みにくいアヒルの子たち/雪六華

名古屋市立大学文藝部

みにくいアヒルの子たち

 夕方のプラットホームは人であふれかえっている。

 それほど大きい駅でもないのだが、近くに高校があるせいか、冬の日の沈み始めるこの時間帯は決まって、若く楽し気な話し声が飛び交っている。

 そんな賑やかなホームの隅で、ひとつ静かな影がたたずんでいた。

 着崩れたダッフルコートを羽織る、ブレザー姿の少年。きっちり巻いた厚いマフラーに顔を埋め、メタルフレームの眼鏡をかけた一重まぶただけをのぞかせている。

 少年は何をするでもなく、ただぼんやりと立ち尽くしていた。時々、近くの天井に据え付けられている時計に視線をやるものの、それ以外は目の前に走る線路を眺めているだけだ。

 やがて、短調のメロディがプラットホームを跳ねた。電車の到着を知らせる合図だ。

 レンズの奥の瞳が、一瞬だけきらりと光る。まるでその電子音を待ちわびていたかのように。

 ローファーを履いた足は、まだ電車の停まっていない線路に向かって歩き出す。一歩一歩、確かめるようにゆっくりと。

 ブレーキ音の鳴り響く中で、ローファーは黄色い点字ブロックを一歩踏み越えてもなお、止まることは無かった。


           一、


 覚えている中で一番古い記憶、というのは、大体いつくらいのものが多いのだろうか。

 自分の知見は比較対象に十分なほど広くは無いが、それでも『幼稚園の年少さん』とか、『小学校に入る前』とか、下手したら『お母さんのおなかにいた頃』なんて話も聞いたことがある。

 でも、個人的にはどれもにわかに信じがたい話だった。だって、自分の中で一番古い記憶はほんの数年前の──小学四年生の頃のものだからだ。

 さすがにそれは多少大げさな言い方かもしれない。はっきりと、明確な色をもって存在する記憶の中で、一番古いのが小四の頃の記憶なのだ。一応、それ以前もぼんやりした記憶の残骸みたいなものはある。しかし、小さい頃は今と違ってマンションに住んでいた、地元の小学校に通っていた、といった油絵の抽象画みたいに輪郭のない、記憶の断片が脳髄の奥深くで転がっているだけだ。

 決して事故にあって頭を強く打ったとか、明確な原因があるわけではない。例えば、素晴らしい絵画を目の前にした時、雷に打たれたような衝撃に襲われて、同じ美術館に飾られていた他の絵画をてんで覚えてない。みたいなものじゃないかと思う。

 これも曖昧な記憶のひとつだが、昔から人と話すのは苦手な性分で、どちらかといえば消極的な方だったと思う。休み時間は校庭でドッジボールに勤しむよりは教室に残って本を読んでいるような子どもだった。

 そんな普通に過ごしていても浮きがちな子が、既に出来上がったコミュニティの中に放り込まれたらどうなるか。

 小学四年生に上がった時、ひとつ地方をまたぐくらい遠い地にある学校へ転校した。理由は父親の転勤だったと聞かされている。

 虐められたりだとか、具体的に何か嫌なエピソードがあったわけではないけど、三年間だけ通った教室の居心地の悪さはしっかりと焼き付いている。元々人数の少ない小学校だったのも相まって、数年一緒に過ごしてきたらしい生徒たちの結束力はなかなかのものだった。さらには、テレビの中でしか聞いたことのない方言を喋る人ばかり。自分から打ち解けられるような性格だったら良かったのだが、現実はその逆。転校初日の挨拶からちっとも喋ろうとしない余所者に、話しかけてくる物好きはいない。

 と、思っていた。

「なあなあ、それ『しゃーぺん』やろ? 先生せんせにあかんーって言われるやつやん」

 それはいつだったか。多分、転校してきてそこまで日が経っていない頃。何もすることが無くて、という不純な動機で真面目に教科書やら筆箱やらを準備していた休み時間のことだったと思う。

 横から、良く言えばフランクに、悪く言えば馴れ馴れしく。初めて話しかける相手だというのに、まるで十年来の友人かと紛うような関西なまりの声。思わずそちらを見やると、自分の手元を興味津々、といった様子で見つめる大きな瞳があった。

「……あ、え、」

「先生に見つかったら怒られんで」

「あ、じゃあ……鉛筆にしと、く」

 詰まりながらもなんとかそう答えると、赤いTシャツの少年は顔いっぱいに満足げな笑みを作って、自分の席があるらしい方向へ駆けていった。

 それがその少年とのファーストコンタクトだった。

 自分とは違い、クラスでも何かと目立つ方の子ではあった。まず親の趣味なのか、小学生らしい純な黒髪に混じってかなり派手に染髪していた。授業中でも蛍光灯にきらめくその金髪が良く目立つ。

 授業で当てられると、答えずにおどけて見せる。給食では、一番に食べ終わって真っ先におかわりをたくさん椀によそう。元気いっぱい、天真爛漫てんしんらんまんを具現化したような子、というのが最初の頃の印象。

 その後も、少年は時々自分に話しかけてくることがあった。

「それ何? 美味しそうやなあ」

 この時もそうだった。遠足の振替日か何かで給食がなく、お弁当を持ってくる日。いつもはいただきますをする前に班に分かれて机を移動するのだが、今日はお弁当ということで自由に席を移動することが許されていた。クラスメイト達にとっては嬉しく、自分にとっては迷惑な話。

 自分の席から動かずそもそと弁当箱をつついていた時に聞こえたのは、狭い教室の中で唯一聞き覚えのある声だった。顔を上げると、これまた見覚えのある赤いTシャツが見える。

「た、ただの……卵焼き、」

「ふーん」

 相槌を打ちながら少年が食べていたのは、ビニールの包装に包まれたメロンパンだった。

 これほど明るい子なら一緒に食べたがる友達の一人や二人居そうなものだが、何故自分に声を掛けてくるのかも分からなかった。どうも特定のグループに属している訳ではなく、色んな子に声を掛けて回っているらしい。

