第9話 何一つ先輩には勝てない

「よーし、いい感じにお酒が回ってきたし、さっそく孝志くん御所望のあま〜いキスしちゃおうっか?」

「も、もうしちゃうんですか? まだ心の準備が……」

「えー? 私は乾杯した時から気持ち整えてたのに、孝志くんはその気はなかったって事? さみしーなー」

「そ、そんなんじゃないですよ!? ただ、甘いキスっていうのがどう言うのか想像できなくて、準備のしようがですね!?」

「つまり手取り足取り、私に教えて欲しいと?」

「う……っ」


 十月中旬の夜。先輩彼女が同居道具を持って部屋にやってきて早々、荷物の整理を放ったらかして宴を始めていた。

 母親からの手紙にしんみりとした先輩はそこにはおらず、いつものように、いやいつも以上にデレデレとして俺の心を掻き乱してくる。そして、先輩の持ってきた甘いお酒・『濃厚もも酒』がそれをさらに加速させる。


 艶っぽく先輩の唇に赤く塗られていた口紅は、もも酒と溶け合い仄かな桜色に。大人っぽい雰囲気から一転して、今にも蕩けてしまいそうに妖しくツヤめいている。

 その口で『あま〜いキス』なんて単語が飛び出れば緊張感が跳ね上がってしまう。ただでさえ、気持ちを整えるのに時間がかかると言うのにこれでは落ち着かせるのなんて到底無理だ。

 そこに追い打ちに『手取り足取り』とくるのだから、もう先輩にされたい放題されている。


「い〜よ〜? いっぱい教えてアゲる。これから何度もする事になるだろうし、その為にも手厚く教えないとだよね」

「耳がくすぐったいです……」

「耳、弱いんだ。かわいいね」

「またそうやって俺のこと揶揄って……っっ!」

「だって君の反応全部が可愛くて好きなんだもの。つい揶揄いたくなっちゃうの」

「好き───っ!」


 二回目の飲酒という事で多少なりとも耐性がついたのか、気持ちが先走る事は起きてない。しかし、その分体の感覚が敏感で、耳に少しでも息が掛かればビクッと反応してしまう。そしてそれを隠す努力もできずに、またも先輩好みの反応をしてしまった。


「おや、おやおやおや〜? 顔、もっと赤くなったね〜? 好きって言われて照れちゃった?」


 ニヤニヤと明らかに嬉しそうな笑顔で俺に詰め寄る紅葉先輩。三人掛けのソファーの端に座る俺にズイズイ……っと豊満な身体を押し付けては、反応を見て楽しむ。

 お酒を飲んでいるからかいつも以上にスキンシップが激しく、時折肘に感じる柔らかな胸の感触。太ももに感じる先輩の細い指。

 先輩を感じる何もかもが顔を赤くさせる要因で、もはや先輩の顔を見るどころではない。


 それだというのに───

「……」

「顔逸らしたらダ〜メ。甘いキス、できなくなるでしょ」

「……はい」

 先輩は目を背ける事さえ許してくれない。


 イタズラな笑顔ではなく、かといって大人な作り笑いでもない。愛しさに溢れた妖艶な笑顔。そんな先輩の表情に、気づけば俺は小さく返事をしていた。



「ふふっ、やっと素直になってくれた。君ってば意外と手がかかるね〜」

「先輩がそれいいますか?」

「お、言うねぇ〜。私が強く誘惑しないとノってこないビビりくんなのに〜」

「そんなんじゃ、ないですし……」

「今だって、絶好の押し倒しタイミングだったんだよ〜? ……っと、今やっても遅いからね?」

「くっ……」


 このまま先輩のペースに持ち込まれたままでいられるかと、先輩の言葉の後に押し倒そうとしたが、感覚が敏感な今の俺にはお腹を少し押し込まれただけで逆に押し倒されてしまった。

 図星を突かれ、力でも敵わず、そして恋愛経験も劣り、何一つ先輩に勝てるところがない。情けない気持ちでいっぱいだ。


 しかし、先輩とて鬼ではない。

「まぁまぁ、今日はそんなに君を揶揄うつもりはないからそう警戒しないで。同居一日目の夜という事で、あま〜い一晩を過ごさせてあげるから、さ」

 そう言って先輩は飲み掛けのもも酒を口元に運んでくる。


 先輩なりのご褒美なのだろうか。俺はもはや躊躇ためらうことなく先輩のもも酒を飲み干した。


「はい、よくできました〜」


 妖艶な笑顔を浮かべながら先輩は俺の頭をゆっくりと撫でてくる。それこそ、焦らすかのように。


 そんな焦らしに耐えられず、俺は先輩に思わず質問してしまった。

「……これが甘いキスだとはいいませんよね?」

 と。


 散々、焦らして焦らして焦らされた果ての甘いキスが、甘いもも酒での間接キスで終わったとは思いたくないからだ。

 図星を突かれ、力でも敵わず、そして恋愛経験も劣り、何一つ先輩に勝てるところがない情けない俺だが、人並みには性欲はある。期待を煽られて間接キスで果てるほど、欲がないわけではない。

 むしろ、性欲だけでいえば人並み以上かもしれない。……もっとも、先輩相手に手を出す勇気が俺にはないのだけれども。


 そんな想いを頭の中で巡らせていると、先輩から答えが返ってきた。

「まさか。間接キスなんてただの序の口よ。みんなともよくやってるわ」

 と。


「そうですよね」

 俺は納得したように返事をした。

 先輩は俺がいうまでもなくモテる。見た目は文句なしの美人だし、性格も人懐っこく気配り上手。そして誰もを魅了するセクシースタイル。

 俺の知らない間に色々と遊んでいても不思議ではない。そう、先輩はモテるのだから。


 そう自分にいい聞かせながらも、どこか湧き上がる悔しさ。先輩に見合わない自分が恨めしく思う。

 自然と、顔が強張っていくのが分かる。


 ……が、どうやら俺が考えている事は杞憂のようだ。

「あ、やってるって言っても女友達とだから安心してね? 君が嫉妬するような事はしてないよ〜」

「……別に嫉妬なんてしてませんし」

「そういうことにしておいてあげる」

 先輩はそう言って一度ソファーから立ち上がり、再び大荷物の元へと足を運んでいく。


 先輩は揶揄うことはあれど、嘘をつくことはそうそう無い。それこそ、俺が傷つくような嘘は尚更。

 それに俺の誕生日の翌日にしたキスの前。あれだけ俺とのこれからの付き合い方に涙をこぼしていた先輩が『安心してね』と言ったんだ。

 だったら俺が先輩にこれ以上言う事はないし、嫉妬する必要もない。


 先輩との甘いキスに胸を膨らませる事にしよう。


「でも、今からする事は本気の本気でまだ誰ともした事ないから、気をつけてね?」


 女友達ともした事がないと言う甘いキス。尚更、期待値が上がる。


「……手加減、できないカモだから」


 ───先輩がそういいながら、追加のお酒と共に一つのお菓子を持ってくるのを見るまでは。

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