第7話 まだ何も知らない私と何かを知っているあなた—②

 同棲って言うのは、割と相手の嫌な部分も良い部分もがっつり見える、見えてしまう。


 だから、結構覚悟のいるものだと私は想うわけだ。


 実際、いざ同棲して相手の嫌な部分が鮮明に見えて嫌になった、なんて知り合いはざらにいるし。


 どうも、得てしてそこで夢が覚めてしまうみたいだ。それまで都合のいい夢ばかりを着せていた相手が、実は生身の生きた人間だってことに、そこまで来てようやく気が付く。


 ともすれば当たり前なそんな罠に、恋に眼が塞がっている人間は驚くくらい、簡単にハマるものみたいだ。


 だから、正直、この話は、そう言うところも踏まえて、わざとした。


 初めての恋に溺れた女の子の前に、あえて現実的な壁を用意してみる。


 荷物を詰めて、生活圏を変えて、日常を変えて、ルーティンを変える。そういう必要をあえて渡す。


 環境の変化は、人間が一番苦手としているものだ。ああやって、多感な子は特にそうで。


 たくさん感じてたくさん考える分、そういう変化に酷く弱い。


 そして私はそんなこと、重々わかってる。


 私がそうで、まなかさんがそうだったのだから。


 ……そーいえば、ルームシェア始めた当初は結構、色々揉めたっけ。


 いや、鬱憤が溜まって小さな喧嘩をよくしたっけ。落ち着いたのは数か月もたったころだったっけなあ。


 まあ、私の場合は、恋に堕ちたのはその後だったわけだけど。


 そういう障害を乗り越えた後だったから、余計、堕ち方がひどかった節はあるねえ。と今更ながら、自分の恋の反省でもやってみる。


 ……さあ、あの子の恋はいつ覚めるかな。


 ……まあ、そんなのわからないか。あの子にだって、私にだって、誰にだって。


 他の誰でもない自分の心が、人間は一番よくわかっていないんだから。






 ※





 正直なところ、しばらくぼーっとしてしまった。


 でも、ふと我に返って、ようやく私は状況を飲み込んだ。


 同棲、一緒に住む、昨日であったばかりの人と、私が初めて何かの想いを抱いた人とーーー。


 同じ屋根の下で暮らす。


 それは、どれほど夢のようなことだろう。


 それは、どれだけ不安なことだろう。


 期限は一か月。でもこの想いはたったの一日で目覚めたのもので。


 もしかしたら、一日だけで覚めてしまうかもしれない。


 明日になったら、この気持ちさえ忘れてて、高鳴った胸も静まって、何もかも元通りの私になっているのかもしれない。


 そう想うと、ちょっとだけ怖かった。


 親に彼氏とかいないの? と聞かれるたび。


 上司や先輩に恋人がいないのか? と尋ねられるたび。


 友人たちが、色恋沙汰の愚痴やのろけを言うたびに。


 ずっと、心の奥でよくわからない劣等感みたいなものを抱えて生きてきたんだ。


 まるで、私だけが、皆が当たり前にその心を持っているのに、私だけが不出来で何か欠けているみたいな。


 みんな同じパーツを持って生まれてきたのに、私だけが一つ歯車が足りていない。


 大事な大事なパーツが、胸の奥にはまっているはずのそれが、すっかり抜け落ちてるみたいな。


 そんな感覚をずっとずっと味わってきた。


 自分は間違えてるんじゃない、自分はおかしいんじゃないか、自分は欠陥品なんじゃないかって、そんな風にずっと想ってきた。


 でも、そんな私でも昨日はまるで何も欠けたところのない私みたいでいられた。


 当たり前に人を好きになって、当たり前に自分を認めて。


 当たり前に、みそのさんの隣にいたいと想えた。


 そんな気持ちをようやく持ててた。



 ーーーだから、嫌だよ。



 あんな自分に、もう戻りたくはないよ。


 この想いを、どれだけ人より遅くても、やっと目覚めたこの想いを。


 一日限りの夢にだなんてしたくない。


 昨日の夜、みそのさんと喋っているとき、みそのさんが想い人のーーーまなかさんっと電話をしているときにそう想ったから。


 この人なら、私の欠けた部分になってくれるのかもしれないって。


 この人の隣にいたら、私はちゃんとした誰かでいられる。


 そう想えたから。


 だから、私はみそのさんへの想いを貫かなきゃいけないんだ。


 同棲くらいでびびってる場合じゃないよ。


 震えかけた手に、ぐっと力を溜めこんだ。


 不安な自分の心をぎゅっと握りしめて、まだちょっと高鳴る胸をそっと抱きしめた。


 さあ、動こう。


 とりあえず、何しなきゃいけないかな。


 着替えと、生活用品、化粧道具もいる、……えーと、リュック一つで入るかな。段ボールで送っていいっていってったっけ。でも、手で持っていった方が早いかな。



 心臓がずっと早鐘を打っている。