「お母さんにお弁当あるって言うの忘れた。好きなパン買えたからラッキーやけど」

 柔らかそうなパン生地を咀嚼そしゃくする合間に、少年は殆ど一人でに喋り続ける。こちらはといえば苦手なほうれん草のお浸しを食べきるのに必死で、彼の話すスピードに合わせてこくん、こくんと頷くのが精一杯。

 少年は机の横にしゃがんで、下から大きくパンにかぶりつく音を響かせている。ようやく緑の悪魔を駆逐し、左下を見やった。いつも通りの赤いTシャツの下、晩夏にしては涼し気なショートパンツの脚が目につく。。その時、

 めくれた裾から覗いていた、焦げたように赤黒い小さなあざ。それも一個や二個じゃない。生々しい跡が白い両ももを覆っている様は、まるで蓮の種のように気味が悪くて。

「……っ」

 人生で初めて目の当たりにするようなグロテスクさ。思わず息を吞んだ瞬間、座る自分を見上げる猫目と視線がぶつかる。

「あ、……」

 思わず出てしまった奇異な光景におびえる吐息が、目の前の黒目がちな瞳を見開かせる。メロンパンの食べかすが床へ落ちるのもいとわず、勢いよく立ち上がった。捲れたショートパンツの裾は重力に従い、何事もなかったかのように腿を覆っている。

 今度は自分の方を見下ろしている目があった。自分の気のせいなのか、そうではないのか。どことなく冷たい視線は、自分をとがめているようで。少年はぱちん、と大きく瞬きをした後、引きつった笑みを唇の端に浮かべながら、もう一度座り直す。今度は裾が捲れるなんてことが無いよう丁寧に。

 あれは、何? そんな単純な問いは、昼休みいっぱいをかけても口に出すことができなかった。まだ友達でもない、ただのクラスメイトにそこまで踏み込む勇気なんて無かったから。

 そんな衝撃的ともいえる光景だって、人の脳は自分と関係ない事柄をいつまでも引き留めておくほど暇じゃない。何事も無かったのような語り口に相槌を打ちながら、弁当の中身を片付けるのに苦心していれば、感じていたはずの背筋の寒気はもうどこかへ消えてしまっていた。


          *


 集団教育というのは時に残酷な仕組みだと思う。授業カリキュラムを組む偉い大人は、きっと学校に通うすべての子どもが健康で、元気いっぱいで、愛されて育っていくものだと思い込んでいるに違いない。

「今日は皆さんの家族について、作文を書いてもらいます」

 そうじゃなかったら、幼かった自分にこんな無理難題を突き付けることは無いはずだ。

 抑揚なく話す担任の声に、心臓が嫌な音を立てた。作文が嫌なんじゃない、問題はそのテーマ。

「皆さんのお父さん、お母さん、おじいちゃんおばあちゃん、きょうだいがいる人はきょうだいも。家族の好きなところ、自慢できるところ、家族との楽しかった思い出、何でも書いてください。この作文は今度の授業参観で発表してもらいますからね」

 はぁい、と元気よく上がる複数の返事。では、始めてください。担任の一言で、一斉に教室中の筆記具が動き始める。一歩遅れて、ゆっくりHBの鉛筆を握った。

“ぼくの家族 ”

 そう書く左手が、少し震えていた。周りの生徒たちからは何を書こうか、と思いを巡らせる声が聞こえる。

“ぼくの家はお父さんとお母さんとお兄ちゃんの四人家族です。”

 その先が、書けない。思いつかない。作文用紙を押さえていた右手が、無意識に唇へ持っていかれる。かり、かり、舌先に感じる爪の硬い感触。

(書かなきゃ、だって先生、授業参観で発表するって)

……“お父さんは大学の先生です。お父さんの転きんで、ぼくはここに転校してきました。”

『単身赴任? 誰が俺のメシ作るんだよ、ちっ。俺の金で食わせてもらってる恩を忘れやがって』

“お父さんは夜遅くまで、家族のために一生けん命働いてくれます。”

『子どものことは全部お前に任せるって言っただろ。俺は仕事で疲れたんだ』

“お母さんはいつも家にいて、僕とお兄ちゃんのために料理を作ったり、塾の送っていったりしてくれます。”

『塾の宿題は? 終わるまで夜ご飯は無いからね』

“家に帰ったら、ぼくの勉強を見てくれます。”

『どうしてこんな問題が分からないの? ……はぁ、お兄ちゃんの時はもっとよくできてたのに。やっぱり育て方を間違えたかしら』

“お兄ちゃんは高校一年生です。とても頭がよくて、いつもほめられています。ぼくの自まんの兄です。”

『俺が勉強中に騒ぐんじゃねえよ! また殴られたいか?』

“お父さんも、”

『……百点か。あのな、お父さんはお前たちのために一日働いて疲れてるんだ。そんな当たり前の結果、見せに来なくてもいい』

“お母さんも、”

『あなたの将来を考えてるから、お母さん仕事もしないで塾に送ってったり、宿題教えたりしてるの。ねえ、お母さん、何か間違ったこと言ってる?』

“お兄ちゃんも、”

『あ? 何だよ、ほんとかわいくねー弟だな。頼むから俺の視界に入ってくるなよ、向こう行ってろ』

“ぼくの大好きな自まんの家族です。“


          *


 結局、完成させるのに六時間目のチャイムが鳴った後までかかった。立派で尊敬出来るとっても大好きな家族を褒めたたえた文章が並ぶ、薄っぺらい原稿用紙を教壇に提出する頃には大半の生徒が帰ってしまっていた。教室の中は西日の寂しい匂いが漂っている。

