第5話 成人


 約六年後。

 心地よい太陽の光を浴びて、目が覚める。上半身を起こすと、窓から雲一つない晴天が見え、心地よい風が部屋に入り込んでいた。


「おはようございます。坊ちゃま」


 窓と反対側のドアから愛しい声が聞こえる。数年経っても変わらず凛として美しい。一日の始まりに彼女の姿を見られることが、何よりも至福の時間だった。

「おはよう。フェリ」

「今日はどこかお出かけになられますか?」

「特に予定はないから、ずっと書斎にこもっていると思うけど。どうしたの?」

 彼女は僕の方をチラチラ見ながら、どこか照れたように言う。

「坊ちゃまの好きなクロスタータを作ろうかと思いまして……」

「え、本当に!? 僕フェリの作るクロスタータ大好きなんだよね!」

 ジャムが乗ったタルト生地のクロスタータはおやつに最適で、最近はフェリの手料理を食べていなかったので、是非とも頂きたかった。

 というのも、一年ほど前、筆頭執事ジルドと一緒に出て行ったコックーーチェロンがこの屋敷に戻ってきたのだ。料理はチェロンが担当するので、フェリの手料理を食べる機会はなくなってしまった。なので、彼女の作った菓子を食べるのは久しぶりだった。

 彼女は嬉しそうに笑って、「頑張って作りますね!」とガッツポーズをする。年上の女性にこう思うのは失礼かもしれないが、とても可愛らしい。

 そんなフェリに癒されながらベッドから下りて、用意された服を手に取ると、彼女は慌てて後ろを向いた。

 二年前からだろうか。僕がフェリの身長を超えて以来、彼女は僕が着替える時は顔を伏せたり、後ろを向くようになってしまった。少しは僕を男として見てくれているということだろうか。背を向けられても嫌な気持ちにはならなかった。

「坊ちゃま、皆様がお待ちしております」

 服を着替え終わって、ダイニングルームへと向かう。


 フェリと二人で残されたこの屋敷も随分と住人が増えた。僕、フェリ、アル、プラチド君。そして、王宮から派遣されてきた薬師アマントと騎士アレクシオス、一年前に戻ってきたコックのチェロン。合計七人。随分賑やかな大所帯になっていた。この六年の間に何度か住人の入れ替えもあったけど、ここ一年は今のメンバーで安定していた。

 先にテーブルについていた皆を見て、遅れてごめんと謝る。祖父が亡くなってからは、皆と一緒に食事をとるようにしていた。その方が食事も美味しく感じられるから。

「先に頂いていますよぉ。ティト様」

 猫背のアマントがチラリと目だけ僕に向けて言う。家の中でもフードを被るこの怪しい男は、血色が悪く、いつも顔色が悪い。一度「自分のために薬を作った方が良いんじゃない?」と言ったら、「ありとあらゆる薬を試しましたよぉ。体を治すものから、毒薬と呼ばれるものまで」と言われて戦慄した。それ以降、怖くて顔色には触れないようにしている。

 そんな調子の悪そうだけど悪くない彼に「問題ないよ」と答えて椅子に座る。

 食事に手をつけると、それを合図にしたようにアレクも食べ始めた。この律儀な忠騎士アレクシオスは僕が来るのを待っていたようで、何とも申し訳ない気分になる。

「どうしました? 変な顔して。俺の顔に何かついてますか?」

 彼、いや、彼女は鎧を纏うと男性として、脱ぐと女性として振舞う一見変わった女性だ。朝からご丁寧に鎧を身に着けている彼女は、今は完全に男モードらしい。

「別に、何もついてないよ」

 女性の時は別人のように口調が変わり、僕を弟として接する一見変わった人である。

「坊ちゃん、お口に合いますかね……?」

 男が恐る恐る僕に尋ねてくる。手の角度を変えながら合わせ続けており、不安そうに何度も何度もこちらを見る。

「美味しいよ。チェロン」

「坊ちゃまに一々感想を求めるなど図々しいですね……」

「う……っ」

 コックのチェロンは一度僕の屋敷から逃げ出した裏切り者だから、どうやらフェリは嫌っているみたいだ。だが、彼の料理は美味しいし、悪い男ではないので別に気にしない。

 というか、他の執事やギルドがひょっこりと帰ってきても、僕は受け入れるに違いなかった。僕の六年前の記憶は間違いなく幸せだったと思うから。

「あれ? フェリは食べないの?」

「私は先に頂きました。今から材料を買いに行こうと思いまして」

 彼女の言っている材料というのが、クロスタータを指していることだと理解し、僕も付いて行こうかと尋ねる。フェリは慌てて首を横に振った。

「坊ちゃまはゆっくりとお召し上がりください」

「そう? じゃあ、気を付けてね」

 フェリは「行ってきます」と言って、部屋を出ていった。隣に座っていたプラチド君が僕を小突く。美少年から見事な美青年に変貌を遂げた姿は、男ながら見惚れる姿である。しかし、この美青年の優しそうな笑顔とは裏腹に、僕に向ける言葉は厳しいものだ。

「ティト様。外に出かける時間なんてありませんよ? 今日は書斎から出しませんからね」

「監禁反対! 缶詰反対! ふふんっ。いいもんね。アルが助けてくれるもんね。ね?」

「監禁とは物騒だな」

「アルトゥーロさん、お止めください。あなたとフェリーチェさんはティト様に甘すぎるんです。私の身にもなってください!」

 すると、アマントがプラチド君に言う。

「ティト様を手なずける『催眠薬』でも用意しておこうかぁ?」

 アマントの恐ろしい発言で戦慄した僕は「そんなものは作るな!」と全力で止め、プラチド君にも「今日は書斎に缶詰めにしてください!」と逆に頼み込む始末。

 今日は書斎で息苦しい一日を過ごすことになってしまった。




ーー坊ちゃまが……っ、坊ちゃまが見つかりません……っ!


 屋敷中どこを探しても、誰に聞いても坊ちゃまの居場所が掴めない。一人で黙ってどこかに出かけるような人ではないのに。

 坊ちゃまのために作ったお菓子がお昼に出来上がり、いち早く食べてもらおうと思ったのに、書斎や部屋を探し回っても彼の姿は見つけらなかった。緊急でどこかにお出かけになったのだと思い、夕方まで待っていたのだが未だに戻ってくる様子はない。

 心配になった私は皆に坊ちゃまの居場所を尋ねたのだが、朝食を食べた後に書斎に向かってから、夕食にお呼びするまでの間、誰も彼を見ていない、どこに行ったかもわからない、と言うのだ。

 アマントは「やはり薬が必要ですねぇ」だとか、プラチドは「昨日、明日やると言ったのに……っ!」と怒っている様子を見せていて、心配しているのは私一人だけのようだ。

 

 とても嫌な予感がする。自分の心臓がいち早く坊ちゃまを、ティト様を見つけろと騒ぎ立てている。


 自分の感性に従い、一人坊ちゃまが出かけそうな場所を探しに行く。日が落ちたアルピチュアに飛び出し、坊ちゃまが行きそうな場所ーー噴水広場、孤児院、港、造船所、獄舎、会議所、別宅。

 どこを探しても、誰に聞いても知らない、見ていないと言う。

ーーもしかしたら、入れ違いに屋敷に戻っているかもしれません……っ!

 一縷の望みをかけて戻るが、彼は戻って来てはいなかった。


「おかしい、こんなこと……っ。絶対に、おかしいです……っ!」


 今まで無断外泊なんて一度もしたことがない坊ちゃまが、日が落ちて自分の部屋でお休みになるこの時間まで戻ってきていないなど、何かあったに違いない。流石に皆もおかしいと思い始めたのか、プラチドが皆を集めて話し合い始めた。

「皆さん。ティト様を最後に見たのはいつです?」

 皆、坊ちゃまの姿を朝食でしか見ていないと言う。私はこの場にいる一番怪しい二人を睨みつけた。

「まさか、あなたたち……。坊ちゃまを主人のもとに連れて行ったりしてませんよね……?」

「そんなまさか。四年も近く一緒に過ごしてきたんだよぉ? アレクに関しては五年も。最初はどうしてこんな田舎に来なきゃいけないのかと不平不満を口にしたけどさぁ、今は結構気に入ってるし。この都市もティト様も」

「右に同じだ」

 どう取り繕おうが、一番怪しいのは王宮から派遣されてきたこの二人だった。約六年前、ティト様はマリーナ国の王女ーーラウラ様と婚約された。婚約破棄されるという約束のもと、交わされた婚約ではあったが、坊ちゃまの身の危険を守るためという名目でこの二人はこの屋敷に派遣されてきたのだ。

 この数年間で坊ちゃまが命の危険を伴う場面は何度かあり、その際、彼らは私たちと共に坊ちゃまを助けてくれていた。だが、この二人は相手方と手を組んで演じていたという可能性だってあり得る。今一番疑わしいのは彼らに違いなかった。

