異形の姿になった兄と妹が旅をする話

みけ

第1話 旅の理由


 太陽が高く昇り、晴天の中、人二人、馬一頭で舗装されていない道を歩く。右手には森が、左手には草原が広がっている。周囲に人はおらず、三つの小さな黒い影が、地面を這いまわっている蟻たちに木陰を提供していた。

 兄のウィルは足元まである黒いマントを羽織り、フードを深く被っているので顔は見えない。私の方も同じマントを羽織ってはいるが、顔を外に出して、皮作りの鞄を背中に背負っている。茶色の毛並みのいい馬ーーアルヴィンの背には毛布や鍋などという旅道具一式が載せられている。

 なぜ、鞄をそんな友人の頼もしい背中に載せないか。持てないほど鞄は重くはなく、怪我をした場合の救急医療品が入っているので、肌身離さず持っていたかったのだ。

「今日はちょっと暑いね。お兄ちゃん、大丈夫?」

 兄は頷いて返事をする。兄のフードの頭頂部は左右で高さが異なっていて違和感がある。だが、気にしても仕方がないので、何も言わないことにした。

 ふと、草むらからカサカサと音が聞こえてきて、チラリとそちらを見る。草を掻き分けて私たちの前に姿を現れたのは、一匹の可愛らしい兎だった。兎は鼻をヒクヒクさせて、大袈裟に跳んで見せる。その様子を見て兄に尋ねた。

「お兄ちゃん、なんて言っているの?」

「ぁ゛ぅ゛ぇ゛ぇ゛……」

 兄の声は喉が潰れた様な掠れ具合で、奇麗に発音ができない。それでも、兎が助けを求めていることが分かるのは、きっと私たちの兄妹愛がなせる技だ。そして、兄が兎の言葉を聞き取れたということは、彼は兎という種の恨みを買っているーー呪いをその身に宿しているということだ。

 兎が「付いて来い」と言うように、その柔らかな白い体毛を草に埋まらせながら、ピョンピョンとご自慢の脚力を使って進んでいく。好きあらば食事を始めようとする友人を嗜めながら、白い後姿を追いかけて、草原を進む。

 しばらく行くと、少し先に白い塊が見えた。目の前の兎とは違い、その白は動く様子がない。私たちを誘導していた兎が足を止め、草むらに蹲っている兎のもとにたどり着いた。その兎の足は狩猟用の罠に嵌っていて、白い毛が赤く染まっている。兄がぎこちない手で金属に触れようとしているのを止めた。

「私がやるよ。お兄ちゃんの手じゃ、無理だよ」

 兎に「痛かったらごめんね」と断りを入れて、罠に触れる。板ばねを下げて、足を挟んでいる鋏を左右に広げる。兎の足を救出した後、もう足が挟まれてしまうことがないように、鋏は閉じた状態にしておいた。

 鞄から傷薬と包帯を取り出して、痛々しい傷口に薬を塗り、包帯を巻きつけてやる。兎に効くかは分からないが、何もしないよりはきっとましだ。

「よし、できた。もう大丈夫だよ」

 私がそう言った瞬間、兎からキラキラとした粒子が溢れだす。それは、兄の方へ向かって飛んでいき、兄からは黒い煙のようなものが出て天高く昇り消滅する。兄と兎を繋ぐ白い橋がなくなると、二匹の兎はしばらく愛くるしい顔をこちらに向けた後、向こうへ姿を消してしまった。

ーー兎の部分なんてあったかな……?

 兄のフードを軽く捲り、顔を覗き込む。

 右半分、上の方はゴツゴツとした緑色の岩肌で、下の方は蛇柄が広がっている。目は黒白目に黄金の眼球。もう左半分の肌は茶色や白の毛並み、眼窩の周りは黒い毛で覆われている。左目は橙黄色であった。猫科特有の可愛らしい鼻と口、チラリと覗かせた舌は岩群青の舌先が長くなっているもののままであり、兄の姿でどこも変わった様子はーー

「あ……。あぁ、髭かぁ……っ」

 兄の口元から白い髭が消えたのを確認し、私はため息をついた。なんとも些細な変化である。といっても、また一つ彼から呪いが消えたことは、喜ばしいことだった。


 呪いと願いは同義である。


 呪われてしまった兄は、兄に呪いをかけた生物種の願いを叶える旅をしている。いや、してもらっているというのが適切かもしれない。

 兄と私が慣れぬ旅を始めて約半年ほどになる。その間に解けた呪いは十数ほど。悪くないペースだが、今まで願いを叶えてきた生物は、皆温厚で依頼内容自体、比較的優しいものだった。

 兄の姿を見ると、今後どう足掻いても猛獣相手に交渉する必要があり、それには死の危険を伴うものもあるだろう。

 兄のフードをもう一度深く被らせ、元来た道を戻っていく。その間、私の頭の中では半年前、私たち兄妹を襲った悲劇を思い返していた。



 半年前、私たち兄妹は故郷であるタルソポリで、ギリギリの生活をしていた。十六歳と十四歳、職にも就いていない学生と、十四歳の成人を迎えたばかりの二人では、この故郷で生きていくには難しかった。タルソポリはアングル国の中でも、一、二を争う経済都市だ。この都市の物価は高すぎて、私たちが住むには不釣り合いな場所だった。

 少し前までは生活費で悩むことがあるなんて露程も思わなかった。両親の商売が本当はうまくいっていなくて、私たちを置いて夜逃げするなんてことは、想像もしていなかった。

 両親が借金と私たちを残して三日目、兄は夢だった医者の道を諦め、この都市の憲兵になることを決めた。そうするように仕向けたのは、両親の借金の貸主であるエドワード。都市の南側では一番の富豪であり、中央広場で見世物小屋と呼ばれる気味の悪い商売をやっている男だ。

 見世物小屋には、少し見た目が異様な異形と呼ばれる人々が集められ、芸を披露しているらしい。私は見たことがないが、なんだかんだ怖いもの見たさに人々からは人気があるようだ。しかし、このエドワード、芸を行う異形に対しては酷い扱いらしい。

 そんな商売で稼ぐ低劣、卑劣なエドワードは私にまでその手を伸ばしてきた。といっても、私は特に見た目が人と変わっているということはない。見世物小屋への勧誘ではなく、彼のもう一つのシノギーー富裕層向けの娼館で働くように命令されたのだ。

 兄の稼ぎでなんとか日々の暮らしを支えている状態だったため、とても両親が拵えていた借金返済には手が回らない。毎月の支払が滞っていることを理由に、エドワードは私をそこで働かせようと家まで押し入り、ガタイのいい部下を使ってこの娼館まで引っ張って来た。