 机上に溜まった消しゴムのカスを集めていると、教室の前の方から怠そうな担任の声が聞こえてくるのが分かった。

「……はぁ、来週の授業参観までには書いとくんだぞ」

 叱られていたのは、あの赤いTシャツを着た男の子。元気よく返事をするでもなく、殆ど項垂うなだれたようにうつむいている。完成できなかったのだろうかと単純な興味で視線を向けた時、見てしまった。

 ──机の上に置いてある、な原稿用紙。

 何も書かれていなかった。家族構成も、その紹介も、何かしらの楽しい思い出も。彼はこの午後の授業いっぱいを使って、無数に並ぶ用紙のマスを一文字たりとも埋めなかったのだ。

 彼が食べていた、たった一個のメロンパンを思い出す。いつも着ている赤いTシャツ。腿に浮かんでいた無数の痣。それらがわら半紙のざらついた白と重なって、頭の中で結びつく。

 難しいことはよくわからない。あの子のことなんて、まだこれっぽっちも知らない。けれど、思った。多分あの子は作文用紙を埋めなかったんじゃない。自分と同じで嘘でもつかない限り、あのたくさんのマス目を埋められなかったんじゃないかと。

 少年は帰り支度を始めているようだった。ランドセルにぼろぼろの筆箱をしまう動作は、どことなく緩慢にも見える。

 そのれたTシャツの背中に興味を覚えた。もしかしたら初めて出会えたかもしれないと思ったからだ。自分以外に、家に帰りたくないなんて思ってしまう子に。

「あ、……ね、ねえ」

 少し長い金髪の頭がゆっくりとこちらを振り向く。呼ばれたのは自分か、といぶかしげな色が読み取れる視線。

 胸がかあっと熱くなり、体中に心臓があるのかと思うくらい鼓動の音が大きく響いていた。なんせ自分から人に話しかけるなんて、覚えている限りでは殆ど初めてなくらいだったから。

「一緒に、帰らない?」

 ……言えた。途中で少し詰まりそうになったけど。最後の方は声が口の中でもごもごして、全然聞こえなかったけれど。

 言い終わった後に、背後から不安の色が忍び寄る。やっぱり、友達でもない子に話しかけられて、迷惑だったらどうしよう。

 俯いて、そっと彼の顔を見やる。前髪越しに見えたのは、

「ええの?」

 アーモンド形の輪郭が丸くなるくらい、目いっぱい開かれた瞳。驚きの中に『嬉しい!』の気持ちを覗かせた眼は、例え返事を聞かなかったとしても見つめただけでわかるくらい。

 大きな瞳はすぐにくしゃっと潰れ、口角を上げた唇と合わせて満面の笑みに変わる。

「すぐなおす片付けるからちょい待っとって、……えっと、」

 慌てて机上に散らばる原稿用紙を取ろうとする手がすぐに止まる。目の前の唇が何か言いたげに二、三度上下した。

「……ごめんな。名前、何て言うんやっけ」

 少年は申し訳なさそうに、ふにゃりと笑った。そう言えば、自分も彼の名前を知らない。お互いに名前も覚えていない相手と帰ろうとしていたのが、何だか可笑しかった。

「幸。中村なかむらこう

「ふーん、コーくんな、コーくん。あ、俺ん名前は分かる?」

 返事の代わりに首を横に振ると、彼は少しだけ顔をこちらに近づけて、大切な秘密を教えてくれるように告げる。


「俺は、────」


 それが、記憶に形ができ始めた頃の思い出。

 入山いりやま天来たから──初めての友達と出会った時の話だ。


          二、


 定年退職も近い年になる女性の担任が、黒板の前で連絡事項という名の無駄話を饒舌じょうぜつに喋り続けている。とっくに荷物を詰め終わったランドセルの前で頬杖をつきながら、調子よく上がる声が途切れるのを待っていた。

 すると、自分の右側に位置する廊下側の窓ががしゃん、と大きめの音を鳴らして叩かれる。驚くまでもない、犯人は分かっている。先生に怒られたらどうしようかと一瞬焦ったが、気づかれる前にようやく帰りの挨拶の段階に入ったようだった。日直の号令に合わせて慌てて立ち上がり、深々と礼をする。

 さようなら、さようなら。お決まりの挨拶を言い終わる前に、待ちきれなかったらしい手が勢いよく窓を開けた。

「……終わるまで待っててって毎日言ってるよ、僕」

「だって幸のとこの先生、いっつも終わるの遅いやんか」

 いつも通り、見慣れた悪戯いたずらっぽい笑顔が窓の向こうにあった。一応口では怒るものの、笑った時の眼の細め方を見ていると、どうにも憎めなくなってくる。早く早く、と急かすのをなだめてランドセルを背負う。

 四年生の間は何も苦労が無かった。帰りの会が終わったら一緒に教室を飛び出せばいいのだから。問題はその後。

 五年生、六年生と進級したものの、どちらも同じクラスになることは無かった。以来、帰りの会が早く終わった方がまだ終わっていない方の教室前で待つという習慣が自然にできていった。

 といっても、何故か二年とも自分の担任は話の長い人で、いつも天来を待たせることになったのだけど。

「今日は遊べるんやっけ?」

「塾あるから、また明日ね」

 随分と冷え込んできた廊下。放課後の解放感による騒がしさの隙間を縫うように、二人で下駄箱へ向かう。

 帰り始めの生徒たちはまだ肌寒い名ばかりの春に抵抗して、薄手のアウターに身を包んでいる。自分も兄のお下がりであるグレーのパーカーを羽織っていた。

 対照的に、天来の服装は見ているだけでこちらが寒くなるくらいだった。英字で何やら書かれた灰色の半袖Tシャツ、足首もふくらはぎも野ざらしのハーフパンツ。寒くないの、とは聞かない。去年も一昨年も、彼が長袖のトップスに袖を通すことは終ぞなかったからだ。

