第2話 救い


ーーうわぁ……、人が多いなぁ……。

 まだ明るい内にトモプモラに到着し、久々の人の多さに圧倒される。交易が盛んだということは、ここに到着するまでの舗装された道や、すれ違う馬車、人の多さから察してはいた。しかし、これほどまでとは思わなかった。

 ただでさえ兄は大きくて人目を引くのに、明るい時間にこんなに沢山の人々がいる中で、兄を引き連れて移動するのは難しい。いち早く宿を取って、私一人で買い物、白黒の馬探しをした方がいいと判断する。人目に付かない夜に兄と解呪しに行くのが一番いいだろう。

「お兄ちゃん。私の後ろにくっついて歩いてね。離れちゃダメだよ。まず、宿屋に行くから」

 私の言葉に頷いた兄とアルヴィンを連れて、宿屋で部屋を取る。幸いなことにここに来るまで、彼の姿が普通と違うことに気付いた者はいなかった。

 早速部屋に入り、兄に留守番するように伝える。

「私一人で旅に必要なものを調達してくるから、お兄ちゃんはここで待っててね」

「ぃ゛ぁ゛ぁ゛……」

「ダメダメ! こんなに明るくて、こんなに人がいたら、バレちゃうもん。だから、夜に一緒に出かけよう?」

「ぃ゛ぃ゛……」

「大丈夫! 旅のおかげで体力ついたし、お米だって五キロでも十キロでも平気だよ。だから、ちゃんとお留守番してて。暗くなったら帰るから」

「ぁ゛ぁ゛っぁ゛……」

「ありがとう、お兄ちゃん」

 兄に窓際に近づかないよう注意して部屋を出る。宿屋の主人には兄が話せないことを伝えておき、私は薬屋を探した。


 薬も包帯も干し肉も買った。残りはお米だけ。夕暮れの中、周囲を観察しながら歩き回る。

 買い物がてら白黒の馬を探しているのだが、全く見当たらない。代わりに猫の姿を見かけた。どうやら、トモプモラでは多少なりとも兄の姿を元に戻せるには違いなかった。

 教会前に一人の神父と、何人かの信徒が集まっているのが見えた。信徒の興奮した様子が気になって、少し近づいてみる。覗き込むと神父は盲目なのか、眼窩に布を巻いて、一つ目が描かれた暖簾のような布で目元を隠していた。その神父の肩には可愛らしい鳥が一匹載っている。

「そこのお嬢さん、少しよろしいですか?」

 若い神父の言葉で、信徒が一斉に私の方を見る。周りを見てもこの場に女性は私しかいない。私のことを言っているのだろうか。

「ラベンダーのような奇麗な目の色ですね。どうして顔を隠していらっしゃるのです?」

 フードを目深に被っていたのに、なぜ目の色が分かったのだろうか。

 周りの信徒がワッと湧いて、私にフードを捲ってくれと頼み込んでくる。なんだか異様な雰囲気の彼らに押されて、フードを脱ぐと私の目を見て皆が湧き立った。

「流石、オズワルド様! 鳥の目を介して世界を見られておられるだなんて、本当に尊いお方……っ! では、髪色っ! 髪色はどうです!?」

 神父は肩に載っている鳥の目を通して、私の姿を見ているのだと言う。トリックはわからないが、なんて胡散臭いんだろうか。

 オズワルドと呼ばれた神父は、私の明るい髪色を見事にいい当て、また信徒が騒ぎ出す。そして、オズワルドはスンと一度鼻を鳴らした。

「あなた、臭いますね」

「え……?」

 すると私も周りの信徒も一斉に私の体臭を嗅ぐ。旅をしているのだから、それなりに臭うと思うが、なんて失礼なことを言う神父なのか。同じく失礼な信徒たちを追い払う様に臭いを撒き散らしてやった。

 私が怒っていることに気が付いたのか、オズワルドは首を横に振る。

「あぁ、そういう意味ではないですよ。ちょっと、私の知り合いの臭いによく似ていたので。どうやら、気のせいだったみたいです。すみません」

 神父は謝罪しているが、目が隠れているため真意は分からない。

 今までいかに自分が相手の目で表情を捉えていたのか理解する。目が見えないだけで、こんなにも表情が捉えられないものなのか。いや、全身被り物のような兄でも表情は捉えられる。この男が少し特殊なのかもしれない。

 何か得体の知れないような嫌な感じがして、私は足早に彼らのもとから離れた。


 屋台が建て並ぶ市場で米を買う。買い物中、店主にさり気なく珍しい生物を見たことがないか尋ねてみる。すると、驚くべきことに店主は私の知りたかった白黒の馬について知っていた。

 彼の話をまとめると、トモプモラと交易を行っている都市の中にテピドという場所があって、このテピドは国を超えて、ずっと南西にある熱帯地域の都市らしい。

 そのテピドの商人がこの国では見かけない珍しい生物を連れて、最南端に位置するこの街トモプモラにやってくるのだと言う。

 テピドからトモプモラの道のりはかなり距離があるので、彼らがこの街に来るのは三年に一度ほど。そして、つい一年前に『シマウマ』と呼ばれる白黒の馬が連れてこられたのだと言う。

 この動物を大変気に入った、この街一番のお金持ちであるジェシーという男が、シマウマを一頭買い上げたそうだ。普通の馬と一緒に飼っているが、気性が荒くて手を付けられないらしく、近いうちにはく製にしようと考えているらしかった。

「見たいなら、早いうちに見ておくべきだよ」

 私は米屋に礼を言って、そのシマウマの持ち主の屋敷の場所を尋ねる。

 日が落ちる前に宿屋に戻り、私は兄に聞いた話を伝えた。



 三日月が顔を出し始めた頃。私たちは宿を抜け出し、シマウマを飼っているというジェシーの屋敷のすぐ傍にある厩舎に向かった。真夜中のためか、屋敷に明かりはついておらず、完全に寝静まっているようだ。

 厩舎は馬が五、六頭はいそうな大きさで、外にいても彼らの寝息が聞こえてくる。その中でも少し異なる寝息が聞こえた単馬房に移動して外から姿を覗くと、そこには白黒毛並みの馬がいた。

 しかし、そのシマウマの模様は本に載っていたシマウマとも、兄の左半分の太腿を覆っている縞々とも違う。縞々ではなく水玉なのだ。これは果たして図鑑で見たシマウマなのだろうか。

 私たちの視線に気が付いたのか、その珍種の馬は体を起こし、窓から覗いている私たちを見た。彼のどこが気性が荒いというのだろう、全くもって大人しい白黒馬だ。彼は小さな声で鳴いた。

「お兄ちゃん、なんて言ったの?」

「ぁ゛ぇ゛ぃ゛ぁ゛ぃ゛……」

 米屋の主人の話を思い出して納得する。見た目は少し異なるが、彼もやはりシマウマなのだろう。帰りたがっているのだ。西の最果てに。

「おい、お前たち! そこで一体何をしている!」

「わわっ、なんで……っ!?」

 数人の男たちが集団で夜の見回りをしていたようで、慌てて兄と厩舎から離れる。屋敷の人間ではないのか、厩舎から随分と離れてもまだ追いかけてくる。宿屋に直接戻ってはならないと思い、先頭を買って出て、今日回った市場や路地裏を通ってやり過ごす。

 自警団かよく分からないが、夜中に彼らのような男たちが出歩いているのは都合が悪い。兄は夜しか動けないし、私一人で動物を助けても意味がない。

 月は雲に隠れたのか、辺りは非常に暗くなっており、そのおかげで自警団は私たちを見失ったらしい。今後の事を考えるのは後でいい。

「とりあえず、今日は宿屋に戻ろう」

「ぁ゛ぁ゛……」

 自警団がいないのを確認しながら宿屋に向かっていると、ニャアニャアと可愛らしい鳴き声が聞こえた。私からはその姿を捉えられないが、兄の目は人のものよりも出来がいいようで、暗闇の中でも猫の姿がわかるらしい。

 道を逸れて暗闇の方へ進んでいくと、一層猫の鳴き声がはっきりと聞こえた。目の前には何本か木が連なっており、その中の木の上に猫がいるらしい。

 兄は木に向かって手を伸ばしているようだが、どうにも届かないようで、猫は悲しげな声を上げて鳴き続けている。

 見えないながらも、私は兄に手伝いを申し出た。

「お兄ちゃんが私を肩車するのはどうかな? 私には猫の姿が見えないけど、二人でなら猫を助けられるよ! 私が両手を伸ばすから、お兄ちゃんは猫の方に誘導してくれる?」

 私の提案に兄は歯切れの悪い返事をする。おそらく私を肩車する際に、彼の右肩にある針が私を傷つけてしまうことを恐れているのだろう。兄の呪いを解くために多少怪我するのは構わない。

 私は兄を無理矢理屈ませて兄の肩に乗った。右腿に当たっている針は思っていたより痛くない。兄に持ち上げてくれと合図すると、自身の体重が思い切り太腿にかかってきて、兄の心配通り突き刺すような痛みを感じた。

「ぃ゛ぃ゛……?」

「……っ! ……大丈夫っ。両手を伸ばしてるから、猫の方に移動して……っ」

 兄が動くたびに顔に葉が当たり、手に枝が刺さる。そして、そのたびに力が入って太腿に針が深く突き刺さる。兄の申し訳なさそうな声と、猫の声が近くに聞こえた。おそらく目の前にいるはず。

「おいで……」

 私が目一杯手を伸ばして呼びかけると、何か手の上を走る感覚がして、顔に何か柔らかい毛布が引っ付いた。なぜか二度衝撃を受けたが、落とさないように手をその毛布に張り付ける。

「おいいやん。おおいて……」

 兄は木から離れ、ゆっくりと屈んでいく。太腿の痛みと顔に張り付いたモフモフにやっと解放される。飛び降りた猫からいつものようにキラキラとした粒子が溢れ出し、兄の方へ向かっていく。

