第3話 生死


 目を覚めすと、まだ明るかった。目を擦りながら起き上がると、やけに美味しそうな匂いがする。

「おはようございます。随分と寝ていましたね」

 突然話しかけられ、体がビクンと反応する。振り返ると見慣れた黒い服を着ているオズワルドが、神父であることを思い出したかのように、丁寧な口調で話しかけてくる。目元も布が巻かれ、目が描かれている布もいつも通りだ。

 向こうが丁寧に話しかけてくるので、なんだかこちらも丁寧な口調になってしまう。

「どうして急に、人が変わったみたいに口調が変わるんですか……。それに、その服は一体どこから……」

 真っ赤に染まっていた白い服はどこにいってしまったのか。あたりを見渡しても見当たらない。

「目を隠すと、つい癖でこの話し方になってしまうんですよ。この服は瓶と一緒に鞄に入っていました。わざわざ私の服まで持ってきてくださって、ありがとうございます」

 たしかに緩衝材として布を詰め込んだが、それがオズワルドの平服とは思わなかった。別に私は必要ないので、着てもらって構わないのだが、そんなことよりーー

「なんで、目を隠してるんですか?」

 オズワルドは少し口を開けて固まった後、口角を上げて言った。

「気味が悪いでしょう? この方がお互いのためにいいんです」

「そうしたいなら、私は別に構いませんけど……。そ、そういえば、お兄ちゃんっ!」

 兄のもとに駆け寄ると、変色していた太腿や腕の肌色は落ち着きを取り戻していた。

「よかったぁ……」

 薬が効いたことが分かり、ホッと胸を撫で下ろす。安心したらグゥーとお腹がなり、空腹であることを認識する。そういえば二日間何も食べていなかった。

「僭越ながら、材料と器具をお借りして、雑炊を作ったのですが、構わなかったでしょうか?」

 全く構わない。寧ろ気が利いている。私はこぼれ落ちそうな涎を拭いながら、全く問題はないと冷静を装って伝える。お椀に入れてもらった雑炊を掻き込みながら、腹を満たしていく。こんなにも五臓六腑に染み渡る雑炊を食べたことはなかった。

 食べ終えて満足腹の私に、オズワルドが名前を尋ねてくる。そういえば言ってなかったと思い、自分と兄の名を告げる。

「私はリリーで、兄はウィルって言います。あなたはオズワルドさんですよね?」

「……えぇ、そう呼ばれています」

 しかし、この神父。教会を燃やされ、街から追い出され、一体これからどうするつもりなのだろう。

「これからどうするんですか? もう街には戻れないでしょう?」

「そうなんです。困りました……。なので、お二人について行こうかと」

「え?」

「え?」

 オズワルドは「構いませんよね?」と距離を詰めてくる。兄の解毒薬を作り、広場から救い、それが原因で教会が燃やされたと言われては、私は首を縦に振るしかなかった。



 夜になるとどうにも落ち着かなかった。兄の変色は完全に治っていて、包帯についている血はずっと少なくなった。

 つまり、つまりだ。今度は私が約束を守る番なのだ。兄が起きる前に済ませてしまいたい。

「あの、その、ちょっと……」

「なんです?」

「約束っ、を、守るので、兄から離れたくて……っ。向こうまで、つ、ついてきて、ください……っ」

「……あぁ、守る気あったんですね……」

 ぎこちなくも二人で川上に向かいながら、十分に兄から離れた場所にたどり着く。欠けた月明かりだけが、ぼんやりと世界を照らし出している。

「わ、私、な、な、何をしていいのか……っ!」

「とりあえず、落ち着きましょうか」

 オズワルドは座れと言う。自分でも緊張しているのが分かったので、オズワルドから少し離れた位置に深呼吸しながら座った。

「神父と呼ばれる方々は、妻を娶らないんですよ」

「え?」

「神父は性行為を行わないということです」

 オズワルドは私を見てニコリと笑う。私もつられて笑った。

 約束は無効だと言いたいのだろうか。緊張して強張っていた体が、解放されていく感じがする。安心し切っていたところに、オズワルドはまた一石を投じる。

「皆、私を神父様と呼んでいましたが、私は神学を学んでいませんし、神父でも何でもないんですよ。ただ教会で寝泊まりしていた浮浪者、無神論者なんですよ」

「え゛……?」

 思わぬ発言になんと返事をすればいいのか分からない。じゃあ、この男は一体何だというのか。

 記憶をたぐり寄せ、あの事件以前はたしかに信者に慕われていたことを思い出す。

「でも、慕われていたじゃないですか」

「それは、私が鳥の目を介して世界が見えるなどと吹聴したからです。本当は、ほら」

 オズワルドはこちらに手のひらを見せてきた。そこにはキョロキョロ瞳が動いている目がある。信じられなくてその目に触れようとすると、手を引っ込められた。触れられたら普通に痛いのだと言う。

「顔を隠して、こちらの目でものを言い当て金をせしめていたところ、周りの者が勝手に崇めましてね。まだ本当の神父があの教会にいた時に、その神父に聖職者になりなさいと言われたんです。浮浪者で詐欺師の私に。笑えるでしょう?」

 オズワルドは愉快そうに話す。

「それから数年間、教会の神父に食べさせてもらってました」

 彼は決して物憂げに話したりはしないが、私とは全く異なる人生を歩んだのだろう。人と姿が違うのはさぞかし生きづらいのだと思う。今、兄と一緒に旅をしてそう思うから。

「その目はずっと隠してきたんですか?」

「えぇ。あ、いや……。自分の目がおかしいと気付いたのは十二の頃です。それからですね、この目を隠した方がいいと思ったのは」

 オズワルドは隠している目に触れた。

「本当に不思議なもので、私の姿を神と崇めたり、化け物と罵ったりするのは何なんですかね。その二つは表裏一体なんでしょうか」

 声や表情からは察せないが、醸し出す雰囲気が悲しげで、胸が詰まる思いだった。

 私は一人立ち上がって、オズワルドの目に巻かれた布を奪い取る。

「わわっ! 何をするんです!?」

 オズワルドは必死に抵抗して、目の布を押さえつけている。

「私の兄だって人がいる場所では、フードを被って必死に隠してもらっています。でも、部屋の中だったり、今日みたいに野宿の夜には、自由にその身を晒します。私たちはあなたの本当の姿を見てるんですから、もう隠す必要はないでしょう?」

 オズワルドの一瞬の隙をついて、布を抜き取る。顔を近づけて、七つの目を見つめる。一つの目に二つの瞳があったり、右側に六つも目があるのはたしかに違和感があるが、こういうものだと思えばそんなに怖くない。