 玄関先に、顔くらいは見覚えのある体育の先生が元気に挨拶の声を張っている。揃ってさようなら、と少し頭を下げれば、そこから先はもう二人だけの通学路。

 と言っても、なんてことはない。互いの家がある方向へと歩を進めながら、例えば傘でチャンバラごっこしたり。その辺にある落ち葉を溝板の隙間へ落としたり。どこからか白く柔な石を拾ってきて道路に落書きしたり。本当にくだらないことだ。毎日飽きもせず、そのくだらないことに二人で興じていた。

 幾らか歩いていると、T字路の突き当たりに辿り着く。右手には、年季の入った市営住宅の群れ。そこが天来の帰るべき場所だった。左を向くと、少し遠くにまだできたばかりの新興住宅街が見える。そこが自分の帰らなければいけない所。

 このT字路に来ると、どんなに楽しげな足取りで歩いていたとしても、自分たちの足は必ず止まる。そして、いつも隣にある顔を見やる。向こうも伸びかけの前髪越しの視線を、こちらへと向けているのだ。

 そこにはいつもの天真爛漫な笑顔も、小学生らしい無邪気さも、きらきらと澄んだ輝きも無い。瞳孔の代わりに深い穴が一つ、悲しげに浮かんでいるだけ。

 口角だけは僅かに上がっているが、普段の咲いたような笑い方からはかけ離れている。

「じゃあね」

「うん、じゃあね」

 ぎこちない唇でまだ言いたくない別れの挨拶を、ここまで一緒に帰ってくれた級友へ告げるのだ。


          *


「今日は塾あらへんかったよな? 幸に見せたいもんあるんやけど」

 いつも通りの帰り道、そう言う天来の表情はいつになく愉しげな微笑を浮かべていた。

「う、うん。無いけど」

「じゃあ決まりやな」

「また虫の死体とか? やだよ、僕」

「今日はちゃうから! な?」

 前に『見せたいもんがあるから!』と言われた時は、右手に隠すよう握られた蝉の死体だった。驚いて大声を上げたのを散々からかわれて、最終的に自分がむくれて謝られたのを覚えている。二回目はもう嫌だ。

 見せたいものって? と聞いても、笑うだけで何も教えてくれない。結局連れて来られたのは、通学路の途中にある公園だった。といっても住宅街の隙間に無理やり作ったような小さい場所で、真ん中に据え置かれた錆びた滑り台が無ければ、ただの空き地と見紛えてしまいそうなくらいだ。小学生が帰り始める時間帯だというのに、自分たち以外は誰もいない。

 公園に一歩踏み込んだ途端、先ほどまで騒がしかった天来が急に大人しくなる。口元に立てた人差し指を当て、狭い公園の片隅に一本だけ生えている樹へと向かって歩き出した。

 少し近づいてみれば、その『見せたいもの』が分かった。根元に落ちている、薄汚れた綿ぼこり──目を凝らすと、それが微かに動いていることが分かる。

 端っこに付いた黄色の目立つくちばし、まだ生えそろわない羽毛。傍目にも成長しきっていないと分かる、小さな小さな野鳥のひなだった。

「学校行く時にさ、何かが鳴いててん。何やろなーって探しとったら見つけた」

 そう自慢げに話す天来。雛は怪我でもしているのか、飛ぼうと羽を動かす素振りを見せるものの、その場から動くことは無い。

「よう分からんけど飛ばへんの、何でか分かる?」

「僕も分かんない。鳥なんて触ったことないし」

 交わされる会話の下で、雛はか弱く鳴き声を漏らす。寂しそうな様子を慰めるように、天来の人差し指が小さな頭へと伸び、ごく僅かな動きで濃灰色の羽毛を掻き撫でた。

「俺も鳥って初めて触ったわ。元気ないみたいやし、どうしたらええんかなって」

「餌とか……何食べるんだろあげた方が良いよね」

 二人で相談しながら、自分の左手も自然と雛の方へ向かった。緩い曲線を描いた背中をさすれば、柔らかな羽の感触が伝わってくる。

 自分より小さいものに愛おしさを感じるのは、人間の本能というやつなのだろうか。されるがままに撫でくり回される羽毛の塊を見ていると、胸の奥からぎゅうっと締め付けられるようなオレンジ色の温もりがにじみ出てくる。

「……家に鳥の図鑑、あった気がする。何食べるかとかわかるかもしれない」、

「本当? 調べてきてや、食べさしたらちょっとは元気出るやろか」

 木陰に鳴く雛の柔い感触を、二人で撫で続ける。ただの小学生だけでは何もできないけど、まだ少し短い日が傾き始めるまで、公園の隅から立ち上がることは無かった。


          *


 ランドセルのポケットから鍵を取り出し、がちゃり、がちゃりと二つの鍵穴に差し込んで回した。まだ新築の匂いが抜けないドアノブに手をかける時は、いつだって心臓が嫌に高鳴る。開ける時はなるべく音を立てないように、そっと。

「……ただ、いま」

 きっと聞こえないくらいの小さな口上は、言うというより呟くといった方が近い。前に大きな声で言ってしまった時は、家に居た兄にうるさい、勉強の邪魔になると怒鳴られた。今は塾に行っている時間帯のはずだが、そう分かっていても自然と声が小さくなってしまう。

 それに、今日は帰りがいつもに比べて遅くなってしまった。塾から出された明後日までの宿題もまだ終わっていない。音が出ないように靴を脱ぎ、上がりこむ。

 そこでふと、気が付いた。母親の靴が無い。そういえばドアに鍵もかかっていた。きっと兄の塾へ夕食を届けに行っているのだろう、と自然に安堵の吐息が漏れ出る。今年は受験生の兄にかまけている分、母親の注意があまり自分へ向くことが無かった。