 部屋には大きなベッドが一つだけあって、今、その場に私とエドワードの二人だけ。

「リリー。どうしてここに連れてこられたか、分かるか?」

 下卑た表情で私を見つめるこの男に嫌悪感しか抱けない。私はここで働く気はないと告げるが、借金という重荷がのしかかっているため強くは出れない。

「ここで働く気はありません。今、私を雇ってくれるところを探しているんです。どうか、借金の支払いは今しばらくお待ちいただけませんでしょうか……?」

 立派に拵えた髭を人差し指と親指で挟みながら、エドワードは私の体を舐めるように全身を見回した。

「待つのは構わんが、後々困るのはお前たちだぞ? 世の中には利子というものがあってだな、お金を借りたら、借りた分と一緒にお礼の気持ちを付け足さないといけないもんだ」

「お礼の気持ち、……ですか?」

「そうだ。俺のところは毎月その気持ちを頂くことになっている。そうだなぁ……。そこらの仕事で稼いだって、下手したら利子より低いかもしれないぞ。そうなると、お前らはずっと俺に金を払い続けることになるが、それでいいのか?」

「なーー!?」

 今のままでは借金が増えていくと脅すエドワード。今の借金でさえ、家一つ分売り渡さなければならないというのに、その金額が増えていくなんてとてもじゃないが払いきれない。

 それに、今住んでいる家の所有権は、いつの間にか両親からエドワードに譲渡されていた。家は貸してもらっている状態で、毎月の家賃まで取られている。

「もし、ここで働くと言うんなら、利子も少し減らしてやる。ここでの稼ぎはそこらで仕事するよりずっといいぞ。借金も早く返せる」

「でも、私……っ」

 両手で自分の震える体を抱きしめる。自分の立場に涙が出てくる。十四の成人を迎えたばかりのこの体は男を知らず、唇さえも明け渡したことはない。私が話したり触れてきた男は、父と兄くらいしかいない。そんな私が、男を悦ばせる場所で働けるとは思わなかったし、働きたくもない。

「泣いても変わらねぇぞ、リリー。もう、お前には客も用意しているんだからな」

 その言葉を聞いてゾッとする。体がカタカタ震えだし、得体の知れぬ恐怖に襲われる。実質、私には選択肢はないと突きつけられているようなものだ。

「この部屋はこれからお前が仕事をする部屋になる。一時間後までにその赤くなった目をどうにかしておけ。あぁ、逃げたら分かってるだろうなぁ? 肝に銘じとけよ」

「……っ」

 部屋のドアがバタンと音を立てて閉じられる。

ーー一時間後にこの部屋に客が来る……? ありえない、気持ちが悪い……っ!

 エドワードが用意した客だ。おそらく相手は金持ちの老人で、しゃがれた声で、皺だらけのミミズみたいな手で触れられ、歯の抜け落ちた口から臭い息を吹きつけられるのだ。恐怖でしかない。

 想像するだけで吐き気を感じ、ここから逃げなければと自分を叱咤する。エドワードは脅してきたが、今、兄と一緒に逃げてしまえばどうとでもなるはずだ。

 私は窓から身を乗り出し、下に下りられそうか確認する。この部屋は三階。飛び下りて、下手をしたら死んでしまうかもしれない高さだ。

 しかし、窓から塀までの距離は私の体一つ分もない。その向こう側にある屋根との距離も同じくらいだ。この部屋に残るより、命綱無しで塀と隣の屋根に飛び移る恐怖心の方が、私にはずっとマシだった。

 窓枠に足をかけて、塀に飛び移る。想像していたよりも飛べずに、体を思い切りぶつけてしまう。痛みに耐えながら、隣の家の屋根になんとか移動する。

ーーあ、危なかった……。

 肝を冷やしながらも、胸に手を当てて息を整える。

 まだ地上には下りない方がいいだろう。ここは娼館の隣の家なのだ。今地上に下りてしまっては、エドワードの部下に見つかる可能性がある。

 兄がいるであろう駐屯地を目指して屋根伝いに移動する。十分に離れたところで足場を見つけて地上に下り、兄のもとへ走って向かった。


 ここにいると疑わなかったが、目的の場所にたどり着くと、兄の姿はそこにはなかった。顔見知りの兵士に声をかけると、兄は忘れ物をしたと言って家に戻ったらしい。

ーーこんな時に……っ!

 私は兄の居場所を教えてくれた憲兵にお礼を伝え、家に向かった。駐屯地から家まで半分ほど進んだところで、ようやく兄の姿を見つける。息も絶え絶えに、膝に手を当て体を落ち着かせる。

「はぁ……はぁ……、よかった……お兄ちゃん」

「リリー。そんなに慌ててどうした?」

 私は兄の腕を掴む。

「早く、私と一緒にここから逃げよう!」

 兄は私の言葉に困惑している。

「両親が帰ってくるかもしれないから、一緒にここで待とうって。散々話し合って決めたじゃないか」

「どうせ、帰って来ないわ……っ! お母さんもお父さんも私たちを捨てたの! やっぱり私たち二人でこんな都会に住むのは無理だよ……。親の残した借金なんて知らないっ。私、エドワードに関わるのはもう嫌なのっ。さっき、娼館に連れていかれて、それでっ……っ」

 私の話を聞いて兄の表情が変わり、私の肩を掴む。

「痛い……っ! 離して……っ」

 ギリギリと握力が込められ、掴まれた肩が痛い。兄は怒鳴って何があったか話せと詰め寄ってくる。こんなに怒りを露わにした兄は見たことがない。圧倒されながら、兄のもとに来た経緯を話す。

「逃げたから、な、何もされて、ない……。でも、客がいるのに逃げちゃったから……、その、もうここにはいられない……と思う……」

 兄の手に込められた力が段々と失われて、鬼のような表情は鳴りを潜めていく。そして、彼は私を抱きしめた。

「よかった……。本当に……っ!」

「うん……」

 兄に抱きしめられて緊張が緩む。

 両親は本当にバカだ。こんなにいい息子を置いて、二人で逃げてしまうなんて。大馬鹿者に違いない。

 兄は学生時代、優秀な成績を収めていて、将来立派な医者になると期待されていたくらいだ。それに、こんなに家族思いで優しい心の持ち主。

 すぐに我儘を言う私とは違って、人のために行動できる息子を置いていく理由は私には分からなかった。

「リリー。俺がエドワードに話をつけてくる。リリーを娼婦になんか絶対させない。家にいるのは危ないから、オリビアの家にいて。分かった?」

 兄の言葉に首を横に振る。

「話なんかつけなくていい! 今すぐここから逃げよう!」

「いやダメだよ。リリーに一生エドワードの存在に怯えて、隠れて、逃げ惑うような生活はさせたくない。リリーにはそのまま我儘に、笑って過ごしてほしいからさ」

 兄はそう言って、私の頭を撫でる。「心配しないで、すぐ戻るよ」と言って、私から離れてしまう。

 私はどうしてこの時、もっと抗議しなかったのか、一生怯えた暮らしでも構わないと言い切らなかったのかと、酷く、酷く後悔することになる。

 そして、その日、兄が私のもとに戻ることはなかった。


 次の日、一度家に戻ったが、家の中には誰もいなかった。すぐに戻ると言った兄は、私にその姿を見せてはくれない。

「何かあったんだわ……っ」

 私の家族はもう兄しか、この世で愛すべき存在は一人しかいない。普段立ち入らない父の部屋に入り、護身用のナイフを手に取る。刃物なんて数えるほどしか持ったことがない。今まで握る必要がなかったのは私が恵まれてきた証拠だった。