 咳払いをしたプラチドは言う。

「ティト様を連れ去った人物は二通り考えられます。一つ目はティト様の婚約に関わる人物、二つ目はティト様を領主にさせたくない人物。ティト様は明後日、十六歳の誕生日を迎えられ、成人する予定になっています。つまり、結婚できる年齢であり、この都市の領主にもなれる年齢になるということ。前者は王宮に連れ去られた可能性が高いですが、後者は特定が難しく大変厄介です。領主になりたい者、又はティト様に領主になっては困る方が彼を攫ったと考えられますが、正直言って思い当たる人物が多すぎます」

「どうせ、王宮に連れて行かれたに決まってます!」

 早く行動しなければという焦りが、語気を強める。もし、手遅れになったら彼は結婚させられてしまうのかもしれないのだから。

 プラチドは今の時点では判断がつかないなどと言っている。情報が少なくて断定はできないと言っている。そんな呑気なことを言っていたら、手遅れになってしまう。

「二通りの可能性があるなら、私は王宮へ行きます。プラチドさんは後者に当てはまる方を探してください!」

「フェリーチェさん、少し落ち着いてください!」

 興奮している私を落ち着かせようと、手を伸ばしてきたプラチド。私は弾くようにその手を振り払う。彼が連れ去った犯人とは思わないが、彼に対しても不満はあった。そもそも彼のせいなのだ。

「落ち着いてなどいられますかっ! 坊ちゃまが、坊ちゃまが結婚させられるかもしれないのですよっ!? わたしの……っ、ティト様が……っ! ……っ。坊ちゃまに……、ラウラ様と婚約するように、唆したあなたに落ち着けなどと……ふざけたことを言われたくありませんっ!」

 息が乱れて、呼吸するたびに胸が上下する。自分が激昂していることは分かっているが、自分ではとても制御できそうにない。

「……わかりました。二手に分かれましょう。王宮から派遣された二人はばらけさせます。いいですね?」

「まぁ、疑われるのも仕方ないねぇ。別にいいよ」

「あぁ」

「では、フェリーチェさんとアレクシオスさん、アルトゥーロさんは王宮へ。アマントさん、チェロンさんは僕とティト様の領主就任を阻止しようとしている人物を探しだし、ティト様を見つけましょう」

「屋敷に残る奴もいた方がいいんじゃ……?」

 チェロンの言葉に頷いたプラチドは、チェロンに屋敷に残るように指示する。

 チェロンは事なかれ主義で、我が身可愛さに彼は行動しない。やはり、この男を屋敷に迎え入れるべきではなかったかもしれない。坊ちゃまのために行動する気がない男など追い出してしまいたい。

 苛立っている私にプラチドが話しかける。

「フェリーチェさん。仮とは言えど、ティト様はラウラ様の婚約者。その彼を連れ出すということは、剣を取って戦う必要があるかもしれません。アルトゥーロさんとアレクシオスさんは力になるとは思いますが、敵地に飛び込むのですから、くれぐれもお気をつけください」

 私はプラチド君の言葉に頷き、彼の指示のもと、内陸側に用意されている馬小屋に赴いた。



 領主を狙う存在と言ったが、どうにも証拠が見つからないため、犯人を探し出す方法がない。ティト様を誘拐する可能性がある人物として考えられる可能性が高いのは、やはり代表者達だろう。六年間に渡り、ティト様と過ごしてきたが、代表者の中で表向きにティト様の就任を邪魔しようとしている人物はいない。

 しかし、ティト様の領主候補継続が決まった際、手を上げなかった人物は三人ほどいたと聞いている。元帥セヴェーロ様、領民代表アブラーモ様、財務大臣のガスパロ様。怪しむべきはこの三人かもしれないが、その会議から六年近くは経っている。

 この数年間の間に、ティト様は法の整備を行ったり、水神祭を三年から一年に一度へと切り替えたりもした。そのおかげで他国、他都市から来る人々も増え、アルピチュアの経済をより活性化し、都市として発展したのは間違いない。

 それらはティト様の領主候補継続に賛成した、司祭のフラミニオ様、最高裁長官のジュスティーナ様にとって好ましくなかったかもしれない。いや、疎ましくすら思っているかも。


 どうしても犯人を絞り込むことが出来ない。


 頭を悩ませていると、アマントが緊張感のない声で言った。

「怒らないで聞いてくれるぅ?」

 その発言の違和感に首を傾げたが、彼の意見を聞きたくて首を縦に振った。

「おれ、結構長く王宮にいたから、陰謀の香りには鼻が利くんだよねぇ……。実はたまーに、書斎にある申請書とか読ませてもらってたんだけどさぁ」

「な、何ですってーー!?」

「まぁまぁ。聞いて。そこでチラッと見えた文字がどうも気になっちゃってさぁ。おれ薬師だからさぁ、『蛇』って言葉に反応しちゃうんだよねぇ。『蛇』は毒を持つよねぇ。おれはその毒をもらったりするもんで、『蛇』さんにはね、よぉくお世話になるんです。でね、どうも、臭うんだよねぇ。代表者の方々で、何て言ったっけ……、あの派手な服を着て、たまーにうちに来る人」

 アマントの言いたいことが分かり、そのあり得ぬ疑いにカッと顔が熱くなった。


「アロンツォ様が怪しいというのですか!? 無礼者っ! そんなわけないでしょう!!」


 怒り心頭の私を気にせずに、彼は自分の見解を述べていく。

「でも怪しくない? 『蛇』の名前を出す犯罪者は、奴隷商人だったり、他国の者だったり、海兵だったり。度々他国と行き来している彼は、怪しいと思うんだけどなぁ。っま、これはおれの考察でしかないので、ご参考にするかはご勝手に」

「おかしなことを言わないでくださいっ……っ! 私は代表者の方々が怪しい行動をしていないか尋ねて回ります。付いてくるならどうぞご勝手に!」

「あーあ……。怒らないでって言ったのになぁ……」



 僕は豪勢な部屋の中で、机の周りをグルグルと回りながら焦っていた。


ーーなぜ、なぜこうなった……!?


 自分に起こった出来事を一生懸命に思い出す。うんうん唸って記憶を辿る。

 皆と朝食を共にした後、書斎に移動した僕は昨日捌き切れなかった申請書を眺めていた。ドアをノックされたが誰も入ってくる様子はなく、不審に思って廊下を覗くが誰もいない。「何だったんだろう?」とドアを閉めようとした時、何者かに薬品の匂いがする布を嗅がされ、意識を失い、気が付くとこの部屋にいた。

 今が連れ去られた当日なのか、そうでないのかもはっきりと分からない。

「……流石に四年は一緒にいるし、今更……」

 仲間を疑うなんてとんでもない。たしかに、彼がこの家に来てから何度か殺されかけたこともあるが、それは最初の一年目の話。まぁ、それ以降もあったにはあったのだが、殺される以上に助けられているのだ。彼ではない、……はず。

「とりあえず、今は現状を把握しよう」

 いくら扉をノックしても叩いても返事はない。成長したといえども武の心得がない僕には、目の前のドアは壊せそうにもなかった。周りに猛々しい者が多すぎて、体を鍛える必要はないと判断した自分を憎らしく思う。

 窓からは大層立派なバラ園が見え、遠くを見つめても海は見えない。どうやらここは最上階らしく、地面との距離がかなりある。いつかの水神祭で崖から飛び降りた時のことを思い出しゾッとした。

 部屋の内装ははやけに豪華な造りで、何気なく置いてある小物のデザインが、やたらにこだわり抜かれている。家具一つとってもどれも一級品で、眩しいほどキラキラして金の装飾があしらわれてある。

 今自分がいる場所の見当がついてきて、心底嫌な予感がしていた。


 おそらくここは、王宮に違いない。


 では、なぜ、僕が王宮に連れてこられたのか。僕が王宮に連れてこられた理由。考えられる理由は一つしかない。


「嘘だよね……っ? 違うよね……!?」


 頭を抱えている僕のもとに、やっと固く閉じられたドアが開く。

 そこにいたのは記憶とは異なる、楚々としてこちらを見つめる女性。どこか気まずそうに目を逸らした彼女は、見違えるほどに奥ゆかしい女性に変貌を遂げていた。

 そんな彼女を見て、僕の口からは乾いた笑い声しか出てこなかった。



 三頭の馬を借り、三人で丸一日ほどかかるという王都へと向かう。

 馬に乗るなど何年振りか。乗り慣れていないためにスピードが出せず、一刻も早くティト様に会いたいのに何もかも上手くいかない。

 体を上下左右に揺られながら、前を進む二人についていく。

 夜のうちに出発したかったのだが、慣れない者が夜道に、しかも山道で馬に乗ることは危険だと止められ、早朝から王宮に向かうことになった。

 あぁ、どうしてこんなにも、何もかも上手くいかないのだろう。


ーーティト様……っ。

 