 粒子が二方向から漂っている気がするのは、目の錯覚だろうか。疲れているのか、目がぼやけているのか。暗闇の中、兄から黒い煙が出ているのかは分からないが、おそらくきっと出ているのだろう。

 輝きが見えなくなり、猫がニャーと一つ鳴いた後、どこかに去ってしまった。

「戻ろっか」

「ぁ゛ぁ゛……」

 幸いなことに猫を助けている間、自警団に見つかることはなかった。だが、彼らがどこを見回っているのか分からないので、早足で宿屋に移動する。


「嘘……っ」


 私は兄の姿を見て言葉を失った。照らされた兄の顔は、鼻から口にかけて元通りに戻っている。顔の大部分を占めていた猫科の鼻と口は、絶対に大型動物の虎や豹かなにかだと思っていた。その場所が元に戻るのはずっと先なんだと思っていた。

 人間に近づいた顔をよく見る。触れて確認する。鼻の穴からちゃんと風を感じる。唇も柔らかい。あぁ、これは間違いなく兄の鼻と口だ。

「よかったぁ……っ!」

 兄の顔の部位を二つも取り戻せるとは思わなかった。思わぬ大収穫に飛び跳ねて喜んだ。人通りの多いこの街に来て、危険を冒した甲斐があった。太腿からは血が垂れていたが、そんなことは些細なことだった。



 私たちはしばらくトモプモラに留まることを決めた。夜に出歩くのは危険だと分かったので、とりあえず私だけ情報取集に出かけることにする。兄はそれを嫌がったが、今のところそれしか手がないのだ。不満げな兄を宥めて、私は一人、もう一度ジェシーの屋敷に向かった。


 屋敷の応接室に通される。この部屋に連れてこられるまでの廊下にも、この部屋にも動物のツノだったり、剥製だったりが大量に飾ってあった。彼は相当熱心なコレクターらしい。

 部屋を眺めていると、小太りな男ジェシーが部屋に入ってきた。自己紹介よりも先に彼のコレクションの話が始まる。

「そのツノはお気に入りでね。一体何のツノだと思います?」

 二回半捻れた長いツノ。この特徴的なツノは、あの生物図鑑を読んでいなかったら、存在を知ることもなかっただろう。

「クーズーのツノでしょう?」

「わ……っ、なんと……っ! まさか、言い当てられるとは思いませんでした……っ。クーズーを見たことがあるのですか?」

「いいえ、実際には。少し動物を調べる機会が多くて、偶々知っていただけですよ」

「なるほど、なるほど。動物好きに悪い方はおりません。どうぞ、座ってください!」

 機嫌が良いジェシーとニ、三動物の話をして本題に入る。

「ジェシーさんがシマウマをご購入されたと聞いたのですが、それは本当ですか?」

「えぇ。大分根が張りましたけども、生きている姿を見てどうにも欲しくなったんです。私はツノと毛皮に目がなくてね」

 彼はうんうんと頷いて答える。

 米屋の店主から聞いたシマウマを剥製にしようとしている件について本当かと尋ねると、彼はそうだと答えた。

「一年は生きた標本として観察できたので、そろそろ剥製にしようかと。きっと良いものが作れますよ」

「普通、死んでから剥製にするのでは?」

「私はね、傷がない、病気じゃない、一番元気な姿を残したいんですよ。せっかく高いお金を払って手に入れたのに、見た目が悪くなったら最悪でしょう? それに、購入した時より随分と元気がなくなってきたように見えるんです。今を逃したら、美しい姿を後世まで残せないでしょう」

 必死に表情を取り繕うが、彼の言い分には腹が立った。それは、私がシマウマの気持ちを知ってしまったからかもしれない。

「一度、元いたテピドに連れて行けば、元気になるのでは?」

「それはそうでしょうけど、現実的ではありません。私はこのトモプモラから離れる気はありませんから」

 そう言ってジェシーはにこりと笑った。

「近日中には殺してしまうので、よければ御覧になりますか?」

 彼の言葉に頷いた。


 厩舎に行くと、夜見た時とは違って馬やシマウマは立ち上がって干し草を食べたり、水を飲んだりしていた。

「ほら、見てください。縞々ではなく、水玉なんですよ。これは凄く珍しいんです。これを私に譲ってくれたアガワルさんには感謝しかありません」

 ジェシーの言った名前を繰り返す。アガワルはこの街にシマウマを連れてきた商人の名前らしい。

「あなたもテピドの生物に興味があるのなら、彼とは仲良くなった方がいいですよ」

 アガワルはテピドからやって来た商人で、一年前の取引で大儲けしたらしい。この街を気に入った彼は家を買って、今はこの街で悠々自適に暮らしているのだと言う。

 彼の家の場所を尋ねると、宿屋にほど近い場所だと分かった。

「やはり、あなたも欲しいんですね」

 ジェシーはそう言いながらシマウマを撫でると、触れられた瞬間シマウマは暴れ出した。ジェシーは蹴り飛ばされる寸でのところで避け、事無きを得る。

「この暴れん坊は家畜にするのも難しくて。彼の背中に一度でいいから乗ってみたかったのですが、その夢は叶いそうにありませんね……」

 シマウマに蹴られて重症を負った馬丁は、三人にも及ぶと言う。その気性の粗さを怖がり、皆世話をしたがらないのでジェシーは困っているらしかった。

 シマウマの願いを叶えることはかなり難しい。剥製にされそうになっている彼を逃がしたとしても、私たちが彼をそのまま故郷に連れて行くことはできない。

 なんとも言えない気持ちになりながら、ジェシーにシマウマを売ったという男ーーアガワルのもとへ向かった。


 アガワルの家に向かう途中、オズワルドと呼ばれていた神父が杖をつきながら、歩いているのが見えた。周りの人々より多少遅いが、普通に歩いている。

 なぜ、盲目の男がご自慢の鳥も肩に載せていないのに、普通に歩けているのか。あの眼窩に巻いた布を外しているに違いない。

 オズワルドは信徒共々私を騙したのだと思い、一言言ってやろうと彼の前に出る。

「あなたっ! 見えてるんじゃ……、ない……」

「あなたは昨日のラベンダーさんではないですか」

 オズワルドは昨日と同様に目隠しをしていて、肩に鳥は載っていない。目隠しに穴でも開いているのかと思って覗き込むが、そんな穴は見当たらない。不躾ながら、目隠しの上に手を重ねて、片手で指を二本立てる。

「今、指を何本立ているか分かりますか?」

「二本ですね」

 何度試しても、オズワルドはまるで見えているかのように何度でも当ててくる。わざと違うと言っても「嘘をつかないでください」と指摘してくる。いよいよ怖くなって、目隠しに触れていた手を離す。

「な、な、なんで、鳥もいないのに見えているんですか!? 鳥の目を介すって言ってたじゃないですか!」

「え? あぁ……。ほら、上にいます」

 彼は天を指差し、そこには確かに鳥がいた。しかし、空高くだ。あそこから私の指の本数なんて分かるはずがない。

「あれは、ワシです。彼らは人間よりずっと視力がいいですから。距離がある獲物も捕えられる、優れた目を持っているんですよ」

「え、あ、あれ……、ワシなんですか? 遠いから私にはよく分からないです……」

「さて、ラベンダーさん。私に何か用ですか?」

 用なんてない。神父が嘘をついたのだと思い、指摘してやろうと思ったが、それも私の勘違いだったらしい。胡散臭さは拭えないが、彼は本当に鳥の目を介して世界を見ているようだ。

 何でもないと言って引き上げようとすると、ガシリと腕を掴まれた。

「あなた、昨日も思いましたが、やけに動物臭いですね」

「……っ」

 手を振り払って、距離を取る。兄の存在は誰にも気取られてはいけない。

「猫に抱きつかれたので、その臭いじゃないですか?」

「……猫。たしかに猫の臭いですね」

 オズワルドは納得したように頷いた。

 この神父には、あまり近づかない方がいいかもしれない。

 私は一方的に別れを告げる。猫のように逃げ出して、アガワルの家に向かった。



 大儲けしたと言っても購入した家は随分とこぢんまりとしていて、本当にここなのか何度も疑った。だが、部屋から出てきた褐色の男はアガワルと名乗り、商売人らしくにこやかな笑顔で接してきた。椅子に座らされ、茶を差し出される。

「お仕事の話ですか?」

 私が彼の言葉を繰り返すと「生物が欲しいんでしょう?」と言われ、首を横に振る。彼は少し不思議そうな顔をした。

 それにしても、やけに香ばしい匂いが部屋に充満している。私が鼻をひくつかせたのに気が付いたアガワルは、微笑みながらその理由を話してくれた。

「ふふっ。匂いますか? 先ほどまで、故郷の郷土料理を作っていたんです」

「とてもいい匂いですね」

「本当ですか? 軽食に最適なので、ぜひ、召し上がってください」

 アガワルに差し出された軽食は、小麦粉で作った薄い皮の中にひき肉や玉ねぎ、ジャガイモなんかを詰めて、サラッとジューシーにあげたもの。

 長い間、雑炊や焼き魚、干し肉しか食べてなかった身には、軽食と呼ばれたこの料理でさえ、涙が出るほど美味しかった。

「あ、あのっ! こ、これとっても美味しいです! 持って帰ってもいいですか!?」

「あはは。いいですよ」

 アガワルは微笑んで了承してくれる。家事を手伝ってこなかった私は、兄に同じものしか食べさせられていない。たまに創作料理と表しておかしな料理を作るが、八割失敗、二割かろうじて食べられるといったものしか作れない。兄がそれでも残さず食べてくれるのは、あの青い舌に味覚が無いのだと思っている。

 私が食を楽しんでいると、アガワルに質問された。

「どうして私のもとに訪ねて来られたんですか?」

「……私、動物に興味がありまして。ジェシーさんのシマウマはあなたから買ったものだと聞きました」

「えぇ、そうです。遠路遥々テピドから彼らを連れてやって参りましたとも。前回は連れてきた生物を奇麗さっぱり売り切ることができましてね。いやぁ、あれは最高の気分でした」

 一年前のことかと聞くと、彼は頷く。

「どうもこの街のお客さんではなかったんですがね。インダルジェンスと名乗ったお方が、まとめ買いしてくださって。まさかあんな大金を一気に払える方がいるなんて思いませんでした。ほんと不平等な世の中ですよねぇ」


ーーインダルジェンス……?