 そのナイフを持って、兄が向かったはずのエドワードの屋敷に乗り込んで行く。


 驚いた顔の見張りの男を押しのけて、部屋の中に土足で踏み込む。娼館から逃げ出したことを忘れて、エドワードのもとに姿を晒した。

「お兄ちゃんはどこなの!? お兄ちゃんを返して!」

 革張りの椅子にずっしりと腰を下ろし、葉巻を吸っていたエドワードは、口からぷはぁと白い煙を吐き出した。

「リリー。お前なぁ、なに逃げてんだよ……。逃げ出したくせに、堂々と俺の目の前に現れて、本当にバカだな」

 エドワードは椅子から腰を上げ、こちらに向かってくる。私は護身用のナイフを取り出し、エドワードに向けた。彼の傍にいた護衛が銃を構えようとすると、エドワードが制止し、再び私に近づいてくる。

「そ、それ以上、私に近づいたら、刺すわよ……っ!」

 私の脅しに屈することなく、エドワードは近づきながら言った。

「揃いも揃ってバカばかり。両親が借金を払えないんなら、娘や息子のお前らが支払うのは当然のことだろう? それなのに逃げ出すなんて、お前に責任感はないのか? お前と違って兄貴は偉いなぁ。お前が逃げちまったから、お前の代わりに兄貴が体を差し出すことになったんだぞ」

「え……?」

 力が抜けて、手からナイフが転がり落ちる。エドワードが言った言葉が理解できない。何を言ってるんだこの男は。

「お前を買っていた旦那は好きものでなぁ。女でも男でも、若いなら何でもいいって言うんだ。しかも、お前らの借金まで肩代わりしてくれたんだぞ? どれだけ聖人なんだって話だ」

ーーど、どういうこと? 私たちの借金を肩代わりした……? 一体誰が……?

 混乱しながらも、兄はどこにいるのか尋ねる。

「知らねぇよ。あぁ、だけど、お前さんに会ったらこれを渡してくれって」

 手渡されたのは一枚の招待状。そこには日時と場所しか記載されておらず、今日の日没後、劇場跡地地下二階と書いてあった。

「これを……兄が……?」

 劇場跡地はその名の通り、もう既に廃業しているはずだ。そんな場所に兄が私を呼び出す理由が分からない。私が産まれる前から劇場は潰れていたようだし、行ったことも、話題に上げたこともない。よく見れば兄の筆跡とは違っている。

 嫌な悪寒が走り、体を震わせた。

「それを渡せと言ったのは兄貴じゃねぇよ。お前らの借金を完済した旦那……、アイザックさんが渡してきたんだ」

ーーアイザック……。

 全く聞き覚えのない名前だ。

「俺も招待されたんだがよぅ……。全く趣味がいいぜ、あの旦那」

「どういう意味……?」

「それは日が落ちるまでのお楽しみだ。多分ここに行けば、兄貴にも会えるだろうぜ」

 エドワードは二本の指で挟んだ紙を見せる。彼はそれに唇を寄せてチュッと鳴らしながら、胸ポケットに仕舞い込んだ。あれには死んでも触れたくない。

 もう一度、紙に書かれている文字を見る。劇場跡地地下二階、人通りがないその場所には馴染みがない。そこに地下があることさえも今知ったくらいだ。

 悩んでいる間に、エドワードの部下に部屋から、屋敷から追い出され、招待状を持った反対の手には家の権利書を持たされた。

「よかったな。家まで買ってもらえて。俺も買ってもらいたいもんだ」

 ドアが閉ざされる前に言われたエドワードの言葉に、私は賛同できなかった。

 

 日が沈みきる前に、手に招待状を握りしめながら劇場跡地に向かう。私の他に何人か同じ方向に進む人がいて、どうやら同じ場所を目指しているようだった。

 彼らの姿は、子供の姿から老人まで、みすぼらしい服を着ている人から大きく裾を広げたドレスを身に纏う貴婦人までいる。皆がどこか興奮した様子で、一カ所を目指していた。

 到着すると、そこには人だかりができており、黒い服の男たちが皆の招待状を確認して、地下への入り口を案内している。まるでアリの行列が巣穴に潜っていくように、どんどんと人が穴の中へと吸い込まれていく。

 私も例外なく穴に入って、地下へと進む階段を下りていると、徐々に大きな歓声が聞こえてくる。進むたびに耳に届く音や熱気のようなものを感じながら、地下二階にたどり着く。


 この都市の一番の歓声と熱狂がそこにあった。


 劇場跡地の地下二階。中央を取り囲むようにして円形上に並べられた客席。外側の座席が高くなっており、真ん中にいくに連れて低くなっている。その中央は空洞になっていて、地下三階の様子が見える。そこで何者かが戦っているらしく、事あるごとに観客は怒号を上げた。

「早く殺せ~~っ!」

「もっと血を見せろおおおおおおぉおぉっっ!!」

 撤去もされず、放置されていた劇場跡地。その地下がこんな風になっているだなんて聞いたことがない。人々が手を上げ、雄叫びを上げ、轟音が響き渡っている。鼓膜が破れそうなほどに爆発的な音が鳴り響いている。

 異質の空間。そんな会場の雰囲気に飲まれながらも、私はここにいるはずの兄の姿を必死に探す。会場の中には父と商売をしていた男性も、パン屋の主人も、お隣の家族の姿も見かけた。子供たちまでこの場にいる。何が楽しいのか、中央を見つめ騒ぎ立てている。

 そんな彼らを横目に見ながら、兄を探すが見つからない。


ーーいない……っ、ここにいるはずなのに……っ!