 嫌なことが起こる時は、不運なことにいくつもそれが重なってしまう。先日起こった大雨のせいで、王宮に向かう道中にある橋が崩れ落ちていた。

「これは遠回りするしかないです」

 分かり切ったことを言うアレクシオス。アルトゥーロが尋ねる。

「下まで降りて直接渡れないのか?」

 アレクシオスはその言葉に首を横に振った。

 見た目よりこの川の水深は深く、流れが速い。足を滑らせて流されればひとたまりもないから遠回りするのが無難だと言う。

「どのくらいの遠回りですか? 王宮に着くのはどれくらい遅れますか?」

「一刻ほど。今日中には王宮に着くはず」

「……っ」

 苛立ちを抑え込み、指示に従う。沈黙の中しばらく進んでいると、遠回りした先にアレクシオスと同じ鎧を着た二人の騎士が橋の前に立っていた。

「どうしてあんな所に騎士がいるんです?」

 アレクシオスも分からないと言う。彼らが着ている鎧は王家直属の騎士にしか配られないらしい。その鎧を身に纏っている騎士が、この何でもない山中に立っていることにアレクシオスさえ戸惑っていた。

 アレクシオスの言葉を聞いて、アルトゥーロと視線が交わる。間違いない。坊ちゃまは王宮に連れ去られたのだ。

「仲間を討つ覚悟はあるのか?」

 アルトゥーロの言葉にアレクシオスは答える。

「……今の俺はティト様に忠誠を捧げている」

 アレクシオスの力強い言葉に疑いの余地はない。彼らの忠義はこの目で長らく見てきたのだから。気が動転していたとはいえ、彼らに疑いの目を向けたのは間違いだったかもしれないと自分を恥じた。

 橋の前に立つ騎士に近づくと止まるように言われる。アレクシオスが紋章を見せても、二人の騎士はここは何人も通せないと言う。

「通せぬと言うのであれば、力づくで通していただきます」

「ふははっ。何をイキがっているメイドの分際で。バカなことを言っていないで、さっさと元来た道を戻れ」

 誰の許可を得て、私とティト様を引き離そうとしているか。怒りに全身が震えた私は馬から降り、剣を抜く。

「こいつ、本当のバカかっ!? ってか、なんでメイドが剣をぶら下げてんだよ。おい、そこの騎士! コイツを止めないと国家反逆罪だぞ!」

 目の前の騎士が剣を抜こうとした瞬間、その動きに合わせ、男の剣のガードに己の剣を引っ掻けるように打つける。抜き取ろうとした勢いを使って相手の剣を宙へ飛ばし、川の中に落とす。武器を失った騎士の首元に剣先を向ける。

「お命頂戴いたします」

「ヒッ……っ!」

 そのまま喉元に突き刺そうとすると、アルに腕を掴まれ止められる。


「ティトはそれを望まない」

「……」


 沈黙の後、剣を下げると、騎士はズルズルと地面に沈んでいき、もう一人は「おい、待て。やめろ!」と両手を上げた。

「勘弁してくれ! 俺らは雇われ騎士なんだ! メイドがこんなに強いなんて聞いてないぞ……っ!」

 王宮騎士とはこんなにも情けない者たちなのか。自分一人でも殲滅できそうだと思いながら剣を鞘に収める。

 アレクシオスの方を振り返り、彼らの鎧を見比べる。やはり同じものだった。

「アレクシオス。この鎧は王宮内の騎士も身に着けているのですか?」

 彼が頷いたのを見て、目の前の雇われ騎士に言った。

「その鎧を脱ぎなさい」



 ティト様が行方不明だと言うことは隠して、代表者の回りを探っているのだが、怪しい素振りは見せる者はいない。街を歩き回っている中、目を光らせても怪しい人物は見当たらない。

 次に話を聞くべき相手は元帥のセヴェーロ様。正直言って彼が一番怪しい。親子共々ティト様に敵意があるようだし、事情は知らないが「私怨があるのですよ」とアロンツォ様に聞かされたことがある。その恨みはティト様に対するものなのか、フィガロ家に対するものか定かではないが、彼を嫌っていると言うことだけはハッキリしていた。

 それに軍基地は兵しか立ち入ることが許されていない。兵以外でその場に立ち入ることが出来るのは、死刑執行時の犯罪者くらいだ。ティト様を拉致して匿うには絶好の場所のはず。

 状況的には一番怪しい人物だが、心のどこかで彼は違うだろうと判断していた。彼は法令を遵守する。罪を犯すことを極端に嫌っている節があった。それは、恐らく自分の行動にも当てはめているはず。そう考えると、逆に一番怪しくない人物に思えてしまう。

 ため息をついて、黙って後ろについてくるアマントに、今まで尋ねて回った二人の中で怪しい人物がいないかどうか尋ねる。

「いや、特には」

 私も彼と同意見だった。それに彼はアロンツォ様を疑っている。

「……」

 アマントが言ったことを信じるわけではない。しかし、今、怪しいと思われる代表者の中で、本人の所在すら分からないのはアロンツォ様だけ。

 頭を振って自分の頭に浮かんでいる仮説を振り払う。でもどれだけ振り払っても消えてはくれない。

 彼は今隣国のアムールへ赴いている最中。そんな彼がティト様を誘拐なんてできるはずがない。アロンツォ様は自由を愛する方なので、特定の部下など持たない。僕が彼の下で長く働けたのは例外と言っても過言ではない。

 しかし、それは彼がティト様を連れ去っていない理由にはならない。使い捨ての駒を使ってティト様を誘拐し、本当はアムールではなく、アルピチュアに残っていたのなら。


「いいや、違う……っ!」


 アロンツォ様がそんなことするわけがない。彼はティト様の後見人にまでなった人物だ。ティト様を支えることはあっても蹴落とすことなんてないはず。疑わしい人物は他にもいる。だがーー


 どうしても疑いを打ち消すことが出来ない。


 胸中渦巻くどす黒い雨雲を晴らそうと、行先を方向転換する。

「どこに向かってるの?」

「港に行きます」

 この一カ月、アムールに出かけてからアロンツォ様の姿は見ていない。屋敷にも戻った様子はなかった。

 もし、仮に彼がこのアルピチュアに留まっているというのなら、船の中しかない。港に向かうのは彼の無実を確信するため。

 後ろを付いてきているアマントのことなど忘れて、僕の足はいつもより早く回転していく。


 カンカンカンカンッッ!!


 急にけたたましい鐘の音が打ち鳴らされる。領民が叫び、走り回っている。鐘のもとに向かい、打ち鳴らす者に向かって叫ぶ。

「一体何が起こっているんですか!?」

「敵襲です!!」

「そんな……っ! それは事実なんですかっ!?」

「許可のない十数隻の船がアルピチュアの警戒領域に侵入したらしいです! 詳しいことは分かりません!」

「……くっ!」


ーーこんな、ティト様がいない時に……っ!


 アマントと急いで港に向かい、見張り台から海を見渡す。間違いない。たしかに十数隻の武装した船がアルピチュアに迫ってきていた。目視で確認できるほどの距離まで近づき、隣国アムールの旗を掲げた大きな船たち。

 そして、その巨大な船が並んでいる中で、一隻だけ異質な商船があった。その見覚えのある船は、周りの船とは異なる旗を掲げている。その旗はーー


「アロンツォ……さま……?」


 自分の喉元が閉まりカヒュッと音が鳴る。ダラリと腕が下がる。力が抜ける。

 水平線に並んだおかしな、理解しがたい状況をただ見つめることしかできない。周りの音も拾えなくなり、ただ一隻の船を見つめる。


ーーどうして……?


 アマントに体を揺すられて、辛うじて正気に戻る。

「下で元帥が呼んでるよ」

 見張り台から下りると、重々しい雰囲気を放つ元帥と、その息子が私を待っていた。

「領主候補はどこにいる?」

「ティト様は……っ! ……っ、今、……は、どこにいるか、わかりません……」

 眉を顰めながらこちらをみるセヴェーロ様。しばらく沈黙した後に、口を開いた。

「……水平線に見えるのは武装した敵船だ。この場は元帥である私に任せてもらうぞ。今は大人しくしているようだが、この都市を脅かす存在は全て海の藻屑にしてやる」

「元帥! 一隻こちらに近づいております!」

「何ーー!?」

 一隻の商船が他の船を残し、こちらに近づいてきている。そして、一定の距離で止まった。軍に指示を出そうとしている元帥を止める。

「ちょっと待ってください! あの船はアロンツォ様の船です! 何か、何か伝えたいことがあるのかもしれません!」

「アロンツォだと……!?」

 セヴェーロ様は鬼の形相をして私を見る。

「私が行きます! 小舟でいいので、少し時間をください!」


 手漕ぎの船を出し、師の船を目指して進む。

「お、おれは、こ、こういうの、向いてないん……っ、だけどなぁ……っ。うわっ!」

 文句を言いながらアマントは舟を漕ぐ。川とは違って波がある海は漕ぎにくいのは間違いなく、彼がこういった力仕事が苦手なのは重々分かっていた。それでも私たちは目標の船を目指すしかない。

 そして、ようやく目的地まで辿り着いた。名を名乗り、上にあげてもらうように頼むのだが、返答はなく、今一番話したい相手は姿も現さない。代わりに、封蝋で留めてある一枚の書状が投げられた。そこに記載されていたのは、


『アルピチュア領主との交渉の場を用意せよ。明日の日没まで返事を待つ。用意出来なければ水の都が沈むと思え』


 その文言のすぐ下に記されたサイン。


 信じられない気持ちで、私たちから離れていく、師であった商船の姿を見つめた。



 ラウラ様と護衛に連れられた部屋。

 そこには髭を立派に生やした貫禄ある男性が奥に座っていた。どう考えても只者ではない、押し潰されてしまうのではないかと思えるほどの重圧。美しいラウラ様とは似ては似つかないほどの厳めしい姿。

 挨拶を交わし、間違いなく目の前の男性がラウラ様のお父様であり、マリーナ国の国王ーーアルド・エリオ・ステファノだと知る。


 王族二人と共に食卓を頂く胸中はいかに。

 

 意識を飛ばしかけ、白目をむきそうになる。三人で食卓を囲み、僕らの近くにはいつか彼女と一緒に水神祭に来ていた二人の護衛の姿があった。 

「えっと……、聞いても良いですかね……? 僕、自分からここに来た覚えはなくて、目を覚ますと王宮にいたんですが……。あはは、やっぱり、夢か何かですかね?」

 僕の言葉を聞いてアルド王は笑った。

「何を言っておる。夢ではない。お前は自分の足でここにやって来たのだろう? なぁ、ラウラ」

「ええ。お父様」


ーー今、なんて言った……っ!? 

