わず額に手を当てて息を吐いた。
仕方ないと部長と二人で肩をすくめると、私達は非常階段から出て加島さんの所に歩み寄った。
「あ、加島ちゃん、おっはよー」
「おはようさーん」
二人して何気ないフリをして、加島さんの背後から現れて、それとなく書類を拾い始める。なにしてんのーなんて言ったら自責感に押しつぶされそうな子だからなあ、何気ない感じで当たり前のことみたいに拾い始めるのが無難だろう。
散らばった書類を見て、特に順不同なのを確認してから、私は適当に拾い集め始める。
五十枚くらいの束を集め終わって、加島さんに手渡そうとしたところではてと違和感に気が付く。
加島さんはぼーっとした顔で私を視ていた。
どこか虚ろなような、焦点が合っていない感じで。……というか顔が赤いような。
最初は私と眼があって照れているのかと想ったけど、どうにもそういう感じじゃない。
若干、不可思議に想いながらぽんと彼女の手の上に書類を乗せる。
加島さんはそれをぼーっと眺めると、
「うぇ……ひぐ……っ」
泣きだした。
ええ……。
「ちょ、待って。私、何かした?」
大慌てで彼女の肩を掴んで尋ねてみるけれど、いまいち反応が帰ってこない。私を視ているようで見ていないと言うか、見れていないと言うか。
もしかして、恋は不治の病なんていうが、本当に泣くほどの気持ちでも抱えていたのか……なんて考えたところで、はてと気が付く。
彼女の髪を掻き分けて、そっと額に手を当てる。
なんというか、案の定。
「加島ちゃん……熱あるでしょ」
「お? まじか?」
額には確かに、少し暖かいお湯で濡らしたようなそんな感触が残っていた。
そりゃあ、足取りもおぼつかないわけだ。今日の寝起きが悪かったのも、シンプルに体調を崩していたからだろう。うーん、やっぱりちゃんとした布団で寝かせてあげるべきだったか。
私の問いに、加島さんは少しばかり首を傾げた後、ふるふると首を振った。
「まだ……仕事終わってないんです。これも今日中に会社全体に配んないと……」
なんか微妙に受け答えが噛み合っていない。ぼーっとして頭が回っていないのは明白だった。
「いや、しんどい時はちゃんと休まないとダメだかんね」
「でも……あの……もう年末だし」
「そんなの関係ないよ。だって、ここで無理して身体壊したらそれどころじゃないよ? 年末年始寝込んで過ごしたくないでしょ?」
「でも……私の仕事が……遅いのが……悪い……ので」
「……仮にそうだとしても、休むときはちゃんと休まないと余計仕事出来なくなっちゃうよ?」
「う……あ……すいま……せん」
話しているうちに、あ、やばいと直感が告げてきた。どう考えても、新人のかしまさんにそこまで頭は回らないし、今の体調でそれを受容れるだけの余裕はない。
案の定、数秒後に加島さんの涙腺は決壊して、ぼろぼろと涙が零れ始める。
思わずため息がはあとこぼれた。
なんというか心が弱い子だ。あれだけ数日前に私に押しが強かった加島さんはどこに行ってしまったのか。
…………いや、逆か。もともと弱かった子が恋に背中を押されて、あれほどに強くなったのだ。私に対して想いを告げて、恋を教えてと言い寄るくらいには。
なんにしても、ここでほっとくのはいささか目覚めが悪すぎる。
そうして、いくら口で説得しても彼女は納得しないだろう。
つまり、ここをどうにかする方法はたった一つ。
「ぶちょー」
「なに?」
「一つばかり提案が」
「ういうい、言ってみ?」
振り返ると、部長はどことなくニヤニヤしながら私たちを見ていた。ちゃっかりと残りの書類は全部拾い終わっていた。
「私が代わりに仕事やるんで、加島ちゃんを帰すことってできますかね?」
つまり―――彼女の、仕事を物理的になくしてやるしかない。
そうすれば、彼女は心置きなく……とまではいかなくても、少なくともゆっくりと休むことができる。
と、想ったのだが。
「いや、難しいだろなあ」
部長はどことなくニヤニヤしながら、そう告げてきた。
「部署間でそう簡単に仕事は振れないし、ある程度勝手が分かってないと肩代わりもできない。そんな柴咲さん『一人』に仕事を教えるのも手間だろうから、結果的に仕事が回りにくくなるかもしれない」
『一人』を強調してそこまで告げたあと、部長はニヤニヤとしたまま加島さんの持っていた書類を拾い上げた。加島さんはぼーっとしたまま、自分の手からなくなった書類をぼんやりと眺めていた。