 恐らく帰ってくるまでに宿題を始めていれば、酷く怒られることは無いはずだ。階段を駆け上がり、奥にある子供部屋のドアを開ける。

 水色のインテリアで統一された、勉強机とベッドのみの部屋。玩具も何も置いていないが、自分にとっては安心できる一人だけの空間だった。

 机に備え付けられた本棚から、お目当ての本を探す。

『よくわかる 小学六年生の算数』

『写真で見る四季の星座』

……『季節の野鳥図鑑』

 良かった、あった。確か去年までやっていた通信教育の付録か何かでもらった本だ。開いたことは無かったけど、役に立つ時が来るとは。

 ハト、メジロ、ムクドリ。ぱらぱらととりあえずめくってみるものの、傍目にはどれも似たような鳥に見える。とにかく餌だとか寝床だとか、役に立つ情報が欲しかった。

 ふと、写真の合間に入り込んでいるコラムが目に入る。


 ──春から夏にかけては、野鳥の子育てシーズンです。多くのヒナたちがお母さんのもとをはなれ、巣立っていきます。

 中にはまだ上手にとべず、地面に落ちてしまうヒナもいます。しかし、そんなヒナを見つけてもぜったいにひろったり、さわったりしてはいけません。

 さわられたヒナには人間のにおいがついてしまいます。そうなると、人間をけいかいした親鳥にみすてられ、そのまま弱って死ぬことになりかねません……


          *


 次の日、二人で覗いたあの樹の根元には、生命体だったはずの羽根の塊が転がっていた。

「あ、……」

「…………」

 放課後すぐに天来へ図鑑の文言を伝え、走ってきたもののとっくに恐れていた事態は起こっていた。

 見つけた時にはもう弱っていたのだから、と言い訳じみた考えを巡らせても、何も考えずに撫でまわしてしまったことへの罪悪感がずっしりとのしかかる。

 隣に並ぶ天来は何も言わず、俯いていた。きっと自分と同じ罪の重みを感じているに違いない。

 しばらく黙って死骸を見つめていた。この幼い鳥は、どんなことを思って死んでいったのだろう。まだ肌寒い夜に、助けてくれるはずの親鳥が来てくれない絶望は、如何ほどのものだったのだろうか。

「……お墓、作ったろ」

 暫くの沈黙の後、小さな呟きが地面に落ちた。それに応えるよう、頷く。

 お墓を作ろうと言っても、自分の家には埋めるためのスコップなんて無駄な玩具は無かったし、天来の家にもスコップなんて贅沢な代物があるわけなかった。仕方なく、その辺の雑草をちぎって、布団のように小鳥へかけてやる。薄暗い灰色の翼が見えなくなった辺りで、二、三輪の小花も傍らに添えた。

「ごめん」

 不意に隣で漏れた三文字。

 視線は地面の方を向き、その表情はうかがえない。しかし、被せた草花を撫でる手指は、その下にある羽根を決して触ろうとはしなかった。

 暫くは、二人でほうけたように小さな亡骸を見つめていた。それが自分たちにできる唯一の弔いだとでも言うように。

 その間、自分の脳裏にはひとつの空想が流れていた。上手く飛べずに弱り果てた小鳥が、己より何倍も大きい人間ばけものの手によってその羽を弄ばれる視点の映像。雛はいったい何を想い、その身をただ逆撫でられていたのだろうか。

 鳥にそういった恐怖やら嫌悪やらの感情があるかは知らない。ただ、幼気な小動物へ独りよがりの同情を押し付けてしまうのが人間ばけものというやつなのだ。

「なあ」

 唐突に響いた呼びかけに視線を右へ投げると、相変わらず天来は俯いたままでその唇だけを動かしていた。

「鳥は触られたら、人の臭いが付くんよな」

「あ、えっと……。僕が読んだ本にはそう書いてあったけど」

「人もそうなんかな」

 思わず、首を傾げた。突然飛び出した質問の意図が読めなかったからだ。

「人間も何かに触られて臭いが付いて、お母さんとかお父さんに見捨てられることってあるんかな」

 そう言った天来の胸元──灰色の、Tシャツ。数日前からずっと変わっていない。

 そういえば最近、トップスの袖から覗く腕が少し痩せた気がする。体質的に太れない身体の子どもだと言われれば、確かにそういう風にも見える。でも、『おかわりしすぎてお腹痛くなった』と笑うくらい給食をいっぱい食べる子の手首は、あんなに骨が浮くものなのだろうか。

 自分は天来のことを分かっているようで、何も分かっていなかった。彼はあっさり命を落とした雛に同情して、弔いをしていた訳では無い。無様にも死んだ小さな生命に自分を重ねていたのだ。空も飛べず、餌も食べられず、暖かな巣で享受する筈だった親の愛も貰えなかった、可哀想な雛。

「だっ、……」

 大丈夫だよ、とは言えなかった。それこそ安い同情でしかない。

「堪忍な、変なこと言うて」

 そんな風に自分が悪くもないのに謝って、立ち上がろうとするものだから。

 気が付いたら、自分の頭上へと行こうとする手首を掴んでいた。

「……っ、天来、人間の匂いしかしない……と思う、し、人間より大きい動物とか、そんなっ……いない? はずだし、多分、そういうこと、は……ない、と思う。から……」

 恐らく、そのまま帰ろうとするように見えたのを引き留めようとして。勢いだけに乗せられた台詞は所々詰まって、自分でも何を言っているのかよく分からなかった。

 自分より少し斜め上にある表情は、目と口がいつもより僅かに空いていて、きょとんとしているような。

 小さく驚いた顔は数秒固まって、直後。先ほどまでの重たい空気を飛ばすような笑い声。

 今度はこちらがきょとんとする番だった。天来は掴まれていない方の右手で、お腹を抱えている。

「そんな、本気で臭いが付くって心配してへんで! 幸ってなんで変なところで真面目なん?」

「な、なんだよ! 僕、心配したんだぞ」

 さっきまで傷心しているように見えた相手にからかわれ、思わずねたような返答をしてしまう。いや、ではなく、実際拗ねてる。

 むくれる自分をよそに、涙が出るほど笑っていた。ひとしきり笑い声をあげた後、未だ掴んでいた手首ごと身体を引かれる。その細っこい手のどこに、自分を引き上げるまでの力があったのだろう。