 

 僕は傍に立っているオッタヴィアを見るが、彼女は目を合わせてくれない。

 間違いない。僕を連れてきたのは彼女たちだ。彼女たちが何を考えているかは分からないが、王様は僕が自らの意志で王宮に来ていないことを知らない。

「お、アルド王! 凄く言いにくいことなんですが、僕とラウラ様は結婚する気はなーー」


 ドンッ! ガシャンッ。カランカラン……。


 テーブルに載っていた皿からスープがこぼれ、端にあったナイフやフォークがいくつか床に落ちる。くるくると回ってそして止まる。

 拳をテーブルに打ちつけたのは王様だった。 

「ティト君。何か、言ったかね?」

「あ……っ、いえ……」


ーーこ、こわいよぉおぉおおっ! 王様の威嚇こわいよぉおおっ!


 アルよりがたいがいい男など数人ほどしか見たことがない。地位も、男としても、アルド王は格上。アリ程度の小さな僕は、きっと彼に気付かれずに踏みつぶされるような存在だ。

「君は明日十六歳を迎えるだと聞いたぞ。やっと、娘の花嫁姿が見れるな。がははははっ」

 低い笑い声が部屋を支配する。ラウラ様まで笑って、上品に口元を手で隠している。四方八方が敵で、目の前のごちそうは喉を通らない。食す気も起こらない。

「ティト君は小食だな。もっと食べなさい。ラウラより食べてないんじゃないか?」

「えっと、緊張してて……。どうにも、食欲が」

「そうかそうか。我が娘ラウラと結婚するのだから、無理もあるまい。明日のためにも早く部屋で休むといい」

 アルド王の言った『明日のため』という言葉が気になり、遠慮がちに尋ねる。

「『明日のため』とは一体、何のことでしょう……? せ、成人になることを祝ってもらえるということでしょうか……?」

 王様は僕の言葉に目を見開いた後、また大笑いした。内臓まで響いてくるようなその笑い声は、僕を弱らせるには十分な威力がある。

「それももちろん含んでいるが、何よりもまず二人の結婚を祝わなければならないだろう。朝は挙式を挙げて、昼から夜まで披露宴だ」

 口元を手で押さえた。


ーー何を言っているんだ、この男は。明日は結婚式だと……?


 ラウラ様はこちらを見ない。アルド王は僕を真っ直ぐ見つめている。どうにも耐えられなくて、気分が悪いので退席を伝える。

「オッタヴィア、部屋まで連れて行ってやれ」

「かしこまりました」

 全く目を合わせてくれないオッタヴィアに、先程まで閉じ込められていた部屋まで連れて行かれる。ドアが閉まった瞬間、僕はオッタヴィアを問いただした。

「これは一体どういうことですか!? 結婚はしない、婚約は破棄する約束だったじゃないですか!?」

「も、申し訳ありません! ティト様! これには深い事情が……っ!」

「深い事情なんて知らないよっ! 早く、どういうことか説明して、僕を解放してよっ!」

「ティト様、もう少しお待ちください……っ。ラウラ様の話を聞いてあげてください! 直接ご説明しにこの部屋を窺いますのでっ。どうか、どうかお気を静めて!」


ーー結婚しなきゃいけないだなんて、聞いていない……っ!


 頭を掻きむしりながら、数年前に彼女と契約を交わしてしまった自分を恨む。どうしてフェリの言うように断らなかったのかと、過去の自分を責める。

 あの日、僕は二人の女性と婚約した。結ばれる予定ではなかった人物と結婚して、結婚したい人物と結ばれないなんて。


「フェリ……っ! 僕は……っ」


 しばらくして、遠慮がちにドアが叩かれる。返事もなしに開かれたドアから、ラウラ様と二人の護衛が入ってきた。

「……ごめんなさい。ティト様」

 いくら相手が王女様だと言っても、この状況は許しがたい。説明もなしに連れ去られ、部屋に監禁され、出されたと思ったら明日結婚するのだと聞かされたのだから。

「どうして、僕を捕まえたの?」

「私……、その……っ!」

 いくら続きを待っても彼女は何も言わない。オッタヴィアが彼女の背中を摩るが彼女は黙ったままで、見かねたオッタヴィアが代わりに言った。

「ラウラ様は結婚相手を見つけることができなかったのです……」

「だから何? そうだとしても婚約破棄する約束だったでしょ? この状況は何なの? 何がしたいの!?」

「もし、ラウラ様がティト様と婚約破棄しようものなら、「隣国の王子と結婚させる」とアルド王に脅されたのです。ラウラ様は悩みに悩んで、苦しくもこのご決断をなされたのでございます……」

「そ、そんなの知らないよ!」

 王女様に甘すぎる護衛オッタヴィアは、「責めないであげてください」と許しを乞う。そして、ラウラ様に「ご自身で気持ちを伝えるのです」と励まし続けている。その様子をもう一人の護衛マッティアは黙って見守っていた。そして、ラウラ様はもう一度、たどたどしくも口を開いた。

「わ、私は……っ! ……たいっ、の……です……っ!」

 どもりながら話すラウラ様の言葉聞き取れず、もう一度聞き返す。


「わ、私はっ! ……っ! ……ティ……。マッティアと、添い遂げたいのです……っ!」

「「「え?」」」


 名前を呼ばれた方の護衛を見る。寡黙そうな彼は真っ直ぐ僕を見つめている。オッタヴィアは手で顔を覆っている。


 いや、一体どういうことーー!?


 僕だけが状況を飲み込めずにポカンとしていると、ラウラ様は続けた。

「私、この六年間必死で結婚相手を探しましたわ……。数々の美少年とお話をして、手を繋ぎ、結婚の約束しました。……しかし、彼らは私が王女だと知ると皆逃げてしまうのです。悲しみに明け暮れている中、私はふと気が付きました……。王女だと知りつつも、私を受け入れてくれた、……っ、てぃ……っ、マッティアのことをっ!」

 ラウラ様は感極まりながら、嗚咽を混じらせながら話す。

「……ティ、マッティアはっ、決して美少年では、ありません……っ。美青年でも、イケメンっでもない……。しかし、わ、私は……っ! うぅ……っ。ど、どうしてぇ……っ」

 それはこちらのセリフである。

 一人置いて行かれながら、オッタヴィアを見ると、彼女まで目元に手を当てている。泣き崩れているラウラ様の代わりに、オッタヴィアは涙を振り払った。

「ティト様。婚約は解消できません!」

「え? なんで? ラウラ様はマッティアさんが好きなんでしょ? 僕と結婚するのおかしいよね? おかしくない?」

「……おかしくありません。ラウラ様はマッティアが好きなのです! あなたなら、ラウラ様がマッティアとイチャイチャしても何も思わないでしょう? 彼らの隠れ蓑になっていただけませんか?」


ーーはぁ~~~っっ!?!? これが深い事情なの!? いい加減にしてほしい!


「なるわけないでしょ!? 早く、僕をここから出して!」

「……残念ですが、あなたはここから出しません。明日の結婚式が終わったら、アルピチュアに戻ってもらっても構いませんから! ね、ラウラ様……?」

 ラウラ様はオッタヴィアの言葉に頷いた。なんて我儘な王女様なのか。オッタヴィアは「明日はよろしくお願いしますね!」と言って、ラウラ様を連れて部屋を出ていく。その後ろを今日一言も喋らなかったマッティアも続いていく。僕は一人部屋に残されてしまった。


ーーありえない……っ、ありえないよ……っ! こんなところにはいられない!


