第5話 思い出した私と恋に不安なあなた

 「ーーーというわけです、思い出せました?」


 「ーーーうん、そう、そうだね。……言ってたね、そんなこと」


 にっこりと笑いかけてくる、彼女ーーー加島 ここねを見ながら、私は果てしなく遠くを見た。


 どれだけ頑張っても、質素な部屋の壁しか見えないが、気分的には遥か彼方の山脈でも眺めていたい気分だった。今、心だけはマサイ族でいたい。


 いっそ記憶が脳の海馬ごと破壊されていれば楽だったろうに。検索すれば、おぼろげながら彼女が告げたやり取りに覚えがあった。


 天を仰いだ。別に特定の宗教など信じていないけれど、今だけは救けてかみさま。


 「あー、よかったです。折角、名前も教え合って、約束もしたんですから。忘れたままじゃ、ちょっと切なかったです」


 ここねーーー、いや、加島さんはそういって心底、安心したように胸をなでおろした。対照的に、私の胸には気まずさが延々と満ちていく。


 いや、ほんと、死にたい。というか殺してくれ。誰か、今すぐ私をこの場から抹消してくれ。


 まずもって、何を切ない話みたいに、まなかさんのことをべらべらと喋っているのか。はっきり言って恥部なんだけど、あの話。基本、私のみっともなさ100%の純正品なんだから、そんなせつねえ顔する要素は一ミリもないのである。勝手に片想いこじらせて、勝手にひきずっているだけだしねえ。まなかさんが天使だから、まだ私と関係を継続してくれているけれど。まあそんじょそこらの人だったら、秒で縁を切られて、SNSもブロックされて、以降生涯にわたって軽蔑の視線で見られても何も文句が言えないのである。あ、だめだ、余計死にたくなってきた。


 加えてなんだ、何をあどけない後輩に向かって、恋の説教垂れてやがる。私のどこに恋について語れる要素があった。というか、世の中には恋を普通に成就させて、幸せに暮らしている人なんて山ほどいるのである。私みたいな負け犬が恋について意見を言うのなんて、小学校で野球を挫折した少年がおっさんになってから、プロの試合に文句を垂れるくらいみっともないのである。で、何、それであまつさえ『教えてあげる』だ。思い上がりも大概にしろというか、よくその遍歴でそんなこと宣えたなと。あれか、酒のせいか、酒のせいってことにしといてくれ。でも酒って、要するに本性を引き出す代物なので、つまり私は本性からどうしようもないことが明らかになったわけであって。言い訳の余地もないので、よし死のうか。


 というわけで、脳内の裁判官が満場一致で死刑を選択してきたが、被告人たる当の私もそれには納得。上告申請も心から遠慮するレベルなので、これでもはやお役目ごめん。儚く短くしょうもない人生だったが、最期にまなかさんの私服を嗅げないのだけが心残り。



 ーーーで、終われたらいいんだけどねえ。



 私の目の前にはどことなく期待に眼を輝かせる後輩が一人。


 当然、脳内でいくら死刑判決が下ろうが、私の脳も心臓も今日も元気に営業中だ。少々頭痛がすることを除けばだけど。


 この場面をどうにか乗り切らないといけないわけで。


 とりあえず、あれだ。断ろう。


 酔ってて適当なこと言ったけど、忘れて、ごめんって言って。断っちゃおう。


 そう傷が浅いうちに、まだちょっとやらかした先輩で済むうちに。


 恋を教えるなんて言って、ごめんね。私、教えられるようなことなんて、なーんにもなーい、って。



 「ーーー本当によかった。……こんな気持ち初めてなんです。恋を知らないことをちゃんとわかってくれたのも、みそのさんが初めてで。こんな想いにしてくれたのもみそのさんが初めてなんです!」



 そう言って加島さんは酷く眩い笑顔で私を爛々と照らしてきた。こちらとら、ゾンビみたいなものなので、そんな太陽光みたいな表情をぶつけられたらもれなく死ぬのである。うーうー火を上げながら苦しむことになるのである。


 ……というか、ほんとそういう目で見ないで欲しい。断りにくくなるでしょうが。


 私は思わず俯いて軽く嘆息を吐いた。


 さて、なんて言ったら諦めてくれるのか。どうすれば、彼女を傷つけずに終わらせることができるのか。


 ……傷つけずに?