 ようやく同じ高さに来た、どことなく子猫にも似ている幼い顔。先ほどまでの爆笑はどこへやら、穏やかに、柔らかく微笑みを浮かべている。悲観したり、驚いたり、笑ったり。メリーゴーランドみたいにくるくると、よく変わる表情だ。

「ありがとう」

 そうささやいた声も、今までに聞いたことが無いくらい静やかで。

「お陰で、元気出た」

「……僕何もしてないと思う、けど」

「幸が俺んこと心配してくれて、それだけで十分や」

 視線をじっと合わせられ、らしくない調子で礼を言われる。それだけで、途端に顔が紅くなるのが分かる。上がる体温が伝わってしまう前に、慌てて手を離した。

「もう、……帰ろ」

「はーい、帰ろーな」

 声に出てしまったこそばゆい気分は、天来に伝わっているのか。

 最後に振り返った時、眼鏡越しに見た地面に眠る雛は──打って変わって安らかに瞳を閉じていた、ように見えた。


          三、


 頬にぶつかった衝撃、同時に口の中で温い鉄の匂いが広がる。どこかに眼鏡が落ちた硬い衝撃音も聞こえた。

 特段驚くようなことではない、もう何度も体験している。しかし、この痛みだけは本能が勝手に怯えてしまう。

「父さんはお前を怠けさせるために公立へ入れたわけじゃない。もちろん分かってるよな、幸」

 名前を呼ばれる度に肩がびくりと震える。もう殆ど条件反射だった。頭で考えるより前に言葉が飛び出す。

「ごめん、なさ、」

「分かってるか分かってないかで聞いてるんだ」

「わ、分かって、ます」

 一家の中で一番偉い、だから敬語を使うのは当たり前。痛みと共にしつけられたルールが、恐怖を伴って口調を矯正する。

「分かってたら、何でこんな順位が取れるんだ?」

 太ましく皺のある指が、机上の『中間試験結果』と書かれたプリントを指さす。

「黙るな!」

 叩かれた机が大きく揺れる。さっきから、ずっと前を向けない。父親が怖いのもあるけど、目線を上げたら情けなく涙をこぼしてしまいそうで。

「……まだ、そのみっともない癖も直ってないのか」

 言われて、口の中へ微かに広がる鉄の味に気づく。どうしてだろうか。この躾がなっていない子どもみたいな爪噛みの癖は、よりにもよって家族の前で出ることが多かった。

「ご、ごめんなさい」

 慌てて左手を離し、唇が『い』の形から戻る前に、学ランの襟へ腕が伸びてくる。

「そうやって謝れば良いと思ってるだろ? 何だその親を舐めた態度は! お前はいつも俺を怒らせやがって!」

 激しく揺さぶられた振動が、また勝手に謝罪の言葉を引き出す。それが父親を逆上させるだけだと分かっていても、心の中の恐怖が本能に従ってしまう。

 最初は成績のことで怒られていたはずなのに。いつもそうだ。最終的に何に対して謝っているのかよく分からなくなる。単に脅威的な怒りの感情に対する、形だけの言葉なのだ。

 不意に胸ぐらを掴んでいた父親の手が止まった。と思ったら、次の瞬間には天井のLEDライトが視界に現れていた。

「もういい。お前は、してろ」

 それがリビングの床に叩きつけられたのだと分かったと同時に、後頭部へ遅れて打撃痛がやってくる。だというのにいつもの、のワードだけで痛みと恐怖でぐちゃぐちゃの身体が立ち上がろうとする。眩暈めまいが脳髄を揺らすが、「早くしろ!」の怒鳴り声で、殆どもつれ込むようにリビングのドアを開けた。

貴恵たかえ!」

 ドアを閉じると同時に聞こえたのは、リビングの隅で空気のように立ち尽くしていた母親の名前だった。

 廊下の重い空気が首筋を撫でてくる。また父親を刺激しないようそっとドアノブから手を離して、フローリングに膝をつく。

 。リビングから玄関へ続く薄暗い廊下で正座をする罰だ。父親の許しが出るまでは、食事もトイレも許されない。まだ寒い季節でなくて良かった、と的外れな慰めが脳裏を掠める。

 痛みも怒声も自分を襲わないけれど、少しずつ自分の何かが削られていくような、そんな時間だ。

『私のせいばっかりにして! 私が亮と幸を育てるのにどれだけ苦労してると思ってるの?』

うるさい! そう言うんだったらな、もっと外へ出すのに恥ずかしくないような育て方をしろ! あんな情けない息子を持って……』

 ドア越しに怒鳴り合う声が、まるで耳の近くで交わされているような音量で届いてくる。そのうち母親の泣き叫ぶ声やら殴られる音やらも聞こえてくるだろう。

 フローリングとぶつかる脚の骨が痛い。

『しょうがないじゃない! あの子の出来が悪いんだから、私に何ができるって言うの?』

『それを何とかするのが母親の役目だろうが!』

 かり、かり、がり、

『仮にもお偉い大学教授様なんだから、自分の子どもの勉強くらい見てやったら!?』

『俺はお前と違って忙しいんだよ! こっちの問題をそっちに押し付けて来るな!』

 かり、がりっ、


『────!』

『───、──────! ─────!?』

 脚が痛い。眠い。


『─────────!』

『! ───!? ─────、』

 お腹が空いた。


『───! ───!』

『───────────!』

 かりり、がりり、


「…………ごめんなさい、」

 がり、かり、かり、


 かりっ、がり、かりり、


          *


「幸って花粉症やっけ?」

 学ランから覗く細い指がぴしりと指さしたのは、自分の口元に張り付いた白い不繊布だった。

「いや、違う」

「ふーん、じゃあ風邪でも引いたん?」

 天来が不思議がるのも無理はない。六月の今では、花粉症も風邪も対策をするには季節外れだ。

「そんなところ」

 ざらざらとした布の上から左頬をそっと撫でた。マスクが隠しているもの──唇の横に広がる、赤紫色の痣には気づかれてはいけない。

 何故だか分からないけど、特に天来には知られたくない、という思いがあった。

 普段は見える所に傷をつけるようなことはされないのに。お陰で暑くなってきたにも関わらず、汗ばむ湿気に耐えてマスクを着けなくてはいけなくなった。

 また父親の転勤があるかもしれないから、という理由で、近くの有名私立ではなく公立中学に入れられてからはや一年と少し。少しは勉強について何も言われなくなるかな、なんて淡い期待は大いに裏切られている。