 僕はもう一度窓から顔を出す。高所恐怖症だが怯えてなどいられない。

 取り付けられていたカーテンを全て外し、ベッドのシーツを合わせて結び合わせていく。最後にもう一結びで完成するというところに、なぜかマッティアが部屋を尋ねに来た。

「え……?」

「あ……?」



 鎧をつけた状態で馬に乗るのはかなり動きにくいが、文句は言ってられない。今日中に到着すると言ったアレクシオスの言葉は正しかったが、王都に着いたのは深夜だった。

「早く王宮まで案内してください」

 急かす私に応えてアレクシオスは道を進んでいく。暗闇の中、出歩くものは一人もいない。馬から降りた今、自分たちの甲冑が重なり合う音だけが響いていた。

「王宮内の騎士は先ほど戦った者たちとは比べ物にならないほど強いです。なので、戦いは絶対に避けてください。騒ぎを起こせば、強固な警備体制が一週間は続きます」

「つまり、見つかるなと言うことだな」

 アルトゥーロの言葉にアレクシオスは頷いた。結構な距離を歩いて、前を歩いていたアレクシオスの足が止まった。

 柵から見える薔薇の園、中央にある大きな噴水。そして、その後ろに一体どのくらいの人数が住んでいるのか予想もできない大きな宮殿があった。

「ティト様がいそうな場所はどこですか?」

「おそらく、あそこです」

 彼が指し示したのは建物の最上階の中央から少し右。中央に国王と王妃、左手に王子や王女がいるのだと言う。

「国王の性格から考えて、おそらく明日結婚式が取り行われます。場所は王宮のすぐ隣に設けられている教会。警備の厳しい王宮に今すぐ乗り込むより、明日タイミングを見計らって教会で奪還する方が賢明です」

「……っ」

 心情としては今すぐティト様を取り戻したい。もし、明日、少しでもミスをすればティト様と王女様は、神の下で誓いを立ててしまうことになるだろう。

 止まっているのに、カタカタと私から音が立っている。息も上手く吸えない。唇までもが震えていた。すると、ふいに肩に手が乗せられて音が止む。アルトゥーロの大きな手だった。


「俺に考えがある」



ーーだ、誰も、助けに来てくれない……っ!


 一睡もできない状態で夜を明かす。てっきり夜中に屋敷の皆が僕を助け出してくれると思っていたのに、この部屋を訪ねてくる者は誰一人いなかった。いや、正確には一人だけいた。なぜか壁を背にこの部屋に居座り続けているマッティアだ。

 実は僕が脱出のためのロープを作っていたところ、ノックもなく入ってきたこの男。彼はただ僕を見つめるだけで何も言ってはこなかった。

 ビビりながらも作業を続け、窓にそのロープを投げても彼は何も言わない。耐え切れなくなったのは僕の方で「何か言ってよ!!」と叫ぶと、「え、あぁ……。危ないと思う……」と何とも肩透かしな返事。チラチラとマッティアを警戒しながら、何とかギリギリ下まで届いたように見えるロープに手をかけ、足をかける。「ぼ、僕、逃げるからねっ! ま、マッティアさんがラウラ様と結婚すればいいと思うよ」と助言を残し、恐怖の懸垂下降を開始した。順調に降下していたと思われたその時ーー!

 不運なことに足元の結び目が解け、手だけで体重を支えなければならないという絶体絶命の状況に陥る。絶叫しながら、マッティアに助けを求め、なんとか救い出された。

 それから僕は大人しくなり、無口なマッティアに「逃がしてほしいです……」と言い続けたが、彼が僕を逃がしてくれることはなく、屋敷の皆に助けられることもなく、朝を迎えてしまったという状況である。

 コンコンコン。

 期待を込めた寝不足な目をドアに向けると、現れたのは王宮のメイド達。僕の愛する人の服によく似ているのだが、彼女たちはお呼びでない。

 しかし、彼女たちは僕に用があるようで、ズカズカと部屋に遠慮なく入ってきて、テキパキと僕の身を身奇麗に整えて行く。寝ぼけ眼な僕にワインを飲ませ、子供じゃないのに、服を脱がされて、体を拭かれ、服を着せられ、髪を整えられる。

 彼女たちの手によって、似合うはずがないと思っていた白いチュニックを身に纏わされる。首からかけている胸元のジャボは、ヒラヒラしていてどうにも落ち着かない。彼女たちの手が全て離れた頃には、僕の見た目は王子のような風貌に変身していた。


ーーあぁ……どうして、あの時フェリーチェの言うことを聞かなかったのだろう……。


 今更どうしようもないことを嘆き、今この場にいない彼女を想う。現実を受け入れられないまま、一人部屋に残され、項垂れていると、オッタヴィアが僕を迎えに来た。

「あのぉ……。逃してくれません?」

「……申し訳ありません」

 こちらの護衛も僕を逃がしてくれないらしい。この王宮には誰一人僕の味方はいなかった。

「僕、結婚を約束している人がいるんです。あっ、ラウラ様じゃないですよ。僕の家に住んでいるメイドを覚えていますか? 彼女のことです」

「……それは身分違いでは?」

「そんなこと気にしません。そもそも僕と王女様だって、身分違いじゃないですか」

 そう言うと、彼女は黙ってしまった。

「ラウラ様と僕はお互い同じような立場なのに、こんなにも考え方は違うんですね。僕は誰がなんと言おうと、結婚するのは好きな人としかしたくありません。六年前は彼女も僕と同じ気持ちだったはずなのに……」

「……お止めください、ティト様。あなたが何を言っても、私はあなたを逃すことはありませんよ」

 この護衛には同情作戦は効かないらしい。諦めずに続けても彼女は逃がしてくれず、徐々に返事もしなくなった。


 王宮を連れ出され、教会に連れてこられる。着飾った女性や男性の姿を見て、何が嬉しいのかこちらに笑いかけてくる。この場を楽しんでいないのは、僕一人だけ。


ーーいよいよ覚悟を決める時が来たのかもしれない……。


 オッタヴィアに頼まずとも一人で逃げ出すことはできるが、身体能力が高くない僕がすぐに捕まってしまうのは目に見えている。僕はこの赤い絨毯を周りの者から望まれるように進むしかない。

 しばらく祭壇の前に立たされると、真っ白なウェディングドレスを着た王女様が現れる。その姿を見て呼吸を忘れる。


ーーあぁ……。なんて、酷い……彼女への裏切り行為だろう。


 自らが望む相手でなくとも、その純白のドレスを身に纏う花嫁は美しく、その姿に息を飲む。

 先ほどまでフェリーチェに何と詫びようかずっと考えていたのに、その姿に目を奪われてしまう。白い衣が彼女と一体化するように、天使、いや女神のような美々しさに、感嘆の声が漏れる。

 あんなにも今の状況を恨んだのにもかかわらず、天に昇るような、満ち足りた気分さえ感じている。きっと、朝一番に飲まされたワインに毒が入っていたに違いない。

 神父の声が響いている。低くて耳馴染みのいい声が、一睡もしていない僕の頭をぼんやりとさせる。今更効き始めた毒が、ラウラ様の姿に目を奪わせているのだ。


「誓いのキスを」


 なぜ、フェリーチェとキスをしなかったのだろう。これが初めてではなかったら、少しは割り切れていたかもしれないのに。


 神父が咳払いをする。いつの間に騒がしかった教会内は静まり返っていて、知らぬうちに皆の視線がこちらに集まっていた。


 どうか、お願いだから。情けなくも、頼むから。

 フェリーチェ。

 どうか僕を助けに来てくれないだろうか。


「誓いのキスを」


 神父に急かされ、彼女の顔を隠しているベールに触れる。


 これを捲ったら、ラウラ様にキスをしなければならない。

 これを捲ったら、フェリーチェを諦めなければならない。

 これを捲ったら、僕はーー


「ーーっ!?」


 花嫁は動かない花婿に痺れを切らしたように、

 一歩前に出て、自らベールを潜り、姿を現す。



 そして、躊躇いなく僕に誓いのキスをした。

 目を見開いて、なすがままにキスを、唇を、心を奪われる。



 時が止まったような感覚は次第に薄れ、段々と拍手の音が耳まで届いてくる。ゆっくりと唇が離れ、彼女はそのまま肩に顔を埋めるようにして耳元で囁いた。


「私を抱いてこの場を退場してください」


 放心状態の僕に彼女は言う。僕が彼女より非力なことを知っていながら、この手で自分の体を抱けと言う。それが何よりも嬉しくて、躊躇いなく彼女を抱き抱えて、ワッと歓声が上がる。


ーー自分でもおかしいと思う。夢だと疑ってしまう。


 囁いた声が彼女の声に聞こえたのも、

 僕が彼女を抱いているのも、

 彼女がフェリーチェに見えるのも。


 足が軽いのは寝ていないせいか、それとも僕もそれなりに力が付いたということか。夢心地でこの場を去ろうとすると、目の前のドアが勢いよく開かれる。そして突然現れた騎士は言った。


「その花嫁は偽物です!」


 その言葉を皮切りに教会内に控えていた騎士が僕たちを取り囲む。花嫁が僕の腕から零れ落ちる。僕の王子様みたいな花嫁はベールを全て脱ぎ去り、足元に忍ばせていたのか小型ナイフを取り出す。

 流石にそれで戦うのは無理だろうと思い止めようとすると、彼女は僕に巻き付くように背後に回って、喉元にナイフを突き立てた。情けない悲鳴を上げた僕に、彼女は再び小さく囁く。

「絶対傷つけませんから大人しくしてください」

 僕の了承を確認して、彼女はまるで海賊みたいな物言いで僕を人質として扱う。

「花婿の命が惜しくば、道を開けろ!」

 ここは合わせるしかないため、僕も悲鳴を上げて助けを求める。周りがざわつき始め、騎士たちも道を開けた時、開かれていたドアの方からオッタヴィアが現れた。彼女はこちらを指して、大声を上げる。

「その女はティト様の配下のものだ! 騙されるな!」


ーーこの裏切り者め……っ!


