第4話 碑銘
赤ん坊誕生から二カ月後。季節は春。まだまだ肌寒いとはいえ、雪は解け、目的の地ーーペトロスに近づいたため、キャラバンの皆とは別れて、三人でペトロスに向かうことに。
皆別れを惜しんでくれて、オズワルドを好いていた女性は、最後彼に何かを言っていた。オズワルドは何やら返事をしていたようだったけど、私には何と言っているのか分からなかった。でも、女性が笑顔で別れていたからよかった。
そして、私たちはやっとペトロスにたどり着いた。あの雪山を超えた先にこんなに文明都市があるとは思わなかった。天国にたどり着いたのではないかと勘違いしてしまうほど、絢爛豪華な建物が並び建っており、色鮮やかに壁や屋根の色が塗られ、すれ違う人々の服もオシャレで花々しい。
トナカイの毛皮はキャラバンに返し、いつもの黒マント姿の私たちは変に悪目立ちしていた。なぜか神父の姿はよく見かけるので、オズワルドは目立たないはずなのだが、いつも通り目を隠しているので彼も際立っている。
とりあえず、宿屋を探して宿泊場所を探す。部屋の中に入って一息ついて、これからどうするか話し合った。
「まず、この都市の地図が欲しいな。シーラの水畔を見つけるためにも」
『シーラの湖畔』とは、アイザックにこのペトロスの地を教えてもらった時に、追加情報として提示されたものだ。「ペトロスの地は広いですし、ここにはぜひ立ち寄ってほしいので」と言っていた。その『シーラの湖畔』で、兄を呪っている種の一つ、珍しい『白黒の鳥』がいるらしい。
「もしかしたら、地図に載ってない場所かもしれないので、人々に尋ねて回る必要があるかもしれません。私はいいとして、お二人の格好は目立っているように思えます」
分かってはいたが、指摘されると困ってしまう。随分と人間の姿を取り戻せたと言っても、兄の姿はまだ人目に晒せない部分が多いので、マントは取り外せない。それに、ここにくるまでの旅で沢山あったお金も随分と減ってしまった。新しく服を買う余裕なんてない。
「でも、お金は心許ないし、お兄ちゃんは隠さなきゃいけないところがあるし……。少し目立っても仕方がないよ」
「いいえ。この都市にはかなりの数の宗教建築物があります。つまり、教会や大聖堂が多く、聖職者が多いということです。それも司教クラスの方々が何人もいるはず……。異形の姿を見られたら、必ず殺されるでしょう。怪しいと思われるのも、悪目立ちするのもここでは生死に関わります」
「そんな……っ」
そんな話を聞いては、何が何でも服を変え、兄の姿を覆い隠す必要があるではないか。宿屋だって安くはなかった。きっと、この都市では食料品も値が張るはず。それでも服を買わないといけない状況だなんて、どうすればいいのか。
お金の稼ぎ方はわからない。でも、一つだけ知っていた。手っ取り早くお金を手に入れる方法を。嫌で逃げてしまった仕事だったが、今度は自分の意思でやらなければならない。震えながら自分の服をギュッと掴む。
「わ、私、お金を稼いでくる……っ」
「……それは必要ありませんよ」
上を向くと、口角を上げているオズワルド。
「私は今まで山の中や至る所で、薬の材料を集めていたでしょう? 材料もそうですが、薬は高く売れるはずです。この国では育たない植物も多く所有しています。最低限の物だけ残して売りに出せば、お金も手に入れられて、荷物も軽くなって一石二鳥ですよ」
オズワルドは得意げになって話す。なんと頼りになる男だろう。先ほどとは違う意味で泣けてきた。
「熊の肉は流石に無理でしたが、熊胆と呼ばれる妙薬もこっそり頂戴したんですよ。言い値になるはずです」
「ゆうたん……」
熊に罠を仕掛けてから、皆でその肉を食べたことを思い出す。妊婦には熊の手を食べさせろと言っていて、まるで兄の手が食べられているみたいで気分が悪くなったことしか覚えていない。その間に彼はこっそりそんな物を手に入れていたのか。
もう誰がなんと言おうと、彼は私たちの神父様だった。
「とりあえず薬屋を探して来ますから、お二人はここで休んでいてください」
「ありがとう……っ!」
オズワルドの背が見えなくなるまで見送って、ドアを閉める。部屋の中なので兄はフードを外していて、私はその姿を眺めた。
鼻も、口も、左半分の肌も、右目も、元通りになった。右手だって直っている。左側の頭皮はライオンのたてがみで覆われていて、髪の毛に見えないこともない。問題は右半分だ。
「右半分を包帯で巻く……? 半分って言っても、全部巻くことになるしなぁ……。火傷したってことにすればいいかなぁ……。お兄ちゃん、どう思う?」
「ぅ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぉ゛……」
「好きにしろって。お兄ちゃんのことなんだよ! もぉ〜〜っ!」
兄は人からどう見られても構わないのか、姿を気にしてないらしい。私がお節介を焼かないと、彼は平気でそのままの姿で飛び出してしまいそうだ。
ベッドに横たわりため息をつく。
「売った薬品がどれくらいになるかでどんな服が買えるか決まるよね。一人で運ぶには量が多いと思うから、私もついて行こうと思うけど、お兄ちゃんは一人でお留守番だよ?」
「ぁ゛ぁ゛っぁ゛……」
兄も随分とオズワルドを信頼するようになったものだ。合流当初は私とオズワルドが二人きりになると、唸り声をあげたり、威嚇していたがそれはもうない。ずっと一緒に旅をしてきて、彼のことを認め始めたのかもしれない。
オズワルドの言動も随分と優しくなってきている気がする。特に目を晒している時の性格に、棘がなくなってきたと思う。
それに、彼の言う『死んだ方が救いになる』時もたしかにあるのだ分かってきた。今振り返ってみると、オズワルドが熊を殺す判断を下したのは、彼の優しさなのだと理解している。悪戯に苦しめるのではなく、助からない命を解放してあげる。それに母子や私たちに危険がないように殺したのだ。自分では認めないが、彼はとても優しい人間だ。
「でも、自分を犠牲にする方法は取ってほしくはないなぁ……」
「ぁ゛ぃ゛……?」
「あ……。何でもない」
つい口に出してしまっていたようで、慌てて口を閉じる。ベッドの上で寝転びながら、兄の揺れる尻尾を眺めていたら、段々視界が微睡んできて、いつの間にか寝てしまった。
◆
目を開けるとオズワルドが戻ってきており、この都市の地図を手に入れた彼は、机の上に広げて地図を眺めていた。
「私なんだか急に眠くなっちゃって……。荷物を運ぶの手伝うよ」
材料や薬が入った鞄を探すが見当たらない。キョロキョロ見回していると、オズワルドにもう売りに行ったのだと言われた。
「あ、そうだったんだ……。どのくらいになったの?」
「宿屋が必要なくなる程度には」
オズワルドの言葉に首を傾げていると、「冗談ですよ」と笑われた。その時、家が一軒買えるという意味だと気づき、自分の理解の遅さに嫌気が差した。家一軒とはいかずとも、当分旅費の心配はないくらい稼いできてくれたようだ。本当にありがたい。
「とりあえず、リリーさんの服を調達した方がいいでしょう。まだ、日は落ちてませんし、今から買いに行きますか?」
窓から見える空はまだまだ明るい。オズワルドの言葉に頷いて、二人で買い物に出かけた。
「あちらの大通りに婦人用の仕立て屋があります」
オズワルドの言葉に驚いて、違う違うと首を振る。婦人用の服など着る気はない。
「待って、待って! 男物の服の方が動きやすくて着心地がいいの。そういうお店はどこにあるの?」
今、隣をすれ違った貴婦人のような格好をするつもりはない。あんなに裾の広がったスカートは山の中では歩けない。今後のことを考えると、どう考えてもあれは動きにくい。
オズワルドはため息をついた。
「いいですか? 今回服を買うことになったのは、この都市に馴染むためであって、旅でも使える服を買いに来たのではありません」
「でも、もったいないし……」
「もったいないのは、あなたが年頃の女性であるということを捨ててしまっていることです。あなたと同じ歳の子もみんな飾り立てて、生き生きとしていますよ。ほらっ」
周りには、小さな子からご夫人まで皆、お洒落な服装をしている。
「あまりこういう機会もないでしょう。試しに楽しんで見るのも良いのでは? せっかく、可愛らしい顔をお持ちなのですから」
オズワルドの言葉に顔が熱くなる。今まで人から、いや、兄や父以外の男性から可愛らしい、などと言われたことはない。
「髪の毛も随分と伸びましたね。髪飾りをつけるのもいいかもしれません」
この男は卑怯だ。目を隠して、表情を隠して、私を女性として褒めるだなんて。オズワルドの考えていることが分からないから、自分がどう振る舞えばいいのか分からない。いや、彼の考えが分かっていたとしても、振る舞い方は知らないのだが。
「お兄さんもきっと喜びますよ」
この男は巧みに私を操る。兄という言葉を使えば、私を思い通りに動かせるのと分かっている。とても卑怯な男だ。
私はヅカヅカと足を踏み鳴らして、オズワルドに案内された仕立て屋に入った。
服を買いに行った時に、ちょうど右顔半分を隠せる仮面が売ってあった。最近、仮面をつけてパーティーをするのが流行っているらしく、夜歩く人々は大抵仮面をつけているらしい。
その話を聞いて、夜は兄も仮面をつければ出かけられるのではないかと思った。日中より明るくないし、多少のことでは彼が異形だとは気付かないだろう。いい案だと思ったが、オズワルドに却下された。
「なんでよ!」
「お兄さんは街を出歩かない方がいいと思います。ここの聖職者はかなり信仰心が熱いようなので、絶対にトラブルは避けた方がいいです」
「でも、お兄ちゃん、外に出たがると思うよ?」
「……それは大丈夫かと。私の方からお兄さんには伝えておくので、心配しないでください」
いつの間に兄を説得できるような間柄になったのか。前回、私が止めた時はダメだったので、説得はオズワルドに任せることにした。
オズワルドは自分の服を買う様子はなく、なぜ買わないのかと問うと、この方が都合がいいのだと言う。この都市には聖職者が多いから、彼らに近づいて話を聞くには神父の服がいいらしい。
オズワルドは聖職者から、私は一般の人々からシーラの湖畔についての情報を調べることになった。兄は残念ながらお留守番だ。
◆
次の日。人通りが多い公園で『シーラの湖畔』について尋ねた。朝から昼まで聞いて回っても誰も知らないと言う。場所を変えた方がいいのかと悩んでいると、一人の聖職者に話しかけられた。
「お嬢さんどうしましたか?」
後ろから話しかけられて振り向くと、そこには父と同年代ぐらいの男が立っていた。オズワルドが着ている服とよく似た赤紫のキャソックを身に着けている。彼も神父なのだろうか。
「え? あ、えっと、とある場所を探してまして。『シーラの湖畔』という場所を知っていますか?」
「……」
驚いたような顔をして黙っている男に首を傾げながら、どうしたのかと尋ねるとハッと気づいたように「何でもありませんよ」と言われた。
「あの、それで、『シーラの湖畔』という場所を……」
「残念ながらお力になれないようです」
「……そうですか」
「私はアガフォンと申します。あなたの名前を教えていただけますか?」
自分の名を名乗っていいのか分からなくて、友人の名前を借りてオリビアと名乗る。すると、アガフォンと名乗った男は「素敵な名前ですね」と言ってくれた。自分の名前ではないが礼を言う。
「オリビアさんはここに住んでいらっしゃるんですか?」