「それに、右目は一つだから、別に普段から両方隠さないでもーー」

「そっちも瞳が二つあるだろうが」

 突然口調がぶっきらぼうに変わる。驚きながらも月明かりの下、ジーッと見つめるとたしかに瞳が二重に重なっていて、瞳孔が二つ交わっていた。

 オズワルドの口調に合わせて、私自身も少し乱暴な口調になってしまう。

「目が触れ合うほど近づかなきゃ、分かんないじゃない。七つ目が何よ! こんなの慣れれば怖くないわ」

 私がそう言うと、彼は突然ボタンを外して服を脱ぎだす。

「なーー!? な、何急に脱ぎだしてんのよ!」

 慌てて手で視界を覆う。いつも体中に包帯を巻いていたような覚えがあったが、今は直接服を着ているようだ。

 指の隙間からこっそり覗くと、露出した肌にたくさんの傷跡が見えた。こんなに沢山傷跡があったのかと、覆っていた手をオズワルドに伸ばして、傷口に触れようとした瞬間ーー


 体中の傷口が一斉に開き、そこから目が現れる。


 目の前の全ての目が、驚いて尻餅をついた私を見ていた。私が目を見開いて瞬きをしているとオズワルドが言った。

「七つだけじゃない。俺は全身に目が張り付いてるんだからな」

 オズワルドの表情もその目たちも全部ムッとしていて、私に怖いと言わせようとしているようだった。

 普通ならそう思うところだが、オズワルドの望む言葉を言ってやりたくなくて、「全然怖くない」と手を伸ばす。今度は怯えたように私から離れるオズワルド。

「痛いって言っただろうが。目に触れようとするな!」

 少し慌てたオズワルドが面白くて、その後しばらく追いかけ回した。


「はぁ……、はぁ……。何で逃げるのよ……」

「お前は頭がおかしい……。お前が俺を捕まえられるわけがないだろう」

 膝に手を当て屈んだ状態から地面に座り込む。川の水を手で掬い、喉を潤す。その間にオズワルドはボタンを留めていた。

「あなた、人に触れられるのが怖いのね。顔を掴んだ時、強張ってたし、逃げようとするし。それでよく私を抱くなんて言ったわね」

 私が言っていることが当たっているのか、彼は黙ったまま何も言わない。

「あなたは確かに、私たちと一緒に旅をした方がいいかもしれないわね。兄はああ見えて感情豊かだし、あなたは私たちの良き理解者にもなってくれる気がする」

「……どうだかな」

「何よ。そのうち、「一緒に旅をさせてください」って言わせてやるんだからっ!」

 鼻息荒く宣言した後、今度は小さく宣言した。

「一緒に過ごして慣れたら私を抱けばいいわ。私は兄を救う決心、約束を破る気はないから」

「……」

 なんだか緊張感から解放され、猫のように体を伸ばす。

「お兄ちゃんが心配だわ。早く戻りましょ」

 月明かりを背に受けながら、私の手には彼の布が握られたまま、オズワルドと兄のもとに戻った。



 翌日、完全に肌色が戻った兄はお腹を鳴らしながら目を覚ました。状況を把握しきれていない兄に遠慮なく抱きつく。

「お兄ちゃん、元気になって本当に良かった!」

「ぁ゛ぉ゛ぇ゛……っ」

 兄はオズワルドを見て警戒しているように唸り声をあげる。私は慌てて兄を宥めた。

「待って待って! たしかに、オズワルドは襲ってきたけど、何度か助けてくれたし、もう襲ってこないように約束したから安心して!」

「ぅ゛ぅ゛~~」

「ほら、お兄ちゃんの手も縫ってくれたんだよ。ほら、オズワルドも謝って!」

 ちょっと困ったように兄に謝罪するオズワルド。神父モードだからか、丁寧な口調だからきちんと申し訳なさそうに聞こえる。

 兄にこれからの旅はオズワルドも一緒だと言うと、一層唸り声をあげた。

「わわっ、お兄ちゃん。そんなに威嚇しないで! 私が頼んだの、きっとお兄ちゃんの理解者になってくれるから。だから、怒らないでっ」

「ぃ゛ぃ゛……」

 私が時間をかけて頼み込むと、兄は渋々納得してくれた。


 兄の手の傷も塞がったようなので、縫い合わせていた糸も取った。オズワルドに触れられるのを嫌がる兄に、アガワルから貰ったお菓子を口に入れて気を紛らわせてやる。

 ハトから守り切ったお菓子を兄は大変満足そうに食べて、もっと欲しいとせがんできた。全て兄に食べさせてやりたかったが、オズワルドにも少し分けてあげると兄は不満げな声を上げた。

 兄はもう体を動かせるようだったが、大事を取って明日から旅を再開することにした。地図を広げて次の目的地を確認する。

 アイザックから行った方がいいと聞かされた場所ーーペトロスを目指すことにする。ペトロスは隣国スパーチの都市であり、ここから北東の方角にある。

 故郷からここまで旅してきた距離と比べると、移動するのに一年くらいかかりそうだ。それでも行かないという選択肢はない。

 今日一日この場を動かないと二人に伝えると、オズワルドは言った。

「じゃあ、私は山の中に入って薬の材料でも調達しますね」

 薄々分かっていたことだが、彼は薬学に精通しているらしい。彼が神父としての務めを果たしていた頃、彼の作る薬を求めて教会を訪ねる人もいたのだと言う。物々交換やお金をもらって彼の生活は成り立っていたらしい。