 騎士たちが剣を取り出し、こちらに迫ってくる。フェリはナイフを取り出した時と同じように、足元から契約書を取り出す。あれはーー!


「こちらはラウラ様がティト様と婚約を交わす時に、署名した契約書です! ここに、二人の婚約は破棄されると、キチンと明記されています!」


 近くの騎士にそれを渡し、そのまま王のもとに届けられる。アルド王はそれを確認することなく、契約書を破り捨てる。

「くだらんっ! こんなものは捨ておけ! 早く捕まえろ!」

 その時、教会の外から叫び声が聞こえた。皆の注意はそちらに行き、騎士が一人慌ただしく教会の中に入ってくる。

「騎士が一人暴れております!」

「な、何ーー!? なぜ、騎士が!?」


「アレクシオス様です!」


 その言葉に皆が動揺した一瞬を見逃さず、フェリは目の前の騎士を倒して、その剣を奪い取った。それに気付いた隣の騎士が、剣を拾おうとするフェリに襲いかかる。

「危ないーー!」


 ドコンッ!


 鎧に唯一覆われていなかった騎士の頭に、神父の分厚い本が叩きつけられる。そして、やっと神父の顔を真正面からハッキリと捉える。

「アル……っ!」

 アルも倒れた騎士の剣を奪い取り、涙が出そうな花婿は、戦う花嫁と暴れる神父に守られる。

「私の後ろに続いてください!」

 切り込み隊長の花嫁は騎士を薙ぎ倒し、道を切り開いていく。一体どうして僕より小さな体で自分より大きな相手を倒せるのか、不思議で仕方ないのだが、今はもうその頼りになる背中を追いかけることだけに集中する。ドアまで移動し、オッタヴィアと対峙する。

「ティト様、どうか残ってください!」

「ふざけたことを……っ!」

 怒りを露にしたフェリがオッタヴィアと刃を交える。何度も衝突し、離れ、刃音が響く。だが、流石王女様の護衛。今まで相手を制してきたフェリが押されている。


ーーそ、そんな……っ!


 足元に落ちている剣を拾い、その重さにバランスを崩しそうになる。

 僕の周りではフェリが、アルが、アレクが僕のために戦っている。彼女たちは諦めてなどいない。ここから僕を連れ出すことだけ考えている。倒しても倒しても溢れ出てくる騎士は、最初にいた人数より多くなっている。

 自分には重すぎる剣を持って、アルド王の方を向いた。

「ふははっ! まさか私を倒そうと言うのか?」

 僕に剣を振る才能はない。僕にできるのは、王家の紋章がついたこの剣を扱うことだけ。


 この剣を使って、彼女たちを守ることだけ。


「……アルド王。どうか、彼女たちをお許しください。彼女たちは僕の身を案じてこのような暴挙に出てしまったのです。この剣に誓って、この身を捧げるので、彼女たちを無事にアルピチュアにお返しください……っ」

「坊っちゃま!? 一体何を言っているんです!?」

 オッタヴィアはその一瞬の隙を見逃さず、僕の言葉に動揺したフェリの剣を弾き飛ばす。

 後ろから斬られるかもしれないのに、フェリは僕の方へ駆け出し、僕に縋りつく。彼女にだけ聞こえるような声で囁いた。

「フェリーチェ。君が僕を助けに来てくれて本当に嬉しかった……。初めてのキスした相手が君で良かった」

「……っ!」


 僕はアルド王の前で跪く。


「アルド王。部下が何を勘違いしたのか、式を台無しにするような真似をして申し訳ありません。我が身をもって償うので、どうかこの場にいる私の部下、フェリーチェ、アレクシオス、アルトゥーロの振る舞いをお許しください」

「そんなっ! ティト様おやめくださいっ! どうしてそんなことを……っ!」

「フェリーチェ。王の御前ですよ。弁えなさい!」

「……っ!」

 愛する人の傷ついた顔を見ると、心臓が抉られるように痛む。

 それでも、今は彼女を引き離さないといけない。愛する人、大切な仲間が死ぬ姿は絶対に見たくない。今、この場を収めるにはこれしかないのだ。

 忠誠を誓う言葉を口に出す。

「マリーナ国王アルド・エリーー」


「ちょおおおっと待ったァァァア!」


 協会内に情けなくも大きな声が響き渡る。振り返ると、そこには、最もこの場に似つかわしくない屋敷の住人ーーチェロンが丸めた紙を手に持って叫んでいた。あんなにも怖がりで臆病な男にもかかわらず、僕を助けに来てくれたのか。


ーー僕は一体どれだけ仲間に恵まれているんだろう。


 それに彼の傍にはリクの姿もあった。チェロンはこの場の惨状を見ても逃げ出さず、半泣き状態で大声で叫ぶ。

「一刻も、一刻も早くっ! 我がアルピチュアの領主候補をっ! ティト様をっ! 帰還させて下さぁああい~~っっ!」

 突然の来客にアルド王が青筋を立ててチェロンを睨みつける。

「一体何なんだ、お前はぁあっ!?」

 気の弱いはずのチェロンは、僕でもたじろいでしまう王の剣幕も、質問も無視して、彼が口にすべき言葉を伝える。その姿は勇敢さにも見えるが、ある意味混乱しているようにも見えた。

「アルピチュアに隣国アムールの武装した軍……っ、いや、戦列艦十数隻が警戒領域に滞留しています! 彼らの要求は領主候補ティト様と直接交渉すること! 明日までに彼が姿を現さなければ、戦を仕掛けると申し上げておりますぅ~~っっ!」


「「何ーー!?」」


 僕とアルド王の声が重なる。チェロンは紙を広げて前に掲げるが、僕たちとの距離が遠すぎて文言は見えない。

「こちらが書状ですっ! 下にアムール国王妃レーヌ様のサインが記されております! アムール国とアルピチュアの貿易契約書と筆跡が同じものだったので、このサインも本物と思われますっ!」

 その言葉に皆がざわめいた。僕はチェロンが持っていた紙を受け取り、書面を確認する。彼が言った通りのことが書いてある。顔を上げるとリクと目が合った。

 リクの口にした言葉は間違いなく僕が求めていた言葉のはずなのに、この手に持つ書状の内容を知っては、無邪気に喜ぶことなどできなかった。



 馬に乗り、川を越え、山を越え、故郷アルピチュアを目指す。

 馬に乗ったことがないなど、文句は言っていられない。馬に歩かせろなど、文句は言わせない。馬の息遣いと同じように僕自身の息が乱れている。

 最高速度で体験したことがないほどに体を上下左右に揺らしながら、前のめりで速く速くと身を乗り出しながら都市を目指す。

 王宮の馬はそこらの馬とは鍛え方が違うらしい。いくら走ってもその足は止まることなく、僕の故郷へと連れて行ってくれた。


 夕刻。

 体は悲鳴を上げている。しかし、死ぬ気で約束の時間内に港まで辿り着いた。真っ白だったはずの服はいつのまにか汚れてしまっている。


「ティト様よくお戻りに……っ!」


 プラチド君は僕の姿を見て驚いたようだが、すぐに切り替えて船に誘導する。

 港には武装したアルピチュアの船が用意されており、その一番大きな船にセヴェーロが乗っているのが見えた。一隻の小さな船に乗り込みながら、プラチド君は現状を教えてくれる。

「ティト様、昨日からあそこに停泊している船は隣国アムールの戦列艦です。あの一等立派な船には、おそらく王妃レーヌ様がご搭乗なさっております。そして、一つお伝えしなければいけないことが……」

 プラチド君が躊躇うなんてらしくない。彼は少しきまずそうにして、僕の目を見ていった。

「アロンツォ様の商船がアムール国の大使として、今、ティト様が手に持っている書状を渡してきました……。内容は御覧の通り、あなたとの交渉か、戦争か」


ーーアロンツォさんが……っ!?