他所から来たと言えば理由を尋ねられるだろうから、何て答えようか、どういう理由があってここに来たことにしようかと悩んでいると、アガフォンが首を振った。
「困らせてしまったようですみません。初対面の女性に住まいを聞くなど不躾でしたね」
「え? はぁ……」
よく分からないが一人で納得してくれた様子。シーラの湖畔について知らないのであれば用はないのだが、なぜか質問責めにされる。よくここにいるのか、何が好きなのか、教会や大聖堂には行くのか。
私が知っている聖職者はオズワルドしかいないが、皆こういうものなのだろうか。それとも私が不審だと思われているのかもしれない。
居心地が悪い上、情報を漏らすとよくないので、嘘をついて撤退する。
「知り合いが見えたので、私はもう行きますね! 失礼します」
アガフォンが私を引き留めようとしたのをかわし、走って逃げる。追ってくるようなことはなかったが、少し遠回りして宿に戻った。
予定より早く戻った私を見て、兄は驚いたようだった。兄の姿を見て安心する。
「ぉ゛ぅ゛ぃ゛ぁ゛……?」
「私、ちょっと失敗しちゃったかも……。オズワルドが戻ってきたら話すね」
名前も宿屋の場所も伝えていない。ここに来るまで遠回りもしてきた。大丈夫、きっと大丈夫。
いつもと様子の違う私に気が付いたのか、兄は頭を撫でてくれる。おかげで私の心は落ち着きを取り戻した。
しばらくして戻ってきたオズワルドに、アガフォンと言う男を知っているか尋ねる。彼は首を横に振る。
「オズワルドとよく似た赤紫色の服を着てて、色々尋ねられたから、私慌てちゃって。も、もちろん名前も宿屋のことも話してないよ! 私、そんなに怪しかったのかな……?」
「赤紫ですか……」
オズワルドにどのあたりで話しかけられたのか聞かれて場所を答えると、その近くには大聖堂があるらしかった。そして、何とも言えないような至極真面目な顔でオズワルドは言う。
「おそらく、その方は司教様ですね。なぜ、リリーさんに話しかけたのかは分かりませんが、司教に目を付けられるのは厄介ですね……」
司教とは神父よりも偉い人なのだという。困った表情が出ていたのか、オズワルドは笑って励ましてくれる。
「リリーさんのせいじゃありませんよ」
悪いことをした覚えはないのだが、自分たちが動きにくくなったことが分かり、申し訳なくなる。
「外に出かけるのは、しばらく止めた方がいいのかな?」
うーんと唸って、オズワルドは首を横に振る。
「司教様は忙しいお方なので、今後出会うことはないとは思いますが、一応出会った場所は近づかない方がいいですね。私の方でも調べておきます」
今日、どうして司教がうろついていたのかは謎だが、あの場所には近づかないと固く誓って、オズワルドに頭を下げた。
昨日とは反対側の噴水前広場で、シーラの湖畔について尋ねていると、一人の女性が近づいてきた。
「ねぇ、あなた。昨日、公園にいたでしょう? 場所を尋ねてるってことは旅人さんかしら?」
私が頷くと彼女は笑った。
「あなたの探している湖畔は見つかった?」
「いいえ。地図でも探したんですけど、シーラって言う地名も見当たらなくて。地元の人しか知らない場所だと思って聞いて回ってるんです」
「私思ったんだけど、それって誰かの私有地なんじゃないかしら」
「私有地……? 湖畔がですか?」
彼女はニッコリして頷いた。
「ここには沢山の貴族が住んでいるのよ。個人で湖畔くらい持ってても不思議じゃないわ」
彼女は妙に私に顔を近づけて言う。
「私はそんな貴族の人に見染められるのが夢なんだけどねっ! あ~、早く私という存在を認知してほしいわ~」
彼女は確かに服や髪の毛に力を入れているようで、その熱意が伝わってくる。頑張ってくださいと応援すると、彼女に手を取られた。
「私、最近気づいたのよ。最近の貴族はね集団戦を好むの。大抵友人と二人で話してて、そのまま二人の女性に話しかける情けない人たちなの。でもいいわっ! 私を娶ってくれるなら。ナヨナヨしている方が御しやすいしね!」
「そ、そうなんですね……」
私にはまるで役に立たない情報をくれる彼女は、興奮した様子で私の肩を掴んだ。
「それでね。私昨日ピーンと来たの。この集団戦、私はあなたとチームを組むのがいいってっ!」
「え……? え?」
二度聞き返してしまう。彼女は私の声など聞き取ってないようで、鼻息荒く話し続ける。
「なんで最近、仮面舞踏会が流行っているか分かる? きっと、上品なだけの女性に飽きて、刺激的な女性を求めているに違いないのよ。つまり、私のことね! 大丈夫、私に任せて! 私、パーティ好きで有名なダーリヤ夫人の使用人と仲がいいのよ! チョチョッと頼めば、入れてもらえるんだから、安心しなさいっ!」
不法侵入しようと言っているのかこの女性は。ますます彼女の本気さが伝わってきて、いよいよ私も無理だとはっきり伝える。彼女はプゥッと頬を膨らませて私を見た。
「何が嫌なのよ。貴族と結婚するのは平民の夢でしょ?」
「私は違うので別の方を」
「だめよっ! あなたちょうどいいんだものっ! 凄く品がある美しさを持ち合わせているわけでもなく、かといって不細工でもない。あなたはかわいらしい野花なの! 私を引き立てるのにこれ以上ないほどにちょうどいいのっ! 私の結婚が掛かってるんだから、お願いっ!」
鬼気迫る顔で迫ってくる彼女は恐ろしいほどの圧力だ。その姿はいつか見た猛獣の姿にも勝るとも劣らない。
「それに、あなたの探しているシーラの湖畔も見つかるかもしれないわよ。こんな街の中で個人が所有しているかもしれない土地を尋ねても、誰も知らないわよ。ね? 行きたくなったでしょう?」
たしかにそうだ。昨日、今日と、ずっと尋ねて回っていたが、シーラと言う名前すら誰も知らなかった。彼女の言う通り貴族が所有している土地の可能性はある。
しかし、なぜ、そんな個人の私有地をアイザックが私に伝えてきたのかは謎だ。彼はその貴族と何か繋がりがあるのだろうか。そう考えると、その貴族も危険な人物ではないのか。
一人で考えるには難しくて、この話は一度持ち帰りたいと目の前の女性に話すと、彼女は了承してくれた。
「私の名前はヴェロニカ。じゃあ、結果は明日、この噴水広場で聞かせてくれる? 仮面舞踏会は三日後だから早く知りたいのよ」
「わ、私はリ……オリビア。明日、同じ時間にここで」
笑顔で手を振る彼女の笑顔は、そこらの花よりも満開だった。
◆
「そういうわけで……、一応貴族の人にも話を聞いてみようかなと」
「ぁ゛ぇ゛ぁ゛……!」
兄は反対らしく、私の手を掴んで拒否をする。オズワルドは悩んでいる様子だ。
「私も探してはいるんですが、手詰まり状態なんですよね。シーラという名前さえ誰も知らないようで」
オズワルドの方も情報はないらしい。
「たしかに個人の所有地の可能性はあります。舞踏会に行ってみるのは個人的には賛成ですが……」
オズワルドが兄を見ると、兄は怒って唸り声を上げた。うーんと悩んで、オズワルドは兄に言う。
「私も舞踏会に行けば問題ありませんか?」
オズワルドがそう言うと、兄は納得したようで私の腕を離した。
「えっ!? お兄ちゃん、いつからそんなにオズワルドのこと信用するようになったの!?」
「リリーさん、私のこと信用してくれてないんですか?」
「あ、えっと、そういう訳では……」
「じゃあ、決まりですね」
兄の意外な反応に戸惑いを隠せなかった。
◆
次の日。私はおまけのオズワルドを連れて、ヴェロニカに会いに行った。すると、彼女はギョッとした顔で私の腕を引っ張り、私にしか聞こえないようにこっそりと話す。
「あんた、何神父なんか連れてきてんのよ! 私に告解でもしろって言うの? ないわよ、そんなのっ!」
「いや、そうじゃなくて。私の友人も舞踏会に行きたいって」
「はぁ???」
私の腕を解放したヴェロニカがオズワルドに向かってメンチを切っている。神父がなぜそんな場所に行きたがってるのか不思議らしい。
「しかも何? あなた、目を隠しちゃって盲目なの? 無理よ無理っ! てか、ここまでどうやってきたのよ!」
そうだった。オズワルドは目を隠しているのだ。普通目が見えない人が杖も無しに歩き回れるとは思わない。オズワルドが何か言う前に、とっさに嘘をつく。
「あ、え、手を繋いできたんだよ!」
「はぁ??? オリビア、この神父とできてんの!?」
ヴェロニカの言葉に違う違うと否定する。
「そ、そう! お兄ちゃんなの! 心配性だから付いて行きたいって」
「ふぅん? 妹が心配なのは分かるけど、妹の恋人探しにまで口出してくる気なの? 妹の気持ち考えなさいよ!」
「ちょっと待って!? 恋人探しではないよ!?」
「あんた、どうなのよ! 妹がいい感じになったらどうすんのよ!」
ヴェロニカがオズワルドににじり寄った。うーんと唸って、オズワルドは言った。
「兄としては、全力で引き剥がしますね」
ヴェロニカは哀れそうな目でこちらを見て言った。
「あんた……。一生結婚できなさそうね……」
◆
彼女はあの噴水広場の近くにある仕立て屋の娘らしい。おしゃれな服やドレスをいくらでも持っているそうで、ドレスはヴェロニカのお下がりを借りた。
薄いピンクの可愛らしいドレスを借りて、髪の毛も彼女の手にかかればあっという間に出来上がり。編み込まれてアップされた髪の毛はまるで、アップルパイを頭に乗せているみたいだ。
ここまで、着飾ったことはなかったので、自分の姿にドギマギした。私の兄になりきったオズワルドは私の姿を褒めてくれる。嬉し恥ずかしい気分だ。
「あんた、見えない癖にテキトーなこと言ってんじゃないわよ!」
「おや、これは手厳しい……」
オズワルドが本当は見えていることを彼女は知らないので、彼の発言に怒っている。「ああいう男は女の敵なのよ!」と断言する。
ヴェロニカ自身は情熱を感じさせる赤いドレスで、胸元が大胆に開いていてとてもセクシーだ。まさに大人の女性という感じ。
「屋敷に着くまでは妹と手を繋いでもいいけど、会場に入ったら妹は借りるわよ! あんたは壁にでも縋ってなさい。……会場に着く前から仮面なんかつけて、どんだけ気が早いのよ。見えないくせに、どうして付いていきたいなんて言うのかしらっ」
オズワルドはタキシードを着ていて、既に仮面を被っている。彼女にとって、オズワルドの存在が気に障るらしく、彼が何をしてもしなくても文句を言っていた。
ヴェロニカを宥めながら、三人で目的の屋敷まで向かうと、彼女の友人の使用人が裏口から屋敷に入れてくれた。
会場には溢れんばかりの人、人、人。皆が仮面を付けて会話を楽しんでいる。ヴェロニカは目元だけの仮面を付けて、私はオズワルドと同じ目と鼻を覆う仮面を付けた。
「行くわよ、オリビア」
「う、うん。お兄ちゃん、またね……っ」
ヴェロニカに引き連られながら、彼女の言う絶好の穴場ポイントに移動する。テーブルに置かれている料理はどれも美味しくて、持って帰って兄に食べさせられたらいいのにと思う。
「オリビア、何食べ物なんかにがっついてんのよ! せっかく兄の監視下から離れられたんだから、あんたも男を探しなさいよ!」
「でも、こんな美味しい料理食べないと損だよ」
「これだから、初心者は……。あっ、ちょっと二人こっちに来るわよ! しゃんとなさいっ!」
ヴェロニカに言われて皿を置く。顔を上げると二人の男性がこちらに来ていた。
「白い肌に映える美しい赤に目を奪われてしまいました。あなたはこの会場の誰よりも美しい。今宵は私の手を取って踊っていただけませんか?」
ーーす、凄い……っ! ヴェロニカさん、貴族に跪かせてる……っ!