 会場中、見渡しても、歩き回っても兄の姿は見つからない。私が逃げたせいで代わりに体を差し出すことになった兄。そんな兄になんと声をかけていいかは分からなかったが、それでも彼の姿を見つけたかった。謝りたかった。

 周囲を見渡す。一周しても見つからないのは、きっと人が多いからだ。見逃したに違いない。そう思い、もう一度客席を一周しようとするとーー


 絶叫が唸りを上げて、大きな波を立てた。


 何事かと思い、中央を覗くと、そこには全身血に染まった女が剣を手に持っており、男が女に刺されたのか、男の体も赤く染まっていた。

「止めを刺せっ!」

「殺せぇ~~~っ!」

 皆が示し合わせたように、一斉に「殺せ」とコールが始まる。


「「「殺せ!」」」

「「「殺せ!」」」

「「「殺せ!」」」


 異様な雰囲気に絶句して、私もそこから目が離せなくなる。そして、女が上を向き、絶叫を上げた。その女の声がーー


 母の声に聞こえた。


 自分の耳を疑った。母の絶叫など聞いたことがない。しかし、なぜだか私の耳はその声を自分の母親の声だと認識し、心臓がトクトクと速鳴っている。一歩ずつ、今まで無視してきた中央に目を向けて、近づいていく。

 そんなことがあるわけがない。私たちを捨て、どこか遠くに逃げた母親が、なぜこんなところにいるというのか。まさか、そんなはず……。

 最前列より前に立って、手すりを掴んで下を覗き込む。その光景を目の当たりにして、ズルズルとしゃがみ込んでいった。


 なぜ、人々は中央で行われている惨劇を見て、興奮して、喜んでいるのか。

 なぜ、父と母がここにいて、母は父の心臓に剣を突き立てているのか。

 分からない。分からなかった。


 私の悲痛の叫びは、自分の耳にも届かないほどに、周囲の狂乱に打ち消される。


 一際大きな歓声が止み、反動のように会場が誰も存在しないかのように静かになる。そして、この場を制するように一人の男が声を張り上げた。


「やぁやぁ、お集まりの皆様方。余興はお楽しみいただけましたか?」


 その言葉に観客が波を打つように、喚声が上がった。

「アイザック~~っ! 今年はどんなすごいものを見せてくれるんだ~~?」

 彼に向けられた言葉の中に、『アイザック』という名前が聞こえて耳を疑う。しかし、その名前は何度も、あちらこちらで呼ばれていた。

 まさか、この男がエドワードが言っていた男なのか。男の近くに兄はいない。ただ名前が同じだけなのか、それともーー


「皆様、楽しんでいただけたようで大変光栄です。では、今回のメインイベント、『百鬼蟲毒』を開始いたしましょう!」


 客が騒ぎ立て、アイザックの言葉を聞いて盛り上がる。


「今回初めてお披露目する『百鬼蟲毒』。百の生物に一斉に登場してもらって、最後の一匹になるまで戦ってもらいます。あぁ……、聞いてください。私本当に苦労したんです。『百鬼蟲毒』を行いたいがために、お金も時間も手段も全て使ってなんとかここまで運んできて……、ここまでの道のりは生半可なものではありませんでした。あ、拍手をどうもありがとうございます。もちろん、その中には戦闘を好まない心優しい生物もおりますゆえ、細工をさせていただきました。少しばかり攻撃的になるように薬を使ってね。え? 「薬は一部の生物にしか嗅がせてないのか?」ですって? いいえ。全ての生物に平等に与えております。攻撃的なものはより一層、気が立っておりますので、お楽しみいただけるかと。え? 「危なくないのか?」ですって? もちろん大丈夫でございます。今から登場する生物の中には所謂、百獣の王だとか呼ばれる生物も出てきますが、戦闘が行われるのは地下三階。羽を持つ種もいますが、二階まで上ってこれないよう細工しておりますので、ご心配なく」


 先ほどまで中央にいたはずの母はもういない。幻だったのではないかと思えるが、あの男の声を聞いていると、嫌に心臓が高鳴って一つの仮説が頭を巡っていく。

 エドワードが言っていた、私たちの借金を肩代わりし、兄を連れて行ったという男。私にこの招待状を渡した男であるーーアイザック。

 もし、目の前の男が私の聞いた男と同一人物で、このイカれた出し物の運営者というなら、兄はこの場に連れられて、何らかの見世物にされるのではないか。そうあってほしくないのに、頭からその可能性を排除できない。

「それでは、皆さん大変お待たせいたしました。準備が整ったようなので、『百鬼蟲毒』を開始させていただきます」

 その言葉を聞いて、会場が唸りを上げ、微かに聞こえた重低の金属音が耳に届く。


「なんで……っ! どうして、そこに……っ!」


 獣が姿を現した中、よく見知った、昨日私を抱きしめてくれたはずの、兄によく似た男の後姿がそこにあった。その手には二つの剣が握られている。

 あんなにうるさかった周囲の音が完全に消え、戦慄いた口で兄の名を呟く。届くないはずのない呼びかけに、振り返った男は私の知る兄に違いなかったが、とても兄には見えなかった。

 体の全てが脱力し、地面に尻を打ち付ける。

「うそ……っ、うそ、だ……っ」

 彼の周りにいた巨大な猛獣。あんな大きな生物に、人間が敵うはずがない。しばらく放心していたが、途端に後悔が押し寄せてきた。

 私があの場から逃げ出してしまったから、兄が今こんな目に遭っているのだ。

ーーお兄ちゃんが、私のせいで死んでしまう……っ!

 フラつきながら、手すりに掴まりながら、抜けてしまった腰を引き上げ、もう一度立ち上がる。兄はまだ立っていた。全身に血を浴びて、その血は倒れている動物のものなのか、兄のものなのかさえ分からない。しかし、まだその足で立っているということは、まだ死んではいないということだ。

 手すりを握り締めながら叫ぶ。

「お兄ちゃん、逃げてっ! 早く逃げてっっ!」

 周りとは真反対の声援を送る。だが、私の声など届いていないのか、私の願いとは正反対に兄は自ら猛獣たちの方へ向かって行く。

 兄が剣を振るっている姿など見たことがない。歴戦の戦士のような猛々しさに、息を飲んだ。

 あの温厚で優しい兄が、自分より大きな猛獣相手に向かって狂喜乱舞に奮闘している。今、どういう状態なのかもよく分からない。よく分からないながらも、彼が生き残ることだけを祈った。


ーーどうか、神様。どうか私の命を奪っても構いませんから、兄をっ……。兄を、お助けください……っ!