 止まらない、止まれない。



 まだこの夢は覚めるわけにはいかないんだ。



 初めて手にした私の恋はまだ手放すわけにはいかないんだ。



 戸棚から引っ張ってきた出張用のカバンに、無心で必要な服を詰めていく。ああ、もう、冬場だからどうしてもかさ高い。



 でもでも、煩わしいけど、焦っているけど、そうだとしても。



 この想いは、この感情は手放すわけにはいかないんだ。


 ちょっとだけ泣きそうになりながら、私は旅立つ準備を始めた。








 ※








 インターホンに誘われて、私は玄関のドアを開けた。まだ風呂上がりで髪も半乾き、長いすると冷えるなんて考えながら。


 そうして、ドアを開けて思わず口をぽっかりと開けてしまった。


 そこには、加島さんが立っていた。登山にでも行くのかってくらい、もっこもっこに着込んで、さらに大きなリュックサックを背負った姿で


 「……いや早くない?」


 「え、あ、すいません!! いてもたってもいられなかったって言うか! あ、今日じゃないほうがよかったですか?!」


 まだ加島さんの家から帰った当日で、夜も九時くらいのことだった。


 早ければ明日、準備に時間のかかる子なら年末に差し掛かってからかなあ、なんて考えていたのだけど。


 まさか、当日来るとは……予想の斜め上もいいところだなあ。


 「うーん、大丈夫……っていいたいとこだけど、ベッドの用意ができてないんだよねえ」


 「ベッド……ですか?」


 「そ、寝るとこ。今日みたいに、二人で一つのベッドだと肩凝るでしょ? スペースもたんないしね……ま、いっかベッドしまって布団ひこう」


 「……あ、はい。すいません、お手数かけて」


 「いやいや気にしなくていいよ。ま、何はともあれいらっしゃい」


 そのままだと冷えるし。ちょっと一歩引いて、加島さんをそっと迎え入れる。


 すると、加島さんは少し呆けたようにした後に、おずおずと玄関から入ってきた。何だろう、勢いはあるんだけど、今朝よりどことなく怯えているというか、なんともちぐはぐな感じのする様子だった。


 それとも、恋をしていた時の私は、端から見たらこういう風に見えてたのかなあ。まあ、ただの加島さんの個性かもしんないけど。


 とりあえず、私は玄関から、リビングまで歩いていく。そこまで広くないけれど一人暮らしにしては、まあ大きい方の部屋だから。二週間、同居人を預かるくらいはできるだろう。掃除も今日の昼に済ませたしね。


 リビングについて軽く伸びをしながら、後ろを振り返ると、加島さんがおっかなびっくり私の後をついてきた。


 風呂上りで寝間着の私とは対照的に、加島さんは未だもこもこのジャンパーの中だ。そのギャップがどうしてか少し、面白い。本当に登山用の服か何かなんじゃなかろうか。山に登る趣味でもあるのかな。


 私は軽く笑って、歓迎の意を込めて適当に両手を広げて見せた。


 「というわけで、いらっしゃーい。柴咲みそのズハウスだよ。間取り的には1Lっていうのかな。ま、そんなに大きくないけど適当にくつろいじゃって」


 「あ、えと、はい」


 加島さんは相変わらずどことなく、おずおずと頷いた。


 その様子が、初めての場所に怯える猫か何かみたいに見えて、ちょっとだけおかしい。


 「とりあえず、荷物おこっか。奥の部屋のカラーボックスいくつか開けといたから、服はそこに入れてね、かばんもカラーボックスの隣に置いといて。生理用品とか、必要なものあったら何でも言ってね」


 「はい……はい……」


 「あとは、何だろ。お風呂入った? ご飯食べた?」


 「い……え……と、あの」


 「……入ってないし、食べてないでしょ。おっけ、ちょっと準備するから、待ってて」


 「あ、はい、えと、あの、すいません」


 私がとりあえず、必要そうなことを捲し立てると、加島さんは相変わらず困ったようにおろおろとしだした。


 私はそんな彼女に、軽く笑いかける。


 「謝んなくていいよ。っていうか、今日、無茶ぶりしてるの私の方なんだから。ほら、さっさとカバン置いておいで。ごはん温めとくから、カレーとか苦手じゃない?」


 「あ、はい、好きです」


 「そ、何より」


 「じゃ、え……と、荷物置いてきます」


 「うん、いってらっしゃい」


 そう言って、部屋の奥に向かっていく彼女を私は軽く見送った。


 それから、今日の残りのカレーと、冷ご飯を出して電子レンジに突っ込んでおく。


 お風呂も栓を入れ直して、お湯を溜めておく。ご飯を食べ終わるころには、いい感じに入れるだろう。


 そうやって風呂場から戻ったら、部屋の奥からだいぶ体積の減った加島さんがこっちに戻ってきていた。さっきまで、どれだけ体格にあわない上着を着ていたのかがよくわかって、思わず微笑んでしまう