 アイザックが購入したのだと思っていたが、そうではないらしい。だが、あの劇場に集められた生物の数を考えると、アイザックと関係のある人物なのは明白だ。

 男の容姿を聞くと、人の顔を覚えるのが得意なはずの商売人なのに、体調が悪かったのか、あまり覚えてないらしい。顔を顰めて、自分でも不思議なのだと言う。

 ちなみに、アガワルはテピドの出身ではないらしい。熱帯地域の北東にあるサフェードという国の出身で、西に生息している生物に心奪われて、テピドで商人をやっていたのだと言う。

「ジェシーさんはシマウマを剥製にするらしいですよ」

 私の言葉にアガワルは悲しそうな顔をした。

「そうなんですね……。可愛がってほしいですが、私には口出しする権利はありません。今はジェシーさんのものですし、そもそも彼らをここに連れてきたのは私なんですから……」

 なんともいえない雰囲気を引き裂くように、思わぬ訪問者がやってくる。


 ニャー。


 茶虎の猫が物悲しい表情をしたアガワルの周りをクルクル回って、私の方へやってきた。その姿に少し違和感を感じながら眺める。

ーーあれ……? 猫ってこんな感じだっけ……?

 やけにふわふわしてて、むっくりしている気がする。私が首を傾げていると、アガワルも首を傾げた。

「その子、あまり人に懐かないんですけど、あなたのことはお気に入りみたいですね」

「はぁ……。別に私、猫に好かれる体質ではないんですが……」

 私がそう言うと、アガワルは吹き出した。

「いやですねぇ。ご冗談を。その子は小虎ですよ、虎! 動物好きだって仰ってたじゃないですか、とぼけちゃって」

「こ、ことら゛っーー!?」

 驚いて床から足を上げると、小虎は膝の上に載っかり、机の上に載っかり、私の顔に載っかってきた。

ーーこの感触……。覚えがあるぞ……。

「おやまぁ。お腹を見せるなんてよっぽど信頼されていますね。嫉妬しちゃいます」

 半震える手で小虎を引き剥がすが、なぜか再び登ってきて窒息死させようとしてくる。そんな小虎の脇を掴んで拘束する。

 どうやらこの子は生後一カ月の赤ちゃんで、つい先日とある行商人がこの街に虎を売りにやってきたらしい。虎はちょうど妊娠していたらしく、このトモプモラで子を産み、可愛さに心打たれたアガワルは大金を積んで購入したのだと言う。

「どうやら、この子。もう既に彼女がいるようで。ほら……」

 ニャァ。

 今度は本物の茶虎の猫が現れる。

ーーこれ! 私の知ってる猫はこれっ!

 彼女を見つけた小虎は薄情にも私から飛び降り、猫のもとに擦り寄る。その二匹の姿が非常に愛くるしくて、胸が締め付けられた。

ーー可愛い……、けど……。

 種が違うのだ。今は互いに小さい者同士で関係を築けているからいいが、将来その差は大きくなって現れる。

 なんだか急にその二匹から目を逸らしたくなって、アガワルにどうしてこの状況を放置しているのか尋ねる。

「……っ! か、可愛いですけどぉっ、成長したらつらいことになるって、分かるじゃないですかっ。それこそ、猫の方が食べられちゃってもおかしくないわけでっ」

 自分でもよくわからない情緒で、二匹の猫を語る。

「種は違いますが、大きな括りで見れば同じ猫科であり、同じ生き物でしょう? それに、私だって猫を愛でますし、食べようとは思いません。それはこの子たちも同じなのでは?」

 その通りだ。でも、私が言わんとしていることとは少しずれていた。彼は広義の意味での愛を語っている。私が言いたいのは性愛についてだ。

「種が異なるということは、子供が作れないじゃないですか」

「あぁ、なるほど。たしかにそうですね。でも、子供ができないからと言って引き離すのは、少し乱暴なのでは?」

「動物は人より本能で生きていると本で知りました。彼らの一生は、種を残すことが一番重要なはずです。人間同士でもタブーとされる相手はいますし、人間と動物だって種を残せない。それが性愛になるなら引き離すべきなのでは?」

 自分でもどうしてこんなに食ってかかるのか分からない。でも、その答えが知りたかった。

 アガワルは二匹の姿を見る。

「種としての見解はそうでも、個々人の思考は千差万別。私はどんな相手に愛を向けてもいいと思いますよ。種として誤った道でも、個人として正解ならそれでいい」

「……」

「それに、見た目が変わろうと、この子たちは一緒にやっていけると思うんです。これは漠然とした感のようなものですけどね。私は二匹がじゃれ合っている姿を見ていると心が和みます。たとえ、成長しても、種を残せなくともそれは変わらないでしょう」

 アガワルは私の目を見て言う。

「互いに求めあっているんなら、一緒にいさせてあげたいです」

 彼が言ったのは二匹の猫に対して向けた言葉。それでも、私はーー

 感謝の言葉を伝えたくなった。

「え? なんで……? え? なんで泣いてるんですかっっ!? え? え、なん、あ、な、ナンも持っていきます!? 作り置きしてて、いっぱいあるんで! あっ、今、今すぐ、ルーも作りますからっ! な、泣かないでください〜〜っ」



 山ほど持って帰ったスパイシー料理は、全て兄に食べ尽くされてしまった。躊躇いなくそれを口に運ぶ姿を見て、自然と笑顔になる。久しぶりに美味しい物を食べさせてあげることができて本当によかった。

 そんな兄を見て和んでいたのだが……。

「お兄ちゃん! ついてきちゃダメだってば! ほら、部屋の中入って」

「ぃ゛ぁ゛ぁ゛……」

「〜〜っ!」

 兄の体を部屋に押し込もうとするが、全く動かない。昨日まで大人しくしていたのに、急にどうして付いてこようとするのか。

「ぃ゛ぃ゛、ぁ゛ぃ゛ぇ゛ぁ゛……。ぉ゛ぇ゛、ぅ゛ぃ゛ぇ゛ぅ゛……」

 兄は絶対に付いてくと訴え、兄を外に出したくないなら、私も部屋にいるしかないらしい。一度部屋の中に入って、兄をベッドの上に座らせた。

「お兄ちゃんいい? 外は危険なの。危険!」

「ぁ゛ぁ゛ぁ゛、ぉ゛ぇ゛、ぃ゛ぃ゛、ぁ゛ぉ゛ぉ゛……」

 私がどんなに言い聞かせようと、兄の姿勢は変わらない。

「昨日も話したけどあのシマウマは諦めなきゃ。可哀想だけど、私たちにはお金もないし、彼を故郷に連れて行くことはできない」

「ぃ゛っぇ゛ぅ゛……」

「だから、もうこの街に留まる必要はないの。あとは、広場で見かけた鳥を私がここに連れて来て、お兄ちゃんの呪いを解くだけ。そしたら、外に出れるから!」

「ぃ゛ぁ゛ぁ゛……」

「お兄ちゃーー」

「ぁ゛ぇ゛……」

 兄の目は両方とも私をしっかりと捉えている。その目力に押され、後ろにたじろぐ。後ろに下がると、兄は顔を寄せてきた。どうやら、何を言っても引く気はないらしい。こうなったら腹を決めるしかない。

 ため息をついて、兄の目を見つめ返す。

「じゃあ、絶対姿を晒しちゃダメだよ?」

「ぁ゛ぁ゛っぁ゛」



 兄と二人、街道を歩く。前回見かけた鳩を求めて、教会のすぐ側にある広場を目指す。今のところ、兄の体格に皆驚いているようだが、姿が異なっていることはバレてはいない。

 ドキドキしながら広場に着くと、子供たちが走り回って遊んでおり、その様子を老人がベンチに腰を下ろして眺めていた。彼らからできるだけ遠い位置にいる鳩を見つけ、兄と一緒に屈む。兄は鳩と話しているようだ。

「ぁ゛ぇ゛ぉ゛ぉ゛……」

 鳩は食べ物を欲しているらしい。この近くでパン屋を見かけたことを思い出し、兄を連れて行くべきか、行くまいかで数秒悩む。パン屋は市場の近くにあるので、かなり人通りが多い。万が一見つかった場合、逃げ出すのが難しそうだ。