 どれほど時間が経っただろう。

 二階の客席にも、血や腐臭の臭いが立ち込めてきて、何時間も興奮し続けた客席も流石に疲れてきたのか、勢いがなくなっていく。

 百いた生物も残り三匹ほどで、信じられないことにその中の一人に兄がいた。言葉を失いながらも、ただ一点、彼の姿を注視する。

 猛獣が兄に迫り、拳を撃ち落としてくる。兄はそれを寸でのところで避け、もう一匹が、兄と猛獣目掛けて突進してくる。それをまた兄はかわす。避けきれなかった猛獣は壁に打ち付けられ、力なく地に伏した。

 どうしてあんなに傷だらけの体で戦えるのか。あの状態でどうして未だ立ち続けているのか分からない。もうこの場には兄と猛獣一匹しかいない。逃げている間に猛獣同士が潰し合うことはもう期待できない。

 兄が生き残ることを願い、初めてちゃんとした声援を送る。


「お兄ちゃん、絶対勝ってっ! そいつを倒して! お願い、生きてっ! 私を、一人にしないで……っ!」

 

 この声が聞こえたのかどうかは分からない。

 私の叫びを合図に、兄は走り出し、猛獣に向かって剣を振るう。獣に刃先が触れ、軽く皮膚が裂けて、獣は怒号を上げる。兄を殺さんとばかりに突っ込んで、大きな口を開けて飲み込まんとしてくる。

 兄は左手を差し出すように、剣を握ったままその大きな口に刺し込んだ。体内を傷つけられても、未だ兄の腕を引きちぎろうと暴れる猛獣。抵抗を見せる猛獣に対して、兄は右手の剣でその心臓を貫いた。

 その瞬間、咬合力が弱まり、大きく口を開ける獣。兄の手がダラリと重力に従い落ちる。どうやらまだ腕は体にくっついたままのようだ。だが、力尽きた猛獣と共に、兄も倒れてしまった。

 兄の名を呼ぶ声は周囲の声にかき消され、いつの間にか息を吹き返した絶叫が木霊している。


「おやおや。一番最後まで立っていた鬼には私から最高の贈り物があるんですが、これでは差し上げられませんねぇ……。生き残っているものがいないかーー」

「お兄ちゃん……っ! お兄ちゃんっ! 起きて! 早く、起きてよっっ!」


 アイザックが喋っている時ばかりは、皆が静かになっていることに気が付き、彼の声に被せて兄の名を呼び続ける。

「お兄ちゃん! お兄ちゃん……っ! お兄ちゃんが死ぬなら……、私も死ぬ……っ」

 その言葉に反応したのか、兄は間違いなく微かに動いた。


「これはこれは、虫の息ではありますが、生き残りの、鬼がいるようですよ? さぁさ、皆様、彼が百鬼の王ーー蟲毒様です!」


 怒号飛び交っていたはずのこの場所で、さっきとは打って変わって、拍手喝采、大歓声の称賛の嵐。


「それでは、この場を制した勝者には私から、いえ、九十九鬼から、最高の贈り物を差し上げましょう。……恨みつらみが籠った怨念、その身一つで受け取ってくださいね、蟲毒様」


 アイザックがそう言うと、よくわからない呪文のような言葉を呟き始める。一定間隔で、低く唸り、禍々しい音。印を結ぶように手を重ね、風も吹いていないのに、その髪の毛は下から持ち上げられるように浮いている。

 そして、倒れた百鬼から禍々しい黒い煙が現れ、会場の中央に集められていく。世にも不可思議なこの状況に、先ほどまで喜び楽しんでいた観客も入口に殺到して逃げ出した。


 この黒い何かが、恐ろしいものだということは、直感で誰もが感じとったのだろう。


 皆が逃げ惑う中、私は目が離せない。兄からはあの黒い煙は出ていない。

 私は一番柔らかそうで一番衝撃を和らげてくれそうな生き物を探し、手すりを跨いで、地下三階へと飛び下りる。

 柔らかそうといっても相手にも骨があり、一階分の衝撃は私にも飛び下りた先の生物にも大きく負荷がかかった。体重がかかってしまった左足には激痛が走り、下敷きにされた動物は、上下の口から臓器と体液を吐き出した。それでも構わず、片足を引きずりながら兄のもとに駆け寄っていく。

「お兄ちゃん……っ」

 うつ伏せになっている兄の体を仰向けに転がす。腕はまだ辛うじてくっついているようで、その痛々しい姿に目元を熱くしながら、頬を叩いて呼びかける。

「お兄ちゃん……っ、お兄ちゃん起きてっ! ごめん、お兄ちゃん……っ! 早く、早く逃げよう!」

「うぅ……っ、り……りぃ……」

「……っ! そうだよ、私、リリーだよっ! お兄ちゃん……っ、ごめんっ、お兄ちゃん、お願い、死なないで……っ!」

 比較的に無事な兄の右腕を自分の肩に回して兄を支える。進むたびに前に倒れ込みそうになるが、鍛冶場の馬鹿力を発揮して、地上に繋がっているであろう目の前にある階段を必死で目指す。

 ずり……ずり……っ。

 兄の消え入りそうな呼吸が耳元で聞こえる。


ーー絶対に死なせるもんか、殺させてたまるもんか……っ!


 左足から伝わる痛みも、兄の痛みに比べればどうってことない。あの黒い禍々しいものから、一刻も早く離れなくてはいけない。

 視界の端に、あの禍々しい煙が凝固して、一つの玉になっているのが見えた。手すりに座ってこちらに笑顔を向けている男がいる。


「さぁさ、百鬼の怨嗟、遺恨、鬱憤、怨毒。ありとあらゆる全ての呪詛をその身に宿して差し上げます。あなたは醜悪、醜怪と呼ばれる異形の形を取ることになりますが、あなたほど複雑で美しい生を得るものは、この世のどこを探してもいないでしょう。さぁさ、喜んで受け入れて。新しいあなたに祝福を」


 男が上げていた右手を振り下ろすと、黒い玉がこちらに近づいてくる。逃げられないと思った私は、肩に回していた兄の腕を外し、こちらに向かってくる玉と兄の間に立った。

 この玉は良くないものだとは直感的に分かっていた。触れるのはまずい。だが、傷ついた兄にだけは絶対触れさせたくはない。


 黒い玉が私の腹に触れた瞬間ーー絶望が私を支配した。


 この身を業火で焼かれたような、全身を打ち付けられたような、針で刺しぬかれるような、皮膚を解かされるような、刃で裂かれるような、重機で押しつぶされるような、息が吸えないような、肌を捲られるような、肉を引きちぎられるような、全身に毒が回るような、内臓を引きずり出されるような、鼓膜を破るような、髪の毛を全て引き抜かれるような、爪を剥がされるような。


 体験したことのない痛みが全身を駆け巡り、感じたことないような絶望と恨みを叩き込まれる。


 自分の体が変形、変貌してしまうのではないかと思った瞬間、現実に戻った。

「う……っ、おっ、おぇ……っ」

 体内に収められていた内容物が、喉を競り上がってきて嘔吐する。体から全て吐き出すまで、地面に吐瀉物が広がっていく。

 口に広がる苦々しい味と、生理的に溢れた涙。

 頭に残っているのは、怖い、気持ち悪い、痛い、死にたい、助けて、つらい、許さないといった感情。

 一人の人生では経験することのない何か恐ろしいものを感じ、死んでしまいたいような時を過ごしたに違いないのだが、それは現実では秒にも満たない。

 しかし、この感覚は間違いなく二度と味わいたくもない、知りたくもない、認識したくもない、何かであることだけはハッキリしていた。

 玉は私の腹に触れたはずだが、腹には何もない。地面に落ちてもいない。私自身があの玉を吸収した風には思えない。

ーーま、まさか……っ!