 「あ、ありがとう、ございました」


 「はいはい、ん、ちょうどご飯もできたや」


 電子レンジが仕事が終わったぞと言ってくるのを聞きながら、私はそっと食卓に温め直したカレーを置いた。


 加島さんは相変わらずどことなくそわそわしながら、食卓に着いて私の顔を窺うようにしながらそっと手を合わせた。


 それから、カチャカチャと小さな音を立てながら、カレーを口に運んでいく。


 「美味しい?」


 「はい……美味しいです」


 「そ、よかった」


 「…………」


 言葉は昨日、一緒に飲んでいた時ほど、流暢には続かない。


 むしろ、どことなく気まずいような、そんな沈黙が流れていた。


 私はそんな彼女の様子を肘をつきながら、黙って見守った。


 多分、何か気持ちを抱えているんだろうなあっていうのは、なんとなくわかった。


 なんというんだろう、空気感というか、息が詰まるような感じというか。


 理由を想像するのは多分、容易い。


 初恋の不安とか、同棲に対する緊張とか、こうして突発的な行動を起こしていることへの罪悪感とか。


 昔の私が考えていたものを想像すれば、その胸の内は透けて見えるみたいだった。


 恋は勢いは馬鹿みたいにあるけれど、その間不安がないなんてことはない。


 不安があるけれど、進まざる終えないのだ。気持ちが背中を押して止まってなんてくれないのだ。だから、気持ちがちぐはぐなまま、行動だけが先走って、進み続ける。


 ああ、私もそんな風に悩んだよと、理解も共感も、やろうと想えばしめしてあげることはできるんだけど。


 ……それをやられて、私、まなかさんに惚れちゃったからなあ。


 今、彼女の好感度を無駄に上げることは避けたいような気がするし。気持ちを認めるとは言ったけれど、まあ、どう考えても私以外に惚れた方がこの子のためでしょ。


 ……あー、どうしよっかなー。


 なんて、考えていた時だった。



 「…………っぐ……ぅえ」



 突然、加島さんが泣きだしていた。カレー食いながら。


 「………………どしたの?」


 おおう、感情の決壊早くない? と思わず、苦笑いしてしまう。ただすぐに笑みをひっこめて、それ以上、笑わないように気を付けながら言葉を繋ぐ。


 「すいま……せん、なんか不安になっちゃって……今日、すぐきてよかったのかなあって、迷惑でした? あと、やっぱり昨日の夜のこと、本当は怒ってないのかな、とか……えと、なんか頭がぐるぐるしちゃって……」


 あー……はいはい、そうなるよねえ。


 ……なっちゃうんだよねえ。


 ままならないよね、私だってそうだった。


 ああ。ああ……。あー………………。


 逡巡の果てに、私は腕をそっと伸ばすと、加島さんの頭にぽんと乗せた。


 それだけで、加島さんの涙がじんわりと大粒に溜まっていく。まるで、ダムが壊れる最後のスイッチを私の手で押したみたいだ。


 「だーいじょうぶ、気にしなくていいよ。だーいじょうぶだから、加島ちゃん、なんも悪くないし。今日来たのはびっくりしたけど、私も急に言い出して、意地悪だったしさ。ごめんね。だから大丈夫、大丈夫だよ。加島ちゃんなんも悪くない」


 そうしたら、加島さんの涙はぼろぼろと堰き止めが効かなくなってきた。机がなければそのまま勢いで私に抱き着いてきそうだ。


 少しだけ微妙な眼の合わせづらさを感じながら、私はふうと息を吐く。


 「ほら、食べちゃお。お風呂も沸いてるからさ」


 「はい……ふぁい」


 最後はなんだか、子どもをあやしているみたいになった。彼女は涙混じりにカレーを食べきると、丁寧にごちそうさまをした。それから、まだ濡れた頬を引きずりながら、お風呂場へと向かっていった。


 私はその背中を見送って、彼女が風呂場に入ったのを音で確認してから、軽くため息を天井に向かってついていた。


 「なーにやってんだかな、我ながら」


 解ってったのに、好感度稼ぐような真似してどーする。いや、そーいうの関係なく、あそこでほっとくのも気が引けるしねえ。


 ……はあ、まなかさんが聞いたら笑ってくれるだろうか。


 洗い物に席を立ちながら、そんなことをぼんやりと考えた。

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