「お兄ちゃん、ここで一人で待って……。……ないから、私に付いてきたんだよねぇ……」

 連れて行くしかないと腹を決めた時、アガワルの姿を見つけて、反射的に声をかけてしまう。しまったと思った時には、彼はこちらにやって来ていた。

 兄の前に出て、アガワルの視界に兄が入らないようにする。アガワルには兄の存在を知らせていない。知らぬふりをしていれば、赤の他人だと思うはずだ。

 それに、彼は生物を扱う商人。外国の珍しい生物を取り扱う彼とは仲良くなっておいた方がいい。昨日話して彼がいい人だと分かったし、いい関係を築くために愛想よく接する。

「アガワルさん、昨日の料理、美味しかったです! もしよかったら、レシピを教えてもらうことってできますか?」

「えぇ、構いませんよ」

 アガワルは私の後方を見て、首を傾げた。

「……えっと、そちらの方は?」

「え? なんのことです?」

「同じマントを付けていらっしゃるでしょう? それに、背後にぴったりとくっ付いていますし……」

 後ろを見ると真後ろに兄がいた。ご指摘の通り、私たちのマントは同じ店で買って、同じ色、同じ素材の特注品だ。

「……えぇ、私の兄です。あ、兄も昨日の料理をおいしいと言っていました。あぁ、ごめんなさい。兄はとっても恥ずかしがり屋で、人と話すのが苦手なんです」

「あ、そうなんですね。私はアガワルと申します。どうぞよろしくお願いしますね、お兄さん」

 アガワルは少年のような顔をして、おもむろに袋を取り出した。

「お二人とも、私の故郷の味を気に入っていただけたようなので、こちらも召し上がってみませんか?」

 袋の中からは昨日食べたスパイシーな香りが漂っていて、黄色の軽いサクサクしたものが入っている。

「ブーンディと言いましてね。粉ものに水や塩、パウダーを入れて生地を作り、形が丸くなるように穴の開いた掬いに生地を通して、油で上げるお菓子です。手軽に食べられるお菓子なので、良く持ち歩いてまして。よかったら、どうぞ」

 誘われるがまま、香りにつられ、手は袋の中に……。

 サクサクとしてほんのり甘い。舌から涎が溢れ出る様なスパイスも加わり、一度食べたら病みつきになって、何度も手が伸びてしまう。

 三回ほど袋に手を入れて、やっと正気を取り戻すと、アガワルはクスクスと笑った。最後にもう一度、そのまま口に菓子を運んで感想を述べる。

「美味しいです……っ。手が止まらなくなるほどに……」

「それはよかったです。気に入ったのであれば、袋ごと差し上げましょう。お兄さんもきっと気に入ってもらえると思いますし」

 なんというありがたい申し出。涎が零れ落ちる菓子をまだ食べられるという喜び。そして、今、最もほしかった食べ物が手に入ったのだ。鳩にやるには惜しいが、兄を元に戻すためには仕方がない。

 アガワルに礼を伝えて、袋を受け取る。しかし、困ったことにアガワルは暇なのか、一向に私たちから離れる気はないらしい。

 アガワルに一度断りを入れて、兄に今しがた手に入れた袋を渡す。兄にしか聞こえないような声で囁いた。

「私がアガワルさんと話している間に、このお菓子を鳩にあげて呪いを解いてきて。あっ、全部あげたらダメだよ! それ、すごく美味しかったから、後で一緒に食べよう? いい?」

 兄が了承したのを確認して、私はアガワルの方を振り返る。兄は一人鳩の方へ向かって行った。

「お兄さんはどこへ?」

「兄も菓子を食べたかったみたいで……。人に見られるのは苦手なので、こっそり食べるらしいです」

「そうなんですね。ところで、リリーさんたちはどうしてこの広場に? お散歩ですか?」

「え、あ? まぁ、そんなところです。さっきまで鳩を観察していて、二人で和んでいました。あはは……」

「流石、動物好きを公言しているだけはありますね。街の皆さんは鳩を害獣だと言って嫌いますが、私もあの動きと顔を見ていたら癒やされます。さっきのお菓子もよく鳩にあげてるんですよ。一粒上げたらもう一粒くれと、周りを囲まれ、最終的には袋ごと渡さないと解放されなくて。あれは、本当に困りました……」

「え゛っーー?」

 その言葉を聞いて、兄のもとに行った方がいいのではないかと思った時ーー


「あぁあああああああああああぁあ~~っっ!」


 子供の大きな声が聞こえた。急いで声がした方向へ向かうと、黒い塊の周りに灰色の鳥が集まっているのが見える。それを見て子供たちは騒いでいた。

「人が、鳩に、襲われてる~~っ!!」

「え、待って……!? 鳩から白いキラキラが出てるよ!! 何あれ!?」

「あ、おい! よく見たら、あのマントの人からも黒い煙が出てるぜ!?」

 子供たちが兄と鳩の方を指さしている。いや、兄と鳩に襲われている兄の姿を指している。鳩が兄に襲い掛かり、袋を奪い取らんと、その翼をはためかせて攻撃を仕掛けている。

「お兄ちゃんーーっ!!」

 兄は袋を必死に守っている。鳩如きに負ける体ではないが、これでは注目を浴びてしまう。それを避けたくて袋を捨てて逃げるように言うのだが、兄は袋を守り通す気らしい。

「……っ!」

 私はマントを脱ぎ、兄の周りにたかっている鳩を追い払う。

 もう願いは叶えてやったのだ。攻撃してまで追加要求してくる奴らなど、まさに害獣。手加減してやる気はない。

 しかし、彼らは数が多かった。そして、その中の一匹が私の振り回しているマントに押され、兄のフードの中に飛び込んでしまう。脱出しようとした鳩が、思い切り羽を羽ばたかせ、フードから飛び出た瞬間ーー


 兄のフードが外れてしまった。


 私たちの様子を見守っていた子供たちの絶叫が響く。いつの間にか騒ぎを聞き、駆け付けていた大人たちが叫ぶ。


「おい!! なんだ、あれは……っ!?」

「いやっ……、気持ち悪い……っ! 誰か、誰か来て!」

「きゃあああああ~~っ! 化け物よ! 化け物っ!

「おい、誰かアイツを殺せよっ!」


 示し合わせたように、皆一斉にこちらに石を投げつけてくる。兄に脱げてしまったフードを被せ、自分のマントごと兄の体を覆う。突然の攻撃に驚いた鳩たちは慌てて霧散していく。

「おい、どうしてあの子は庇ってんだ!」

「知らないわよ! あの子も化け物の仲間なのよ、きっと!」

「化け物は死んじまえ!」

 何も知らない人間が、石だけではなく、酷い言葉まで投げつけてくる。

「いっ、痛っ!」

「ぃ゛ぃ゛……っ!」

 石が額にぶつかって、垂れた血が目に入ってくる。私が周囲を睨みつけると、「赤い目だ! あの女も化け物だぞ!」と言って、攻撃が一層激しくなってくる。

 このままジッとしていたら身が持たない。今は石を投げつけられるだけで済んでいるが、憲兵か何かが来たら殺されるかもしれない。宿屋に戻るのは諦めて、今この街を出て逃げるしかない。

「お兄ちゃん! このまま走って逃げるから、三秒数えたーー」


「何事ですかーー!?」


 聞き覚えのある声が聞こえた瞬間、一斉に投石が止む。顔を上げると、そこにはあの胡散臭い神父ーーオズワルドがいた。オズワルドは何度か見た黒い服ではなく、今は白い服を着ていた。

「あぁ、神父様。私たちは化け物……、いや、悪魔を見たのです! 悪魔がそこにいるんです!」

「ツノが生え、顔は毛むくじゃらで、ゴツゴツとした頭……っ! 思い出すだけでも恐ろしい!」

「……皆さん、落ち着いてください」

 オズワルドは杖をつきながら、ゆっくりと私たちに近づく。私が兄を庇うように前に立つと、オズワルドは私に微笑みかけた。

「あなたはラベンダーさんではないですか。あぁ……、そんなに目を真っ赤にさせて」

 オズワルドが私たちに、兄に近づいてくる。攻撃が止んでいる今のうちに、逃げた方がいいのではないかと頭を巡らせる。

 オズワルドが私とすれ違う時、彼は私にしか聞こえないような小さな声で「私に任せてください」と言った。

 任せてくれとはどういう意味か。逡巡している間にオズワルドは兄の横に座り込み、私のマントを剥いで、フードの中身を覗いた。

「お兄ちゃんに触れるなっ!」

 忍ばせていたナイフを取り出そうと、ナイフの柄に触れた瞬間、オズワルドに腕を掴まれる。再び私たちにしか聞こえない小さな声で「それを出してはいけません」と言う。

 なぜ、この男はナイフに気が付いたのか。

 盲目で、鳥の目を介すると言っても、触れた瞬間に動作を止めさせるとは、どれだけ、反射神経がいいのか、抜群に動体視力が良いのか、鳥の目が凄いのか。それに、神父のくせに思ったより力が強い。やっと腕が解放された時には、血管が止まっていたのではないかと思うほど手先が痺れた。

 オズワルドは立ち上がり、周囲に向かって説得する。

「こちらの御仁は悪魔ではなく、悪魔付き。私の方で祓いますから、皆さん道を開けてください」

「で、でもっ、オズワルド様! あの姿はどう見ても……っ!」

「彼は呪われているだけで、悪魔ではありませんよ。姿は変わっても魂は清いままなのですから」

「でもっーー」

「神に授けられし目を持つ私が言うのです。間違いありません」

「オズワルド様……っ!」

 オズワルドの言葉に皆が敬服して、皆が両手を合わせて彼を見ている。

 彼の言う通り、兄は間違いなく悪魔ではなく、自分の身を犠牲にするほどの清い魂の持ち主。まさか、胡散臭いと思っていたこの神父に言われるなんて思ってもみなかった。

 無神論者が神を見つけたかのような感動を得て、血で視界が悪くなった右目が、オズワルドをなにか言葉にできない尊いものに感じさせる。

「お、お兄ちゃん……」

「ぃ゛ぃ゛……っ!」

 兄は私の顔を見て手を近づけようとするが、触れずに下ろす。きっと、鋭い爪で私を傷つけないようにしているのだ。

「私は平気だよ。全然痛くないから。この人に付いて行ってみよう」

 オズワルドは私たちを誘導し、私は兄を誘導する。オズワルドの後ろを付いて行きながら、飛び出して攻撃を仕掛けてくる者がいないか、目を光らせる。私の心配は杞憂に終わり、何事もなく教会の中に連れて行かれた。