 私も少しは知っておいた方がいいかもしれないと思い、付いて行ってもいいか尋ねる。だが、オズワルドが答える前に、兄が唸り声を上げたので、付いて行くのは断念した。

 オズワルドの後姿を見送りつつ、いつもより少し離れた場所で兄と薪を拾い集める。

「お兄ちゃん、オズワルドをそんなに警戒しないで。そんな悪い人じゃないよ」

「ぇ゛ぉ゛……」

「オズワルドは私たちを殺そうと思えば、すぐ殺せたはずだよ? でも、助けてくれた。それに、不死身なんだって」

「ぅ゛ぃ゛ぃ゛……?」

「きっと、孤独で寂しい人なんだよ」

 運んだ薪を竃の近くに置く。兄の代わりに川に入って魚を獲ろうと、マントと靴を脱いだ。ズボンを膝まで上げて、袖を捲る。

「ぃ゛ぃ゛……」

「お兄ちゃんはダメ! 絶対その手でやらせないから。今までお兄ちゃんのやり方見てたし、私だってできるわよ!」

 いつも兄がやっているように、魚に近づいて、狙いを定めて、魚を掬い上げる。

 しかし、兄のように魚が掬い上がることはなく、水を弾き飛ばすばかりだ。水に入った時に手の動きが減速してしまい、魚に触れることさえできない。

「掴めばいいのよ、掴めば!」

 今度は手を水につけたまま魚にゆっくり近づき捕まえようとするのだが、触れることはできても掴み上げることはできない。

 それでも諦めずに魚を追いかけていると、苔の生えた石を踏んで、バシャンと大きな音を立てこけてしまった。

「ぃ゛ぃ゛……っ!」

 一瞬何が起きたか分からなかったが、あわあわしている兄の姿を見て大笑いした。全身水浸しになったのだから、もう遠慮する事はない。全力で魚を追いかけた。


「……何をやってるんです?」

 オズワルドからしてみれば、二人で川に入って水遊びしているように見えるだろう。でも実際はそうではない。私は兄から魚捕りの指導を受けていた。

 もちろん兄にはいつもと反対の手を使って実演してもらう。兄の指導によると、手は斜めに水面にさし入れて、最後は手のスナップを利かせて魚を飛ばすのだと言う。

 兄の助言の下、おしいところまでいって騒いでいる時に、オズワルドが戻ってきたのだ。

 オズワルドは葉っぱやキノコ、木の実を両手に持っているのが見えた。収穫ゼロの私たちは川から上がり、服を絞りながら、オズワルドに近づく。

「そのキノコ食べられるんですか?」

 昔、兄と見つけたキノコを食べた時、エライことになったのを思い出し、眉根を寄せながら尋ねる。

「えぇ、ちゃんと食べられるキノコのはずです。栗も見つけました。ところでお二人は体でも洗ってたんですか?」

「えっと、一応魚を捕ろうとしてました……。いつもは兄が捕ってくれてたんですけど、怪我してるから代わりに私が。まぁ、獲れなかったんですけど……」

 オズワルドにいつも手で掴んで捕っていたのかと聞かれて、兄は手で魚を川から弾き飛ばして捕っていたと伝える。

 釣り具はないのだと言うと、ナイフを貸してくれと言われた。彼は焚き木用に拾ってきた長めの木の先をナイフで尖らせる。

 それを持って川に入り、ジッと水面を見つめた。そして、尖った木の先を川に突き刺した。川の一部が血の涙を流し、引き上げると見事に魚が突き刺さっている。

「す、すごい……っ!」

「ぅ゛ぉ゛……」

 同じ要領でオズワルドは次々と魚を捕らえていき、兄が満足するだろう十匹もの魚を陸に上げてしまった。

 生きたまま捕らえる兄と、殺して捕らえるオズワルド。なんとなく性格が出ているなと思いながら、オズワルドに向けて拍手を送ると、兄が唸り声を上げた。


 オズワルドは料理もできるようで、栗ご飯と、捌いた魚と山菜が入ったスープを作ってくれた。余った魚はただ焼くのではなくて、焼いた後に蒸すと一層柔らかくなるそうで、いつもよりジューシーで食べやすかった。

 料理の才がない私にとって、彼は間違いなく料理人に違いなかった。

「なんで、こんなに美味しいもの作れるんですか!?」

「いや、そんな大したものは作ってませんよ」

「いいえ! 私、とっても感動しました。何でもできるんですね」

 私が美味しい美味しいと言って褒め称えると、兄が唸り声を上げた。


 次の日、アルヴィンの背に全ての荷物を載せると、彼は悲鳴を上げた。確かに大量の薬瓶が詰まった荷物が増えれば、こんな重いものは嫌だと嘆きたくもなるだろう。

 すると、オズワルドは薬瓶が入った鞄、二つあるうちの一つを、こともなげに背負った。

「重くないんですか?」

「えぇ、問題ありません。色々と人より丈夫ですし、お二人が病気や怪我をしても、材料さえあればいつでも調合できますから」

 私はその言葉に大層感動してしまった。私はこっそり兄に囁く。

「ね? いい人だよ、絶対!」

「ぅ゛ぅ゛ぅ゛……」



 オズワルドが私たちと旅をするようになって一カ月。私たちは山中で兄の左顔半分取り返せるであろう狸の姿を見つけた。

「お兄ちゃんどう? 何をしたらいい?」

「ぁ゛ぇ゛、ぉ゛ぃ゛ぃ゛……」

「え!? お酒!?」

「……どうして、今の音で分かるんですか?」

 オズワルドは、私がなぜ兄の言葉が分かるのか尋ねてくる。自分でもよく分からず、答えられない。ただ何となく分かってしまうのだ。

 多分兄妹だからと答えると、オズワルドは微妙な顔をした。

「でも、どうして狸がお酒を欲しがるんです? 狸には勿体な、……いや、そもそもお酒なんてありませんし、諦めましょう」

 やけに潔く撤退を言い放つオズワルド。前回猿を見つけた時には、率先して解決策を導き出し、猿から出たキラキラの粒子と、兄から出た黒い煙を興味深そうに見ていたというのに。今回の狸に関しては一切やる気がないようだ。

