寒波

読書=ミナサン

第1話

「よう坊主、今日も勉強かい」

その人は路上で壁にもたれ掛かりながらそう言った。9月の下旬とはいえまだまだ暑さも残っているのに、黒い手袋と、黒い長袖、無秩序に伸びた髭を携え、何処も彼処も砂埃で汚れて見えた。

「うん、今日も勉強。おじさんはいつも通り?」

「まぁな、でも今日は新しい缶詰が落ちてたな。おかげで久しぶりに真っ当な飯にありつけたよ」とても疲れた顔をしていた。何も映っていないような虚ろな目をしながら、それでもこの人は喜びを感じているようだった。

「本当?それは良かった」

僕はなんとなく、安心する。

「そういえば今日は何を勉強したんだ?そろそろ中等部の内容には入ったかい」

「それはまだかな、だって僕は11だし。その中等部の内容って13の歳から学ぶ内容なんでしょ?」

「歳は関係ないさ、お前の頭なら中等部の内容も理解出来る筈だ。俺がお前くらいの時より見込みがあるんだからな」

僕がおじさんと呼ぶ人が歪んだ笑みを浮かべる。黄ばんだ歯、欠けている歯、彼の歴史を語る媒体には事欠かない。

この人と出会って15日程になるが、分かっているのはこの人が家庭を持っていた事、昔はとても大きな大義の元に生きていた事、多くの仲間がいた事、そして、今はそれら全てを失っている事だった。


初めは気味が悪い人だと思っていた。ある日の図書館からの帰りがけ、暁の光の陰から僕の事をじっと見つめている人がいた。僕は関わりを持たないよう、努めてその人の事を見ないように歩いていたら、突然その人が声をかけてきた。

「俺の話を聞いていってくれないか。少しで良いんだ。お前さんに危害を加える事はしないと約束する」

僕はそれでも無視をして帰ろうと思って、その人の横を通り過ぎていく。

「俺は図書館で毎日勉強しているお前の力になりたいんだ」僕の足が止まる。「決して悪いようにはしない、ただ話を聞いて欲しいんだ」

縋るような声に、思わず僕は振り返ってしまった。

「どうして僕が?家に帰らせてよ」

その人は言葉を選んでるようだった「いや……それは…すまない。だが俺は、もうこうするしか無いんだ。申し訳ないとも思っている。どうして、とお前が思うのも理解出来る。きっと、どうして自分以外の人間に話さないのか、どうして誰にも話さず『番犬』に捕まってくたばっちまってないのかと思われても仕方のない地位の人間だ。その上で、俺の経験と知識はお前にとって非常に有用だと思ったんだ。お前以外じゃきっと俺の頭には及ばないだろう、きっと『番犬』に捕まるか、何も起こさないだろう。…これは確信を持って言える事だ。だから俺がお前を育てる──いや、育てるのとは違うな。お前はこれまで通り図書館で勉強をすれば良い。俺はお前が学びたいと思う事の正しい道順を教えるだけだ」その人は心の底から沸き立つように、しかし努めて平静を装って語っていた。

「うーん、そこまで言うなら少しだけ…」

そんな具合に僕とその人──おじさんとの関係が始まった。

基本的にその日僕が何を勉強したか話して、おじさんが僕に軽くアドバイスと、おじさんがこれまで経験した事について語り、日が暮れる前には話を切り上げるのがよくあるパターンだった。初めこそおじさんの事を怪しんでいたのは確かだが、何日か話す内におじさんの言っていた事が嘘では無いと思えた為、気付けばそこまで警戒する事も無くなった。


「さて、そろそろ帰った方がいいな。今日は『番犬』がこの辺りを彷徨いてる。気を付けろよ」遠くから精錬された軍靴の音が聞こえる。今日もきっと誰かが消えるんだ。これが少なくとも僕が確信を持って言える事の一つだった。

「分かってるよ、お母さんが待ってるから」僕は家に向かって歩き出す。

「あぁ、悲しませんようにな」

その人の声はもの哀しげで何か憂いを包含しているようにも聞こえたが、夕暮れ時の少し冷気を帯びた風が、ふっと僕を暖かな灯りへと向かわせた。

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