 外から見ていた通り、この街の教会はそんなに大きなものではない。自分たちの故郷タルソポリにあった教会の三分の一程度だろうか。

 オズワルドは教会の扉に鍵をかけ、その傍に杖を置いた。教会内を歩きながら、オズワルドは緊張感のない声で話す。

「実はこの教会、私一人でやってましてね。今ここには私とあなたたちしかおりません」

「あ、あの助けて下さってありがとうございます。あの、私たちはすぐにこの街を出ていきますのでーー」

「まぁまぁ。そんなに急がずとも誰もここには入れません。大変な目に遭ったのですから、少々お休みになった方が良いかと。こんな狭い教会ですから、私の自室は地下にあるんです。どうぞこちらへ」

 ランタンを持ったオズワルドに付いて行き、地下に繋がる床扉を開けて、階段を下りていく。私はふと疑問を感じ、立ち止まる。

「神父様は鳥の目を介して世界を見ると言われていましたが、ここに鳥はいませんよね……?」

 口に出して違和感を認識する。それに、杖も扉の近くに置いたままだ。この男、おかしい気がする。

「……住み慣れた教会内で鳥の目は必要ありません。私にはハッキリと見えていますから」

 たしかに、彼にとって教会は長年住み慣れた家のようなものだろう。どこに何があるかは見えなくても分かるものかもしれない。その言葉に納得した。

 階段を下りきって、一つの扉の前に立った。ギィと軋む音を立てながらオズワルドが扉を開けた時、ランタンの明かりが消えた。驚いて後ろに下がり、兄にぶつかる。

「あぁ。どうもランタンの調子が悪いようですね。お二人とも大丈夫ですか?」

「え? あぁ、はい……」

 再び違和感に襲われる。

 あれ……? 何かおかしい気がする。何だ? この違和感は。どうして、目の見えない男が、


 ランタンの火が消えたことに気が付いたのか。


 違和感に気付いた瞬間、腕を掴まれ暗い部屋に投げ込まれる。すぐ傍に兄も投げ込まれた。

「な、なに……っ!? ど、どういうこと……っ!?」

「ぃ゛ぃ゛……」

 そして、扉が閉まった音が聞こえた後、床に物が置かれるような音がした。


「これで外には音が漏れません。それでは、悪魔祓いを始めましょうか」



 ここが俺の部屋なんてとんでもない。こんな何もなくて、湿気でジメジメした部屋はこちらから願い下げだ。

 悪魔祓いのために用意されたこの部屋を俺が使うのは初めてだった。

 目を覆っていた布を取り去る。眼窩に嵌った目を外気に晒すのは久方ぶり。

 前方には黒いマントの中に異形を隠した男が立っていて、その隣には状況が分からず、宙に手を伸ばしている女がいる。二人ともなんとも悲しい姿だ。そんな二人の苦しみを救ってやろうと、ゆっくりと近づく。

「そんな姿で生きるのは大変だよなぁ、つらいよなぁ」

 腰に引っ掛けてある悪魔祓いの道具を一丁取り出し、トリガーを引く。異形相手に用意した銀の弾は、目の前の異形にどれくらい効くだろうか。

「お兄ちゃんっ! お兄ちゃんっ!」

「ぃ゛ぃ゛、ぁ゛ぉ゛ぅ゛……」

 あの見た目で、言葉も碌に話せない。

 よく分かるぜ。お前の苦しみ。だからこそ、こんなクソみたいな役目引き受けてやったんだから。

「俺が今すぐ楽にしてやる」

 銃を男に向けると、間に女が入ってきた。暗闇の中、見えないだろうに、よく間に立てたなと感心する。

「ぃ゛ぃ゛……っ!」

「……撃ち抜かれたくないなら、下がってろ」

 女の額に銃口を当てる。

「お兄ちゃんは殺させーー」

 女を押して、男がこちらに大きく振りかぶってくるのが見えて、弾を放つ。手のひらを撃ち抜いたにもかかわらず、そのまま振り下ろしてくる。ギリギリで避けるが、その手から飛び散った血が服に付いた。男の足元には血が垂れている。

「お兄ちゃん!? お兄ちゃんっ!?」

 兄が心配なのか、何も見えない中、女は手を伸ばして兄を呼び続ける。

「ぁ゛ぃ゛ぉ゛ぅ゛ぅ゛……」

「お兄ちゃん……っ!」

 なんとも泣かせる兄妹愛じゃないか。俺は兄妹というものを知らないが、いたら多少なりとも救われていたかもしれない。


 バンッ、バンッ、バンッ!


 頭を狙った二発は外れ、一発は当たったと思ったが頭上を掠めただけのようだ。あまり銃を撃った経験がないから外れるのか、それとも目の前の男の動きが速いのか。いや、男の目がいいのかもしれない。まぁ、俺の目には劣るだろうが。

 男の攻撃を避けながら、癖を観察していく。重心が少し左に傾いており、攻撃は主に鋭い爪の生えた右手を振り回してくる。鋭い牙を使って食いちぎらんとしてくる。前方に対して足技は仕掛けてこないようで、あくまで背後を取られた時のみ、後ろ脚で蹴り上げようとしてくる。突進してくる時は針のような肩を向けてきて、左手で腹を殴ってみると、異様に固さのある腹筋に当たった。

「いってぇな……っ」

 すかさず銃で腹を撃ち抜いて見るが、弾が弾かれた。どんだけ固いんだ。左手を労わりながら、話しかける。

「お前、自分の姿を見たことあるか?」

「ぁ゛……?」

 俺が自分の姿を見たのは十二の時だった。

「……おっと、そういやぁ、話も出来ねぇ化け物だったな」

 マントが翻った時に見た感じでは、胸部は脆そうだ。目くらましに顔に向けて一発。

 こいつに知能があるかはよく分からないが、六発装填だと思って油断するだろ? 今までそうやって見せてきたもんな。刷り込まれた感覚がそう判断するよなぁ?

 俺は装填するのではなく、もう一丁の銃を取り出して、銃口を胸に当てる。


 お前には妹がいるようだが、俺からしたらよっぽど俺らの方が兄弟に見える。

 兄弟にとって、この世界で生きるのは生き地獄みたいなもんだ。


「先に逝け。同胞よ」


 左手の引き金を引く時、この部屋にあってはならない光が現れる。


 ここは異形を救う、悪魔を祓うための場所。

 絶対に照らされてはならぬ影。

 異形は死んでも姿は変わらぬ。

 異形を祓うは異形の者。


 全ての目が一人の女に向けられ、左からの衝撃に反応できなかった。



ーーあの目は何……? いくつ、あった……?


 ハンドルを持っている手が震えて、部屋の中がユラユラ照らされる。

 数分前。暗闇の中、何が起きているか分からない状況でも、兄とオズワルドが戦っているのが分かった。ナイフという武器はあるが、何も見えないまま二人の間に入り込んでも意味がない。

 地面を這って壁を辿る。幸いこの部屋には何もないらしく、壁に触れながら石ではない感覚を必死に探す。そして、異質なものに手が触れた。感触からしてこの部屋の扉に違いない。

 オズワルドがこの部屋に入った時に、何か物を置く音がした。それが彼の持っていたものだとすると、今この状況を照らし出すにはちょうどいい。暗闇の中、手探りで探し出して、目的のものに触れる。ソッと形を手で感じ取りながら、間違いなくランタンだと分かった。

 ホヤガラスを外して、首にかけた火笛を取り出す。芯に向けて火笛を吹いた。ホヤを戻してランタンを持ち上げる。そして、照らし出されたのはこの部屋の現状とーー


 二人の異形の姿。


 私が見たオズワルドの顔は左半分のみ。布で隠されていたはずのそこには、六つの目があるように見えた。

 兄は部屋の中央に立っており、オズワルドは壁に叩きつけられて、頭から血が流れている。彼の周りには恐ろしいほど血が溢れ出ていた。

「お兄ちゃん……っ!」

 兄に駆け寄ってその姿を確認する。熊手からは血が出ている。他に怪我をしたところがないか必死に探すが、このぼんやりした灯りの中で、それ以上の怪我を見つけることはなかった。

「あ……っ、待って……」

 兄は唸り声をあげて、オズワルドに近づいていく。私も離れず付いて行き、男の顔を照らした。左は一つ、右には六つの目がある。なぜか片側だけ目が六つもあり、その中の四つは白い結膜に二つの瞳が蠢いている。

 目自体の大きさもバラバラで、自分の目がおかしいのかと思い目をこするのだが、見えているものは変わらない。兄のおかげか、異形の姿を見ても悲鳴を上げることはなく、私が感じていた違和感は異形に対してのものだったのだと悟った。

 私を見ているのか、兄を見ているのか判断が付かないが、重症なのは男の方なのに、オズワルドは余裕あり気に笑って見せる。

「今のはかなり痛かったな……。脳みそぶちまけたし、その手は凄い威力だな……」

 彼は何を言っているのか。本当にそんなことになったら、今こうして話せているわけがない。

「よくもお兄ちゃんに怪我させたわね……っ!」

 私はナイフを男の目に向ける。オズワルドは一瞬驚いたような表情を見せるが、七つの目を三日月に変えた。

「早く刺せよ。沢山あるから一つ潰されてもどうってことない」

 「全部潰してやる」と脅しても、なんともないように振舞う。私に人の目を潰す趣味なんかない。七回も目を刺して、彼を本当の盲目にさせるなんて、むごいことはできない。だけど、この男の態度は許せなかった。