その姿を見つめていると、もう一方の男性が話しかけてきた。
「君はとても食いしん坊さんだね。口元にカケラがついているよ」
「え、本当ですか!?」
口元あたりをペタペタ触る。ここには鏡がないので取れたか、取れていないのか全く分からない。
「あはは。取れたよ、取れた。君は慌てん坊さんでもあるんだね」
今まで接したことない男性のタイプ。でも、ちょうどいい機会だ。ここにきた理由であるシーラの湖畔について尋ねてみることにした。
「質問してもいいですか?」
「いいよ、なんでも聞いて」
「シーラさんって名前に聞き覚えはありませんか?」
私の質問に驚いた様子を見せたが、男はすぐに笑ってみせる。
「なんだ。僕について聞きたいんじゃないのかぁ……。シーラ……シーラ……。どこかで聞いたことがあるような……」
「え!? 本当ですか!?」
「うーん……。君が名前を教えてくれたら、思い出せそうだなぁ……?」
なぜ、私の名前を教えたら思い出すのかは分からないが、オリビアと名乗ると、彼は満足そうにして、自分のことはゲーニャと名乗った。
「ゲーニャさん、シーラさんのこと思い出しましたか?」
「うーん、そうだなぁ……。オリビアと二人静かな場所に行けば、思い出すかもなぁ」
「え? でも、私、ヴェロニカさんと……。あれ?」
周囲を見渡してもヴェロニカと彼女に跪いていた男がいない。彼女を探しに行こうとすると、ゲーニャが腕を掴んできた。なんだかゾワリとして鳥肌が立った。
「ダメだよ、二人の邪魔したら。ほら、二人はあそこでよろしくやってるよ」
彼が指さした方向にヴェロニカと男がいた。二人は舌を絡ませるようなキスをして、会場外の暗闇の中に消えていく。呆然としながら見つめていると、ゲーニャが耳元で囁いた。
「気持ちよくしてくれたら、シーラのこと教えてあげる」
「……っ!」
反射的にゲーニャの手を弾き、睨みつけると、
「ふーん? シーラのこと聞きたくないんだ?」
シーラについては知りたい。だが、別にこの男一人から聞き出すことにこだわる必要はない。ゲーニャを無視して立ち去ろうとすると再び腕を掴まれた。
「離してよ!」
「なんでだよ、ちょっとくらい、いいだろ?」
強引に引き寄せられそうになった時ーー
「失礼。その手を離していただけませんか?」
オズワルドは男の手を掴み、ギリギリと力を込めると悲鳴を上げた男の手がやっと私を解放した。私はオズワルドの後ろに回って身を隠す。
「なんだよ、お前っ! いい雰囲気だったのに邪魔してくんなよ!」
「いい雰囲気? とてもそんな風には見えなかったのですが。さぁ、こんな男放っておきましょう」
ゲーニャはオズワルドに掴みかかり、握り拳で顔に殴りかかった。私が後ろにいて、オズワルドは避けることができず、仮面が弾き飛ばされて、顔が晒されてしまう。オズワルドの顔を見て男が尻もちをついた時、一人の紳士が大声を上げた。
「一体何の騒ぎだーー!?」
皆の注目が声を発した男性に向けられている間、私は自分の仮面を外し、オズワルドの顔を隠すように手を伸ばす。オズワルドはそれを受け取り、素早く仮面を取り付け、二人でその場を撤退して行く。引き留めるような声が聞こえたが、必死に走って屋敷を後にした。
「はぁ……はぁ……」
思いっきり走ったために息が切れ、慣れないヒールの靴で走ったためか靴ずれが起きている。痛みに顔を顰めて歩いていると、オズワルドが仮面を外して、私を横抱きに抱き上げた。
「わわっ! だ、ダメだよ! 目を隠さなきゃっ!」
「別に問題ない。ちゃんと左目の方は隠してますからね」
「え……?」
月明かりの中、オズワルドの顔をよくよく見ると、確かに左目に眼帯がしてあった。
「あの人腰を抜かして倒れてたから、てっきり……」
「あれは睨みつけてやったら、勝手に腰を抜かしたんだ」
オズワルドの言葉にホッと息をつく。
なんだ。目を見られたから、驚いていたのだと思ったのに。私が仮面を脱いでまで、オズワルドの顔を隠してやる必要はなかったのか。
不満が顔に出ていたのか、オズワルドが指摘する。
「何か言いたげな顔ですね。宿に着くまでに顔を戻しとけよ」
「どういう意味よ!」
「お兄さんに、奇麗な姿を見せてあげてください」
「……っ」
不意打ち攻撃なんて酷すぎる。顔のほてりを夜風で冷まして、なんとか収まった頃、無事に宿にたどり着いた。
「お兄ちゃんっ! じゃ~~んっ!」
「……っ!」
兄は私の姿を見て嬉しそうにしているのが分かる。私は兄に近づいて頭を下げた。
「見て見て! アップルパイ見たいでしょ!?」
「ぶほっっーー!」
なぜか、オズワルドが私の言葉に爆笑して、兄は「可愛いね」と言ってくれた。試しに兄に仮面を付けようとするが、右半分の肌や頭が仮面を付けさせてくれなかった。
貴族相手にシーラの湖畔について尋ねるために舞踏会に行ったのに、私の収穫はゼロだった。
オズワルドの方は少し情報を掴んだようだ。どこかの令嬢でシーラという名前の人がいるらしい。だが、誰の娘かは分からなかったようで、オズワルドは教会の伝手で引き続き探し、私も広場で人々に聞いて回ることになった。
◆
次の日。ヴェロニカの家に借りていた服を返しに行くと、彼女はおらず、彼女の父である店主にドレスを返した。そのまま広場に向かうと、ヴェロニカがいて声をかける。
「ヴェロニカ! 昨日はドレスありが……」
言い終える前に、ヴェロニカの隣にもう一人、男が立っていることに気が付く。その男は昨日大声を上げた紳士だということに気が付き、反射的に踵を返して走り出すと、男が私に止まるように言った。
「待ってくれ! お願いだっ!」
男の願いを無視して走るのだが、男はずっと付いて来て、苦し気に私を呼んだ。
「シーラっ! 待ってくれ……っ!」
その名前に驚いて足を止める。
ーー今、この人……。シーラって言った……!?