 思いもしない報告にガツンと頭を打たれる。

 今までアロンツォから受けていた報告で、アムールから攻められる危険な動き、交渉はなかったはずだ。しかし、アムール(他国)との交渉を任せきっているアロンツォの手によって、もしそういった事実が隠されていたのであれば、自分たちがそれを認識できるわけがない。

 歯ぎしりをしながら、アムールの戦列艦を、アロンツォの商船を睨みつける。

「ティト様の準備ができたら、旗を掲げる手筈になっています。どうか、号令を」

 プラチド君に今のジャケットを脱ぐように言われ、ジュストコールを羽織わされる。領主候補の身では纏えないはずのその服は、他国の王妃と交渉するために一時的に羽織ることが許されたものだった。

 その服の重みを感じながら号令をかける。号令のもと、アルピチュアの旗が高く、高く掲げられた。すると、最も大きな戦列艦とアロンツォの商船がこちらに近づき、一定の距離を進んで海上に停泊した。


ーーここまで来いと言うことか……。


 僕は振り向いて、船に乗り込んだ屋敷の皆の顔を見た。

「僕が行方不明になって、突然戦列艦が現れて、君たちがどれだけ大変だったか、動き回ってくれたのか……。本当に感謝してる。ありがとう。……正直、彼らがこの都市にやってきた理由は見当もつかない。交渉したい理由は、僕個人に対してなのか、それともアルピチュアに対してなのか、マリーナ国に対してなのか、見当もつかない。あの交渉の場に立って、生きて帰れる保証はない。だからーー」


 長年共に過ごしてきた大切な人たち。


「だから、今から僕が言うことを怒らないで聞いてほしい。納得してほしい」


 彼らの命を奪うようなことはしたくない。


「最低限の船員と僕だけで行こうと思う。死ぬのは僕一人で十分だから。皆降りてくれ」


 笑ってお願いすると、皆が怒って詰め寄ってくる。フェリが震えながら近づいてくる。

「何を、何を言ってるんです……? ティト様が、死ぬわけないでしょう……? 一人で、行かせるわけ、ないでしょう……!?」

「フェリ……」

 泣いてほしくないのに、フェリが泣いてしまう。腕を掴んで離してくれない。

「ティト様……、止めてくださいっ、私たちを突き放すのは! 私は、ティト様のためなら、死んでもいいと思ってるんです……っ。王宮でも、海上でも、あなたのためならっ、死ぬ覚悟は、とうにできています……っ!」

「僕は君達に死んでほしくないんだ。生きててほしいんだっ!」

「それは、私たちも……っ、ティト様と同じことを思っています……っ! 私を、私たちを遠ざけないでくださいっ。私たちから、ティト様と共にある権利を、奪わないでくださいっ。フェリから……、ティト様を、奪わないで、ください……っ!」


 死んでほしくないのに、縋りつくこの手を引き離せない。離してと言えない。僕が僕に対して鬼になりきれないから、僕がこの手を引き離したくないから、皆にこんな言葉を言わせてしまう。


「本当にティト様が死ぬんなら、おれたちもこの都市で死んじゃうんだろうねぇ」

「主よ、死に場所は選ばせていただきたい」

「わ、私は、に、逃げてもーー!?」

「「逃げるのはもう止める」って仰っていたではありませんか。さぁさぁ、私も行きますから。それに、師の過ちは弟子が正さねばなりませんからね」

「ティト。お前の本音を言ってみろ」


ーーほん……ね……?


 天を仰いで息を吐く。


 いつから、言葉を選ぶようになったんだっけ?

 いつから、我儘を言えなくなったんだっけ?

 いつから、大人になろうと思ったんだっけ?


 いつの間にか自分の本音が言えなくなって、すべきことだけ口に出すようになった。

 本当に苦しいとき、本当に悲しいとき、自分のことを助けて欲しいと言えなくなった。


 自分より大切だと思える人と沢山出会えたから、

 好きな人ができたから、

 なりたいものができたから、

 自分を犠牲にすることに何の躊躇いもなくなった。


 彼女に言われて気が付いた。

 僕が皆の権利を奪っていると。

 皆に言われて気が付いた。

 彼らがどんな人間だったか。


 そうだよね。

 僕にも、君にも、皆にも、選ぶ権利がある。他人に指図される謂れはない。


 スゥーッと息を吸うのが楽になって、自分の言葉を音にする。


「どうしても僕といたい(死にたい)と思う、奇特な人だけ付いてきて」



 僕たちが乗り込んだ船が出発し、三隻の船が海中で遭逢した。橋がかけられ、一等立派な船に乗り込む。

 甲板の中央に設置された椅子に腰かけている女性。

 華麗で真っ赤なドレスを身に纏い、扇で口元を隠している。その気品ある姿は、朝、僕が教会で相対した国王と同じ品格を持ち合わせ、有無を言わせない圧力がある。

 その王妃を取り囲むように従者、騎士、そして、少し離れた場所には口角を上げているアロンツォが立っていた。その姿を見てプラチド君が苛立っているのが分かる。僕自身も彼を睨みつけた。


 アムール国、王妃レーヌ様の御前に立ち、傅いて頭を垂れる。


「大変お待たせしていたしまして、申し訳ございません。僕の名はティト・フィン・フィガロ。アルピチュアの領主候補です」

「……面を上げよ」

 ゆっくりと面を上げて彼女の顔を見ると、彼女は怪訝そうに眉根を寄せていた。

「今、領主候補と言ったかの? 領主ではないのか?」

「はい。本日その任を受ける予定でしたが、諸事情により未だ領主候補の身であります。しかし、要請の通り、務めを果たしに参りました。どうか、領主候補の身でレーヌ様の前に姿を現したことをお許しくださいませ」

 王妃は扇を仰いだ。

「時期に領主になる身ならば、わらわにも領主と名乗ればよかったであろう。バカ正直な男よのぅ」

 王妃は笑っていて、怒ってはいない。隣国の王妃がなぜこの土地に来たのか尋ねた。

「僭越ながらお聞かせください。あなた様はどうして十数隻の戦列艦を引き連れて、この都市へやって来たのですか? 私の認識ではそちらの国との関係は良かったはず。不都合な事でもあったのでしょうか? それとも、そこに立っている男と何か関係がありますか?」

 僕はアロンツォの方に顔を向け、王妃も彼を見た。

「いいや、不都合なことは何もないよ。寧ろ助けられたとも言える」

 助けられたとはどういう意味だろうか。しかし、今はそれよりも、

「しかし、私がこの場に来なかったら『水の都が沈むと思え』と書状に記してあったではありませんか。戦争を仕掛けるという意味なのでは?」

 僕は受け取った書状を掲げる。王妃は体を少し前に倒し書面を確認して、さっきより一層笑い出した。

「あっはははっ! どうもこれは付け足されておるなぁ。こちらは別にそちらと戦争するつもりはないのだが……。あぁ、でも、そなたの返答次第ではあながちこの文言も間違いではなくなるかもなぁ?」


『アルピチュア領主との交渉の場を用意せよ。明日の日没まで返事を待つ。用意出来なければ水の都が沈むと思え』


ーー付け足されたとは一体どういう意味だ……?


 王妃はアロンツォを見て笑っている。この書状を渡してきたのはアロンツォだと聞いていた。アロンツォが付け足したと言うのか。それは一体なぜだ? 彼が何を考えているか何一つ理解できない。

 しかし、今は王妃と話している最中、今把握すべきは彼女が何を考えているかということだ。

「その返答次第と言うのはどういう意味でしょう……? 交渉内容をご提示ください」

 微笑を浮かべた王妃は勿体ぶるようにゆっくりと時間をかけ、こちらの反応を楽しむように焦らす。そして、音を立てて扇を閉じ、議題を提示した。


「アムール国十三代目国王ルロワ・バスチアンの第二王妃レーヌ・バスチアンの亡命を受け入れよ」


ーー王妃の、亡命……?


 ちょっと待ってくれ。頭が付いていかない。一体何を言っている? なぜ、アルピチュアにアムール国の王妃が亡命してくる話になるんだ?

 今まで、この六年間。散々議論してきた。議題に随分と頭を悩ませてきた。入念な準備をして情報を事前に把握して対処してきた。


ーーしかし、今の状況はなんだ……?


 予想外の事が立て続けに起こって、ずっと頭が揺らされている。

 突然与えられた情報は僕が予想していた範疇を超えている。何を例にとって考えればいいのか、そもそも自分が決断を下していい議題なのか。自分が次に何を言うべきか分からなくなる。

 領主としてこの場に立っているのに情けなくも混乱している。

 頭痛がして、眩暈がしてきて、片手で頭を押さえる。駆けつけてこようとしたフェリを何とか制止する。すると、アロンツォが横やりに入ってきた。

「レーヌ様。私の方でアムール国の情報を、少し操作させていただいていたのです。私からご説明しても?」

 頷いた王妃に一礼して、彼は僕らの前に立った。

「ティト様。申し訳ありません。先ほど申し上げた通り、私の方で意図的にアムール国の情報操作をさせていただいておりました。その理由はまた後でお話しするとして、まずは先に話をお聞きいただきたい」

「……分かった」

「隣国アムールは愛の国と呼ばれる超大国でございます。数百年にも及ぶ長い歴史は我が国マリーナの歴史よりも長く、レーヌ様は十三代目国王ルロワ様の第二王妃でございました。先日、そのルロワ様がお亡くなりになり、十四代目の王になられたのはルロワ様とレーヌ様の実子バジル様になります」


ーーアムールの国王が亡くなった……っ!?