 私の思いとは裏腹に、私の手は震えていて、とても目の前の男を刺せそうにない。兄に怪我をさせた男なのに、私の心は非常になり切れない。

「これ以上怪我をしたくないなら、答えなさい! あんた、一体なにがしたいのよ! 助けてくれたと思ったのに、襲いかかるなんてどういうこと!?」

「俺は救ってやろうとしてるんだよ。俺らみたいなのは死んだ方がマシだ」

 その言葉を聞いてカッと熱くなる。

「何が「救ってやろうとしてる」よ! お兄ちゃんは違う! お兄ちゃんを救うのは私! 私がお兄ちゃんを絶対に元の姿に戻すんだから!」

「元に戻す……?」

「そうよ! もういくつも呪いを解いてきたのよっ! この先だって、全部解いてやるんだからっ!」

 オズワルドは私の言葉を聞いて笑い出す。何がそんなにおかしいのか意味が分からない。

 そして、悲しそうに、恨めしそうに呟いた。

「そうか、お前は直るのか。そうか……。はは……。……じゃあ、もう行け」

 相手は兄を殺そうとしてきた男。遠慮も同情もしたくないのに、なぜか男の姿は酷く物悲しい。

「あんたも呪われたんじゃないの? 呪いなら願いをーー」

「呪い……? あぁ、確かにこれは呪いだな。この世に生まれ落ちてから、ずっと呪われている」

 オズワルドのソレは生まれつきのものらしい。元に戻すも何もないらしい。兄よりずっと人間のような見た目で、オズワルドは人ならざる兄の姿を恨めしそうに見ていた。

「……っ」

 なぜか湧いて出てきた言葉を喉でせき止めて口を噤む。こんな目に遭わされながら、どうしてこんな気持ちになるのだろう。

 己の思考を振り払い、兄に告げる。

「もしかしたら街中に噂が広がってるかもしれないから、お兄ちゃんは先に一人で逃げて」

「ぃ゛ぁ゛ぁ゛……」

「私は宿屋に行って荷物とアルヴィン連れて、すぐ逃げるから。待ち合わせはあの川にしよう。あの場所で合流ね」

「ぃ゛ぃ゛……」

 嫌がっている兄の額に、自分の額を合わせて絶対にあの場所で会おうと約束する。

 重症のオズワルドに対し、広場で助けてくれたことだけ礼を言って部屋を出る。階段を上って、教会の扉の前からはオズワルドの名を呼ぶ声が聞こえた。

 裏口には誰もいない。兄の痛々しい手からは血が垂れていて、出血を止めるために包帯でキツく縛った。

「じゃあ、また後でね!」

 再会を約束し、私たちは別々の方向へ走り出した。


 

 外はまだ明るく、ただ一直線に宿屋に向かって走る。私の姿も晒されてしまっている。それでも、荷物を取りに向かうのは、これからも生き続ける必要があり、友人を一人そこに残してきてしまっているから。

 周りの人が私に気付いてるかは分からない。私はただ走ることに集中し、すれ違う人々の表情など気にしていられない。

 幸い誰かに石を投げつけられるようなことはなく宿に着くと、最初にアルヴィンの縄を解いて声をかけた。

「すぐに出かけるからっ」

 私の呼びかけに「待っていました」と言わんばかりに鼻を鳴らす。

 宿屋に入るとなぜか主人はおらず、部屋に入って荷物を背負う。米が重すぎて一度に運びきれないため、二回に分けて荷物を運ぶことにする。まず米だけ下に運び、アルヴィンの背中にくくりつける。

 部屋に戻ってもう一度荷物を背負うと、数人の客がこの宿にやってきたのが分かった。だが、客と呼ぶには男たちの足音はやけに乱暴で、嫌な予感がした。私はドアに鍵をかけ、机と椅子を使ってバリケードを作る。

 男たちの会話から『化け物』と言う言葉が聞こえ、やはり私たちを探しているのだと察する。

 二階に位置するこの部屋の窓から隣の屋根伝いに下りて、アルヴィンに声をかける。幸い男たちには気付かれていない。

「アルヴィン、急いで! あの川でお兄ちゃんが待ってるから!」

 アルヴィンを連れて街道を進む。すれ違う人々の噂に耳をそばだてる。どうやら、兄と私とオズワルドの話がここまで伝わってきているらしい。

「オズワルド様の悪魔祓い、時間が掛かりすぎているらしいわよ。先代の時はすぐに教会から顔を出して、心配ないと皆に声をかけてくれたのに」

「えぇ? あの神の目を持つ、オズワルド様よ? そんなに心配することないんじゃない?」

「早く、お顔を見せて大丈夫だと言ってほしいものだわ……」

 私たちを噂している彼らは、私がその話題に上っている人物だと気が付くことはない。私は今、フードを目深に被っていて、馬と歩いているので、さすらいの旅人にでも見えるのだろう。

 そのまま人々に正体がバレることがないまま、私たちは騒ぎが起こっている街の中を出て行った。



 夕暮れ。兄はまだ、約束の場所に来ていなかった。アルヴィンを木に括りつけ、荷物を下ろす。その場所は数日前過ごしたままになっており、薪だけ集めて火をつける。

 日が完全に落ちても兄は戻って来ない。いよいよ最悪なシナリオが浮かんできて、頭を抱える。

「どうしよう……っ、やっぱり一緒に逃げるべきだったのかな……?」

 心配で不安に押し潰されそうになった時、何か踏み鳴らすような音が聞こえた。

 兄かと思い、小さく声をかける。すると、すぐ近くでドサリと何かが倒れる音がした。物音がした方に近づくと、そこに兄がいた。

「お兄ちゃんっ!? 大丈夫!?」

 体を揺らすが、兄の意識はないようで、苦しそうに呻いているだけだ。ここに来るまで何があったのかは分からないが、生きててくれて本当によかった。こぼれ落ちる涙を拭いながら立ち上がる。

 今、兄が倒れている位置では竈や荷物から離れすぎているので、アルヴィンの力を借りて兄を移動させる。アルヴィンの縄を解き、仰向けにした兄の体に縄を巻きつける。アルヴィンは前方から兄を引っ張り、私は足元を押して兄を移動させる。

 重労働の末、兄を運ぶことに成功し、兄の様子を見守る。熊手以外は特段目立つ傷は見当たらないが、兄が弱っている姿を見るのは初めてだ。

 荷物から毛布を取り出し、兄にかけてやる。包帯を取り換えて、口元を濡れたタオルで拭き、いつになく弱った姿に声をかける。

「お兄ちゃん……。早く元気になってね……」


 心配でずっと見守っていたが、日が登っても兄の目は開かなかった。朝日の下で兄の姿を見ると、熊手側の腕、一部人間に戻っている部分が変色していた。

 肌色は失われ、主要な血管から細部の血管までありありと透けて見え、元に戻った一部でさえ、何か違う生き物のように感じる。

 全身を確認するが、変色しているのはまだその腕の部分だけのようで、その原因は間違いなく熊手の傷しか考えられない。

 包帯からは赤黒い血がドロリと滲み出て、血が止まる様子はない。

 止まらない血に、肌の変色。発熱と発汗。その症状を確認して、兄の手を貫いた弾丸には毒が塗り込まれていたのではないかと思い至る。

「そんな……っ」

 毒を排出するために血を出した方がいいとは思うが、どれくらい出してもいいのか分からない。もし出しすぎて失血死でもしてしまったら、元も子もない。だが、失血死を恐れて手を縛れば、体内に毒が貯まり、肌の変色は全身に広がって兄を蝕むだろう。


ーー本当に、どうすればいいの……っ!?


 医者を目指していたのは兄で、私ができるのはせいぜい傷薬を塗ってやり、包帯を巻いてやるくらいだ。

 弾丸を撃ち込まれたのが私だったらどんなによかったか。どうしてこんなにも兄が苦しむことになるのだろう。

「お兄ちゃん……っ」

 風邪を引いた時、兄は絶えず私の傍にいてくれた。だが、今、私が彼の隣にいたとしても、兄の死に際を看取ることになるだけ。

 私がすべきことは、兄の死にゆく姿を見守ることじゃない。兄を生かすために、彼を死に至らしめようとしている銃弾を放ったあの男のもとに行って、治す方法を聞くしかない。

 すべき行動は分かっている。だが、悔しくて堪らなかった。


 私はどうして兄を苦しめる人たちに、助けを乞うしか脳がないのかと。


 アイザックもオズワルドも兄を酷い目に遭わせた張本人だ。本来なら刃を向ける相手であって、決して頭を下げるべき相手ではない。

 だが、方法はこれしかないのだ。どんなに不愉快で納得できなくとも、兄が助かることに価値を置けば、全ての行為を受け入れられる。私は兄のために生きると決めたのだから。

 兄が好きだと言ってくれた腰まで伸ばした髪をナイフで切る。一人になってしまっても彼が私を感じられるように、怪我をしていないもう一方の手に束を握らす。

 広場で姿を晒してしまった私が、女だとばれないように。川の水面に映る私はちゃんと少年に見えた。

 兄と荷物を残して、アルヴィンの背に乗る。私たちはトモプモラに、オズワルドのもとに向かった。


 荷物を持たない状態でアルヴィンに乗ると、あっという間に街に着いた。朝早いためか、人は誰も歩いておらず、馬から降りずとも進んで行ける。

 少し速度を落としながら教会に向かうと、昨日いたであろう人々は誰もおらず、扉は打ち破られたかのように壊れ、開け放たれていた。

 アルヴィンから降りて、もう扉とは言えない木の板を軽く押す。その時、カランと何かが倒れるような音がして扉の後ろを覗くと、オズワルドの杖が倒れていた。なんとなくそれを拾い、教会内を歩いていく。

 中は踏み荒らされたかのように地面が汚れており、その足跡はいたるところに付いている。私が逃げた裏道にも、オズワルドの本当の自室にも、そして、地下に繋がる道にも。

 地下へ繋がる床扉を開けると、酷い臭いが鼻を突いた。


 私はこの臭いを一度だけ嗅いだことがある。

 自分を呪いたくなった日ーー兄が姿を変えた日に嗅いだ臭いと同じもの。


「まさか、死んだりしてない、よね……?」

 昨日置いたはずの場所にランタンは無く、オズワルドの自室からめぼしいものがないか探すのだが見つからない。仕方がないので、そこにあった布を杖に巻いて松明を作る。階段前で火笛を吹き、灯りをともした。