「シーラ……っ、シーラ……っ!」
なぜか目の前の男は私の方を見て、シーラと呼ぶ。凄く悲しそうに、苦しそうに、私に近づいてくる。触れられそうになり、反射的に避けると、男は酷く悲しそうな顔をした。
男の後ろからヴェロニカがやってくる。
「マキシム様お待ちください……っ。はぁはぁ……。その子はオリビアと言うんです。シーラ様ではございません……っ」
「オリビア……? そんな……、こんなにも……っ」
私の仮の名前を呼んで、地面に崩れ落ちる男。そんな男にヴェロニカは慌てた様子を見せた。
「マキシム様! お立ち下さいっ! 御召し物が汚れてしまいます! ほら、オリビア手伝って!」
「う、うん……」
私が男に手を差し出すと、男は震える手で私の手を掴んだ。その口からはずっと「シーラ、シーラ……」と呟かれている。大の男の泣いている姿にどうしていいのか分からない。
「泣かないでください、大丈夫ですから……」
泣き止んでほしくてそう言ったのだが、さらに泣かせてしまった。
「オリビア、これで拭いて差し上げて」
ヴェロニカにハンカチを渡され、男の目元を拭いてやる。男は絶えず、シーラという名前を呟いていた。
ヴェロニカと一緒に男を導き、仕立て屋にもう一度入って行く。男の姿を見た店主が目を見開いた。
「マキシム様、どうぞこちらへ! 今、マキシム様のお好きなハーブティーをお出しいたしますから!」
「オリビア、お願い。マキシム様の隣にいてあげて。理由は後で話すから!」
「う、うん……」
店主の支えによって男は椅子に座り、私はその隣に座る。嗚咽が出ている男の背中を摩ると、男は机の上に置いていた私の右手に手を重ねてきた。嫌だという気持ちより、泣き止んでほしいという気持ちが勝っていたので特に気にせず、そのまま摩っていると、店主がハーブティを二つ用意してくれた。
男を摩っていた手を止めて、コップに触れるがまだまだ熱い。彼にとっての適温は分からないが、手が震えた状態で飲むには危ないだろうと思い、コップを少し下げる。
ーーどうしよう……。
男の欲しい言葉は分かっていた。だが、自分が娘のふりをして彼を慰めていいのかよく分からない。それでも、夢か現実か分からないくらい取り乱しているのなら、落ち着かせるために声をかけてあげた方がいいと思う。きっと、私が彼の娘ならーー
「お父様。大丈夫ですよ。シーラが傍にいますからね」
「……っ!」
「ほら、息を吸って……、吐いて……」
震えている両手を取って、一緒に深呼吸をする。手を握られたら握り返してやる。嗚咽が止まって、静かな呼吸に変わったのを見計らって、少し冷めたお茶を勧める。その手はもう震えてはいなかった。
お茶は二つ用意されていたので、持ち手を掴んで香りを吸い込む。リンゴのような香りがしてとてもいい匂いだ。一口飲んで「美味しいですよ」微笑むと、男は真似するようにお茶を飲んだ。
「落ち着きましたか?」
「あぁ……。取り乱してすまなかった」
目の前の男の目は真っ赤になっている。もう泣いてはいないが目が凄く潤んでいた。
「目を閉じてください。失礼しますね……」
私の手は冷え性なので、人より手の温度が低い。きっと目に手を当ててやったら、熱を少しでも冷ませるだろうと思い、そっと瞼に触れる。瞼はとても熱かった。
「気持ちいいですか?」
「あぁ、とても……」
位置をずらして冷ましてやるが、私の手も熱くなってきて、そっと手を離す。
「ありがとう。オリビアさん……」
開いた目は先ほどよりは潤んでいない。ちょうどそこにヴェロニカがやってきて、事の顛末を話してくれた。
どうやら、この男性はマキシム様と呼ばれるこの都市有数の御貴族様らしい。彼には亡き妻の忘れ形見ーーシーラという娘がいた。娘と二人、長年一緒に過ごしていたが、彼女が十二歳の時に、別荘の湖畔で溺れて亡くなってしまったのだと言う。
娘を失ってしまった彼は失意のどん底に落ち、数年経ってようやく立ち直った今、シーラによく似た女性。つまり、私を舞踏会で見つけたらしい。ちょうど私が仮面を外した姿が娘の成長した姿に見えて、私と一緒に舞踏会に来ていたヴェロニカの存在を、あの跪いた貴族から聞いたのだと言う。彼女を尋ねたちょうどそこに、偶然私が現れたというわけだった。
「すまなかったね……」
「いえ……」
先ほどマキシムは私をオリビアと呼んでいたし、ちゃんと娘との区別はついているらしい。ちょうど彼は私の探し人でもあったので、その湖畔の場所について尋ねてみた。
「ここから少し北に行ったところに、私の所有する別荘があってね。夏には娘と二人でよくそっちで過ごしていたんだ。彼女はあの湖畔が好きだったからね」
マキシムは遠い日を思い出すように遠くを見つめている。
「あそこには沢山の鳥が訪ねて来て……。シーラは鳥が大好きだったから、よく鳥の絵を描いていたんだよ。腹が白くて、背が黒い鳥が一番お気に入りみたいだった……。その絵を見ると、シーラを思い出すから、見れなくてね……っ。ずっと、向こうの屋敷に置いたままなんだ。シーラとの思い出は全て、あそこに……っ。私は屋敷も思い出も全部捨てて……っ!」
マキシムが再び感情が揺れたように目を潤ませる。こちらまで涙が出そうになって、彼の背中を摩る。
「捨ててなんかいませんよ。シーラさんとの思い出はあなたの中にちゃんとあります。その屋敷に大切に保管しているだけです。だって、あなたの記憶の中にいるシーラさんは笑っているでしょう?」
微笑みながらマキシムにそう言うと、彼も私の顔を見て微笑んだ。
「あぁ……。私を、皆を笑顔にしてくれるような笑顔だ……」
「シーラさんは幸せ者ですね。あなたのようなお父様にこんなにも想ってもらえて」
マキシムは大きく息を吐いて、私を見た。
「……オリビアさん、ありがとう……。今日は大分取り乱してしまった。また、明日会ってもらえないだろうか?」
マキシムにはまだ聞きたいことがある。彼がきちんと落ち着いてから話を聞く方がいいだろうと判断し、その言葉に了承した。迎えを寄こすと言われ、どこに住んでいるのか尋ねられる。慌ててこちらから出向くと約束して、彼の屋敷の場所をメモに取った。
「兄と友人が一緒でもいいですか?」
「あぁ、もちろん! 夕方に尋ねてくれると嬉しいな。ぜひ、夕食にご招待したい」
「それは光栄です。では、夕方頃にお伺いいたしますね」
宿に戻り、今日の出来事を二人に伝えた。
「二人も一緒に行ってくれる……?」
二人とも頷いてくれたが、兄の姿はどうするべきか。夕食を共にすると約束してしまった以上、かなり危ない橋を渡ることになるだろう。
それでも行くと言ったのは、彼が信用の置ける人物だと思えたから。仮に兄の姿が、友人の姿が、異形であっても、愛情深い彼なら分かってくれるのではないかと思えたのだ。理由も根拠もない。ただそう思っただけ。
「私、マキシム様には嘘をつきたくないんだ。名前についてもちゃんと話そうと思う。彼は誠実に全てを語ってくれたから、私もそうしたいの。ダメかな……?」
「いいと思いますよ。リリーさんがそう思ったのなら、きっと良い方なんでしょう」
「ぁ゛ぃ゛ぃ゛ぉ゛ぅ゛ぅ゛……」
「二人とも、ありがとう! 大好きっ!」
マキシムに感化されたのか、愛情が溢れて零れだす。二人の腕を引っ張って、抱きしめて、引き寄せる。二人はバランスを崩すがそれでもお構いなし。そんな一方的な容赦ない愛でも二人は受け入れてくれた。
◆
メモした通りに屋敷に向かうと、それはそれは大きな屋敷が構えてあった。なるべく人通りが少ない道を選び、兄は黒いマントの中にミイラ男を飼っている状態だ。
門の近くにいた男に声をかけると、少し驚いた顔をした後、すぐに門を開けて私たちを中に入れてくれた。敷地内には噴水や庭園があって、その豪華さ、煌びやかさに、もしやマキシムはこの都市で一、二を争う貴族なのではないかと想像する。
玄関前に控えていた執事がニッコリと笑って私たちに言った。
「オリビア様。ようこそいらっしゃいました。旦那様が首を長くしてお待ちしておりましたよ」
扉を開けると正面の壁に大きな肖像画が三つ並んでいた。一つはマキシム。もう二つは私によく似ているように見えた。
「本当によく似ていますね」
「……」
オズワルドもそう思ったようだが、兄はどう思ったのかは分からなかった。
執事に連れられて歩く廊下まで華々しく、まるで王様が住んでいるのではないかと思えてくる。
長い廊下を進むと、ようやく目的地に着いたようで扉が開かれた。長いテーブルの上に沢山の料理が並んでいて、その一番奥の席にマキシムが座っていた。私を見ると、すぐに立ち上がりこちらに近づいてくる。
「オリビアさん。待っていましたよ……っ!」
どうやら執事の言っていたことは本当らしかった。昨日よりは落ち着いているように見えるが、それでもまるで長年行方不明になっていた娘が帰ってきたかのような、そんな取り乱し方をしている。
昨日同様、興奮している彼に対し、冷静に対応する。
「こんばんは。マキシム様。昨日ぶりですね、お元気になられてよかったです。こちら兄のウィルと、友人のオズワルドです」
マキシムはオズワルドを見て首を傾げる。
「あなたは舞踏会に参加していましたよね? お兄さんだと聞いていたのですが……」
ヴェロニカの話だなと瞬時に悟り、彼の言葉を否定する。
「すみません。事情があってヴェロニカには隠してまして。こちらが友人のオズワルドで、こちらが私の本当の兄のウィルです」
「……そうなんですね。オズワルドさんに、ウィルさん。私はマキシムと申します。どうぞ、よろしくお願いしますね」
この際だから、自分の名前も訂正しておこうと思う。
「混乱させて申し訳ないんですが、実は私の名前、オリビアじゃないんです。本当はリリーと言います。これからはそう呼んでいただけると嬉しいです」
「……わかりました。リリーさん、皆さんどうぞ座ってください」
マキシムに促されて席に座る。傍にいた従者は全て部屋の外に出るようにマキシムが言った。目の前の美味しそうな料理からは、涎が溢れ出るほど見栄えと匂いが素晴らしい。
「どうぞお召し上がりください」
その言葉を皮切りに遠慮なく料理を平らげていく。こんなご馳走滅多にお目にかかれない。そんな私の食い意地汚い姿を見てマキシムが笑う。
「リリーさんは本当においしそうに召し上がりますね」
「はい! とっても美味しいですから!」
笑顔で答えるとマキシムは少し目を見開いて、そして笑った。
「オズワルドさんは目を隠してますが、なんだか見えているかのようですね……」
マキシムがオズワルドに不思議そうに尋ねると、オズワルドは大したことはないように答える。
「目が見えなくとも、どこに物があるか感じ取れるんです」
「聖職者はやっぱりそういう不思議な力を感じ取れるんですねぇ……」
マキシムはオズワルドの服を見て、神父なのかと尋ねると彼は大きく頷いた。どうやら、今回は神父でいくらしい。マキシムが兄を見たので、先に兄について話しておく。
「兄は話す事ができなくて、それにとっても恥ずかしがり屋なんです。フードを被ったままですが、お許しください」
「そうなんですね。えぇ、構いませんよ。自由にしてください」
マキシムの表情、言葉、対応。どれを取っても私には信用たる相手に思えた。だから、少し踏み込ませてもらおうと思う。
「マキシム様。玄関に飾られていた肖像画を見ました。本当に私にそっくりですね」
「……えぇ、本当に。生き写しじゃないかと思えるほどにそっくりです。リリーさん。女性にこんなことを尋ねるのは失礼ですが、今おいくつですか?」
「今は……たしか……、十五ですね」
「……あぁ。……そうなんですか」
マキシムは目を閉じ、顔を上に向けて、ゆっくりと息を吐く。顔を下ろして、愛おしそうに私を見つめた。
「シーラが生きていれば、あなたと同じ年になります。あなただったら、シーラの良き友になってもらえたでしょう」
「……えぇ。私もそう思います」
マキシムの顔を見ている泣けてくる。私が娘だと言えたらどんなによかっただろう、どんなに喜ぶだろう。きっと、彼もそう思っているに違いなかった。
「リリーさん。いつでも私のもとへ訪ねに来てくださいね。いや、あなたなら、あなたたちならこの屋敷に住んでもらっても構わない。どうですか? 不自由はさせません」
頷いてあげたらどんなに喜ぶだろう。どんなに笑顔を見せてくれるだろう。だが、それは今の私たちには無理な提案だった。
「申し訳ありません。マキシム様。私もそうできればと思うのですが、今はできないのです……」
「そんなっ……どうして……っ」
悲痛な表情を浮かべるマキシムを見て、つらくなって兄を見る。マキシムにこんな顔をさせたくないが、兄のことは言えない。言えないのだ。
何と言えば傷つけなくて済むか、言葉を選んでいると、
兄が、フードを、外した。
「お、お兄ちゃんーー!?」
思わず声を上げてしまい、その声につられてマキシムも兄の姿を見てしまう。マキシムは目を見開いて言葉を失っている。包帯姿でもびっくりしてしまうはず、それなのに兄はその包帯さえも解いてしまった。
今の兄は旅の当初より人らしい肌、目、鼻、口を取り戻しているが、常人としてはかけ離れた姿をしている。そんな状態をマキシムが見たらーー
「ぉ゛ぇ゛ぉ゛ぇ゛ぃ゛……」
兄の言葉を否定する。
「ぉ゛ぇ゛ぉ゛ぇ゛ぃ゛……」
兄の言葉を否定する。
「ぉ゛ぇ゛ぉ゛ぇ゛ぃ゛……」
「違うっ! 私のせいなんだってば……っ!」
テーブルを叩き、皿が、フォークが、スプーンが大きく音を立てる。部屋は静まり返っていて、自分の乱れた息遣いだけが耳に届く。息を整えながらマキシムに向かって言った。
「私が、兄をこんな姿にしたんです……。私のせいで兄は呪われてしまったんです。私は兄を元に戻すために、兄は呪いを解くために旅しています。オズワルドも一緒に旅をしてくれていて……。ごめんなさいマキシム様。それがマキシム様と一緒にいられない理由です……。……お兄ちゃんっ、ごめん……っ」
私が彼に嘘をつきたくないって言ったから、
私が言葉に詰まっていたから、
彼が傷つかないように、姿を晒してくれたんだよね?