 呼吸とも呼べない、空気が肺にまで到達していない浅い呼気、吸気を繰り返す。ゆっくりと、恐れながら、後ろを振り返る。

 そこには蹲っている兄の姿しかなく、どこにも黒い玉はない。

「一体どこ、に……っ」


「ぎゅぐぁぁぐぐごぁあああんぉおおぉぉおおおっっ!!」


 獣の咆哮のような声が、目の前の兄から発せられる。

「おにい……、ちゃ……ん……?」


 そして、その体が変形し、変容し、変貌する。


 百鬼に、変幻自在に、姿を変えて、形状が、容姿が、兄を兄たらしめるものが何一つ残らず、失われていく。

 地上で生きる百の生物、哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、昆虫までもが、兄を壊していく、塗り替えていく。

 全ての業をその身一つで受け、全ての怨念をその身一つで受け入れている。

 ツノが生え、羽が生え、棘が生え、尻尾が生え、肌が固くなり、爪が伸び、肉が盛り上がり、肉が削げ落ち、体が不自然に大きくなり、形容しがたい異形を取る。

 口から発せられるのは言葉ではない。こちらを見る目は左右で異なり、どこを見ているのか分からない。

 何一つ目の前の異形を理解できない。

 兄は元の姿とはかけ離れてしまい、私は後ろに倒れ、尻もちをつく。

 ちょうど、地面に倒れた場所は自分の吐き出したものが散らかっていて、新たな排泄物が混ざって、水たまりを広げていく。

 兄だったものは理解できない音を発して、こちらを見た。こちらを睨みつけるような黄金は私を責め立て、橙黄色は団栗目で純粋に私を慈しんでいるように見える。そのチグハグさに混乱する。

「ぁ……、にぃ……っ……」


「蟲毒様、どうしたんです? 目の前の人間を殺さないんですか?」


 いつの間にか、地下三階まで下りていたアイザックはコツコツと足音を立て、こちらに近づいてくる。

「蟲毒様?」

 兄を蟲毒と呼ぶアイザック。その呼び名が嫌だったのかはよく分からない。五本の鋭く伸びた黒い手が、兄の顔を覗き込んだアイザックの首を刎ねた。

 ゴロンと重いものが落ちた音が響き、首から上のアイザックと目が合ってしまう。死ぬ直前は笑顔だったのか、口角が上がっていて、その顔を見て思わず悲鳴を上げた。

 頭は胴体と切り離されたはずなのに、それでも男は生きていて、そのまま構わず話し続ける。なんとも異常な光景だ。

「嫌ですねぇ……。僕の首を刎ねるだなんて……。美しい姿ですが、どうにも怨念が薄く感じられます。失敗したんですかね?」

 男の言葉に反応して、兄の蹄が男の頭を踏み潰そうとした時、頭は避けるようにコロンと転がる。よく分からない、内臓の一部のような触手を伸ばして、近くで倒れていた体に引っ付いていく。そして、刃を鞘に戻すように、元通りの人間の形を取った。

 もう何もかもよく分からない。

「困りましたねぇ。ちょぉっと失礼。うわ、汚いっ!! く、臭いですっ!」

 男は私の首根っこを掴み、兄の前に掲げる。片手で人一人持ち上げる腕力は、その細い腕からはとても想像できない。宙に浮いた私の足元には、ポタリポタリと尿と吐瀉が混ざった雫が、滴り落ちていた。

 先ほどアイザックが首を刎ねられた射程範囲に私の体が持ち上げられても、兄が私の首を刎ねる様子はない。

 目の前にいる異形の姿はどう見ても私の知る兄ではないのに、私に対して一切危害を加えようとしないその態度が、似ても似つかない兄の面影に重なって、涙が込み上げてくる。涙と一緒に、絞り出された声が一緒に零れ出る。


「お、にぃ……ちゃん……っ」

「ぃ゛ぃ゛……」

 

 とてもじゃないが、兄の口から出てきたのは言葉とは言えない。しかし、その音は私のことを呼んでいるのだとはっきり分かった。ポロポロと涙が頬を伝って、顎先を伝い、地面へと落ちていく。

「あぁ。困りましたねぇ……。困りました。あんなに時間をかけたのに、失敗するだなんて……。あぁ……、本当に困りました」

 そう言って私を掴んでいた手を離すアイザック。突然投げ出され、左足が上手く地面と接地せずに、私の体は崩れ落ちる。兄に再び打撃を食らわせられそうになったアイザックは、後ろにピョンピョンと兎のように跳ねて、攻撃をかわした。

「やはり、黒点が雑音を通してしまったために、形質変化してしまったんですかねぇ。ということは、あちらの個体に怨念が……。……というわけでもなさそうですし、ただの失敗なんですかねぇ。一体何が悪かったのやら……。もしかして、他にも死んでなかった生物がいたとか……」

 男は何やらブツブツと呟いた後、先ほど首から生やした触手のようなものを手から生やし、四方八方に伸ばして、横たわった死骸に突き刺していく。全ての生物にその触手を突き刺した後、残念そうにため息をついた。

「ちゃんと全て息絶えているようです。完璧に仕上げていたはずですが、この方法はあまり使えそうにありませんね。止めです、止め止め」

 ゴホンと一つ咳ばらいをしたアイザックが私を見た。

「えぇっと? あなた妹さんなんですよね? そうだ、そうだ。たしか、リリーと言いましたっけ? 娼館から抜け出したリリーさん。お兄さんがこんな姿になったのはご自身のせいだって分かってます? 分かりますよねぇ。これで分からないなんて言ったら、お兄さんが可哀そうです。お兄さんのこの姿、元に戻したいですよねぇ?」

 アイザックの言葉に目を見開く。兄は元に戻れると言うのか。

「あ、兄は元に戻れるんですか!? に、人間の姿に、前みたいに喋れるようになるんですか!?」

 兄をこの姿に変えたのはこの男に違いない。だが、兄の姿を元に戻す方法を知っているのもこの男だけに違いない。

 化け物じみた人間に、地面に這いずりながら近づいていく。

「あぁ、それ以上近づかないでください。私、鼻は敏感なので。そこで止まって、はい、そうです。私は失敗作に用はないので、そちらの蟲毒様はあなたに差し上げます」

「兄は、兄はどうすれば、元に戻せるんですか!? 戻るんですよね!?」

「あぁ、戻せますよ。失敗したので。知りたいですよね? その方法」

 アイザックの言葉に首を縦に振ると、男は口角を上げて、目じりを下げる。男は不気味な笑みを顔に張り付けた。

「私は芸術家であって奉仕者ではありませんので、もちろん教える代わりに対価を頂きたい。本来、私は若い女性の体を求めていたのです。私のお願いを聞いてくれるのであれば、埋め合わせとして彼の戻し方をお教えしましょう。どうです? 私の提案に乗りますか?」