 ゆっくりと階段を下りていく。間違いない。以前劇場で嗅いだこの臭い。血や臓物、汚物や腐敗が混ざった臭いだ。

 昨日閉じ込められた部屋の前にランタンが落ちてあるのを見つけた。火を付け替えて、ランタンに灯りをともす。松明は火を消した。

 目の前の扉を開けると、臭いが一層きつくなった。一瞬手を止めてしまうが、構わず扉を開ききる。

 その部屋は全面赤い血で染まり、何かよく分からない塊が辺りに散らばっていた。そして、オズワルドは真正面の壁に背を預けて倒れていて、その目は全て奇麗に閉じられていた。

「なっーー!?」

 駆け寄って、オズワルドの体を揺らす。今、この男に死んでもらうわけにはいかないのだ。

「ちょっと、目を開けなさいよ! 今、あんたに死んでもらったら、困るんだから……っ!」

 オズワルドの表情は眉間に深く皺を寄せていて、その皺の窪みに血が溜まって傷口みたいに見える。彼の体はまだ温かかった。

 顔面血だらけのオズワルドの頬を叩いて、瞼を開かせる。上に向いていた目がグリンと上下左右に泳ぎ、手が血で滑って離してしまう。瞳が忙しなく動いていたが、決して起きているのではないらしく、瞼は閉じたままだ。

 一度顔を拭ってやり、声をかけて、再度頬を叩く。息は辛うじてしているようだし、死んでいるわけではない。この部屋の酷い臭いを嗅いでいると、私の方が死んでしまいそうだ。

 オズワルドの襟首を掴み、滑りで運びやすくなっている地面の上を滑らせて、通路の外まで運び、異臭漂う部屋のドアを閉める。

 通路はこの部屋の奥にも続いていて、まだ見ぬ部屋に何かないかと、一人奥へ進んでいく。そして、重厚そうな扉を見つけた。

 扉を開けると何やらよく分からない大量の瓶が棚に並べられており、その中には粉末、色のついた液体、何らかの植物、骨や得体のしれないものが入っていた。瓶の他にも、秤や鍋、すり鉢、本が置いてある。

 そして、机の上に銀の薬莢を見つけた。オズワルドが兄に放った弾はこれに違いない。背負っていた鞄に弾や瓶を詰めるが、とてもじゃないが入りきらない。

 開かれたままの本は文字がミミズのように這っていて、何が書いてあるのかよく分からない。でも、絵が描いてあるので、読めないことはないと思う。

 もし、オズワルドが起きないようなら、この本の内容を見て私が兄の体を直さなくてはならない。ここにあるものはできるだけ、いや全て回収しておきたい。

 オズワルドの自室で大きな鞄と、大きな袋があったことを思い出し、通路に出て階段を駆け上る。

 袋と鞄、瓶が割れないように布や服、それに水を入れたコップを、地下に運ぶ。気つけにオズワルドの顔に水をかけるが、起きる様子はない。

「ダメみたいね……っ」

 オズワルドを放って、袋に鞄に必要そうな物を、全て詰め込む。米よりも重いだろう荷物を詰め終わり、左右に振らつきながら階段を上る。すると、教会内にアルヴィンが入ってきていた。

「アルヴィン?」

 そこでやっと異変を感じた。周りから声がするのだ。そして、何か燃えるような臭い。急いで持っていた荷物を全てアルヴィンに括りつけ、昨日兄と逃げた裏道にアルヴィンを連れて行く。

「アルヴィンお願い! それをお兄ちゃんのところまで持って行って! 私は後で必ず、そこに行くから!」

 アルヴィンが了承したように一鳴きして、重い荷物を背に載せながら走っていく。

 もう一度教会内に戻ると、玄関辺りから煙が出ているのが見えた。急いで、階段を下りてオズワルドのもとへ行く。

 薬や本があっても、読めなければ意味がない。絵があると言っても、流し見した時点でとても私に理解できる代物だとは思えなかった。やはり、兄にはこの男が必要なのだ。

「火事よ! 早く、起きなさい! 早く、目を覚ましなさいよっ!」

 オズワルドに乗りかかって頬を平手で叩く。何度叩いてもオズワルドは起きない。兄を助けられないかもしれない恐怖で涙が出てくる。

「兄には……、私たちにはあんたが必要なのよ……っ! こんなところで死なせてたまるもんですかっ!」

 涙を拭って、今日何往復も移動した階段を、男を人一人背負いながら上ってやると奮起する。何とかオズワルドの体を持ち上げることが出来ても、足元が僅かにしか上がらない。その足が階段にぶつかり何度も落としそうになるのを、前傾姿勢で必死に堪える。

 自分より大きな男を運ぶのは無理だと判断し、一度オズワルドの体を下ろし、階段を上って地下に繋がる扉を閉める。

 地下は石造りで出来ている。それに、薬が置いてあった部屋は金属質でできた扉だった。加えて、階段から廊下にかけて燃えるようなものは何もない。


ーー地下まで火が届くことはないはず……っ!


 万が一を考えて、薬が置いてあった一番奥の部屋にオズワルドを背負って移動する。部屋に足を踏み入れた瞬間、力尽きたように前方に倒れた。ここ数十分で酷使した筋肉たちが痙攣したようにプルプルしていた。

「お兄ちゃん……」

 兄を助けなければならないという思いだけが、自分とこの男を生かすために私の体を動かしている。上に乗っている男を転がし、這いずりながら扉を閉める。

 どれくらい待てば教会についた火が消えるのかは分からない。だが、重労働による極度の疲労か、それとも閉じ込められた空間の中で酸素が尽きてしまったのか。地面に伏せながら、私の意識は薄れていった。



「ん……っ」

 居心地の悪さを感じて目が覚める。ぼんやりと目を開くと目の前に硬い石があって、ハッとして体を起こす。

 全く状況が掴めず、周囲を見渡して自分がどこにいるのか確認する。だんだん頭が冴えてきて、自分はどれくらい眠っていたのか、不安になって頭を抱えた。


「……なぜ、戻ってきた?」


 振り返ると、オズワルドが七つの目を開いてこちらを見ていた。私はオズワルドに掴みかかって怒鳴りつける。

「あんたが撃った銃弾のせいで、お兄ちゃんが苦しんでるのよっ! 何か変なもの仕込んだわね!?」

 オズワルドは私の怒気を含んだ声に怯むことなく、平然と答える。

「即死の毒が効かないのはおかしいと思ったが、一応毒は効いていたのか……。ここにあった大量の瓶、それに、本や秤まで消えているな。持ちだしたのはお前か?」

「ちょっと! 即死ってどういうこと!? 早く、早く、お兄ちゃんを助けなさいよっ!」

「どうして、俺がお前の兄を助けなきゃならない」

「なによ!? 異形を救うって言ってたじゃない!!」

「俺の救いがいらないと言ったのはお前だろう」

 たしかに言った。だが、それはこの男が兄を殺すことを救いだと言ったからだ。

「殺す他にも救う方法はあるでしょ!? そう。私があんたを助けたように!」

「俺を助けた……?」

 オズワルドは眉を顰める。

「あんたをあの血だらけの部屋からここに運んであげたのは私よ! あんな部屋にずっといたら、きっと死んでたに違いないわ! 火の手だって届いていたかも! それに、お兄ちゃんが本気出せば、あんたなんてボコボコだったのよ! それを止めてあげたんだから、だからっ、私の言うことを聞きなさいっ!」

「そんなことで死にはしないし、助けてくれなどと頼んではいない」

「~~っ!」

 オズワルドの服を掴んでいた手を乱暴に離す。

 私の判断は誤りだった。あのままアルヴィンとこの場を離れるべきだった。この男が兄を助けてくれるかもしれないなんて期待した私がバカだった。

 悔しさに目を熱くさせながら、オズワルドを残して扉を開く。少し焦げたような匂いが漂っているが、ランタンを持って構わず廊下を突き進む。後ろから「おい」と声をかけられるが無視をする。

 助けてくれる気もないのに、何を話すことがあるのか。男の意味が分からない言動を無視して階段を上ろうとすると、腕を掴んで止めに来た。

「なっ、なんなのよ、あんたっ!? お兄ちゃんを助けてくれないあんたなんて、用はないわ! 離してよっ!」

「バカかお前は。上は火事だったんだぞ。地下へ通じる扉は鉄でできてたから、ここまで火が回ってこなかったんだ。その扉がどんだけ熱を持っていると思ってる。手が溶けてもいいのか!?」

 その言葉にゾッとして、階段にかけていた足を下ろす。

「それに上には教会を焼き払った奴らがウヨウヨいる。そんな中、お前みたいなのがここから出て行ったら、すぐ捕まって殺されるだろうがっ!」

 なんなんだ、この男は。兄を助けてくれる気はないのに、私の心配はしてくる。矛盾を感じて、もう一度男に掴みかかる。

「なんなのよ、あんた。本当に意味わかんないっ! 私の手が溶けようが、私が捕まろうが、あんたに関係ないじゃないっっ! お兄ちゃんは助けてくれないのにっ……、私じゃなくてお兄ちゃんを助けてよ……っ! なんで、その優しさをお兄ちゃんに欠片もくれないのよ……っ!」

 文句を言っていたはずなのに、それは次第に懇願に変わっていく。

「私の、私のせいなの……っ。私が逃げたから、止めなかったから……、お兄ちゃんが、あんな姿に変わっちゃったの……っ。ねぇ……、お願い……。何でもするからお兄ちゃんを、お兄ちゃんを助けてよ……」