 私が傷つかない、の間違いだろうが。


 彼女から嫌われることが嫌なだけだろうが。


 相変わらず、みっともない。


 いい加減、自己嫌悪になってきたので、俯くのをやめて顔を上げた。




 ただ、そうして目に入った加島さんの顔はどことなく不安げなものになっていた。




 ……さっきまでの勢いは一体どこにいったというんだろう。


 「あの……やっぱりご迷惑でしたか?」


 そう言って彼女は私の表情を窺うように首を傾げた。


 ……まるでうぶな少女が想い人の心にいちいち反応してしまうみたいに。


 ……いや、まるでじゃないんだよなあ。まさにそれその通りなわけで。少女って言うのは、少し大人扱いしてないから失礼なんだろうけど。


 「まあ、正直ちょっと困惑してる。私も酔ってたからさ、まなかさんのことも、普段だったら絶対他人に言わないことだしさ」


 私がそう言うと、加島さんは少し申し訳なさそうに肩を縮めた。


 「です……よね、すいません。浮かれちゃって」


 それにしても、初めて感じた恋のつぼみ……ねえ。


 そういえば、私の時はどんなのだったっけ。


 まなかさんへの想いを初めて自覚したときは、どんな感じだったっけ。


 たしか、自分の想いを何一つだって、疑ってはいなかったような。


 それで、なんだか何でもできるような気がして、たくさんアプローチしたんだっけ。


 その癖、まなかさんが体調が悪かったりしたら、それだけで不安になって、心細くなって、泣いちゃったりした時もあったっけ。


 言葉の一つで一喜一憂して、まるで自分と相手が世界の中心にでもなったみたいで。


 まあ、そこで愛を叫ぶことは結局叶わなかったわけだけど。


 そうして、そこで叫び損ねたからこそ、想いはずっと残ってしまったわけで。


 「…………」


 軽くため息をついた。


 それから、私は、多分初めて加島さんを、加島ここねをじっと見つめた。


 加島ここね。今年入ったばかりの新卒の他部署の子、昨日、私と出会って恋を知らないことを告げて、そんなことをちゃんと言えたのは初めてだったと喜んだ子。そして、そうして初めて受け容れられたことを、私との出会いをとてもとても喜んでくれた、そんな後輩。


 まるでいつかの、恋を知ったばかりのバカみたいな私にそっくり。まあ、私よりかは幾分か魅力的で、ちゃんと相手を選べば失敗などしなさそうだけど。


 ただ、そうやってこれは違うと、冷静に割り切れるのなら、私もここまで引きずってなどいないわけでさ。


 人の心というのはあまりにもままならなくて、私は思わず二度目のため息をついた。


 そんな私を、加島ここねは、じっと不安そうに見つめていた。


 それにしても、我ながら、優柔不断なのはあんまりよくないとこだと想う。ただ同時に、性格をそう簡単に変えれるなら、誰も苦労なんてしていないとも想う。


 そう、そんな簡単に変われたら苦労なんてしてないんだよなあ……。


 三度目のため息をついた。



 「正直、私も困惑してる……だから、ちょっとだけ様子見させて」



 「……え?」



 「えーと……一か月、とりあえず一か月かなあ。ここ……君のしたいようにしていいから。それでもまだ恋が知りたいか、試してみて?」



 「……一か月ですか?」



 「……うん。昨日も言ったけどさ、恋って期間限定で、冷めるときは割とぱって冷めちゃうんだよ。君はまだ、それがどういう気持ちなのかもわかってないから。だから、一か月たったら、その時の答えを出して。気持ちが冷めたら冷めたでいいし、それでもまだ続いてたら、その時は……また考えよ」


 頭を掻きながら、盛大に悩みながら、私はそこまでどうにか言い切った。


 我ながら、先延ばしもいいところな結論なわけだけど。どちみち、急いで何か結論を出せるほど、私達はまだお互いのことをまったくもって知らないわけで。だって、この子が私に向けている感情の正体も、ともすればそもそも私に向いているのかどうかさえわからないんだから。ただ恋に恋してるだけって可能性も大いにある。


 だから、ここら辺がとりあえずの落としどころじゃなかろうか。


 煮え切らない返答だから、呆れられても仕方がないと想うけど。




 「……いいんですか?」



 ただ、彼女の表情的にその心配はなさそうだった。


 加島ここねをどことなく呆けた表情のまま、私をじっと見つめていた。信じられない物でもみるように。


 まるで子どもが、長年、叶う筈がないと想っていた夢がとうとう叶ったみたいな顔をして。


 彼女はぼーっと私を見ていた。



 



 涙が滲みそうな顔をして、私の薄い胸に向かって溢れんばかりに抱き着いてくる。


 なんでって想ったけど、初めての恋に振り回されてる時はそんなもんだっけと思い直した。


 「うぇ……っ……ありっ……が……ます」


 そうして、何か言おうとしているけれど、上手く言葉にできない後輩の頭を撫でながら、私はやれやれと息を吐いた。


 あー、こんなんでいいのかなあ。まなかさんに聞かれたら、なんて笑われることだろう。


 くしくしと柔らかい髪の間をなでながら、私はそんなことを考えた。


 ただ久しぶりに抱きしめる女の子の身体は柔らかくて、まあいっかと想ってしまうあたり、やっぱり私はどうしようもないかもしれない。

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