 そんなの返事は決まっている。二つ返事で答え、交渉成立は成立した。

 アイザックから教えて貰った兄を元に戻す方法。それはーー


『百鬼蟲毒で戦った生物の願いを種ごとに叶えていくこと』


 呪いと願いは表裏一体であり、同じ種の願いを叶えれば、兄の姿を変容させた呪いも一緒に昇華されるのだと言う。

 そして、兄はその身を一部種に変じているので種の言葉が分かり、呪いが解ければその言葉も分からなくなるらしい。そして、それは同時に人の身も取り返すことを意味する。

 九十九もの生物の願いを叶え、兄の姿を取り戻すため、私たちは直ちにこの都市を出ていくことになった。

 この都市にも多くの生物がいるだろうが、今の兄の姿を考えると、人の多いこの都市に住むのはかなりの危険を伴う。化け物だと言われて殺されるかもしれないし、また逆も然りだ。

 それに、会場には知り合いも沢山いて、私たち家族が見世物になっていたというのに、止める様子など一つも見せなかった。そんな彼らとこれからも一緒に暮らしていけるとは思えない。この都市で、誰一人信用できるものなどいなかった。

 アイザックに母のことも聞いたが、父を殺した後、彼女は自死していたらしい。姿を見るかと言われたが断った。この世界の中で、私の家族は本当に兄だけとなった。

 もう二度と帰らないであろう家の権利書も家にある家具も纏めて、エドワードに売った。

 手に入れた金で馬を一頭買い、旅道具一式と衣料品、米や干し肉などの食料品を鞄に詰め込み、一冊の分厚い本と、兄の全てを覆い隠せるような大きなマントを発注して買った。

 金はまだ余っているが、これから金が増えることはなく、減っていくばかりだろう。散財せず、きちんと管理しなければならない。こういったことは頭の良い兄に任せたかったが、それは無理な相談だった。


 住み慣れた家で寝る最後の夜、私と兄は両親の使っていた大きなベッドで二人横たわる。頭に生えたツノの先から蹄の先まで、兄の姿を観察していく。触れて見て、確かに兄の一部なのだと知る。

 その姿を見るのも、触れることも、怖くはなくなっていた。

「お兄ちゃん。私はお兄ちゃんが元に戻れるように精一杯努力するけど、どんな姿だろうとお兄ちゃんが大好きだよ。だから、お兄ちゃんも絶対に自分を嫌いにならないでね」

「ぃ゛ぃ゛……」

「大丈夫だよ、お兄ちゃん。絶対に元に戻るから……」

 いつも私が泣いていた時にしてくれたおまじない。フワフワしていてザリザリしているおでことおでこを互いに合わせる。

「今日から私は、お兄ちゃんのために生きるよ」

 おでこを離すと、兄の目が少し揺らいだ気がした。



「ぃ゛ぃ゛……」

 兄の声にハッとして周囲を見渡す。私はいつの間にか、草原ではなく、舗装されていない道にいた。半年前の事を思い返していているうちに、元来た道に戻ってきていたようだ。

「暑いからちょっとボーっとしちゃった……。じゃあ、行こっか」

 私が立ち止まっていたために、アルヴィンのお腹は十分満たされたようだ。彼の手綱を引いて再び歩き始める。

 半年前からアルヴィンには世話になっている。兄の呪いを一番最初に解いてくれたのも実は彼だった。アルヴィンに川の水を飲ませた時に、彼からキラキラとした粒子が現れて、兄から黒い煙が出てきた時は本当に驚いた。

 兄が燃えているのかと思って兄のマントを捲ると、脚の一部が人肌に戻っていて、信じられない気持ちだった。しばらくその肌に触れながら、ずっと泣いていたし、あの状況は馬から見ても奇々怪々な行動だったとも思う。

 私たちの旅の友であるアルヴィンのために、地図を広げて川を探す。もう半刻と歩けば川にたどり着くことが分かった。

「アルヴィン、喉乾いたよね。あともうちょっと頑張れば、川に着くよ。今日はその川の近くで野宿しよう」

 私の言葉にアルヴィンは嬉しそうに鳴いた。兄の了解も取り、しばらく進むと、地図通りに川が見えた。心なしか早足になるアルヴィンに引っ張られるように、道を進んでいく。一直線に川に向かおうとしている彼の手綱を引っ張り、少し道から逸れた場所まで移動して、背中に載せた荷を下ろしてやる。

「お待たせ。もう飲んでいいよ」

 彼は「待ちくたびれました!」と言わんばかりに、ジャブジャブと川の水をたらふく飲んでいる。今回キラキラした粒子は出ないようだ。

 太陽は西の方に傾いて、世界をぼんやりと橙色に染めている。完全に日が暮れる前に山の中で薪を集める必要がある。アルヴィンが満足したのを確認し、近くの木に縄を括りつけた。

「お兄ちゃんと薪を取ってくるから、近くにある草でも食べててね」

 アルヴィンに別れを告げて、兄と共に山の中に入る。手ごろな大きさの枝を私が、大きなものを兄が集める。そもそも、兄の手は小さいものを持つことが難しく、大きいものの方が拾いやすいので、こういった分担にしている。一晩過ごすのに十分な量を集めて、アルヴィンのもとに戻った。

 石を詰めて、薪をくべて、中央に燃えやすい枯れ葉を敷き詰める。首元にかけていた二つの笛のうち、火笛を取り出した。

 火笛は人差し指くらいの大きさで笛を吹くように息を吹きかけると、笛の先から小さな火が出てくる。旅道具を買う時に火打石を探していたら、店の店主にこの火笛を勧められたのだ。かさばらないし、力もいらないのでこちらを購入して正解だった。

 体勢を低くし、何度か笛を吹いて薪に火を定着させる。体を起こして、今度は笛なしでフーと息を吹いた。

 私の首にはもう一つ笛がかけてあった。こちらの笛は水笛で、吹けば水が出てくる。しかし、アルヴィンが満足するまで水を出すとなると、唇が痛くなってしまうので、これは本当に緊急時しか使わない一品だ。

 他にも様々な種類の笛が旅道具として売られていたのだが、お金も無限ではないので最低限にとどめた。この半年の間に、他の笛が特別必要とされる場面もなかったので、しばらくはこの二種類で事足りるだろう。

