一章 恋のようで病のよう

第3話 恋を知らない私と覚えていないあなた—①

 みそのさんは、無言で私の家の天井を仰いでいた。


 私ははて、と首を傾げてその視線を追ってみる。視線の先にあるのは当たり前だけど、うちの天井で、特に変わった様子はない。


 なんか天井の染みが人の顔にでも見えたのかな、と考えてみたけど、そういう感じでもなさそうだった。なんというか、飲み込めない事態を必死に飲みこもうとしているみたい……かな。


 「え……と、みそのさん、どうしました?」


 「ごめん、私覚えてなくて。いや、ある程度は覚えてるんだけど……え? どこまで喋った?」


 それから、みそのさんは苦渋の表情で私を見た。若干、冷や汗も浮かんでいた。


 そこまで言われて、私もようやく納得する。


 あー……昨日のこと覚えてないんだ。確かに、結構飲んでたもんねえ。


 かなり飲めそうな感じで、私を誘っていたわりに、実はみそのさんの方が私より酔っていたし、たくさん飲んでもいたっけね。


 私はふむ、と腕を組んで考える。


 「逆にどこまで覚えてます?」


 「えーと、家に寄せてもらって、なんやかんや飲んで、シャワー浴びたとこまでかなぁ……」


 「あー……大分、序盤ですね」


 「序盤?! そこで序盤かあ?!」


 その後に私的メインイベントがあったので、体感的にはそこまでで前振りなんですよ。


 ただ、私はみそのさんの驚き具合が面白くて、思わずくすくす笑ってしまう。


 困惑具合から見て、どうやら、みそのさんの意識はそこでぷっつり切れているみたいだ。


 だからだろう。さっきから額に手を当てて必死にうんうん唸っていらっしゃる。何かを想いだそうとしているのか、現実が受け入れられないのか。はてさて、その苦悶に悶えるご尊顔はどっちの意味なんでしょうね。


 「そこから割と衝撃の展開でしたよ?」


 「まあ、そんな気はするよね?! 呼び方変わってるもんね?!」


 私が軽く首を傾げてそう言うと、みそのさんは顔を真っ赤にしておっきな声を上げる。そんな様に私は思わずくすくす笑い。


 うーん、この反応はどっちかっていうと、ちょっと羞恥寄りかなあ。なんて考えながら、私は口元に指をあてて、じっと考えてみる。


 えーと、シャワーで記憶が途切れてるってことは、その後の電話のことと私とのやり取りのことはさっぱり忘れてしまっているってことかな。


 ……結構インパクトに残る会話だったんだけど。あれ酔ってたから言ったってことかなあ……。私としてはすごく印象的だったから、それはちょっと残念なのだけど。


 ……まあ、とりあえず、ゆっくり思い出してもらうしかないのかなぁ。


 まあ、幸い、忘年会明けで今日は休みだし。


 私はぐっと背を伸ばすと、ベッドからぴょんと飛び降りた。


 そこでふと、自分がなんだかうきうきしていることに気が付いた。どうしたんだろう……って理由になりそうなことは、昨日のやりとりくらいしかないんだけど。


 そんな私を、みそのさんは大分、おろおろしながら眺めてた。


 ……うーん、反応がいちいち面白いですねえ。頼れる先輩って言うのが初見のイメージだったけど、大分かわいく見えてきちゃった。私がするいちいちに、驚いて反応してくれるのはどうにも胸が高鳴ってしまう。


 「まあまあ、みそのさん。朝ごはんでも食べながら、お話しましょう。今日は幸い休みですしね、あ、予定とかあったりします?」


 「ない……です。完全……フリー」


 「えへへ、それは何よりです。ではでは、ちょっと飲み物淹れてきますね。コーヒーと紅茶どっちがいいですか?」


 「あ、じゃあ……コーヒーで」


 「はい!」


 私はにっこりと笑みを向けて返事をすると、みそのさんはどことなく困ったような顔で目を逸らした。少し赤くなった顔が面白くて、心の中でスキップしながら私は意気揚々と台所で準備をする。


 胸の奥が暖かくて、びっくりするくらい高鳴っている。


 あはは。こんなに楽しいのは、いったいいつ以来のことだっけ。


 みそのさんのコーヒーと私の分の紅茶を入れている間に考えてみたけれど、さっぱり思いつかない。


 それは、私の人生が想いだせないくらい、楽しいことが少なかったってことなのかな。


 それとも、そう想えてしまうくらい今が楽しいってことなのかなあ。




 ※




 それから10分程して、私とみそのさんは小さな座卓を囲んで二人で朝食をとっていた。朝食って言っても、パンとバナナに飲み物を添えただけの簡単なもの。冷蔵庫にあった桃のジャムとマーガリンをパンに塗りながら、私はそれとなく話を始める。


 「じゃー、順番に思い出してみましょうか」


 「う……うん。あ、朝ごはんありがとね。色々とお世話になっちゃった」


 「いえいえ、これくらい。これからお世話になる分に比べれば」


 「……これから、お世話になる?」


 私の言葉にみそのさんは、不穏そうな顔で首を傾げる。……あー、そうか、そうだよね。シャワーの後からってことは、そこも覚えてないんだよね。やっぱり、ちょっと残念な気もするけれど、まあ仕方ないかなあ。