 確かに彼が言うように、手元に酒などないし、近くに人里はない。オズワルドが諦めようというのであれば、諦めるしかないなと思っていると、狸が彼の鞄に飛びついた。

「あの、狸がオズワルドさんの背負っている鞄にしがみついてるんですが……」

「気のせいでしょう? 行きましょう。さぁ、早く行きましょう!」

 オズワルドは狸を振り払い、狸はもう一度しがみつく。オズワルドが黙って拳銃を取り出したので、慌てて止めた。

「いや、あの。そんな乱暴なことしなくても、お願いしたら離れてくれますよ、きっと。ね、お、お兄ちゃんーー」

「ぉ゛ぁ゛ぇ゛ぁ゛ぅ゛……」

「……え、何? 狸が鞄の中のお酒を寄越せって言ってる?」

 私の言葉に肩をびくつかせたオズワルド。いや、この鞄の中には薬や本しか入ってないはず。それに人里に寄るタイミングもなかった。

「お兄ちゃん、何言ってるの? 鞄には薬を作る材料しか入ってないはずだよ」

「ぉ゛ぅ゛、ぁ゛ぃ゛ぁ゛ぅ゛ぅ゛っぇ゛ぁ゛……!」

「そんな!」

 兄の言葉を否定していると、オズワルドが狸を引き剥がしながら、兄が何と言ったのか尋ねてくる。

「オズワルドさんが夜中に何かコソコソやっているのを見たって言うです。……本当ですか?」

 オズワルドの肩がもう一度ビクンと跳ねた。兄の言葉が正しいことがわかり、なぜそんなにビクビクしているのか尋ねる。私が近づくと同じだけ離れた。

 オズワルドはよく人と距離を取って、極力接触を避けているのは知っていた。だが、今は只々怪しい。

「……なんで逃げるんですか」

「わ、私は神父なので、みだりに女性に触れるべきではないんです」

「前は神父じゃないと言ってたじゃないですか! その子も引っ付いてて怪しいですし、鞄の中身を見せてください!」

 兄と協力してオズワルドから鞄を引き離す。中身を覗くが、特段変わったものはないように見えた。

「お兄ちゃん。やっぱりない……。あっ、ま、待って!」

 奥の方に布をぐるぐる巻きにした瓶が一つ。布を外すと黄土色の液体が入っていて、甘い匂いが漂ってくる。

 父がよく飲んでいた酒もこのような色をしていた。狸はこの瓶を欲しているように見えるし、オズワルドの手にある目もこれがそうだと言わんばかりに敢えて目を逸らしている。

 蓋を開けようとすると瞬時にこちらを向いて、オズワルドはやっと白状した。

「お察しの通り、それがお酒に違いありません……。どうか、全部やらずに少しだけやって残しておいてください。ちゃんと、話しますから……」

 オズワルドは酒飲みだったのかと驚きつつ、葉で作った皿の上に少しだけ酒を入れてやると、狸はその皿に飛びついた。

 瓶を開け放った時に花開いたように香りが広がり、その匂いだけで美味しそうだということは分かった。匂いを閉じ込めるように、蓋を閉める。

 狸と兄からはいつもの光と闇が溢れて消える。狸は酔っ払ったのかフラフラとしていて、満足そうに山の奥に姿を消した。

 兄の顔を見ると、左半分の肌が戻っていた。

「お兄ちゃん、少し触らせて……」

 間違いなく人の肌であり、兄のものだ。反対側の蛇肌と見比べながら、触って違いを感じながら、笑みを零す。

 どうして酒を持っていたことを隠していたのか、オズワルドに問い詰める。すると、彼はポツポツと話し始めた。

「この前、猿の願いを叶えた時のことを覚えていますか?」

「もちろん。ワシとの戦いで死にそうになっていたところを助けてあげましたよね。兄がワシを追い払って、オズワルドさんが薬を作って、私が包帯を巻いてあげました」

「そうですね。その時、薬草を探しに行った私が、果実を持って戻ってきたでしょう?」

「あぁ、あの緑色の甘くて酸味のある!」

 オズワルドの話を聞いて、果実の食感と味を思い出す。再び食べることができたら、どんなにいいだろう。口の中は唾液で溢れていた。

「あれは、サルナシと呼ばれる果実です。猿が好んで食べるので滅多に見つからなくて、あの時食べられたのはかなり幸運でしたね」

 オズワルドの言葉にがっかりしていると、彼は続けた。

「その時、見つけたんです。果実と一緒に、そのお酒を」

 私が首を傾げていると、オズワルドは笑いながら話した。

「猿酒と呼ばれる酒がありましてね。木の洞や岩の窪みになんかに、猿が溜め込んだ果実が発酵して酒になっていることがあるんです。その酒を少し頂いたというわけです」

 猿が酒を作るなど不思議な話だ。だが、教会で瓶を詰め込んだ時にこのような甘い匂いを放つ物はなかったし、酒を買うタイミングもなかった。これはオズワルドが言う通りに、猿酒に違いなかった。

 しかし、なぜ隠していたのだろう。兄が夜中にコソコソしていたと言っていたし、一人でお酒を飲んでいたのだろうか。お酒には興味ないが、なんだか裏切られた気分になってムッとする。

「一人で夜中にコソコソ飲ませませんよ! 私たちも頂きますから!」

 プイッと顔を逸らし、酒だけ抜いて重たい鞄をオズワルドに返す。「そういうつもりじゃなかったんです……」とのたまう男は無視して、山道を歩いた。


 夜になってオズワルドに作ってもらった料理で腹を満たしながら、私はお酒と深皿を取り出した。

「三人で飲んで仲直りです」

 と言うと、オズワルドは微妙な顔をした。

「何です? その顔は……。そんなに独り占めしたいんですか!?」

「私は神父ですし、そういうのは控えているというか……。それに、」

「もうっ! 夜に飲んでいたんでしょう? 神父を盾にするのは止めてください! あなた自身、神父じゃないと言ったんですから、あなたはただのオズワルドさんですっ!」

 私は瓶に入っていた酒を全て三つの皿に注いでいく。

「……リリーさんも飲むのですか?」

「私は成人してますし、これくらい飲めます!」

 オズワルドはそれ以上はもう言ってこなかった。皿を傾けて体内に液体を注ぐとあら不思議。さっきまで怒っていたのにみるみる機嫌が良くなっていく。

 果実酒ゆえに、華やかで甘みのある香り。甘さに加えて熟成されたほどよい苦味とスッキリした後味。

 以前食べたサルナシという果実もこんな香りだったと、恍惚としながら思い出す。

 兄もなんだかポヤポヤしているようで、心なしか蛇柄も人肌も赤らんでいるように見える。

 オズワルドはまだ飲んでいないようで、皿の中の液体が減っていない。私が飲んでやろうと手を伸ばすと、ヒョイッと皿が持ち上げられた。

「私が飲んであげようと思ったのにぃ……」

「あなたは十分飲んだでしょう?」

 オズワルドはため息をついて、酒を煽る。もう一度、あの味を楽しむことはできなかったのは残念だったが、分かち合うことができてよかった。

 そこから記憶がないが、私は兄の尻尾の一つを思い切り掴んで寝ていた。そしてーー


 ギャオンッッ!


 翌日、一人のけ者にされたとアルヴィンが怒っていて、宥めるのに多大な時間がかかった。



 兄も一々オズワルドに文句を言わなくなった約半年後。吹雪の中、膝丈まである雪道を歩くという拷問に近い苦行を私たちは味わっていた。

 私たちは今、眠る大地と呼ばれたスパーチ国にいた。国境を越えて、この国の北東に位置するペトロスを目指して、雪道を突き進む真っ最中。

 雪道を歩く格好はそれぞれ冬仕様に変わっていて、皆トナカイの毛皮を身に纏っていた。頭にはふわふわとした柔らかい、耳も首までも覆い隠す毛皮を。服もコートも足も手まで、同じ毛皮ーートナカイから作られている。

 兄さえ毛皮に巻かれている。その身を晒しているのは手袋がはめられない手と、靴を履けない足ぐらいだ。そして、今や私たちは三人旅ではなかった。

 実は今、遊牧民と共にこの雪道を旅している。彼らはアレーニ族と言って、トナカイと共に旅をし、トナカイを食して、トナカイを身に纏う人々だ。

 彼らはトナカイを始めとする動物を愛で、自然の中で暮らしている。彼らと旅をするのはトナカイだけでなく、狼も一緒のようで、その集団をキャラバンと呼んだ。

 冬国であるスパーチ国を移動するには、素人の私たちだけでは自殺行為らしい。国境近くで寄った村で彼らを紹介してもらい、一カ月前に彼らと共に旅をはじめた。アルヴィンは寒さが苦手なようで、その村でしばらく預かってもらうことなった。

 私たちが一緒に旅をさせてもらっているのは、十五人で雪道を移動しているキャラバン。

 最初のうちは彼らから兄を隠すようにしていたが、すぐに兄の正体はバレてしまった。しかし、彼らは兄を化け物と呼ぶようなことはなく、優しく接してくれる。

 どうやら、彼らにとって兄の熊手は神様と同義らしく、逆に敬われた。子供からしてみれば、兄は絶好の遊び相手のようで、いくつもある尻尾を弄ばれていた。ヤギのツノがあったらもっと構われていたと思う。

 それでもオズワルドは自分の姿を晒す気はないようだ。流石に手を出したままだと凍傷になってしまうので、一つ目である右側の顔だけ外に晒している。

 彼の口調は丁寧さと雑さが混ざったような喋り方になった。彼の眼窩に付いている目を晒すのは、多少人格が変わるくらい大層なことらしい。

 彼の右目は瞳が二つ重なっているが、それに気付く遊牧民はいない。だが、その態度と姿を気に入ったらしい女性の一人が、オズワルドに言い寄っているのを見るのは大変面白かった。

