第4話 恋を知らない私と覚えていないあなたー②

 『もう叶わない片想い』


 当たり前だけど、私は恋をしたことがないから、片想いの気持ちはわからない。


 それは―――。


 暖かいものですか。冷たいものですか。


 優しいものですか。寂しいものですか。


 それは綺麗なものですか。それとも―――。


 私にその想いはわかりません。わかりませんけど。


 知ってみたいと想うのは、何かおかしいことですか。


 電話を終えたみそのさんの瞳は相変わらずトロンとしていて、焦点も曖昧で、電話が切れたと同時に糸が切れたみたいに頭をこてんと下に向けていた。


 私のベッドに腰掛けたまま、少し無言になって下を向いたまま。


 そんなあなたに、私は好奇心のままに声をかける。


 『柴咲さんは、今の人―――まなかさんでしたっけ、……のことが好きだったんですか?』


 『……うん、いや、ううん。……今も好きだよ』


 きっと、いまこの人はとても酔っていて、きっと普段は言わないようなことも言ってしまうんじゃないのかな。


 『でも、叶わないんですか?』


 『うん……まなかさん、もう結婚してるからね』


 それに乗じて、こんなことを聞いてしまうのは。家の主が留守にしているからといって、勝手に家に入ってしまうようなことなのかもしれない。


 『でも、まだ、好きなんですか? 叶わないのに』


 『そう、……それでもね、好きって気持ちがなくならいの。恋なんてもうとっくに冷めたのに。……困ったもんでしょ?』


 それどころか、その人が大切に大切にしている宝物を勝手に盗み見てしまうようなことだったりするのかも。


 『どうして……ですか?』


 それでも、その気持ちを聞いてみたいと想うのは、この人のことを知りたいと想うのは。


 『―――なんでだろ、わかんないね』




 この想いは―――間違いでしょうか。




 隣にいた、みそのさんの身体がふらっと揺れる。


 いい加減、眠気と酔いが限界に来たのかもしれない。着替えさせるために隣にいた私は、慌ててその身体を受け止めた。


 でも、よく考えたら、受け止める必要なんてなかったんだ。


 だって、そこはもうベッドの上なんだから。


 そのまま、寝かしつけてしまえばよかったのに。


 でも私は、私より少しだけ背が高くて、か細い女の人の身体を抱き留めていた。


 お風呂上がりの暖かい体温と、私と同じシャンプーの中にどことなく混じった甘い匂いと、パジャマ越しに触れる誰かの身体を感じながら。


 ……こんなふうに誰かと触れ合うのは、抱きしめるのなんて一体、何時ぶりのことだったっけ。


 いや、そもそも、こんなふうにしたことが今まであったのかな。


 あやすようにあなたの背中を撫でてみる。


 そしたら、少しだけ胸のあたりが濡れたような感覚があったんだ。


 じわっと何かが、あと誰かが鼻をすするような音が聞こえてくる。


 私の小さな胸の上で、私より大きな誰かが泣いている。


 それが、なんだか、とても不思議な感じがして。


 私達は所詮、今日の夜、会ったばかりの関係なのに。


 私達は、お互いの下の名前すら知りはしないのに。


 だというのに、抱き合って、わけもわからず零れる涙を受け止めている。


 『柴咲さん―――』


 問いかけた言葉は、少し遅れて。


 『……何?』


 と、返ってた。すこし掠れて、すこしくぐもって。


 そんな声に、私はそっと言葉を紡ぐ。


 『下の名前……なんて言うんですか』


 我ながら、突然何を聞いているのやら。


 おかしいのは、解ってる。でも知りたいと想ったから。


 『……みその』


 『私……ここねって言います。……みそのさん』


 知って欲しいと想ったから。


 我ながら、なんだか変だね、まるで普段の私じゃないみたい。これはお酒のせいでってことにしていいのかな。


 いえ、きっとそうに違いないんだけど。


 『そっか……ここね、ね』


 『はい、覚えてくれると嬉しいです』


 『うん、覚えとく』


 だって、こんなこと普段は言わないよ。誰かに下の名前で呼んで欲しいなんて、想いもしない。


 『みそのさん』


 『何? ここね』


 こんなこと言おうなんて、普段の私は絶対に想わない。


 だから、そう、きっとこれはお酒のせいなのです。



 『今の恋は辛いですか?』


 『……うん、ちょっとね』



 今日はずっと、この人と話し始めてからずっと、ずっと。気づけば何かがおかしいのです。


 だって私は、普段、今日であったばかりの人を簡単に家に上げません。



 『今の恋は苦しいですか?』


 『……うん、結構』



 こんな簡単に服や下着を貸しません。同じベッドで寝ることもしません。


 こうやって話を聞いたり、泣いている人を抱き留めたりもしません。今まで一度だって、したことがありません。



 『それでも、想っているんですか』


 『……うん、変でしょ』



 だからきっと、今日の私はおかしいのです。きっとの何かの熱にずっと浮かされ続けているのです。


 名前も知らない何かの熱に、ずっと背中を押され続けているのです。



 『そこまで辛いのに消えない想いって何ですか、恋って何ですか』


 『さあ、何だろ……』



 今日であったばかりのあなたを抱きしめているだけで。


 胸が熱いのはどうしてですか、頭がぼーっとして、息が乱れるのは何でですか。



 『みそのさん、



 そう告げると、あなたはゆっくりと顔を上げました。ちょっと涙に滲んだ顔で微笑みながら。


 そっと優しく私の肩を抱きました。



 『そっか……。でもね、ここね。恋ってね、たった三年で冷めちゃうの。頭がぱーっとするのも、相手が好きでそれだけが幸せなんてのも、最初だけだよ。三年経ったら夢は覚めて、なのに想いだけは、いつまでたっても消えてくれなくて。しんどくて……今の私みたいになっちゃうよ』



 視界がゆっくり微睡みます。


 二人揃って、私達はぼふっとベッドに倒れ込みました。



 『……それでもいいです。知らないままより、きっといいです』



 眠気と、酔いと、不思議な興奮が、私の口を突き動かします。


 一体、自分が何でそんなに必死になっているのか、わからないままに。



 『……そっか、じゃあ、また



 そう言って、みそのさんは眼を閉じました。


 ゆっくりと、ゆっくりと。


 私はなんだか泣きそうになって、その額に必死に自分の額を合わせました。


 自分の中に溢れる気持ちがどうしようもなくて、ゆっくりと寝息を立て始めるあなたを抱きしめました。


 



 今日の私はやっぱり何か変なのです。




 ずっとずっと、何かの熱に浮かされ続けたままなのです。

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