没落王太子の新婚生活(3)王妃マリー・ダンジューの計画

「殿下、もっと近くにおいでになって……」


 その日、王太子妃ドーフィヌマリー・ダンジューはうっとりと熱に浮かされたようにご機嫌だった。

 いつも淡々として取り乱すことなく、賢くて品の良いマリーにしては珍しい。


「ほら、よくご覧になって」

「うん、見ているよ」

「触ってもよろしくてよ。こんなに柔らかいなんて……」

「気持ちがいい。いつまでも触れていられるな……」


 結婚するときに母ヨランド・ダラゴンから贈られた持参金で、マリーはフランドル産の羊毛ウール毛織物フランネルを大量購入した。

 私とマリーは、ふわふわウールの虜になっていた。


「そうだわ、寒がりのルネにも送ってあげましょう」


 毛織物は、イングランドとフランドルが二大産地だ。

 イングランド産は平織りで毛羽が軽く、フランドル産は綾織りで毛羽が多い。

 どちらも柔らかくて弾力性と保温性に優れた織物だ。

 マリーは「フランドル産の毛織物」をプロヴァンスから地中海一帯に流通させるのだと言う。


「あの辺は温暖な気候だろう?」

「ここよりもずっと暖かいですけど、それでも冬は厚物が欲しくなります」


 王太子妃マリー・ダンジューは、驚くほど商才に長けていた。

 瞳をキラキラと輝かせながら「きっと売れるわ」と言い、さらに「わたくし、きっと殿下のお役に立ってみせますから!」と息巻いた。

 鼻息を、ふんす!と荒げていてもなぜか可愛いらしい。


 政略結婚の決め手になった、マリーが考える「没落王太子ドーファンを救う妙案」とは——


 イングランド王ヘンリー五世とブルゴーニュ公フィリップは「打倒王太子シャルル」で共鳴し、政治・軍事面で同盟関係だ。

 その一方で、貿易面では長年のライバル関係だった。

 中でも、イングランドとブルゴーニュ公支配下のフランドルは「羊毛」と「毛織物」の二大産地として市場シェアを奪い合っていた。ハンザ同盟も大きく関わっている。


「わたくしが、ブルゴーニュ公とフランドル・ハンザ同盟の得意客になったらどうかしら?」


 イングランドが台頭すれば、イングランド産の商品がフランス中に広まる。

 そうなると、同業を営むフランドル商人たち、ひいてはブルゴーニュ公にとって通商問題が浮上する。


「王太子妃がフランドル産の羊毛と毛織物を愛用しているとしたら……」


 マリーはこのように考えた。


「ブルゴーニュ公と王太子殿下の関係改善のきっかけになるのでは?」


 政治と経済は、安定した領地運営に欠かせない。

 マリー・ダンジューは、フランドル商人の得意客として名を馳せ、結果的に、イングランド王とブルゴーニュ公の同盟関係に少しずつ溝が生まれた。


「少なくとも、ハンザ同盟の商人たちは、得意客の夫——王太子殿下と敵対しようとは考えなくなるはずです」


 マリーは、愛用の羽根つき扇を広げると「計画通りだわ」と余裕の微笑みを浮かべた。




***




 政敵のイングランドやブルゴーニュ派の人々は、王太子妃となったマリー・ダンジューを容赦なく貶した。

 つまらない平凡な女、大して美人でもない、地味な妻ひとりで満足している王太子はやはり甲斐性がない……など、枚挙にいとまがない。


 しかし、私はこう思う。

 華やかさを抑えているのに「大して美人でもない」なら、着飾ったらどれほど美しくなるだろうかと。

 それに、婚姻の儀で「奮発」したおかげで美しい花嫁の姿が目に焼き付いている。あとで財務状況を知ったマリーに叱られたが、私は後悔していない。

 着飾っていなくても、マリーの聡明さと高潔さと愛の深さを知っている。

 淑女でありながら、商家の女将のようにしたたかな所も気に入っている。


 私たちは政略重視で結婚した。

 だからといって、マリー・ダンジューをどうして愛さないでいられるだろう。


 結婚から半年後、1422年10月21日に父王シャルル六世が崩御した。

 九日後の10月30日、婚姻の儀をおこなったベリー領ブールジュのサンティエンヌ大聖堂で、私はフランス王シャルル七世として即位した。

 長きフランス王国史でも、私ほど前途多難な王はいないだろう。


「さあ陛下、皆がお待ちかねですよ」


 隣には、十八歳になったばかりのマリー・ダンジュー。

 勝利どころか、敗色濃厚な没落王太子(没落王)を愛してくれた稀有なフランス王妃である。

 控えめでさほど目立たない淑女だが、彼女もまた、百年戦争末期を彩る「女傑」のひとりなのだ。







(※)7番目のシャルル番外編「没落王太子とマリー・ダンジューの結婚」完結。

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