結婚から即位まで半年、書ききれなかったこぼれ話

 1422年4月22日、王太子(シャルル七世)とマリー・ダンジュー結婚。

 10月21日、シャルル六世崩御。

 10月30日、シャルル七世戴冠式。※ランスでの正式な戴冠式は1429年。


 結婚から即位まで、およそ半年。

 作中では書ききれませんでしたが、ちょっと(?)おもしろい事件が起きています。


 前年1421年5月、シャルル七世(王太子)とブルターニュ公(リッシュモンの兄)はサブレ条約という同盟を結びましたが、イングランドからの圧力もあってブルターニュ公は同盟を考え直す様子を見せていました。


 シャルル七世は譴責けんせき(約束を違えたものを戒める)の意味を込めて、本編と今回の番外編でおなじみラ・ロシェルへ向かって進軍。

 途中のモンタルジスでブルターニュ軍と交戦して打ち破りました。


 しかし、ラ・ロシェルに到着して、司教館の大広間で話し合っていたときのこと。

 突如天井が落下してシャルル七世が巻き込まれ、九死に一生を得てどうにか逃れ出ました。


 事故か暗殺未遂事件かわかりませんが、仮に後者だとしたら。

 日本史・江戸時代初期に起きたとされる「宇都宮城うつのみやじょう釣天井つりてんじょう事件」並みに大掛かりな仕掛けですね。

 シャルル七世はショックを受けて、ますます慎重な性格になったとのこと。



***



 シャルル七世が勝利王になれたのは、ジャンヌ・ダルクやリッシュモンが活躍したおかげだと思っていましたが、小説を書きながらあらためて資料を見直すと、不遇な王太子時代からシャルル七世は結構強かったです。


 本編・番外編で取り上げた、第二次ラ・ロシェル海戦、ボージェの戦い、モー包囲戦、上記のブルターニュ軍との戦いなど、のちの「勝利王」の片鱗がうかがえます。


 10代の頃から財政難・人材難をやりくりしていた影響なのか、シャルル七世は奇襲・奇策を得意としており、「マイナーだけどおもしろい戦い」がたくさんあります。


 しかし、戦争や流血を嫌っているせいでしょうか。

 シャルル七世本人は、武勇や勝利を誇るどころか「自分は罪深い」と苦悩していたようです。



***



 シャルル七世の王妃マリー・ダンジューについて。

 母ヨランド・ダラゴンに比べると地味で、歴代フランス王妃としても無名に等しい女性です。

 目立った動きがない理由は——1422年に結婚してから1446年までの24年間、名前が判明しているだけで14人もの子を出産しているせいではないかと。記録に残らない流産・死産を含めたら、とんでもない子だくさんです!


 これほど頻繁に妊娠・出産を繰り返しているのですから、表舞台で目立たないのも仕方がありません。


 ですが、シャルル七世が不在のときは王の代理として評議会で議長を務め、ジャック・クールから資産運用について学んで自分で管理するなど、母親譲りの聡明な女性だったことは間違いありません。単に教養が高いのではなく、実務能力に長けているタイプですね。


 なお、歴史家の評価は「高潔な姫君で、理想的な王妃。生涯にわたって夫を深く愛し、時には涙もろい性格のシャルル七世を支えた」とのこと。

 それから、「婚約していた少年少女時代から二人は友情を育んでいた」という話も。


 アンジュー家にあやかって、まるで天使のような……

 いえ、天使を通り越して、完全無欠な女神ですね。

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