 私は軽く息を吐くと、ふむと考えながら昨日あったことをを一つずつ整理し始める。


 「まず、シャワーから出てきて、みそのさん、何したか覚えてます?」


 「え―……………………、ごめん、その頃から若干意識あやふやかも」


 「あぶなあ……、酔ってる時にみそのさんお風呂に入っちゃダメな人ですよ。死んじゃいますよ」


 「……気を付けます。で、えーと、何があったの?」


 「まあ、とりあえず出てきたら、みそのさんふらふらだったので、私が下着を着せました。あと、パジャマも着せました。あ、それ使ってないやつなのでお気になさらず」


 「いや……ほんと……すんません。何から何まで……下着の分、お金払うね……」


 私の言葉にみそのさんは深々と座卓の向こうで頭を下げる。まあ、私も大分酔っていたし、自分より年上の人が子どもみたいに着替えをねだってきたのが面白かったのは、言わない方向にしておこう。


 とりあえず、軽く咳ばらいをして話を続ける。


 「いえいえ、で、えーと……それでですね、電話がかかってきました」


 「電話……?」


 「はい、みそのさんの携帯にブーンと、で、そこでみそのさんはっとして、飛びついて電話に出てました」


 「……それが、―――まなかさんからだったと……」


 「はい」



 ※



 時間はもう日付回った頃のことだった。


 普通電話がかかってくる時間じゃない。でも、みそのさんはそれに特に疑問も見せずに電話に出ていた。まるで、そういった深夜の二人のやり取りが当たり前であるかのように。


 携帯の画面を見た瞬間に、さっきまでの酩酊を吹き飛ばして、眼をはっきりと開いて電話に出ていた。その電話一つで、表情がスイッチを切り替えるみたいにガッチリ切り替わっていた。


 私は丁度、みそのさんを着替えさせている隣にいたので、その表情の変化がはっきり見えたんだ。


 とても、とても、とても、なんというか複雑な表情をしていたっけ。


 嬉しさがあったように見える。寂しさがあったように見える。期待があったようにも見えるし。苛立ちがあったようにも見えた。


 白も黒も。幸も不幸も。喜びも悲しみも。なんだかまぜこぜになったような不思議な表情をしていたんだ。


 ただ、それでも、その電話をみそのさんはとてもとても大事そうに受け取った。


 まるで、まるでそう。初恋の人からの電話をとるみたいに。。


 少し震えた指を、そっともう片方の手のひらで包んで。


 少しだけ瞳を閉じて。

 

 ゆっくりと息を整えて。


 そうして、そっと通話のボタンを押して。


 落ち着いた声で、そっと口を開いていた。



 『はい、みそのですよ。まなかさん、どうしました?』



 『なんでもない? こんな夜に、なんですか、それ』



 『ああ、いいですね。私も旅行、行きたいな。今度連れていってくださいよ……冗談です。本気にしなくていいですよ』



 『はい、はい。あはは、わかりました、また予定空けておきますね』



 『私の気持ち知ってるんだから、そういうこと、ほんと言わないでください。それのお陰で何年引きずってると想ってるんですかー』



 『……それだけですか。いえ、私は大丈夫です。今日は、後輩ちゃんのおうちにお世話になってて、はい、はい。そうですね、迷惑になっちゃうので、ここらへんで』



 『はい、おやすみなさい』



 やり取りはきっとものの5分にも満たないくらい短いもの。


 年上の―――多分、女性との些細なやり取り。


 電話の向こう側の声は遠くて聞こえないけれど、聞いて分かることはほとんどなくて。


 でも、なんでか、上手く言葉にはできないけれど――—。


 みそのさんにとって、この電話の向こうの人がどれくらい大事かってことだけは、よくわかった気がした。


 言葉の端に滲む優しさが、愛おしそうに閉じる目が、ほんの些細な言葉で微笑む頬が、携帯を握る手さえとてもとても大事そうに、そっと握りしめられていたことが。


 その人に対するみそのさんの想いを、どこまでも物語っていた。


 そんな、そんな、ささやかな電話があった。


 そうして、私は目の前にいるはずのみそのさんを、何も言えずただじっと見つめていただけだった。


 だって、私はこの人のことを何も知らない。


 出会ってまだ数時間。


 会社の別部署の先輩で。


 飲み会で優しくしてくれて。


 私があまり人に上手く伝えられなかったことを容易くくみ取ってくれて。


 なんとなく気が合って。


 一緒にお酒を飲んで。


 実は女の子が好きだなんてカミングアウトを受けて。


 さっき下着のお世話をした。


 想い出は指で数えれる程度の、そんな関係。


 いや、何か濃い気もするけどね。出会って数時間の割には、密度が高い。


 ただ、まあ、当たり前だけど、知らないことは山のよう。


 そして、これから知りたいこともきっと同じくらいある。


 そう言う気持ちが確かに私の胸の中にある。


 だから、私は、そっとみそのさんに聞いてみた。


 『今の人、誰だったんですか』


 そう問いかけた私に、みそのさんはお酒で滲んだような、とろんとした瞳を私に向けて笑いかけた。


 ちょっと恥ずかしそうに、どことなく寂しそうに。


 その表情に、たくさんの、色と色を混ぜながら。



 『もう叶わない片思い相手だよ』



 そう言って笑ってた。

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