私が望んだから兄は姿を晒したのだ。
「……ウィルさん。ありがとうございます。私のために……。今までお辛い目に逢ったでしょう」
でもね、その価値はあったと思う。私の目には狂いはなかった。
誰がこんなに優しい言葉をかけてくれるだろう。
誰がこんなに優しい目で見てくれるだろう。
誰がこんなに優しい手で触れてくれるだろう。
「私に何かできることはありますか?」
それは兄に、私たちにかけられた優しい言葉、欲しかった言葉。
届かない兄の声の代わりに私が礼を伝え、
泣かない兄の目の代わりに私が泣いて、
触れない兄の手の代わりに私が抱きしめた。
間違いなく、私たち兄妹に取って何ものにも代え難い、価値あるものとして、この時、この瞬間が魂に刻まれた。
やっと、落ち着きを取り戻して、マキシムに尋ねる。
「アイザックという男を知りませんか?」
私の言葉にマキシムは首を横に振る。
シーラの湖畔について知っていたアイザックは間違いなく、マキシムとシーラのことを知っているはずだ。もしかしたら、アイザックはシーラの死と何か関係があるのかもしれない。
そして、白黒の鳥。彼から伝えられた動物は恐らく、マキシムが言っていた、シーラが描いていた鳥のことだろう。そして、その鳥は兄の呪いを解く鍵の一つのはず。
私たちはなぜ旅をするようになったのか、なぜこの地に来てシーラの湖畔を探しているのか、理由を全て話した。
「マキシム様。お願いします。あなたとシーラ様の思い出の地、他人に土足で踏み荒らされるのは耐えられないでしょう。しかし、兄の呪いを解く鍵の一つが、シーラ様が愛した鳥だと思うんです。どうか、どうかお願いします。私たちを湖畔に行かせてください!」
頭を下げてお願いする。深く深く頭を下げる。すると、マキシムは優しく慈しむような声で言った。
「他人だなんて言わないでください。あなた方は私の尊敬する、敬愛する、素晴らしい友人だと、私は思っています。どうぞ、私の別荘に、湖畔に行ってください。ウィルさんの呪いを解いてください。それが私の願いでもあります」
再び頭を深く深く下げる。今度はお礼を伝えるために。
「でも、どうか一つ約束してください」
マキシムの言葉に顔を上げる。
「どうかもう一度、いや、何度でも私に会いに来てください。呪いが解けたのなら教えていただきたい。そして、私も一緒に祝わせてください」
マキシムが微笑む。聖人のようなその微笑みに目元が熱く、熱くなりながら、彼の言葉に頷いた。
◆
「オズワルドどうしたの? 随分無口だね」
「え……? そう、ですか?」
オズワルドの言葉に頷くと、彼は再び言葉を失ったように黙る。
私たちはマキシムに用意してもらった荷馬車に乗っていた。ペトロスからマキシムの別邸まで馬車で二日。マキシムの屋敷に行ってから、オズワルドの様子が変になったように思う。
オズワルドの隣の席に移って手を握ってやると、慌てた様子を見せたが、決して離したりはしなかった。
「あんな聖人、見たことないよね。私もびっくりしちゃった。あはは」
彼は沈黙したままだ。
「世の中には色んな人がいるよね。世界には沢山の人々がいて、私たちはそのほんの少しの人しか出会えないんだよ。マキシム様と出会えた私たちは幸運だと思う」
「そう、ですね……」
キャラバンの皆、旅で出会った人たち、故郷の人々。楽しかったことも、悲しかったことも、つらかったことも、嬉しかったことも。色々な場所で、色々な人々と思い出がある。
オズワルドの布を捲り、巻かれていた両目を晒す。だが、オズワルドは抵抗しない。
「ねぇ、分かってる?」
「……なに、断りもなく外してんだ」
この憎たらしい言動も、私たちの人生にはかけがえのないもの。つまりーー
「オズワルドは私たちの特別ってこと!」
振り向いて兄を見る。兄は否定しない。
「いつも感謝してるの。オズワルドは物知りだし、頭いいし、強いし、カッコいいよ!」
「……っ! そう、かよ……っ」
「だから、これからもよろしくね!」
オズワルドの左瞼の一つにキスをする。これはオズワルドとの出会いに感謝するキスだ。
すると、オズワルドは真っ赤な顔になって、私から布を奪い取った。不貞腐れたような目を向けて、こちらを睨みながら布を巻いている。
口で言わないと伝わらないと思ったから。彼の目に触れないと彼が隠してしまうから。私たちの前では安心してほしいと願う。
三人で過ごせる、こんな時間がずっと続けばいいと思った。
目的地までは二日かかるので、馬を休ませて車内で仮眠を取ることになった。
外の空気が吸いたくなって、ドアを開けて一人降りる。今回の出来事を書き留めたかったので、車の上に載せてある荷物から手帳とペンを取り出した。
近い将来、へこたれそうになった自分が、最後にこの手帳に縋った時、諦めない、こんなにも素敵なことがあったんだって思い出せるように。ペンをスラスラと思いのまま走らせる。多くはいらない。彼の言ってくれた言葉を書くだけ。その文字を見ただけで、きっと同じ気持ちになることができるから。
満足するまで書き終えて、黒く埋まったページをパラパラと捲る。毎日記述していたわけではない。それでもこんなにも多くページが埋まっている。あと少しでこの手帳も全て埋まってしまいそうだ。
「え……? これって……」
ふと、その中の一ページが自分の筆跡ではないことに気が付く。旅の初めに慌ててメモをした時一ページ分空白にしてしまった場所。
ずっと、空白だったページに兄の筆跡があった。
いつ書いたものかは分からない。こうやってパラパラと懐かしみながら捲らないと、気付かなかったであろう隠されたページ。
兄が右手を使えるようになったのは、熊の呪いが解けてからだ。そうであるなら、この文字は最近書かれたもののはず。筆談しているような言葉が並んでいて、綴られた言葉は私の予想外なものばかり。その中でも自分の目を疑ったような言葉があった。
「君はリリーのことが好き?」
「俺とリリーは本当の兄妹じゃない」
「人が多くいる場所では、君がリリーを守ってくれ。俺はただの足手まといだから」
兄が筆談で話すような相手、考えられる相手はオズワルドしかいない。私が知らない事実まで兄はオズワルドに話していた。
ーー本当の兄妹じゃないってどういうこと……?