 そんな話は聞いていない。いや、しかし、アロンツォは先日と言ったのだ。そうであるなら僕が知らないのも当然のことかもしれない。

「先日と言うのはいつのことです……?」

「約一カ月程前ですね。ルロワ様は数年前から体が弱っており、床に臥せっておられました」

 眉根がピクリと動いてしまう。体が弱って、寝たきり生活だったなんて一言も聞いていない。だが、一々言及していられない。

「……それが、どうして亡命の話に繋がるんですか?」

「王が床に伏してからと言うもの、人が変わったように乱暴になり、罵り、物を投げつけるようになってしまわれました。とてもじゃありませんが、以前の威厳ある姿からは考えられない姿です。そんな中ーー」


「わらわは運命の相手と出会ったのじゃ」


 アロンツォの言葉を遮り、扇を仰いでいる王妃が発言した。

「六年前のあの日、初めて会った時、わらわの胸はそれはそれはもう、気娘の頃のようにときめいた。その端正な容姿、美しくも力強い声音、わらわを引き寄せる力強さ、惚れ惚れする話術。わらわは間違いなく恋に落ちた。……だが、この身はルロワに捧げた身。第二王妃といえども、自分の意志で自由になれるはずもなく、人が変わってしまったルロワと六年もの月日を過ごし、先日やっと自由になった。だがーー」

 彼女は目を伏せる。扇が徐々に彼女の顔を隠していきながら、その声は尻すぼみに小さくなっていく。

「ルロワが亡くなった後、我が息子バジルに再婚すると伝えると、激怒され、追い出されてしまったのじゃ……」

 完全に顔を隠してしまった王妃の代わりに、アロンツォが口を開いた。

「あのままアムール国にいては、王妃といえども身の危険があったので、ちょうどアムール国に滞在していた私が、アルピチュアに亡命してはいかがでしょうと進言したのです」

 やっと、僅かながら頭が冴えてきた。しかし、議題の重さは変わらない。僕、いや、アルピチュアに提示された議題は、


 アムール国王妃の亡命を受け入れるか、否か。


 そんな重大な決定を一つの都市が判断できるわけがない。普通こんな大きな問題、国相手に交渉すべきであって、領主相手に持ちかける話ではないのだ。いくらこの都市が自治体制を取っていると言っても、国と相談もなしに決定するにはあまりにリスクが高すぎる。

 それに、アロンツォがアムール国について僕に情報統制していたのはなぜだ? そんなことをして彼に何のメリットがある? 

 六年前、あの円卓で彼と初めて出会った時と同じだ。全く何を考えているのか分からない。

 心身が疲労している状態での、頭脳戦は命をさえも削っている気がする。今すぐ白目をむいてひっくり返りたいくらいには命を削っていた。

 一歩前に出たプラチド君が、王妃の前に傅いて言った。

「ティト様の下で働かせていただいております。プラチド君と申します。不躾ながら、ティト様の代わりに質問させていただきます。レーヌ様の現状と亡命を求めてきた理由は分かりました。しかし、私にはどうしてもわからないのです。我が都市の外交官はなぜ情報統制を行っていたのか、なぜあなたをアルピチュアに亡命するように進言したのか。レーヌ様はご存じですか?」

 彼は睨みつけるようにアロンツォを見て、王妃とアロンツォが目を合わせた。


 その瞬間、僕の中でピンと来た。頭の中の霧が一気に晴れていく。まさか、王妃が運命の相手と言ったのはーー


「まさかとは思いますが、レーヌ様が申し上げた運命の相手と言うのは、その男ではありませんよね?」


 混乱していた頭がプラチド君のおかげでクリアになる。何かの快楽物質が出ているのか、いつかアマントに騙されて飲まされた、気分が良くなる薬を口にしたように、体がフワフワと軽くなっていく。多幸感を感じながら、僕も二人の顔を見つめる。

 彼らは互いに驚いた顔をした後ーー


 見計らったように同時に笑い出した。


 王妃は淑やかさを忘れて、破顔している。


 なぜ、笑っているのか。何がおかしいのか。


 溶けていく僕の脳は何がおかしいか分からないままに、彼らに合わせて笑った。王妃はひとしきり笑い終わった後、扇子を従者に渡す。そして、顎を上げて言い放った。


「私がこのような胡散臭い男に心惹かれるわけなかろう! そんなことを言われるなんて心外じゃっ!」


 レーヌ様が二回手を叩くと従者が下がり、従者は船内に向かって行く。

 僕もプラチド君と同じ事を考えていたが、あっさりと否定されてしまった。

 薬が切れたのか段々と気分が重くなり、沈み込んでいく。そうに違いないと思ったのに、再びグルグルと頭の中で理由を探し始める。「もう、酷使しないで!」と脳が悲鳴を上げている。


「困りましたのぅ……。わしはもっと別の登場の仕方をしたかったんじゃが……」


 後遺症なのか。嫌にその声が鼓膜、いや、頭の奥底まで響いてきて、床板を踏み鳴らす音まで鮮明に音を拾い始める。ついに僕は幻聴まで、幻視まで起きている。


 いや、まさか。そんなはずはない。だって、六年前にーー



「久しぶりじゃな。ティトよ」



 もしかして、気付かないうちに自分は殺されていて、天国にでもいるのだろうか。

 六年前に死んだはずの人物が、自分の目の前に立っていて、

 自分が今生きているのか、死んでいるのかさえ分からなくなってくる。


 あまりにも処理しきれない情報過多に、脳内で何か千切れた様な火花が散った。

 感覚を失いながら後方に、ゆっくりと死に近づいていく。


 死者がこの場に立ち、生者であるはずの自分が倒れていく。

 これは夢だ。夢に違いない。


 おかしな光景を目の当たりにしながら、理解が追い付かない。

 頭でも打ち付けた方が楽になれると思ったのだが、僕の頭が地面に打ち付けられることはなく、柔らかなクッションに包まれる。心地よい癒される匂いに包まれ、白雲に受け止められる。


 やはり、ここは天国なのだろう。


 ずっと寝ていたいのに。何も聞きたくないのに。

 僕を慈しむ天使の声が頭上から降り注がれ、今、目の前にある現実を口にした。


「フィルベルテ様。どうして……」



ーーフィルベルテ・フィガロ。祖父の名だ。



「ティト。お前はいつまでフェリーチェに引っ付いているつもりじゃ? 成人したんじゃろう? せっかく、領主の座まで譲ってお膳立てまでしてやったのに、その情けない姿はなんじゃ!」


 鐘が鳴っている。

 響き渡るその音が僕に立てと言っている。

 急かすように何度も何度も打ち鳴らされる。

 幻覚は絶えず続いている。


 天使に支えられながら、自分の足で立ち上がり、目の前の死者と対峙する。聞きたいことは多々ある。しかし、今すべきことはーー


「レーヌ様。あなたがこの都市に亡命を申し入れた理由をちゃんとお聞かせください。その男に関係あるのですか?」

「そうじゃ。愛する国を追い出された私が、愛する人の故郷を求めるのは何かおかしいか?」


「では、逃亡を受け入れなかった場合は?」


 僕の言葉によって、この場の空気が張りつめた。王妃自身がピクリと眉を動かしたのを認識する。僕の失礼な振る舞いも、王妃の苛立った様子も、向こうの騎士が剣の握りに触れたのも、アルが前に出てたのも、祖父が驚いた顔をしているのも、全て気に留めない。


 鐘が鳴っている。何よりも、この音を止めなければと躍起になる。

 心臓の速なる音と同じように、鐘の音が速鳴っている。


「あなたを受け入れることのメリットが、何一つアルピチュアにはありません」

「沢山あるじゃろう。まず、戦力に技術、工芸品。あぁ、船もそうじゃ。ありとあらゆる価値あるものを船に積んできた。そしてーー」


 鐘が止まない。

 鳴り続けている。

 止められない。


 椅子から腰を上げた王妃は僕の目の前に立った。


「アルピチュアが何よりも手に入れたいもの。領主様をこの都市に返してやろうと言うんじゃ。これ以上のメリットはないのではないか?」


 轟音が鳴り響き、警鐘を鳴らしていたその鐘は、罅が入り、割れて、崩れて、役目を終える。散らばって、弾かれて、破片が僕に突き刺さる。


 何を言っているんだこの女は、何でいるんだこの男は、何を考えているんだこの男は!

 怒っているのは僕だ。悲しんだのは僕だ。笑いたいのは僕だ。


 そんなの……っ。こんなの……っ、絶対に、認められない……っ!


 王妃に対する失礼な振る舞いに、怒りを露わにした騎士が剣を取る。


「ティト! こちらも剣を抜いていいか!?」

「私はあの裏切り者を……」

「逃げればよかった、逃げればよかった……っ!」

「主、私にも許可を!」

「えぇ……。なんでそんなに好戦的なんでぇ? 皆さん。この薬を飲めば、十倍力が発揮できますよぅ」


 フェリが僕の隣に立つ。


「アルピチュアの領主になるのは、ティト様です!」

「上に立つものを決めるのはお主じゃない」


 王妃は僕を見て言う。


「領民が領主を決めるのじゃ。アルピチュアに相応しい領主を、な」


 戦闘態勢を取ったフェリを制止し、命知らずな仲間に今すぐ下がるように命令する。

 僕が口に出した言葉を聞いて、王妃も騎士に命令を下す。


 


 僕がフェリーチェと契りを果たす(交わす)のは、まだずっと先の話なのかもしれない。




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メイドと結ばれるためにショタが領主を目指す立身出世物語 みけ @mikekke

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