第17話 痛いほどの熱

「え、えっと……それはどういう意味ですか……? 本当におトイレか、だなんて」


 紅葉先輩の胸元からお酒と先輩の唾液まみれになった左腕を引き抜きながらソファーから立ち上がろうとした俺だったが、先輩の何気無い一言に再びソファーに座らずにはいられなかった。


『それは本当に“おトイレ”?』

 先輩からの何気無い質問。何事もなければ、こんな質問は『ええ、トイレです』で済む。

 けれど、今の俺にはそう答える事は出来ない。してしまえば、嘘をついてしまう事になる。

 嘘は吐きたくないし、嘘を吐いたところできっと先輩には直ぐにバレてしまう。


 とはいえ、実情を明かすのも気が引ける。それは紅葉先輩に“性欲”が積もってきている事を伝えることに他ならないからだ。


 そんな絶妙な空気感の中、俺はソファーにちょこんと座り先輩の様子を伺う。

 左手は未だに蜜柑酒と先輩の唾液で仄かに湿っぽい。それを感じながらチラリと左にいる紅葉先輩に目をやる。

 いつものように鮮やかな紅髪のサイドテールの影に隠れた、ほんの少し妖しげな表情を浮かべる恋人に。


 すると、俺の視線に気付いたのか意味深にわざとらしく演技をする。

「ん〜、いやね。コレはあくまで私の女としての、ううん、キミの彼女としての勘なんだけどね?」

「は、はい……」

「キミ、今ものすごく“スッキリ”したいでしょ?」

 こんなやりとりをしながら。


 先輩の言っていた事はズバリ図星で、見事に先輩の勘が大当たり。

 図星を突かれた俺はといえば、動揺を隠せずにいた。


「そ、それはだって、いっぱい飲み物を口にしてきた訳だし……っ!」


 と、身振り手振りでとにかく先輩の勘を誤魔化そうとして、必死だ。


 しかし、そんな事で言葉を引っ込めるほど紅葉先輩は甘くない。

「それもあるだろうけど、な〜んかちょっと違う感じなんだよね〜。それについて孝志くんはどう思う?」

「俺は特に、違和感なんてありませんけど……?」

「そう? 本当に?」

「本当ですよ」

「じゃあ、キミのココがオカシイ“だけ”なのかな〜?」

「そ……それは……っ!」

 自分の下腹部を見せつけるようにしてトントンと叩く紅葉先輩の姿に、あえて意識を向けずにいた下腹部に気が行ってしまう。熱く、煮えたぎって、狂ってしまいそうなほどに“緊張”している俺の下腹部に。


 一度でも意識がソコに向いてしまえば、俺はもう誤魔化しようがなかった。

 目は泳ぎ、先輩の柔らかな胸元やらセクシーな下腹部、そして無防備な太ももと、“欲”に忠実にも程があり制御しようがない。

 魅力的な先輩に密着され続けるだけではなく、柔らかい胸の谷間に腕を通され、挙句に指を舐め弄られたのだ。もう、とうに限界など超えている。



 だからこそ───

「あれ〜? あれあれあれ〜? そんなに動揺してどうしたの〜? もしかして、本当に“スッキリ”したいの〜?」

「も、もし……したいって言ったら……?」

 先輩の分かり易い挑発にも乗っかりかけてしまう。


「ん〜、どうしよっかな〜? 私以外の女の子とお酒を飲んじゃう彼氏だもんな〜」

「うっっ……!」


 今が、親友であり異性でもある悠と焼肉屋に行った俺へのお仕置きタイムである事を忘れて。


 先輩のわざとらしくねちっこい言い回しがズキリと胸に響く。

 先輩にとって、俺が今日してきた事がそれだけ嫌な事だったのだろうと、痛いほどに伝わってくる。

 それが異性と食事をしてきた事なのだろうか。それともお酒の方なのか。まだはっきりしないこともあるけれど、どちらにせよ先輩への配慮が大きく欠けていたのが事実。

 ずしりとのしかかるそれは、あまりにも重いものだった。


 それでも、動き出した先輩は厳しく攻めてくる。

「どうかしたの、孝志くん。まさか、お仕置きされてるのを忘れて一人トイレに籠って“スッキリ”したいなんて言わないわよね? 可愛い可愛い彼女とのイチャラブを捨て置いて“スッキリ”させようなんて、そんな事、孝志くんは言わないわよね?」

 そう言って。


 言葉とは裏腹に、先輩の瞳の奥はもの寂しげ。いつもの攻め立てるような表情ではなく、甘えたがりの表情。

 ───同居の話が出た翌日に見た、初めてキスをした時の愛おしい表情。


 そんな表情をされてしまえば、否応にも覚悟が決まってしまう。

「ね、どう、孝志くん?」

「……言いませんよ。ちゃんと最後までお仕置きを受けます。先輩が納得いくまで、先輩が満たされるまで、逃げません」

 先輩を悲しませた事実から逃げるような事をしてはいけない、と。

 今、下腹部に感じている痛いほどの熱は、先輩を悲しませた結果のものだと。

 先輩の気が収まるまで、最後まで痛みを感じ続けよう、と。


 そんなさまざまな覚悟を決めると、俺はソファーに深く座り直した。それに合わせて紅葉先輩がより一層密着して───。

「そう? それじゃあ、お言葉に甘えて……って言いたいところだけど、お仕置きはここまでにしてあげようかな」

「…………へ?」

 来なかった。


 不思議に思い先輩の顔を見てみれば、そこにはいつもの柔かな笑顔をする恋人がいた。

「キミの真剣な表情に、ちょっと満足しちゃった。『あぁ、やっぱり孝志くんはかっこいいなぁ……』って。だから、もうお仕置きはおしまい! 今からは普通にイチャラブしたい!」

「って、事は許して貰えたんですか……?」

「そういう事だね〜」


 にへぇ〜と笑う紅葉先輩の仕草に、俺の全身の力が抜けていく。

『先輩に許して貰えた』

 その事実が、あまりにも嬉しくて、それでいて安堵せずにはいられなかった。

 それと同時に、胸の奥底に覚悟の言葉を誓いの証として刻むことに。もう二度と先輩を悲しませないと強く思いながら。


 そしてそんな俺の想いを再度言い聞かせるように先輩からのキツイお言葉が飛んでくる。

「あ、でも次はこう甘くはないからね!? どうしても誰かと食事とかしたくなったら、必ず私に連絡入れる事! そうじゃなきゃ、今日以上にキツイお仕置きにしてあげるんだから!」

「は、はいっ!」

「分かったなら、おトイレ行ってきていいよ。キミ、結構限界でしょ?」

「〜〜〜っっっ!!!」

 サラリと下腹部事情を心配された俺は返事をする間も無く、叫ぶようにトイレに駆け込んでいく。


「……ほんと、孝志くんを嫌いになんてなれないなぁ」

 トイレに行く事に夢中だった俺には、先輩の口からボソリと放たれた言葉が届く事は無かった。



 その後、トイレで“スッキリ”してきた俺は、事後と言う事もありなかなか先輩と目を合わせる事はできなかった。“スッキリ”する時に何度も頭に思い浮かべた紅葉先輩とは……。




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