マキシム、彼の娘ーーシーラの存在が頭をよぎる。そんなことあるわけがない。国を越えた遠い場所で育ち、彼女が亡くなったといわれた歳までの記憶だって私にはある。そもそもシーラは溺死したのだ。その可能性はないはず。
しかし、兄と私が兄妹ではないとはどういう意味か。兄は私がこの手帳を読むことを期待していたのか、それとも見返さないと思っていたのか。偶々、この手帳に書いたのか。
それに、人がいる街や都市に入る時、兄は自分のことを足手まといだと思っていただなんて。私は兄がいるだけで、生きているだけで救われているのに。兄を足手まといだなんてそんな風に思ったことは一度もない。
オズワルドが兄の質問になんと答えたかは分からないが、一緒に旅をしているのだから、私のことを嫌ってはないはず。
どうして、急に兄は彼に好意があるか尋ねたのか、私の知らない事実を伝えたのか、自分の弱さを晒してまでオズワルドに頼んだのか。
二人のやり取りを最後まで読んでも、その理由は分からない。最後の一行に書かれていたのは、『知っておいてもらいたかったんだ』という言葉。前の文章からは『何を』の部分が読み取れない。次のページを捲ってもそこには私の文字が並んでいるだけ。
「何を知ってほしかったの……?」
最後の言葉だけ分からない。兄はオズワルドに何か言ったのだろうか。それとも別の何かに、例えば砂の上、雪の上に文字を書いたのだろうか。それともこのページ全ての事を指しているのだろうか。
そっと、その文字に指をかざしてなぞった時、欄外に記された、私が自分の手で覆い隠していた場所に、兄の文字を見つける。
視界が極端に狭くなりすぎていたのかもしれない。そんな時に視界を広げる様な、外から飛んでやって来たように書かれた言葉。
いや、この文字の群れから追い出されたような、姿を消そうとしているような言葉を見て、言葉を、意識を失った。
◆
馬車に揺られている。車内はとても静かだ。誰が何を言うわけでもない。この中で一番よく話すリリーでさえ、今日ばかりは口を閉じている。とても彼女らしくない姿であった。
振り返れば、随分長い間共に旅をしてきた。こんなにも長く一緒にいる予定はなかった。
昨日のマキシムの言葉を思い出す。彼女の言うように、自分よりも、あの都市にいた司教の誰よりも慈悲深い聖人な人だったと思う。偶にいるのだ。ああいう何の穢れもない真っ白で輝いているような人間が。
こういう時、自分の冷血さや残酷さ、黒さが際立つ。思考や思想、この身でさえも汚い、汚れたものだとハッキリと明暗させられる気分になる。
彼女は何を思ったのか俺を特別だと言った。それは単純に嬉しくもあったし、複雑にも感じた。
マキシムほどではないが、彼女にも彼に似た純潔さを感じる。決して清廉潔白なわけではない。だが、偶にあるのだ。俺にはない白さを見せる時が。それを凄く苦しく感じてしまう時が。
まだ、彼女の兄は彼女を守り切れるほど呪いが解けていない。だが、彼が人だと接せられるほど呪いが解けた時には、俺の存在は必要なくなるだろう。その時が、別れの時だ。
揺れる車内では誰も話さない。彼女の膝の上には、彼女たちと旅を共にしてきた一冊の図鑑が載せられていた。
「リリーさん。湖畔にいると思われる『白黒の鳥』というのは見つかりましたか?」
「……」
彼女はこちらを見て、悲しそうな表情を浮かべ、目を伏せた。
「どうしましたか?」
「……この本、私が買った一年前に書き上げられた本みたいで」
彼女は本の表紙を撫でる。
「『白黒の鳥』……。昨日、鳥について書いてあるページを全て確認したの。該当ページは一つだけ」
「何という鳥なんですか?」
どうしてこんなにも悲しそうな顔をしているんだろう。理由が分からなくて、彼女の顔を覗くが、分かるのは彼女が落ち込んでいるということだけ。
「……オオウミガラスと言うんです」
記憶を辿っても、知らない、聞いたこともない鳥の名だ。
そして、彼女は泣きそうな声で続けた。
「そこに、絶滅したって書いてあるんです……っ」
彼女の言葉を聞いて、図鑑を借りる。オオウミガラスのページを捲って、文字を追う。たしかに、そこには絶滅したと書いてある。
顔を上げると、彼女は泣き出していて、そんな妹を兄が支えていた。
泣かないでほしい。彼女の涙は見ているとこちらが苦しくなる。それに、この本が絶対だということはないはずだ。
「……たしかに、絶滅したと書いてありますが、もしかしたら生き残りがいるかもしれないでしょう? それこそ、今から行く湖畔にいるかもしれない。いますよ、きっと」
呪われている本人より、彼女は悲しんで傷ついている。
触れるのは苦手だ。だが、彼女に何もしてやれないよりずっといい。
「大丈夫ですよ。湖畔に行って、確認してみましょう? 間違いなく、そこはオオウミガラスの生息地だったんですから。泣かないでください」
気休めの言葉。神父としての振る舞い。金を得るための常套句が、なぜ目の前の彼女に向けて、自分も祈るように言葉を使っているのか。
信心深さなんて持ち合わせてはいない。神がいたなら自分みたいなの者が生まれるわけがない。妹に寄り添う兄がこんな姿になるわけがない。
「うん……っ」
兄も俺と同じ気持ちなのだろうと思う。
車内はマキシムの屋敷に着くまで揺れていた。
◆
「鍵はリリー様に持っておいてもらいたいと、旦那様がおっしゃっていました。二つあるから、一つはあなたにと」
「わかったわ。マキシム様にお礼を。あなたたちも、ここまで連れてきてくれてありがとう。気をつけて帰ってね」
馬車は走り去り、三人と荷物だけが残される。滞在中、屋敷は好きに使ってもいいとマキシムから言われている。
鍵を使って扉を開けると、埃まみれで誰も足を踏み入れていないことがよく分かった。だが、雨風を凌げるだけで十分だ。
シーラの部屋には沢山の絵が飾られていた。その絵に描かれている、湖畔の岩に乗っている鳥は、図鑑で確認した姿と同じものだ。
荷物を置いて、湖畔に移動する。そこには沢山の鳥がこの場所を訪れていた。彼女の兄の呪いを解く鳥もいたが、目的のオオウミガラスは見つからない。
「ぁ゛ぅ゛ぇ゛ぅ゛……」
兄の言葉を聞いて、リリーは辺りを見渡した。湖畔のすぐ側に落ち葉や枯れ木が敷き詰められている。その中央に死にかけている白い鳥を見つけた。羽がむしられ、何かに襲われたみたいだ。
「オズワルド……、この子治せる?」
鳥の様子を見て、首を振る。
「衰弱していて、意識もないようです。出血量も多いので私には……」
彼女の兄がその鳥を持ち上げると、そこに三つの卵が現れた。卵はまだ暖かい。
「ぁ゛ぁ゛ぉ゛、ぁ゛ぉ゛ぅ゛……」
持ち上げられた鳥は事切れたように、首を、手足を力なくぶら下げている。
「この卵を守るんだね。暖かくしないと……っ」
リリーは荷物から毛皮を取り出して卵をくるんだ。屋敷に連れて、暖炉に火をつけ、部屋を暖める。割れることがないように毛布ごと籠の中に入れて、暖炉の前で温めている。
死んでしまった鳥は土の中に埋め、湖畔でオオウミガラスを探すのと、屋敷の中で卵を見守るのを交代した。
屋敷の中で一人、卵に優しく触れているリリーに声をかける。その姿がキャラバンの、あの天幕の中で、愛おしいそうに腹を摩っていた母親の姿を、死ぬ直前まで彼らの傍にいた母鳥の姿を思い出させる。
「ねぇ、オズワルド。ちょっと聞いてくれる?」
彼女も自分と同じことを考えていたようで、キャラバンの母子の姿、最後までこの卵を守っていた母鳥のことを口に出す。
「母親って無条件に子を愛するものなんだね……」
「そういうものだとは知ってはいましたが、実際にその姿を見せられると、考えさせられるものはありますね」
「うん。私と同じ年で母親になっている人もいると思うんだ。私が同じ立場になった時、子供にちゃんと愛情を向けられるのかな……?」
未だ知り得ない未知の領域、未来に想いを馳せるリリー。未来のことなど分からないが、自分が見てきた彼女に感じたままを伝える。
「……リリーさんは愛情深い人だと思いますよ。お兄さんの体を取り戻すために、こんなにも頑張っていらっしゃるんですから」
その言葉に彼女は喜んで、笑顔を向けてくれた。どうやら、彼女を元気づけられたようだ。
「……ありがとう、オズワルド。よし、絶対、オオウミガラスを見つけてやるんだからっ!」
「その意気ですよ」
屋敷に到着して二日。絶滅した鳥が姿を現すことはなかった。
◆
ーー嫌な予感がする……。
朝、目を覚ますとリリーは屋敷にいなかった。昨日も同じことがあったがその時は、鳥を探しに湖畔に出かけていただけだった。しかし、今日は湖畔にも、どこにも彼女の姿はなく、交代の時間になっても戻ってこない。
リリーを探しに行った彼女の兄も、彼女を見つけることができずに屋敷に戻ってきた。この状況に二人ともかなり苛立っている。
リリーが姿を消すことなど今までほとんどなかった。振り返ってみると、ここ数日間の様子は少しおかしかったようにも思う。それは自分たちが探している鳥が、絶滅しているかもしれないと知ったからか、それとも他になにか……。
「屋敷には書置きを残しましょう。暖炉の薪も絶えないように増やして、それぞれ二人でリリーさんを探します。私は右手の湖畔を、ウィルさんは左手をお願いします!」
その言葉に頷くウィル。言葉を発さないが、その目からは焦りや不安が見て取れた。
眼窩を覆っている布を全て取り外し、七つの目と両手にある二つの目を使って、リリーを探す。
探す場所を交代してもリリーの姿は見つからず、屋敷にも戻っていない。もう日が落ちかけている。全てに目を向けても、部屋中を探しても、彼女の兄も、俺も見つけられない。
ーー湖畔に落ちた可能性は?
ない。マキシムから聞いた話だと、シーラは確かにこの湖畔で溺れたが、ここの深さは子供一人分くらいの深さしかないらしい。誤って落ちたとしても、リリーが溺れる深さではないし、彼女は泳げたはずだ。
ーー一人でオオウミガラスを探しに行った可能性は?
ある。昨日からリリーは一生懸命に湖畔の周りを探し回っていた。絶滅しているかもしれないという事実に焦っていたので、昨日より範囲を広げて探している可能性はある。
ーー野生動物に襲われて殺された可能性は?
ない、と思う。辺り一帯を見渡しても、大きな動物、人を襲うような獰猛なものはいなかった。そういった足跡も、抵抗したような跡も何一つなかった。彼女だって自分の力量を分かっているはずだし、危険を感じたら逃げるはずだ。
ーーもし、危険を感じなかったとしたら?
彼女は小さくて可愛らしい動物をよく好む。生き物全般に対して真摯に向き合っている印象だが、その中でも小動物をよく愛でていた。彼女は動物に対して友好的だ。だが、同時に彼らの危険性も知っていたはず。彼女は誰よりもあの図鑑を読み込み、自分たちにその内容を教えてくれたのだから。
「どこに、行った……っ!?」
目の前の机を拳で殴りつける。手加減を忘れた拳は力のあまり机を叩き割った。俺の力が強すぎたのか、机が脆くなっていたのかなど考える余裕はない。日は完全に落ちていた。
「……もう一度、探しに行く」
外に繋がる扉を乱暴に開いた時ーー
湖畔の傍に探し人が立っていた。
「おい、お前……っ!」
ふざけるなよ。今の今までどこに行っていた。俺たちがどんな思いで、お前を探していたか!