 天来はふーん、と雑な相槌をひとつ返して、もう興味を失ってくれたようだった。

「明後日さあ、幸って塾無いやんな? どっか行かへん?」

 マスクから興味が逸れたと思ってほっとしたのに、また自分にとって不味い話題だ。

「ごめん、明後日は」

「あれ? 明後日って木曜やろ?」

「そうなんだけど……もうちょっと増やすことになって。明後日はその説明を聞きに行く、みたいな」

 自分にとっては行きたくもないイベントだったが、両親に決定された以上、最優先事項になってしまうので仕方ない。

「だから明後日は僕先に帰ってるから。ごめん」

「へえ、中学入ってから英語の塾?も行ってるのに、まだ行くん?」

 不思議そうな顔で、疑問符だらけの口上を返される。

「えらい勉強熱心やなあ」

 その言葉には、どこか揶揄やゆするような声色だった。

 そうやってからかってくることは天来にはよくあることだし、事実、同じように揶揄られることもあった。でも、今日だけは何故か。そのおどけた声音と訛りが、妙にしゃくに障った。

「あれ、幸?」

 何も言わずにいると、機嫌を伺う子猫のような眼がこちらを覗き込んでくる。微かに感じた苛立ちとそれに伴う申し訳なさが、勝手にぶつかった視線を逸らした。

 どうしよう、と思った矢先に濃灰色のブロック塀が目に入る。いつもの分岐点だ。

「……じゃあね」

 自分勝手な八つ当たりが声に出てしまう前に、さっさと足先を左へ向けた。

 一人で歩き出した以上、もう振り返れない。その分、ぎゅっ、と締め付けられるような罪悪感だけが確かに残っていた。


          *


「あのね、中村くん」

 そう前置きされたのは、六月も下旬に差し掛かった頃。短縮授業でいつもより早まった放課後の、少し騒がしい職員室の中だった。どこからか持ち出したらしいパイプ椅子に座らされ、目の前には自分を呼び出した若い女性の担任。きょろきょろと落ち着きなく彷徨さまよう眼鏡越しの視線が、『今から聞きづらいことを聞きます』と告白している。

「最近、マスクしてるよね。……給食の時に見えちゃったんだけど、その痣はどうしたのかな?」

 左頬に痣を付けられてから二週間程。体育の時ですら絶対にマスクを外さずに耐えて過ごしてきたが、流石に隠し切れなかったみたいだ。少し怯んだが、言い訳は用意できている。マスク越しにもはっきりと読み取れるくらい、分かりやすく笑顔を浮かべた。

「この前、家で転んでぶつけちゃったんですよ、机の角に。変な痣出来たんで、みっともなくて隠してました」

 多少苦しいかな、とも思ったけれど、こう押し通すしかない。まさか本当のことを言えるわけでも無し。

「そうだよね。ちょっと目立つ痣だったから、もし誰かに虐められたとか、おうちで何かあったとかだったら大変と思って確認したかっただけなの。本当にごめんね?」

 おうちで何か、の数文字にぴくりと背中が震えたが、何とか抑え込む。

「心配ないです。クラスも皆仲いいし、家でも何ともありません」

「そうね。それに中村くんの親御さん、すごく教育熱心な方だものね。三者面談の時なんて先生より受験のこと詳しくって、驚いちゃった」

「……まあ、熱心、に入るのかもしれないです」

「あんなに勉強しっかり見てくれるなら、中村くんも心強いでしょ」

 無邪気に笑う担任を見て、他人から見たらそう見えるのかと、頭の奥が冷える思いがした。いつもそうだ。外面だけ良い両親や兄は、何も知らない大人たちからすると、精々教育熱心なエリート一家にしか映らないらしかった。