 いつの間にか掴みかかっていた手の力が抜け、オズワルドにしがみ付くように縋っている。神父の格好をしているなら、少しの慈悲くらいかけてくれてもいいではないか。

 ポタポタと涙を地面に零していると、上から男の言葉が降りてきた。顔を上げると七つの目がこちらを見下ろしている。

「兄が異形の姿になったことを、本当に自分のせいだと思っているのか? お前が逃げ出したからか?」

「……そう、よっ!」

「なぜ、逃げ出した?」

「両親の借金を返すために、男に体を売るように強要されたからよ……っ!」

「……そうか」

 男はしばし目を閉じて、再び口を開いた。


「お前は、自分が男に体を売ればよかったと言っているんだな」

「なーー!?」


 男の言葉に絶句する。私はーー


「いいだろう。お前の望み通り兄貴を助けてやる。お前が俺に抱かれると言うのなら、お前の言う異形の救いが他にもあるのなら、俺に見せてみろ」


「……っ!」

「異形のものを救うのに、異形のものと交わるのは嫌か?」

 きつく奥歯を噛み締める。

「わかったわよ……っ、あんたに抱かれればいいんでしょ!? 今度は逃げない、間違えない……。お兄ちゃんを、苦しませたりなんかしない……っ!」

 オズワルドの表情は分からない。涙で視界が歪んでしまっているから。

「……俺を兄貴の元まで案内しろ」

 こんな男がどうして神父になったのか分からない。この男こそ悪魔そのものに見えてくる。

 オズワルドは階段を上り、扉の取っ手に手を伸ばす。さっき、自分で手が溶けると言ったのに、オズワルドは躊躇いなくその手を熱した。

 触れた瞬間ジュワーと嫌な音が聞こえ、焼けた嫌な臭いが広がる。オズワルドは手が溶けているのも気にせずに扉を開き、地上に出て私の手を引っ張った。


 地下から出ると、そこはもう外だった。小さいながらも立派に建っていた教会は見る影もなく、殆ど木造建築だったために全焼している。オズワルドが何か呟いたがよく聞こえなかった。

 そんな場所から突然人が現れ、一人は白い服を血に染めて七つの目を持つ神父。


 いつか兄にそう言ったように、人々はオズワルドを化け物、悪魔と呼んだ。


 あんなに敬っていたのに、どうしてそんな風に蔑んだ目でこちらを見るのか。彼らはこの男がオズワルドだと気付いていないのだろうか。いや、そもそも教会が燃やされた意味が私には分からない。

 いつかオズワルドと話していた信徒が言った。

「こんなに時間が掛かるなんておかしいと思ったんだ……。様子を見に行った男たちは戻ってこないし、オズワルド様は一向に姿を現されなかった……っ! やはり、オズワルド様は悪魔祓いに失敗して、ご自身が呪われてしまったのだ……っ! こんな化け物になり果ててしまわれた! おい、早く、あの忌まわしき悪魔を殺せ! オズワルド様をお救いしろ!」

 男たちは剣や銃を構えている。私が一人で外に出るより、オズワルドと外に出た方がよっぽど危ないではないか。

 四面楚歌の状態で、オズワルドは私を脇に抱えて走り出した。

「なーー!?」

 オズワルドはそのまま走り去ろうとする。銃を構えた男がこちらを目掛けて撃ってくるのだが、幸運なことに一度も被弾しない。彼らの射撃が下手なのか、それともオズワルドが全て避けているのかは私には判断がつかない。

 彼らの発砲音を聞くたびに私の体はビクリと震えあがり、毎回撃たれて死んだような気持ちになる。

 剣を持った男たちもこちらに向かってくるが、オズワルドはギリギリで避けている。そんないつ殺されてもおかしくない状況で、オズワルドは私に尋ねる。

「兄貴はどこにいる?」

「え、あ!? そ、外! この街から歩いて一時間くらいの川にっ!」

 私の言葉を聞いて「わかった」と言ったオズワルドは、変わらぬスピードで街を駆け抜けていく。

 その間絶えず武器を持った男たちが追ってくるのだが、彼らは段々と疲弊していって姿が見えなくなる。そのまま街を飛び出すオズワルド。

「も、もう下ろしてよっ! もう誰も追いかけてこないし、私だって走れるわ!」

「お前が走るより、俺が抱えた方が速い。早く兄貴を助けたいんだろうが」

 オズワルドの言葉を否定できず、アルヴィンにも負けないスピードで兄のもとにたどり着いた。



 兄のもとに着くと、約束した通りにアルヴィンは戻っていて、私の姿を見てすり寄ってきた。私はオズワルドの脇から抜け出して、アルヴィンの体を撫でた。

「一人でよくここまで来れたね。本当にありがとうっ!」

 アルヴィンを抱きしめてお礼を言った後、兄のもとに駆け寄る。

 兄の姿は朝見た時よりも、症状が悪化していた。変色は右太腿にも広がっており、息も乱れて苦しそうだ。私自身胸が締め付けられて、苦しくなった。

「お願いっ。早く、お兄ちゃんを治して!」

 オズワルドは約束通り、きちんと兄を治す気はあるようで、私に地下室から持ちだした薬はどこだと尋ねてきた。

 私はアルヴィンの背中に載せた荷物を下ろして、オズワルドに渡す。彼は鞄から本を取り出し、兄を救う薬が書いてあるページを探しているようだ。

「袋から瓶や道具を全部出してくれ」

 言われた通りに全て彼の左隣に並べる。該当ページを見つけたのか、彼は細かい文字を七つの目で追いながら、必要なものを左から右隣りへと移動させていく。

「なにか大きな入れ物と混ぜる棒はないか? それと火を使いたい」

「えっと、な、鍋とお玉ならあるっ! あ、あそこに一応石で囲った竈があるけど……つま!」

「それでいい」

 私は急いで荷物から鍋を取り出して、オズワルドに渡す。昨日使わなかった焚き木をくべて火笛で火をつける。

 オズワルドは右隣に移した瓶を持って移動し、鍋を竈に設置して、鍋の中に液体や粉を入れ混ぜていく。

 しばらく彼の作業を隣で見つめていると、オズワルドはお玉で掬って匂いを嗅いだ。目を伏せて数秒後、薬が出来上がったことを告げた。

「これが解毒薬だ。これを冷まして全て飲ませれば、時期に症状は治まるだろう」

「本当!? ありがとうっ!」


ーーよかった、本当によかった……っ!


 私は布を使って鍋を竈から離す。少しでも早く冷めて欲しくて、お玉で掬ってフゥーッと息を吹きかける。

「一体何をしている……? 不純物を混ぜるな」

「なっ……。早く冷ましたかっただけで、不純物を混ぜる気なんか……」

「……」

 オズワルドは空になった瓶の中に薬を全て移し返し、蓋をして私に向けた。

「川に浸ければ幾分か早く冷めるだろう。ほら」

「う、うん! ありがとうっ」

 思わぬ親切に驚きながら、瓶を受け取るがかなり熱い。上の方だけ持って川にしばらく沈めていると、随分と熱が冷めたようだ。蓋を開けても湯気は出てこない。

 私は急いで兄に駆け寄り、スプーンを使って何とか全ての薬を兄に飲み込ませた。これで、時期に良くなるはずだ。

 オズワルドに熊手はどうすればいいか尋ねた。

「ねぇ、銃弾が貫通した手はどうしたらいいの? 包帯巻いてるけど血が止まらないの……」

「縫えばいいんじゃないのか?」

 私は荷物の中から針と糸を取り出す。人の皮膚も、ましてや熊の手など縫ったことはない。だが、毒の心配がなくなった今、溢れ出る血を止めなければならない。

「あの手とその針じゃあ、針の方が折れちまうだろうが」

「でも……」

「……貸せ、俺がやる。お前は離れてろ」

 兄の手から包帯を解いているオズワルドに針と糸を渡す。彼は針の穴に糸を通し、兄の手のひらに針を刺した。

 その瞬間、兄の体が動いて手が暴れ、オズワルドはそれを避ける。兄の攻撃に対処しながら、オズワルドは器用に兄の手を縫い付けていく。

「裏側は無理だな。硬すぎて針が通らない」

 オズワルドに針を返される。私が縫っていたら即死だったかもしれないと思い、オズワルドに深く頭を下げて礼を言った。

 少し警戒しながら兄の手に包帯を巻くが、その手が再び暴れることはなかった。

「あ、の……。手を火傷してたでしょ? 薬あるけど、……っ!」


 なぜ気づかなかったのだろう。

 彼が鍋を持ったり、瓶を両手で開けたり、兄を縫い付けていた時、火傷したであろう手を、何の躊躇いもなく使っていたことに。

 そして、その手が何の傷も火傷もない奇麗な手をしていることに。


「そ、そ、その手……っ」

「あぁ。俺は特別再生能力が強いみたいでな。頭や心臓を撃たれても死なないんだ。火傷程度ならすぐ治る」

 まさか、地下室で兄に叩きつけられた時に言っていたことは、本当だったのだろうか。本当に脳みそがぶちまけられた、というのか。

 想像するだけで気持ち悪くなり、口元を手で押さえた。そして、とある人物の顔が浮かんだ。

「わ、私……。あなたみたいに、死なない人を知ってるわ……。アイザックという男を知ってる……?」

「知らない」

「そぅ……」

 頭痛を感じて頭を押さえる。オズワルドの話のせいでもあるが、兄に薬を飲ませて傷の手当てを終えると、疲れと疲労が一気に押し寄せてきた。

「なんだか、気分が悪いわ……。ちょっと横にならせて……」

 昨日も今日も散々な目に遭ったのだ。目を閉じて休みたくなった。

「俺は約束を守ったぞ」

「えぇ……。ありがとう。私も守るから、今は……寝させて……」

 目を閉じながら、オズワルドに答え、闇に沈むように眠りに落ちた。


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