未だこちらに気付いてない様子のほうけた女の肩を掴む。視界が捉えたのは、焦点が定まらずに、何が楽しいのか微笑んでいる女。
「どこを見ている!? 俺の声が聞こえないのかっ!?」
リリーの肩を両手で掴み、体を揺らす。
「やぁっと、見つけましたよ。あなた、一体どこにいたんです?」
男の声が背後から聞こえて振り返る。俺の隣にいたウィルからは唸り声が発せられていた。
「誰だ……お前は?」
「おや? リリーさん。私のことを伝えていなかったのですか?」
その言葉にリリーの肩が震える。
「罰を与えなければなりませんねぇ。さぁ、早くこちらへ戻ってきてください」
リリーはなぜか男の指示に従って、男の方へ行こうとしている。俺は彼女の腕を掴んだ。
「おい、正気か!? しっかりしろ!」
何度呼びかけても、彼女の目の焦点は合わない。俺と目を合わせてくれない。
その間にウィルは腰にぶら下げていた剣に触れる。彼の右手が人に戻ってから携帯し始めたのだ。ウィルは剣を取り出し、男に斬りかかった。
「おやおや、お久しぶりですねぇ。蟲毒様。随分醜い姿に戻ってしまって……お可哀想に」
「ぁ゛ぁ゛ぇ゛……っ!」
「あなたが私を襲うなど、恩知らずも甚だしい。リリーさん、蟲毒様を止めていただけますか?」
リリーに思ったよりも強い力で振り払われ、彼女は兄と男の間に立ち、身を挺して男を庇う。
「くふふっ。ありがとうございます。止めていただいたので、罰は少し軽くしておきましょう。ほら、あの方に私のことをその可愛らしいお口で紹介してください」
リリーは男の言葉に頷き、俺に向かって男の紹介を始めた。
「このお方は私の主人であり、私を導いてくださるアイザック様です。アイザック様、彼は私たちの友人オズワルドと申します」
ーーアイザック……?
その名前には聞き覚えがあった。彼女の兄に呪いをかけ、彼女たちを苦しめている男の名だ。
しかし、リリーは一体どうしてしまったのか。まるで操られたように、憎むべきアイザックに従っている。まさか、洗脳にでもかけられているというのか。
「……ほぅ。オズワルドさんと言うのですか」
男の目が俺に向けられている。俺のこの目を見ても叫び出さない男ーーアイザックは気に入らない。
「そんなに沢山の目で睨みつけないでくださいよ。おやまぁ、蟲毒様まで……。そうです! 今日はプレゼントがあるんですよ」
何がおかしいのかアイザックはクスクスと笑う。指をパチンと鳴らすと、湖畔のすぐ傍にある樹林から人影が一人、こちらに近づいてくる。その姿が月明かりに照らされた瞬間ーー
同じ異形の身でも目を疑った。
それは人体には違いなかった。人体のパーツを組み合わせた、生きた何かだった。顔と言っていいのか、頭部そのものが口、背中から大量の腕や足が生えており、体のいたるところに目や鼻、口が沢山散らばっている。
形は人を象っているようにも見えるが、もう人とは呼べないような作りだ。その体は彫刻のように真っ白で、影に当たる部分が真っ黒に染まっていた。
胃液が込み上げてきて、口から汚泥を吐き出しそうになる。これは、まるでーー
「オズワルドさん、大丈夫ですか? ご気分がよろしくないようで。介抱して差し上げなければ……ねぇ?」
アイザックが合図を出すと、異形がこちらに近づいてくる。何とか右手で銃を構えるが、気持ち悪さや頭痛はなくならない。
そんな俺の前にウィルが立って、異形に刃を振り下ろす。悲鳴のような甲高い音が聞こえ、それに呼応するように何本もの腕がウィルに向かって手を伸ばした。ウィルはその手から逃れようと身をかわすが、その中の一本に腕を掴まれる。
バァン!
「死んどけ、クソ野郎……っ!」
自分たちと同じところに核があるかは分からないが、ウィルを掴んだ手越しに心臓を狙ってやった。その間、ウィルは異形から距離を取る。弾は当たったはずだが、異形は倒れはしない。
「酷いですねぇ。可愛い息子が無残な姿に……っ。あぁっ、涙が溢れてしまいます……っ」
アイザックという男は話に聞いてた通り、頭のおかしい男らしい。男の言葉は無視して、ウィルに声をかける。
「俺が後方支援する。前線で戦えるか?」
「ぁ゛ぁ゛っぁ゛……」
俺の言葉にウィルは了承したようで、剣を構える。
普段は七つで事足りるが、今日は月明かりも乏しく、いち早く状況を掴まないといけない。
「同時に目を開くのは嫌なんだがな……」
服を乱暴に脱いで上半身を晒す。背中も胸も腕の目も全て開眼する。そして、二丁の銃を手に取った。
幸いアイザックはリリーに何かする様子はなく、目の前の異形に集中する。それでも何が起こっても構わないように全身の目をかっ開く。
「わぁ、お二人とも凄いですねぇ! ほぅら、リリーさんも応援して!」
クソ男の不快な声が耳に届きながらも、目の前の異物を排除しようと、弾丸を放つ。ウィルも四方八方から振り下ろされる手の猛攻を避けて、その刃で一つずつ腕を切り落としていく。
這いまわる足に制止を促すように撃ち抜く。それでも一向に異形の動きは弱まらない。何度打っても、リロードしてもキリがない。ウィルも手こずっているようで、間合いを計りながら剣を振り下ろしている。
「雲散霧消しないとダメみてぇだな……っ。今から六発撃ち込んだ後、ちょっとの間、そいつを頼む!」
一旦距離を取ってリロードした弾を全部使い切る。六発命中させようが、奴は動き続ける。
銃を一丁素早く分解して、銃身を取り外す。もう一丁はホルスターに収めた。
熊に立ち向かった時、銃の威力が足りずに自分の身を犠牲にするような戦法しか取れなかった。別にそれでも倒せれば問題ないのだが、それではリリーが泣いてしまう。
予備に持ってきていた普段より幾分か大きい銃身を取り付ける。さっきとは異なる弾を込めて、威力を増した銃を異形に向けた。
「ウィル、ちょっと離れてろ」
ウィルと交代し、前に出る。未だ使ったことがない試作品だが、威力は申し分ないはずだ。ウィルが十分離れたのを確認して、異形相手に至近距離で詰め寄り、引き金を引いた。
銃口から発射した弾が異形に触れた瞬間に爆発し、雲散霧消に肉塊が飛び散る。俺の体も軽く巻き込まれながら、奴の体液が目に入らないように、全身目を閉じた。
垂れる液を拭い取り、視界を開いて現状を確認する。異形の体は半壊し、俺の右腕は塵と化した。地面に落ちた銃を左手で拾って、異形から距離を取る。
「わぁ……。リリーさん、どう思います? ってあぁ、そう言えば催眠状態でしたねぇ。我が子が殺されてしまう前に、目を覚ましてもらわないとっ!」
アイザックは再び指を打ち鳴らす。すると、リリーは正気に戻ったのか、アイザックを見て驚き、男から離れた。
「おいっ、リリー! 大丈夫かっ!?」
「ぃ゛ぃ゛……っ!」
「わ、私……っ! わっ、なんであなたが……っ。え……? あれ、何……?」
リリーがこちらを見た瞬間ーー
「ママァ……っ。ママァ……っ!」
目の前の異形が、リリーを見て叫び出す。
「ほぉら、リリーさん。愛しい我が子が呼んでいますよ。……ねぇ、お母さん?」
◆
目が左右に忙しなく動き、浅い呼吸を繰り返している。耳を塞いで、足元から崩れ落ち、絶叫を上げた。
「あはははぁっっ、ひっ、あひゃははははっ!!」
この状況にアイザックは愉快そうに笑い声を上げている。それは、それは楽しそうに。
狂っている男はふと冷静さを取り戻し、耳を塞いでいる私に手を重ねる。そして、その手で耳を塞がせないようにして囁きかけてくる。
「誰の子か分かりますか? 分かりますよねぇ? お母さんなんですから」
アイザックは耳元から離れ、体を起こす。
「……さぁ、ここで一つ教えてあげましょう。リリーさん、よくぞここまでたどり着きました。ここはシーラの湖畔。彼女が好きだった鳥が、あなたが探し求めた鳥が、絶滅したはずの鳥が、そこの湖畔にいたんですよ。そして、今もここに」
あの鳥はいくら探しても見つからなかった。その鳥が今ここにいるとはどういうことか。
「で、でも……っ。そ、そんな、ここに……?」
「えぇ、そうですよ。そして、絶滅したと思われるオオウミガラスの最後の一匹をね、あの子に混ぜてあげたんですよ。奇麗な白黒でしょう……?」
そして、アイザックは再びパチンと指を鳴らすと、そのタイミングで異形が動き出す。
「ママァ……、助けてぇっ……っ!」
異形が私の方へ走り出し、兄が食い止めるように間に入る。
「ぃ゛ぁ゛ぅ゛ぅ゛ぁ゛……」
兄が手にした刃で異形を突き刺す。
「うぎゃあああっーー!? い、痛いよぉ……。ママぁ、痛いよぉ……。助けてぇ……、助けてぇ……」
この男のふざけた戯言は無視すればいい。だが、なぜ、あの生き物は私を母だと認識しているのか。それとも、アイザックが言っていることは本当なのか。分からない、分からないっ!
頭を抱えて震えてしまう。理解できない状況が、私の精神を壊していく。アイザックの言葉が頭に響いてくる。
「いいんですか? リリーさん。母に助けを求めているんですよ? 今、助けて差し上げれば、蟲毒様の呪いも解けると思うのですが……。その手で抱きしめて差し上げないんですか?」
この男は何を言っている。誰が母だ。助けるとはなんだ。
あれは何だ。あれは何だ。あれは何だ。
「あぁ……、お可哀そうに。愛情を与えてもらえない子供は、死んでしまうか、母親に呪いを吐くんですよ」
「ママァ……なんで……? 僕を……、助けてくれない、愛してくれないのぉ……?」
止めて、止めて、止めて。
「ママなんて……死んじゃえ」
見知らぬ我が子から放たれる呪いは、自覚がなくとも私の何かを壊した。
アイザックが不気味な笑みを顔に刻み、異形は半壊した体で先刻より暴れまわる。その勢いに兄が剣ごと押されていて、オズワルドは右手を庇って顔を歪めている。
兄は人の手を捨て、今まで滅多に使わなかった左の超握力拳で異形を地面に殴りつける。頭部の口に剣を突き刺し、拳を振り上げてその体を殴りつける。兄の拳が異形に放たれるたびに異形の四肢が浮き上がる。潰されていない口を開いて呪いを吐き出してくる。
「痛い痛い痛い痛い痛い~~~~っ! ママのせいだっ、ママのっ! ぶぎゃっーー!」
「ゃ……」
「死ね死ね死ねっ! ママなんか、死んじゃえっ! うぎゃぶぅっーー!」
「やめて……っ」
見たくも、聞きたくもない。何も知りたくないのに、傍にいるアイザックの声は耳にハッキリと届いてしまう。
「放っておいていいんですか? お兄さんの声が、一生取り戻せなくなってしまいますよ?」
ーー声……?