 彼らの中で私たちの言葉を理解し、よく話しかけてくれるのは、アンドレイとアルヴィナ。二人は夫婦であり、私たちの目的地ペトロスの出身らしい。

 二人はアレーニ族の生き方に感銘を受けて、遊牧民として生きることを誓ったのだと言う。遊牧民として生きることで、より一層互いの事を大切に、そしてアレーニ族という家族が増え、今は最高に幸せだと語っていた。

 そんな彼らと過ごして一カ月。集団の中にお腹を膨らませていた妊婦が臨月を迎えた。キャラバンは進む速度を緩め、次第に吹雪を少しでも遮ってくれる山の中に入り、近くに川がある場所に二週間居を構えることになった。

 川沿いに用意された天幕は二つあり、私たちは六人用の小さな天幕に入っていた。

 天幕の中には私たち三人と、アンドレイとアルヴィナ、そして一番年齢が高くこの集団の長である老婆エーヴァと二匹の狼が入って温まっていた。

 今、アンドレイは向こうの天幕の男たちと一緒に、山の様子を見て回っている。

「アルヴィナさん。赤ちゃんの方はどうですか?」

「えぇ、すぐにでも産まれそうなほど、お腹がパンパンに膨らんでいるわ。そうだ、一緒に見に行ってみる?」

 私はアルヴィナの言葉に頷き、二人も連れてもう一方の大きな天幕へ移動する。そこには、お腹を膨らませた女性が皆に囲まれていた。妊婦とアルヴィナが話して、手招きされる。

「お腹触ってもいいって!」

「本当ですかっ!?」

 ドキドキしながら妊婦の膨らんだお腹に触れる。ゆっくりと顔を近づけて耳を当てると、微かに小さな鼓動が聞こえて、自然に笑が零れてしまう。兄の手は妊婦を傷つけてしまうかもしれないので、オズワルドに触れるように勧める。遠慮する彼の手を掴み、その手をお腹に乗せた。

「どう? 凄いでしょ? ほら、耳も近づけてみて!」

 オズワルドは片目を見開いて、自分から耳を近づけて固まっていた。そして、急に顔を上げ、自分の耳に触れた。

「蹴られました……」

 その何とも言えない動揺した顔がおかしくて、本当におかしくて笑う。本人だけが至極真面目な顔で何が起こったか分からないといった風だった。

 彼は人でも動物でも殺すのに躊躇はない。旅のはじめに、兄の呪いを解く方法や今まで解呪した時のことをオズワルドに話したら、彼は動物に毒を与えて「助けて」と願わせればいいと言ったサイコパスだ。

 今はもうそんなことは言わないが、人の考えは中々変わらないから。だから、生に触れて欲しかった。目の前の彼が少しでも何か感じ取ってくれたらいいなと思う。

「赤ちゃんが生まれたら抱かせてもらおう? ね?」

 小さく返事をした彼の手を握った。

 そこに、少し慌てた様子の男たちが戻ってくる。深刻そうな顔をしたアンドレイにどうしたのかと尋ねると、山の中で熊の姿を見たらしい。この天幕からは距離があるが、冬眠していない熊がいるとなると、移動した方がいいのではないかと皆で話し合う必要があるそうだ。

「熊……」

 あの劇場跡地にいたとは思うが、当時はその姿を認識していなかった。私が知っているのは図鑑で見た熊の姿とその大きさ、獰猛さ。そして、兄の右手の威力くらいだった。

 自分の手を見つめる。これから生まれ落ちる生命に触れた手。もし、この場から移動するとなると、あの母親や赤子にとっては酷な選択となる。歩いている途中に産まれそうになったらどうなるのだろう、考えただけでゾッとした。

 それに、これは兄の右手を取り戻すチャンスでもある。私はオズワルドにどうにかできないか、どうすればいいのか尋ねた。

「このままここで過ごすのも、移動するのも、どちらも危険な選択になるでしょう。出産時には母体から出血が伴うから、熊だけでなく他の野生生物にも目を光らせておく必要がある。移動中、母親が破水してしまったら死を覚悟した方がいいかと。そう考えると、このままここで居を張った方がいいとは思うが……」

「熊に対応するには何をしたらいいの?」

「私も本で読んだ知識しかありませんが、熊と戦うのであれば、なんらかの武器で熊を殺すか、罠を張って仕留めるかしかありません。熊を殺せるほどの威力のある銃をこの集団は持っていないようだし、俺の銃も熊を殺すには威力が足りない。槍で攻撃するのも、他の武器で対応するのも自殺行為に等しいかと。俺が戦ったとしても死にはしないが、如何せん倒せる武器を持っていないと意味がない」

「きっと、お兄ちゃんにも無理だよ。体は元の体に近づきつつあるし、この雪道では凄く動きにくそうにしてるもん……」

「上手くいくかは私にも分かりませんが、罠を仕掛けるしかありませんね……。あと、先に忠告しておくが、今回兄貴の手を直せるチャンスとは思わない方がいい。成獣相手に生きるか死ぬか以外の交渉をさせてもらえるとは思えません。兄貴の手を解呪するのは、別の機会にした方がいい」

「……わかったよ」


 私たちも話し合いに入れてもらい、皆の意見はこの場に留まることに決まった。

 いつの間にかアレーニ族の言語習得をしたオズワルドは、皆にシェミツァと呼ばれる罠を仕掛ける提案をした。丸太と棒を使った罠で、熊をおびき寄せるために肉を用意し、熊がその肉を掴もうとすると、熊の足に丸太を落として動けなくさせるというもの。

 しかし、彼らはその罠を作るつもりはないと言った。彼らにとって熊は神様に値するらしく、この場にいると決めたが熊に対してこちらから何かする気はないようだ。

 ちなみに、もし神である熊が自分たちに近づいて、左手で手を上げて向かってきた時には、殺してもいいのだと言う。そうでない限り、彼らはここから動くつもりはないらしい。

「……わかりました。では、罠作りはこちらで勝手に行いますから、丸太を用意するための道具を貸してください」

 母親と赤子を守るために、私も何かしたかった。兄の目を見て同じ気持ちだと分かり、私も一緒に道具を貸してほしいと皆に頼む。私が持っているナイフでは精々切れても枝くらいだろう。丸太を用意するための道具はキャラバンの皆に貸してもらうしかなかった。彼らは一つだけソリを造るときに使う、のこぎりを貸してくれた。


 私たち三人は天幕から出て、天幕から百歩ほど離れた二カ所に罠を作ることにした。手始めに少し離れた木を切り倒すことに。

「私たちは何をすればいい?」

「俺が丸太を用意するから、丸太を支える棒を頼めるか? 落ちている物でもいいですし、ナイフで切れればそれでも構いません。無理そうなら、良さそうな枝に目印だけつけておいてくれ」

 オズワルドの言葉に頷く。

「では、この木を向こう側に向けて倒すので、こちらには近づかないでくださいね」

「一人で大丈夫?」

「あぁ」

 私は兄と二人、オズワルドから少し離れた場所で手ごろな棒を用意する。なるべく大きい方がいいらしいのだが、地面には小さな枝しか落ちていない。

 ちょうどよさそうな枝を見つけて、ナイフで切ろうと奮闘する。細かい枝を掃うことはできるが、それなりの太さをもつ枝には切り込みは入るが切り落とせる気がしない。どうしようかと悩んでいると、兄が自分に任せろと言ってきた。