 このような不思議な道具は魔法具と呼ばれている。その作りは複雑怪奇で、一般人が模倣しても同じ機能が発揮されるものは作れないらしい。それゆえ高値でやり取りされており、魔法具を作れる魔法使いは非常に地位が高く、人数も少ないらしい。

 私たちの故郷タルソポリにも一人魔法使いがいたらしいが、一度もその姿に会うことなく都市を出ることになったくらい、彼らの存在は希少なものだ。

 姿を知らぬ火笛の制作者に感謝しつつ、火のついた薪の上に川の水を汲んだ鍋を置く。荷物から残り少なくなった米と干し肉、調味料をいくつか入れて蓋をする。しばらくしたら米が炊き上がり、肉も柔らかくなるだろう。しかし、これでは兄の腹は満たされない。

 少しだけ竈から離れた川に兄と移動する。

「お兄ちゃん、お腹が膨れそうになるまで魚を捕ってね」

 頷いた兄は川の中に入って、右の熊手を使って川の中に泳いでいる魚を地上に叩き飛ばしていく。いきなり地上に打ち上げられた魚は驚いて、訳も分からず、ピョンピョンと跳ね回っている。

 時期にその動きも小さくなっていき、その可哀想な魚たちを私が拾い集めていく。十匹ほど打ち上げると、兄は川から上がって、ブルブルと身を震い水気を飛ばした。

 薪として拾い集めた枝の先をナイフで削って、魚の口から体を貫いていく。それを竈の傍の地面に突き刺して、円形に並べた。

 荷物の中から手帳を取り出し、今日の成果を記す。この手帳には兄の体が戻った時と、旅に役立ちそうなメモが記載されている。旅を始めた当初は毎日のように書き連ねていたが、半年も経てば兄の姿に変化があった時くらいしかこの手帳も開かなくなっていた。

 今日は僅かな変化だったが、きちんと『兎、髭、罠にかかっていたのを助けた』と記載して手帳を閉じる。夕食が出来上がるまでは暇なので、旅の直前に買った本を兄と眺めることにした。

 兄と横並びで見るには高さと横幅が違いすぎるので、兄の膝の間に座って本を読む。色々な体勢を試してみたが、これが互いに楽だったし、小さい頃もこうやって本を読んでもらっていたので違和感はない。

 膝を立てた上に本を置いて、ページを捲る。そこには生き物の写真と生息地や特徴、雄雌の見分け方など、生き物の詳細が記されていた。この重くて分厚い本は生物図鑑であり、兄の体の特徴を知るための本だった。

「見て、シマウマだって。これ、お兄ちゃんの太腿と同じ縞々模様だ!」

 兄の白黒した毛並みと見比べる。どうやら間違いないようだ。

「アルヴィンの親戚みたいだね。あ、でも、ウマよりロバに近いらしいよ。白黒してて可愛いねぇ」

 そう言うと、私たちの会話を聞いていたのか、アルヴィンが怒ったように鳴いた。

「あははっ。アルヴィンの方が可愛いよ」

 彼は納得したのか短く鳴いた。雄なのに可愛いと思われたいのかと笑いつつ、次のページを捲る。

「あ、これは最初の方に出会ったシカだね。お兄ちゃんの右側から立派なツノが生えていたのは本当に困っていたから、序盤で呪いが解けて本当に良かったよ」

 兄のマントのフードは、何度も何度も縫い直した跡が残っている。もちろん、今言ったシカのツノが原因だった。反対側にはヤギのツノが付いているのだが、丸くなっているのでこのツノがマントを突き破ることはない。

「あ! これお兄ちゃんの左足だ! ずっと何だろうって思ってたけど、ダチョウだったんだねぇ。えっ、飛べないのに鳥なんだ……っ! 不思議だなぁ……。首も足もスッとしてて奇麗だね」

 そう言って、兄の足に触れると、ずり……っと足を引き離された。触れられるのが嫌だったのだろうか。

 生物図鑑を読んでいる間に、米が炊き上がったようだ。兄専用の大きいお皿と熊手でも使えるように改良したスプーンを用意する。

 このスプーンは柄尻に向かって曲線を描いており、先には引っ掛りが用意されているため、手を開いた状態でも掬うことができる。兄の右手は握るのが難しいので、このスプーンは重宝していた。

 兄の右手は熊の手そのもの。接触するのも危険な生物なので、多分この手とは長い付き合いになるだろう。そういった意味でも彼専用のスプーンは用意された。ちなみに私の手作りである。

 米と肉を食べ終えた後、魚に火が通っているのを確認する。一匹だけ拝借して、残りは全て兄が平らげた。火が絶えないように薪を追加し、毛布を取り出す。

 季節は夏の終わり。特別寒いわけでもないので、兄は毛布がいらないらしい。私も大して寒くはないが、地面がゴツゴツしていて寝にくいので、緩衝材として毛布は必要だ。

 先ほど地図で確認したが、この川の先にはトモプモラと呼ばれる街がある。おそらく明日の夕刻までにはトモプモラにたどり着くだろう。

 トモプモラは元々未開の地で、山を切り開いて住居や農地を造っていった開拓地である。開拓地と言っても、もう十分発展しているらしく、他の街や都市と盛んに交易を結んでおり、市場や教会なんかもあるらしい。

 私たちは滅多に人がいる村や街には近づかないのだが、お米や干し肉、包帯も調達したいので、明日はトモプモラに向かおうと思う。

「お兄ちゃん、明日は街に入るからね。目立たないように気を付けよう」

「ぁ゛ぁ゛っぁ゛……」

 それに、この街には元々立ち寄ろうと考えていた。アイザックから旅の途中で寄った方がいいと思われる土地と、その土地にいる珍しい生物の名を、教えてもらっていた。

 あの男は信用ならないが、百種もの生物を集めてきた彼の話は貴重だ。生物図鑑にも生息地が書いてあるものと不明なものがある。アイザックの示してくれた場所が旅の行先を決める指標にもなっていた。彼から聞いた土地と生物の特徴は、全て手帳にメモしてある。

 このトモプモラでは、どうやら珍しい白黒した馬がいるらしい。きっと、先ほど図鑑で確認したシマウマに違いない。

「この街にはさっき図鑑で見たシマウマがいるらしいんだ。お兄ちゃんには声が聞こえると思うけど、人が沢山いるところで、その馬の願いを叶えちゃだめだよ」

 久しぶりに兄以外の人と接触する。そして、人通りがある街での解呪は兄の姿を見られる危険性を伴う。ばれないように私が立ち回らなくては。

「明日は人疲れするだろうし、早く休もう。おやすみ。お兄ちゃん、アルヴィン」

「ぉ゛ぁ゛ぅ゛ぃ゛……」

 私は兄の隣で毛布の上に蹲った。


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