あの絶滅した鳥は兄の声を奪っていた種族だという。兄の声を取り戻すには私は死ななければならないという事実に気が付き、膝をついて口元に手を当てる。
そして、不安定な状態の私にアイザックが呪文のような言葉を呟く。その瞬間ーー
私が知らない、私の記憶が大量に流れ込んでくる。
その衝撃と膨大なデータによって、許容範囲を超えた処理機能がショートする。受け止めきれない代わりに、胃液を吐き出した。
「ぃ゛ぃ゛……っ!」
「大丈夫かっ!?」
頭が割れそうに痛い。自分が自分じゃなくなっていく。
「私、頭が、おかしく、なりそうなの……っ! 私、なんで……、何て……ことを……っ。お兄ちゃん、お願い……っ。私、私を殺してっ! じゃないと、お兄ちゃんのっ、声が……っ」
未だ流れ込んでいる濁流に溺れる前に、私は殺されなければならない。
兄から視線を移し、オズワルドを見る。右手から煙が上がっていた。彼はまた自分の身を犠牲にして、私たちを救おうとしたのだ。彼は変わらない。ならばーー
私を救えるのもオズワルドしかいない。
「ねぇ、オズワルド……。私を殺して、私を救ってくれる……?」
死が救いだとオズワルドは言った。その彼は私を見て、何も返事をしてくれない。膝をつきながら彼に近づくも、彼は私に近づいてきてくれない。
ーーあぁ。段々と私が私に塗りつぶされていく……。
「こんなにも頼んでいるのに、助けてもらえないなんてあんまりです。可哀想です。さっ、手を出して。私がいいものを差し上げましょう。楽に死ねる薬です。私、なんて気が利くんでしょうか」
アイザックの救いの言葉に縋りつきそうになるが、私はオズワルドに救いを求めた。
「お願い、オズワルド……。私、あなたに殺してほしいの、あなたに救われたいの……っ」
あの熊を殺したオズワルドの真意は聞いてはいない。でも、私はそこにオズワルドの優しさを見た。
「……っ」
オズワルドは私に近づき、目の前に跪く。手に持っていた銃を置いて、もう一丁の銃を取り出す。
兄がこちらに向かって叫び続けている。だが、彼の手は異形を抑え込んでいるため、こちらに駆け寄っては来れない。
兄は私が死ぬのを止められない。
「俺はまだ……、お前が兄の呪いを全て解いたところを見ていない」
「そうだね……っ。ねぇ、オズワルド……っ」
こんな状況で彼に頼み事をするなんて、私は酷い女なのかもしれない。
この言葉はある意味彼を縛り付ける呪いの言葉になるだろう。
「私の代わりに、お兄ちゃんの……っ、呪い解いてほしいなっ……」
「……っ。それはお前の仕事だろっ。リリー」
オズワルドは私の心臓に銃口を押し付ける。
鼓動が早まり、鼻の奥が痛くなる。体が震える。死ぬのはこわい。だけど、受け入れる。
「ごめんね……っ、オズワルド……っ」
オズワルドは震える私の体を抱きしめて、背中から心臓に向けて銃口を突きつけ直す。
「……痛みを分かち合ってやるよ。それなら、怖くないだろう?」
「うん……っ」
どこまでも優しい男なのだと知った。
彼は引き金を引いた。
体が跳ねるが、オズワルドが支えてくれる。熱くて、痛くて、怖い。
体の中から赤が溢れ出てきて、呼吸がままならない。
兄の声が私を呼んでいる。こちらに駆け寄って来る兄の目からは、涙が溢れている。私の目からも涙が溢れ、口から血液も溢れた。
「おぼっ、お、お、にぃ……。こ、こえ、きか、きかせ……っ」
体中から血が抜けていく感覚がする。中にしっかりと詰め込んでいたのに、亀裂から全てが零れ落ちるまで止まらない。
オズワルドに体を預けながら震える右手を差し出すと、兄はその手を握った。
「リリー。どうして……っ」
あぁ、よかった……。兄の声はちゃんと取り戻せたんだ。
「よ、よか……っ。お、おずわっ……。ゆ、ゆる……っ、し……っ」
「……っ、気にする、な……っ」
急激に体温が失われている。
「わた……っ。こど、も……。わた、わたし……っ」
「違う。あれはリリーの子供じゃない」
そう言って兄は私の手を強く握る。
言いたいことは沢山あるが、何か喉に詰まっているように上手く言葉が吐き出せない。言葉の代わりに赤い血を吐き出す。
私は私の死に満足していた。兄の声を取り戻すことができたし、私の罪の清算には死ぬべきだった。しかし、死に際になって初めて人生の悔いを痛感させられる。
兄を最後まで見守ることができなかった。
彼に愛情を伝えることができなかった。
まだ、ずっと二人の傍にいたかった。
それだけが心残りだ。
エーヴァに言われたことを思い出す。私が死んだら、彼らはちゃんと生きられるだろうか。
マキシムの姿を思い出す。死んだ後、時間をかけても乗り越えてくれるだろうか。
あの母親と卵を守っていた母鳥を思い出す。彼らは子供を愛してくれるだろうか。
薄れゆく意識の中で、彼らの幸福を願った。
◆
リリーが死んだ。彼女は俺に全てを預けて死んでしまった。この重みも彼女が背負ってきた重みなのだろう。死んでいる彼女はピクリとも動かない。
穴が開いた心臓は自己再生を始めて、傷口を閉じ始めている。右手も大分再生してきた。俺と彼女の差は何なのだろう。できることなら、命を差し出してやりたいくらいだった。
「オズワルドっ! どうして、リリーを殺したんだっ! どうして……っ」
声を取り戻したウィルが俺を責め立てる。
もう少し待ってほしい。まだ、僅かに残っている彼女の暖かさに触れていたい。
「ママァ……っ、助けてぇ……っ」
不快な声が耳に届く。
リリーの体を離し、血の気のない顔を見る。彼女は本当に死んでしまったのだと認識した。それを見た途端、自分の頭を銃で吹っ飛ばしたくなった。しかし、そんなことをしても俺は死ねないのだ。弾はあのクソ野郎にぶつけてやる。
彼女をそっと地面に下ろし、地面に置いていた銃を手に取る。右手は完全に再生していた。弾を込めて、地面に張り付けられている異形のもとに行く。
二発目を撃とうとしたら、空振りしてしまう。どうやら、さっきの一発でどこかイカれてしまったようだ。
リリーを撃ち抜いた銃で異形に銃弾を撃ち込む。何度打っても死なないようだ。
「おい、ウィル。こいつ、死なねぇ。手伝ってくれ」
リリーを抱きしめていたウィルは、黙ってこちらに来る。彼は異形を左の拳でずっと殴りつける。まるで苛立ちをぶつけるみたいにずっと、ずっと。
「こいつらにも核はあるはずだ。全部潰すか、燃やすかしねえと多分死なない」
そう言うとウィルは目の前の異形の姿を、その握力を使って引きちぎる。異形が何を言おうが、血が噴き出そうが、お構いなし。
肉を引きちぎっている時に、腹の方に脳みそのようなものを見つけ、ウィルが握りつぶすと、異形は完全に動かなくなった。
ウィルがその左手を俺に向けてきたので、反射的に後ろに下がった。今の彼の姿を見たら、リリーはどう思うだろうか。
ずっと、こいつが羨ましかった。
同じ異形の身でありながら、直ることが約束された異形。俺とは天と地の差がある。一つずつ呪いが解けて、人の体に戻るたびに俺の感情はどす黒く恨みがましいものになっていた。それでも、リリーと言う存在がその穢れを浄化してくれていたので、それが表に出てくることはなかった。
でも、そんな彼女はもういない。
先ほど異形を殺すウィルの姿はいつもの彼ではなかった。浄化されていたのは俺だけじゃなかったのかもしれない。
「ウィル、俺を殺したいか?」
「あぁ。できるものなら殺してやりたいよ」
ウィルは自分の左手を見る。
「こっちは制御が難しいから、いつも右手ばかり使っていたんだ。でも、今はこっちで君を殴りたい」
「……俺はまだ、リリーの味わった痛みだけを噛みしめていたいんだがな……。まぁ、好きにしろ」
ウィルの右手の威力を思い出す。左の方が強いのであれば、俺はあの樹林まで飛ばされてしまうのだろうか。
ふと、ここにいるはずのもう一人の男の存在を思い出す。奴がいるはずの方へ目を向けると、リリーを抱きかかえてこちらに笑顔を向けたアイザックがいた。
「さて、この体は頂きますね」
「おい! リリーを離せっ!」
ふざけるな。お前みたいな奴が触れていい代物ではない。
リリーの体を取り戻そうと走り出すが、アイザックがマントを翻した途端、二人の姿は消えてしまった。全ての目をもってしても捉えられない。
男の「それではごきげんよう」と言う声だけが残り、そのまま静寂を迎えた。
「くそ……っ!」
彼らがいた場所には、リリーがいつも首にぶら下げていた笛の一つがあった。それを拾って、ウィルの方へ振り返る。すると、ウィルは呆然としながら、樹林の方に足を向けていた。
「なにを……っ」
気が狂ってしまったのか、ウィルのもとに行くと彼は呟いた。
「リリーから、何か、こっちに、何かが移動したんだ……」
「おいっ、お前しっかりしろよ!」
腕を掴むとウィルはその手を払い、樹林の方へ歩いていく。どんなに呼びかけようとも、ウィルは無視してそのまま進む。そして、彼が足を止めた先にはーー
小さな赤ん坊がいた。
白い布に包まれたその赤子は、俺とウィルを見ている。その目の色は間違いなくリリーと同じラベンダー。
言葉を失っていると、ウィルは赤ん坊を抱え上げる。その子の背が光っていて、布をずらすとそこには七つの名があった。『リリー』それに、『シーラ』、そして、知らない五人の名前が、その赤子の背中に刻まれていた。
異形の姿になった兄と妹が旅をする話 みけ @mikekke
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