 兄は熊手を使って切れ込みの入った枝を思い切り殴打する。バキィッとものすごい音が鳴って、ブラブラと枝がぶら下がっている。木の皮だけで繋がっている枝をナイフで切り離し、物資を一つ手に入れた。

「お兄ちゃんすご~いっ!!」

「ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!」

 どこか誇らしげな兄にもう一本集めようと言って、私が切れ込みを入れて兄が叩き折る。抜群のコンビネーションで手に入れた二本の太い枝をオズワルドに見せに行く。

「太さと長さはこれくらいでいい?」

「あぁ、問題ない」

 その言葉に安心しながら、オズワルドの進捗を確認する。木の幹には両側に切れ込みが入っていた。

「わぁ、両側に切れ込みを入れるんだねぇ」

 私の言葉に、彼はどうして両側に切れ込みを入れるのか説明してくれた。

「くの字に大きく切れ込みを入れている方を受け口と言って、倒したい方向にこの口をつけるんです。その反対側に追い口と呼ばれる切れ込みを入れて木を押せば、木の重心が受け口の方に傾いて倒れるんだ」

「へぇ~。もうちょっとだね。よしっ、私たちもあと二本早く集めよう!」

「ぉ゛ぅ゛……」

 オズワルドに負けないぞと息巻いていると、急にものすごい突風が吹いた。周りの木がしなるような音がして、私も風に押されて尻もちをついてしまう。

「……今の凄い風だったね。倒れちゃったよ、あはは」

 風が止み、腰を上げようとした時、ギギギギィと何か重いものが倒れる様な音が聞こえた。


「危ないっ!」

「え……?」


 なぜか受け口方向ではない追い口方向、私に目掛けて大きな木が倒れてくる。罠にかかったみたいに動けなくなって、迫りくる木を避けきれない。目を瞑って死を確信したがーー


 死が、痛みが、私を襲ってくることはなかった。


 兄が木を支えて、オズワルドが腰の抜けた私を運んでくれる。十分に離れたところで兄が木を離し、ものすごい物音を立て雪が宙を舞った。静かな大地に轟音が一度だけ響く。

「大丈夫ですか!?」

「え? あ、うん……。び、びっくりした……」

 パチパチ瞬きして周囲を見渡すが、動揺しているのか落ち着かない。しばらくして、もう少しで死ぬところだったと認識し、鼻がツンとし始めた。

「お前は度胸があるのか、臆病なのかよく分からんな。うぉっ」


 初めて兄以外の男に泣きついた。


 生きていることを実感するには、自分以外の生きているものに触れたかった。別にオズワルドじゃなくてもよかったのかもしれない。だけど、目の前の彼に抱きつきながら泣いた。

 すぐに兄が私の傍にやってきて、兄に抱きつき直した。


 完全に腑抜けた私は私を殺しかけた木の切り株に腰を下ろし、二人の作業を見守るとともに周囲を警戒する役目を授かった。兄は私が切れ込みを入れなくても、十分な太さがある枝を持って来て、私は何とも言えない気持ちになった。

 それでもめげずに見張り役をしていると、二人の男がこちらにやってくるのが見えた。一人はアンドレイでもう一人は妊婦の夫らしい。二人とも手伝いに来てくれたようで、慣れている二人に丸太を切ってもらうことなった。兄はそのまま手ごろな枝を調達し、銃を持っているオズワルドは熊を引き寄せる餌を調達するため、小さな動物を狩ることに。

 誰のところにいても邪魔になりそうだったので、大人しく天幕に戻ることにする。枝を切ったナイフはボロボロになっていて、まるで今の私の姿みたいだった。


 天幕に戻るとそこにはエーヴァしかいなかった。きっと、アルヴィナは今晩の料理の支度をしている。私も手伝わなくてはと思い、荷物を下ろしていると、エーヴァに話しかけられた。

「なんだか元気がないのう」

 驚くべきことにエーヴァはアレーニ族の言語だけでなく、私たちと同じ共通語も話せたらしい。

 彼女の傍には二匹の狼がいる。一匹は白くて少し灰色が混ざったもの、もう一匹は黒くて少し茶色や灰色が混ざっている。彼女は二匹を撫でながら言った。

「こいつらの毛並みは本当に気持ちがいいんじゃよ。触ってみぃ」

 エーヴァに言われるまま、白い方の毛並みにソッと触れる。フワフワしていて気持ちが良い。

「そうじゃ。こっちも触ってみぃ」

 黒い方も柔らかいが艶々した手触りがたまらない。今まで触れることができなかったので、ずっと触って手触りを楽しんでいると、エーヴァが言った。

「わしは長なんて呼ばれておるが、実際はそんな役目いただく身じゃないんじゃよ」

 思わぬ発言に驚き、なぜそう思うのか尋ねる。

「どうしてですか? みんなに慕われているじゃないですか」

「ありがたいことにのぅ。でも、わしらの掟には『女は子を産むこと』とある。女は子を産むために生きるように言われておるんじゃ。だから、森の主人が出ても、男たちは母子を決して見捨てない。男はそんな『女、子供を守ること』が掟になっとるからな」

 森の主人とは、今まさに私たちが罠を仕掛けて仕留めようとしている相手ーー熊のことだ。

「そういう掟がある中で、わしはこの歳まで純潔を守り、子を宿すことはなかった。普通なら追い出されても仕方がないんだが、この場にいられるのはこの子たちのおかげなんじゃ」

 エーヴァは彼らとの出会いを話してくれた。

 幼い頃に狼を助けたことがあり、その狼はエーヴァに懐いたそうだ。当時、トナカイと共に移動していた動物は犬だったらしく、その犬たちに混ざってその狼は生活していた。

 ある日、キャラバンが今の私たちのように熊の存在に怯えながらも、居を構えなければならない時があった。そして、天幕の傍に熊が姿を現した。男たちと犬は熊と戦ったが、熊の凶暴さを見て皆弱腰になって、犬も戦意喪失して逃げたそうだ。

 もう皆が死んでもおかしくないと思われた状況でも、彼女が助けた狼だけは熊に飛び掛かり、その身を傷つけられようとも果敢に挑んでいった。

 その狼さえも力尽きる直前に、彼は長く大きな遠吠えを上げた。すると、あちらこちらから同じような遠吠えが聞こえ、沢山の狼たちが姿を現した。そして、彼らは数で熊をうち倒してしまったのだと言う。

 しかし、最初から最後まで戦っていた狼は重傷を負って帰らぬ存在となってしまった。エーヴァは悲しんだが、不思議なことに集まった狼もエーヴァになつき、逃げ出した犬の代わりに彼らがこのキャラバンの守り手になったらしい。

 彼らも人間と同じように子を産み、何世代にもわたってキャラバンと旅をしており、その中でもこの二匹は特別エーヴァから離れないのだと言う。

「私もきちんと子を作ろうと考えたこともあったが、この子たち以上に身を委ねられる人に巡り合えなくてね。この子たちも私が男と一緒にいるのを嫌がったんだ。望み望まれた人生だ。悔いなんかありゃあせん」

