第20話 口に広がるはももの香り

「ついたよ〜」

「なんと言うか……本当に、隠れ家みたいですね……」


 紅葉先輩に駅前から案内される事、約五分。俺と先輩はくらい裏路地で妖しい色のネオンを放つ小さなビルの前にやってきていた。

 ビルのエントランスにはいくつかの店の名前。パブやメイド喫茶など駅前の明るい場所ではそうそう見る事の出来ない店看板の中に、目的のバーの名前が。


 バーの名前は『ハイド』。名前のまんまなバーに俺は逆に安心してしまった。

 そんな俺の様子に、紅葉先輩は嬉しそうにしながらビルの中へと俺を誘導し始める。駅前から組みっぱなしの腕と繋ぎっぱなしの手を外さずに。


「いいよね、ここ。穴場だから休みの日とかに時々来てたんだ〜」

「あぁ、授業終わりとかじゃ門限で来れませんもんね」

「そゆこと〜。だから、誰かとバーにくるのも実は初めてなんだよね〜」

「……っ!」


 三階にあるバーに向かうべく入ったエレベーターの中で、先輩は不意打ちで俺の肩にちょこんと顔を乗せてくる。

 恋人からの『初めて』と言う言葉も重なって、ただ体と心を震わせる事しかできなかった。


 当然そんな事は紅葉先輩にとって格好の揶揄いネタにならないはずもなく

「あ、ドキッとした?」

「し、してません!」

「手繋いでるんだから、意外と動揺したの分かるんだよ〜?」

 と、繋いでいる手に指を絡ませて、より一層俺に先輩を意識させようとしてくる。


 そんな事をされてしまえば、先輩の顔を見れなくなってしまう。

 先輩の唇ばっかり見てしまうし、話に集中できずに意識は唇と手を交互に行ったり来たりしてしまうだろう。

 そして、着々と“欲”が積もってしまうのだって、時間の問題。


 そう考えていたら、自然と首が先輩と真逆の方向を向いていた。

 が、俺が先輩と真逆の方向を向く事を先輩が見逃して許すはずが無く

「顔背けちゃって、も〜。私だってドキドキしてるんだから恥ずかしがらなくたっていいのに」

 そう言って、空いている手を俺の顎に添えてゆっくりと先輩の正面へと俺の顔の向きを戻していく。


 改めて見た先輩の表情は、やっぱりいつもの揶揄っている時のもの。俺の心を見透かして、揺さぶって、好きを増幅させる魔性の笑顔。

 まだお酒を飲んでいないのにも関わらず先輩の唇はほんのり濡れていて、それがまた魔性度合いを高めている。


 けれど、先輩の魔性が嫌と言うわけでは無く、一方的に俺が攻められてばかりいる自分が嫌いなだけ。反撃の糸口があれば、別段先輩の顔を見るのも堂々とできる。


 今回も、そうだ。

「……本当ですか? 先輩もドキドキしてるって」

「もちろんよ。なんなら確かめてみる?」

「確かめるって、どうやって?」

 先輩の弱いところを確かめよう。そんな魂胆で、反撃を試みているのだ。


 まぁ……


「そりゃ、もちろん、私の胸にキミの手のひらを押してて確かめるんだよ?」

「それは……っっ!」

「えへへ、冗談だよ〜。ドキドキした?」

「そりゃしますって……心臓に悪すぎます……」

「素直に『ドキドキしてる』って言えば、良かったのに顔背けて逃げようとするからだよ〜?」

「それは、ごめんなさい」

「わかればいいの。わかれば。次、素直に言わなかったら本当にしちゃうからね〜?」

「次はちゃんと言いますから! だから、その……腕に胸を押し当てないで下さい! ど……ドキドキしちゃいますから!!」

「うん、素直が一番だね〜。ご褒美にもっと押し付けてもいい?」

「ダメです!!」

「ちぇ〜っ」


 結局、いつものように返り討ちに遭うのだけれども。


 そうして気づけば、エレベーターは三階に到着し、初めてのバーが始まる。


「とりあえず、甘くて飲みやすいのを二つお願いできるかしら?」

「かしこまりました」


 手早くカウンターの席に着いた俺と先輩。メニューを見ずにとりあえずで甘いお酒を頼む先輩の姿に、大人らしさを感じずにはいられない。


「……慣れてますね」

「そりゃ、月に二回来てればね〜。まぁカクテルの種類とかは覚えられないから、いつも好みを伝えてマスターのおまかせにしちゃってるけどね」

「大人な女性って感じがしていいと思います」

「そう? じゃあ、別にカクテルの名前覚えなくてもいいっか〜」

「……好きなカクテルくらいは覚えたほうが」


 にへ〜と笑いながら、あっけらかんとした口調で『カクテル覚えない』宣言をする先輩に、いつものように俺は呆れる。

 格好や仕草は大人っぽいのに、話している内容は逆に子供。そんなギャップのある先輩に呆れながらもドキリとしてしまうのは、どんな先輩でも好きだからだろう。


 そしてそれをバー特有の静かでそれでいてアングラな雰囲気が増幅させてくる。


「じゃあ、キミが今日覚えて私に教えてよ」

「俺が、ですか?」

「だってこれからここに来るのは、キミと一緒の時だけって決めたから」

 紅葉先輩の言葉の直後にピーチカクテル、ファジーネーブルが静かにカウンターに置かれた。


 カチンとグラスを鳴らした後に飲んだ、初めてのカクテルは想像以上に甘くて……少し、先輩とのお酒を交えての深いキスを思い出してしまう。



 ───そう言えば、あの時は一緒にもも酒を飲んでいたな……。



 そんな事を心の中で呟きながら、俺はまた甘いカクテルに口をつけるのだった。

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