私は無言でかしまさんの肩を抱くと、それとなく立たせる。更衣室は多分、私と使ってるとこおんなじだよなあ、なんて考えながら。
「つーわけで、『部署全体』で手伝ったら、加島さん一人分くらいにはなるだろ」
こういう時、部長はわざともったいぶった言い方をする。
「らじゃー。じゃあ、この子とりあえず会社の外まで、帰してきますね」
「いや、柴咲さんもそのまま半休使ってくれ? 加島さんの家わかって、手空いてるの君くらいだから」
「……おおう、りょーかいです、送ってきますわ」
「つーか、なんなら明日も休む? 有給届だしとくぜ?」
「そうですねえ……。うん、そーしていただけると、ありがたいです」
軽く加島さんを見ても、顔には露骨に疲弊が刻まれているし、いまいち意識もぼんやりとした感じのままだ。
この調子じゃ、一日休んだところで回復しなさそうだし。
明日も休んで、そのまま流れで年末休暇に移行した方がいいだろう。私もついでに、早めの年末休暇に入れるわけだし。
しかし、なんか、想っていたより随分と、願ったり叶ったりの状況だった。……というか、私、加島さんの家まで行ったなんて部長に言ったっけな。
なんて首を傾げたところで、部長は意味深な笑みでこっちを見ていた。
うーん、もしかしなくてもカマかけられたかな。
…………まあ、いいか。今は。
軽く息を吐いて、私は部長と一緒に総務部のドアをバーンと開けた。小脇にいまいち状況を飲み込めないまま、風邪で顔を赤くしている加島さんの細身を抱えて。
開け放たれた総務部はどことなくぴりぴりとした雰囲気で、私達が来たのを見てみんな一様に眉をひそめた。でもそんなの無視したまま、部長と私は奥の総務部長の席までのしのしと歩く。
「総務部長、お疲れ様です。たまたま、そこの彼女に聞いたんですが、今、総務部滅茶苦茶忙しそうですよね。なんか、うちでも手伝える単純作業とかありません? 会社全体に書類配るとか。スケジュール調整ミスっちゃって、今日と明日、うちの部署でやれる仕事がなくなっちゃって」
そうして、何かを問われる前に部長は一方的に用件だけを告げていく。
最初はなんだなんだといぶかしんでいた、総務部の人たちはしばらく呆けたような表情をした。でも、やがて言葉の意味を理解すると、ぱぁっと顔を明るくした。
特に、ハゲ頭の総務部長は目一杯眼を輝かせていた。
「ほ、ほんとか? ある、ある山ほどあるんだ。うちの新人じゃ手が回らなくてな、助かる! 紙媒体で配布する奴とか、終わった社内イベントの備品の撤去とか」
「お、マジですか。助かりますー。じゃ、うちの部署の人間ちょっと呼んできますね」
部署全体がどことなく活気だつ、なんならもう既に、どの仕事をやってもらおうと慌てて整理をし始めている人までいる。
うん、ちょうどいい感じだろう。今なら、加島さんのことも注目されづらい。
「あ、すいません。部長さん」
「ん? どうした?」
「この、加島さん。休ませてあげてもいいですか? 結構体調悪いみたいで、さっき廊下で倒れかけちゃってたんですー」
部長さんは少しばかり驚いた表情をした後、加島さんを見た。
「加島……体調悪かったのか? そういうのは、ちゃんと報告しろよ?」
「え……あ……は……はい」
「なんか長引きそうなので、明日も休んだ方がいいかもねー」
「大丈夫だろ、明日もうちが手伝うし……ね? 総務部長さん」
「あ、ああ。大丈夫だ。もう休んでくれていいぞ、おつかれだったな」
総務部長さんはどことなく機嫌をよくしながら、加島さんに手をひらひらと振った。加島さんはその様子を赤ら顔のまま、どことなく信じられないものを見るような眼で見ていた。
「というわけで、加島さん送ってきまーす。よいお年をー」
「ああ、よいお年をー。で、じゃあここの書類配布と回収ですね。あ、ここらへんお整理も手伝えますよ」
「おお、すまん。助かる……ああ、よいお年を」
私の挨拶に、二人の部長と、部署の何人かが返事をするのを確認しながら、私はそそくさと加島さんを連れて部署から撤退した。
どことなく焦点の合わない彼女を連れて、こっそりと様子を見に来ていたうちの部署員たちに手を振りながら。
いたずらが成功した子どもみたいな胸の内を抱えながら、加島さん手を引いて会社を後にした。
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