 後悔がないなんて羨ましい。私も彼女のように人生を語れたらいいなと思う。

「だがな、少し心配なことがあるじゃよ」

「心配なことですか?」

「あぁ……」

 エーヴァは二匹の狼を愛おしそうに見つめながら言う。

「私に人間の子はありゃあせん。でも、この子らはわしの子供じゃ、宝じゃ。わしはこの子らを残して死ぬことになるじゃろう。わしに付きっ切りのこの子らが、わしがいなくても、この子らは立派に生きていけるか……。それだけが心配なんじゃ」

 二匹の狼と目が合った。二匹はしっかりとした目をしている。まるで、心配なんていらないと言っているように見えた。目が悪い彼女の代わりに、私が彼らの意思を伝える。

「エーヴァ様、大丈夫ですよ。彼らはあなたの愛情を沢山受けて、とてもしっかりとした目をしています。別れはきっと寂しいでしょうが、あなたの子です。きっと、群れの長になって皆を導いてくれますよ」

 私の言葉に二匹の狼が返事をした。まるでそうだよって言ってくれたみたいで、二匹の頭を撫でた。すると、不思議なことに彼らから光が溢れた。その光はエーヴァを通って天幕の外に続いている。おそらくこの光を辿ると兄がいるはずだ。

「なんじゃ、奇麗な光が見えるのう。お前たちは神の使いじゃったか」

 そう言って、エーヴァは二匹の狼の頭を撫でる。

「死んで生まれ変わっても、お前たちに会いたいのう」

「……きっと、会えますよ」

 初めてキャラバンの皆に会った時、狼と話をしていたはずの兄は、私に彼らの願い事を教えてくれなかった。だが、今、私の言葉で彼らの願いは叶ったらしい。

 今日何もできなかった自分が途端に誇らしく思えて、自然と笑みが零れた。エーヴァも目じりに皺を寄せて笑った。


 帰って来た兄を見て驚いた。なんと目が、兄の目が元に戻っているのだ。目の色が元の青磁色に戻っている。

「お兄ちゃん……っ!! お兄ちゃんの目だっ!」

 間近で兄の目を見つめる。大好きだった目の色が一つ戻ってきたのが嬉しくて、ずーっと眺めていると、目があちらこちらに動き、兄に引き剥がされた。何を照れているのか、兄の目は世界一奇麗な宝石なのだ。ずっと見ていたい。

 四人の男の働きのおかげで、無事に罠が二つ出来上がったらしい。あとは熊が罠に引っかかるのが先か、赤子が産まれるのが先かだ。

 絶えず私が兄の目を眺めていると、オズワルドが「目なら僕の方が沢山ありますよ」と謎の対抗を見せてきた。兄から目を離して、オズワルドの目を見る。黄金色の目と目が合う。

「やっぱり目が見えてた方が、表情が分かりやすくていいと思う。寒い場所限定じゃなくて、いつもそうしていた方がいいよ。オズワルドも奇麗な目してるんだから」

 彼は何か気に食わなかったのか、顔を逸らして一つしか晒してない目も隠してしまった。

「あ、でも口調がコロコロ変わるのはちょっと困るかも」

「……」

 しばらくして、「検討する……」と何とも小さな声が返ってきた。



 二日後、設置した罠を見に行こうと外に出ると、兄とオズワルドが反応した。

「ぅ゛ぅ゛ぉ゛……っ」

「……丸太に押し潰されているように見えますが、十分に気を付けてください。お前はここで待ってろ」

「え、でも二人が心配だよ……。それに……」

 もし可能ならば、熊の願いを叶えて兄の手も直したい。

「……私たちが先に行って問題ないようであれば、リリーさんを呼びます。それでいいか?」

 私はオズワルドの言葉に頷いた。離れていく彼らを見守りながら、何事もないように無事を祈る。遠くに見える彼らは特別慌てた様子も見えず、しばらくして戻ってきた。

 許可が下りて罠に近づくと、熊が罠に掛かりうつ伏せ状態で弱っていた。足にも腰辺りにも重そうな丸太が乗っかっており、動けない様子だ。

「お兄ちゃん、何か言ってる?」

「……ぁ゛ぅ゛ぇ゛ぇ゛……」

 目の前の熊は衰弱していて、丸太が重くて仕方がないはずだ。兄に聞くまでもなく、私たちに助けを求めているのは当然だった。しかし、罠を外せばこちらが殺されかねないし、万が一、母子に何かあったら本末転倒だ。

「何と言われたんですか?」

 オズワルドに尋ねられ、助けを求めていると言うと、彼は天幕から他の男たちを連れてきた。やってきた彼らは皆槍を持っている。

「お前は天幕に戻った方がいい。今から解呪を行いますから」

 オズワルドには私の考えていることが、手に取るように分かるようだ。しかし、彼の解呪はどう考えても、熊を助けるのではなく、殺すという意味だと分かる。

「オズワルド、待ってーー」


「時には殺してやった方が助かることもある。よく、覚えておいてください」


 私は後ろに下がらせられて、兄に引き留められる。私は目の前の光景を見守ることしかできない。

「こいつの頭蓋はかなり硬い。心臓を狙った方が確実です。俺が六発撃って弱らせるから、ひっくり返して皆で心臓を刺してくれ。私が襲われようとも、気にしなくて構いませんから」

 オズワルドは木の棒を使って、熊の口が閉じないように固定する。手袋を外して銃を握った手をその口に突っ込んだ。信じられない光景に私だけでなく、周囲の男たちも目を見張る。

「何やってるの!? いくら弱ってるからって危ないでしょ!?」

 私の声なんて届いていないかのように、周りの男たちに合図をするオズワルド。そして彼は引き金を引いた。

 最初の一発に驚いた熊は、木の棒を噛み砕き、オズワルドの腕を噛みちぎらんばかりの形相を見せる。それでもオズワルドは二発、三発と続けて、熊は首を振り四肢を振り回す。

 誰が見ても正気の沙汰ではない。

 四発、五発目には熊の抵抗も弱くなりはじめ、最後の一発を放った後に、オズワルドは皆に合図を出した。皆は腕が食われているオズワルドをそのままに熊を仰向けにし、皆で心臓を刺した。

 自分の血が失われていくような感覚がして、その場に崩れる。熊からはいつもの光が出て、私の傍にいる兄に向かい、兄からは闇が抜けていく。

ーーどうして……っ。

 いつもなら喜んで兄の人間に戻った一部を確認するだろうに。頭がおかしくなりそうになりながら、雪を血に染めている男のもとへと近づく。オズワルドは他の男たちに救出されて、その体は血に染まっている。

 こんなに寒いのに目元に熱が集まって、温かい涙は外気に晒され冷やされていく。雫は固まる前に目の前の男の服に落ちた。


 再生能力があることは聞かされていた。

 死なないこともわかっている。

 だけど、あのゾッとするような感覚は止められない。

 分かっていても、こちらの心臓が持たない。


「なんでっ……、こんなこと、するの……? あんなの見せられる、こっちの身にもなってよ……っ!」

 再生すると言っても痛みはあるのだろう。顔を歪ませながら私を見ている。

「喜んでくださいよ……っ。兄貴の呪いは解けただろうが」

「そんなっ! 他にも、いくらでも、機会があるって、そう言ったのは……っ、オズワルドじゃない……っ。私はっ!」


 こんなにも犠牲を払って、オズワルドに兄の解呪をしてほしいとは思っていない。


「あなたの笑顔が見たくて頑張ったのに、難しい人ですねぇ……。あぁ……っ、多分もう再生した。もう大丈夫です。うわ……、流石に血が固まってきて寒くなってきた……。洗うの大変そうですね……。って、うおっ!」

 目の前の血だらけ男になんて言っていいのか分からなくなって、涙が溢れ、その体にしがみつく。

 色々な感情が波のように押し寄せてきていて、形に、言葉にできない。嗚咽が止められない。

 でも、生きててよかったということだけはハッキリしていて、


 目の前の生を感じるために、

 どこか離れて行かないように、

 閉じ込めるみたいに抱きしめた。


 オズワルドは小さくため息を吐く。

「……リリーさんの服にも血がついてしまいますよ」

「別に゛っ、い゛い゛っ……!」

「……固まると血が取れないだろうが」

「私が、や゛る゛っ……!」

「……困りましたねぇ」

 しばらくすると、何か思いついたように、軽くおどけた調子でオズワルドが言った。

「兄貴が見てるぞ」

「うぇーーっ!?」

 兄が見ていると言われた瞬間、体が飛び跳ねた。

「ちなみに、他にも沢山見られてますよ」

 周りを意識した途端、妙に恥ずかしくなって、雪に顔を埋めたくなる。

「お前が押しつぶしてたんだ、手くらい貸せ」

 真っ赤になったオズワルドの手。彼の拳銃と手袋を拾い、急いで彼を自分たちの天幕に連れて行った。


 誰も天幕に入らないように注意して、オズワルドに服を脱がせると血が固まっていた。血はパリパリと剥がれて、暖かいこの中で溶けても構わないように容器に入れた。

 中央に設置してある炉には常にお湯が湧かされていたので、布を使って体を拭いてやる。でも、所々に目があるので上手く拭けずに時間が掛かる。

「普通に拭いてもらって大丈夫ですよ」

「で、でも、目に水が入ったら痛いよね?」

「……っ、まぁ、そうだな。丁寧に拭いてください」

 体を拭き終わり、予備の服をオズワルドに着せて、中央の炉で温まるように誘導する。手は赤く腫れているように見えるが大丈夫だろうか。

「手大丈夫?」

「ただの霜焼けだ」

「そ、そう……。それならよかった。す、すぐに服を洗ってくるから待ってて!」

 私がバタバタと部屋内を歩き回っていると、オズワルドは笑い出した。

「な、何……? どうしたの? 何かおかしい?」

「お兄さんはいつもこういう気持ちなんですね」

 言っている意味が分からないまま、服を洗いに外に出ようとすると、ちょうどそこに兄がいた。

「あ、お兄ちゃん! 今から服を洗うんだ。あ、えっと、もう着替えたから、中に入っていいよって言わなきゃ。お兄ちゃん伝えてくれない?」

 頷いた兄に礼を言って、慌てて洗濯場に向かった。



 私がオズワルドの服を洗い終わった時、大きな産声が上がった。

「え……?」

 まさかと思いつつ、その声のもとに行くと、真っ赤な血まみれの赤ちゃんが苦しそうに泣いている。想像していたよりもその姿が真っ赤で驚いた。

 無事に出産できたことを喜びながらも、服を外に放置したままだったことを思い出し、急いで洗濯場に戻る。案の定、服は固まっていて、私は一体何をしているんだと情けなくなる。

 自分たちの天幕に入って、オズワルドに謝罪する。

「あの、本当にごめんなさい……。赤ちゃんの声に驚いて、駆けつけたらいつの間にか凍っちゃって……。外に行きたかったら私の服貸すから。あっ、でもサイズが。あぁ、どうしよう……。って、あれ? 二人とも向き合ってどうしたの?」

「……何でもないですよ。……っ、なんだその氷の塊は」

「いや、だから……、ごめんなさい……っ」

「今日一日外に出られそうにありませんね……」

 オズワルドに何度も謝りながら、炉の近くで服を温める。「今度は燃やすんじゃないだろうな?」と言われて、ムッとしたけど言い返す言葉がなかった。

 赤ん坊について話すと、二人は産声に気付かなかったようだ。赤子に感じたままの感想を伝えながら、オズワルドの服が乾いたら見に行こうと誘う。

 兄が立ち上がって荷物をあさっているのを見て、そういえばと思い出す。兄の手が人間の手に戻ったのだ。

「お兄ちゃん! 手見せて! 早く、見せて!」

 こちらを振り返った兄の手は、本当に兄の手で。でも、熊手の時に怪我した跡が残っていた。凄く痛かっただろうなと傷跡を撫でる。

「もう痛くない?」

 兄は頷き、私は兄の手を取った。手が人に戻ったことで随分とできることが増えるだろう。嬉しくなってその手にキスをした。


 兄の手は人を救える手だ。きっと多くの人を救う。今のは祝福のキスだった。


 兄の顔を見ると微笑んでいて、嬉しくなって笑う。すると、いつもそうしてくれたように頭をポンポンと撫でられた。


 そう、私はこれが好きだった。


 まるで犬になったみたいに、もっと撫でてくれと頭を差し出す。そして、この手に触れられるのはオズワルドのおかげだということを思い出し、振り返って、「ありがとう」と告げた。


 翌日、オズワルドの服はきちんと乾き、三人で赤ん坊がいる天幕に行った。赤ん坊は産まれた瞬間とは打って変わって、肌色が落ち着いていて、キラキラとしたお目目をこちらに向けた。

「わぁ……」

 指を指しだすと、その小さな手で握ってくれる。母性本能が騒ぎ出して、心を鷲掴みにされていると、抱いてみるかと言われた。

 是非ともそうしたいと首を縦に振り、決して落とさないように抱き上げる。私の手はものすごく、ぎこちなく固まって、絶対に落とさないようにしなければとしか考えられない。

 そんな私を見て、アルヴィナは笑いながら言う。

「座って抱き上げればいいじゃない」

「そ、そう、だよね……」

 言われてみればその通り。地上との距離が近くなると、私も安心して抱き上げながら頬をツンツンと突いた。

ーー柔らかい~~~っ!

 ふわふわ、ぷにぷに、気持ちがいい。言葉にならない叫び声をあげていると、兄もオズワルドも赤ん坊に指を伸ばした。一人は指を掴まれ、一人は頬を突いている。

 どこか怯えたように赤子に触れる男二人は、感慨深そうな目で赤子を見つめていた。

 そんな二人を見て、アルヴィナは言う。


「あなたたち、どっちもいい父親になりそうね」


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