 心の中で小さなため息をついていた、その時。

 担任の背中越しにこちらを見つめる瞳があった。

 それは覚えのある、とても覚えのある視線で。大きめの学ランを羽織った、小柄な男子生徒。少し離れたところにある机の傍に立っていた、

「入山」

 呼びかけた太い声には聞き覚えがあった。確か二つ隣のクラスの、天来の担任。

「じゃあ、親御さんに給食費のことちゃんと言っておいてな?」

「はーい、分かりました」

 抜けた拍子で答えつつも、どこか視線の端に自分を捉えているような様子が窺える。

 向こうもそろそろ職員室を出るようだった。このままでは同じタイミングで廊下へ向かうことになってしまう、

「あの、先生」

「はい?」

「ついでに、って言ったらあれなんですけど……昨日の宿題で分からない所があったので、教えてもらっても良いですか?」

 気の良い担任は笑顔で首肯してくれる。別に何かやましいことがあるわけではないけど、頑張って隠していた痣を知られた後に顔を合わせるのは何となく嫌だった。

 少しのやり取りを交わして礼を言った後、罪悪感と共に二つ隣の席を見やる。あの見慣れた金髪はもうどこにもなかった。

 予定より時間がかかったな、と溜息をつきながら職員室の引き戸を潜り抜けた。

「……なあ」

 その瞬間、もう行ったと思い込んだ人物の声が聞こえてくるものだから。

「幸」

 振り返ると、壁の掲示板にもたれかかる天来の姿があった。

「……帰ったんじゃなかったの」

「どうせ一緒なんやから待っとこ思ったんよ」

 問いかける声に僅かなとげを含んでしまう。天来は何も悪いことなんてしていない、ただ自分が我侭わがままに当たっているだけなのに。

「話、長かったなあ」

 そう何気なく話しかけて来る彼の、首元が目に入った。

 明らかにサイズの合ってない、誰かからのお下がりらしい制服。それが包む痩せた首筋。

 何故、天来に痣のことを知られたくないのだろう。と、自分の中でも不思議に思う感情が無くは無かった。しかし、その首元を目にした瞬間に理解してしまった。

 天来は『普通』には育てられていない。ここで言う『普通』とは、ご飯を一日三食くれるとか、着た服を洗濯してくれるだとか、むやみやたらに暴力を振るわれないとか。ごくごく当たり前のことだ。天来が直接言ったわけではないけど、彼の様子を見ていればすぐに分かる。

 それに比べて自分は──朝と夜に一汁三菜の食事が用意されている。毎朝、清潔な制服が用意されている。教育費だけなら、一般的な家庭よりもよっぽどかけてもらえているだろう。裕福な家庭。教育熱心な両親。人はそれを見て、『恵まれている』と言うのかもしれない。

 だから怖かった。父親に殴られて、母親になじられる生活を心の底から忌み嫌っていることを知られるのが。

 ──天来に、『それくらい何だよ』って思われるのが怖かった。

 こんな落ちこぼれの、根暗な自分と仲良くしてくれる天来。自分にとって大切な存在に、自分を捕らえる大きな呪縛を否定されるかもしれない。それがどうしようもなく恐ろしかった。

「……幸?」

 不思議そうな声音で呼ばれた自分の声に、心ここに在らずな状態であったことに気付く。

「どうしたん? ……なあ、」

 こちらを覗く視線は、先ほどまで話していた担任のものとよく似ている。

「さっき、先生と何喋っとったん?」

 芽生えた卑屈な感情に気付いたばかりの自分が、核心をつく質問に答えられるはずもなかった。

「宿題のこと」

「そうやなくてさぁ、その前の……」

「っ、悪いけど、」

 飛び出したのは自分が思っているより大きく、陰険な怒りを含んだ声。天来は何も悪くない。悪くないのに、自分の中で勝手に積み上げたマイナスな感情が、汚泥のように流れては止まることを知らない。

 あぁ、嫌いだ。

 どこまでも自分勝手で、子どもみたいに当たり散らすことしかできない自分が。

「今日、もう帰らなきゃいけないから」

 次に発した声は打って変わって冷たく、突き放したような声。急ぎの用事なんてないのに。上履きを履いた足を急かす必要なんて有りはしないのに。

 後ろめたさが、天来の表情を窺うことすら許さなかった。最後に何か呼びかけられた気がしたけど、そこで振り返れるような自分だったら、こんな意味のない八つ当たりなんて最初からしていない。


          四、


 自分以外に起きている人がいない空間では、何となくLEDの室内灯をつけるのははばかられる。だから、夜中に勉強する時につけるのは机上のスタンドライトだけだ。

 それが照らすノートには、今しがた取り組んでいる志望大学の過去問が、いくつもの図や方程式と共に弄り回された痕がある。

 今日の数学の問題はいつもより幾分か難解に感じられた。もう考えるのも疲れたし、残りは明日にやるか。そう思い立って欠伸をひとつすると、背後にあるドアがノックされる音がした。

 びくっ、と肩を震わせると、返事を待たずにノックの主が自室へと入ってくる。

「……お母さん、まだ起きてたの」

「ふふ。幸、こんな夜遅くまで頑張ってるみたいだったから。はい、これ」

「あ、ありがとう」

「頑張ってね。お兄ちゃんと一緒の大学、行けるようにね」

 母親はそれだけ言って、満足気な笑みを浮かべて部屋を出ていった。

 渡されたのはマグカップ。中身は淹れたての、見るからに濃そうなブラックコーヒーだった。

 まるで寝ようとしていたのを見張られているみたいで。

「……っ、」

 眠い、明日も学校があるのに。そんな思いとは真逆に、乾いた唇はコーヒーを一口すすった。だって台所の流しへと捨てに行くわけにもいかなかったから。苦く、胃に穴が開きそうなほど重い。

 二口目の代わりに口元へ持っていかれたのは、左手の親指。

 かり、と聞き慣れた硬い音。いつか直るだろう、と思っていた爪噛みの悪癖は、十八の齢を迎えても続いていた。流石に家族含め、他人の前ですることだけはどうにか止めることができた。その反動なのか、一人の時に噛む回数が増えてしまったけれど。

 例えば、こんな時。親からのコーヒープレッシャーに押しつぶされそうで、弾けてしまいそうな時──。決まって、鉄の臭い交じりの硬い感触を、赤ん坊のように唇が欲するのだ。


          :*

 冬に歩く独りぼっちの通学路は、一際身体がみるような思いがする。といっても普段は誰かと帰ってる、などということがあるはずも無く。こごえたアスファルトの上を並ぶ相手も居らず、黙々と歩くだけのルーティーン。

 比較対象はいつだったかの、と言えるくらいには近くない昔の話。わざわざ待ち合わせまでして。毎日飽きもせず、二人で顔をつき合わせて帰った思い出。脳の片隅にしがみつくそれが、頬を撫でる冬の風をより一層冷たくする。

 高校は流石に天来と一緒の所へは行けなかった。それ以前に、詰め込まれた放課後のスケジュールと、あの時職員室で取ってしまった乱暴な態度のせいで、彼とは段々と疎遠になってしまっていた。

 受験生だった中三の頃など、一緒に帰った記憶が殆ど無いに等しいくらいだ。隣市の私立高校へ進学した自分とは違い、地元の定時制に通うらしい、ということだけ耳にした。

 それでも、まったく天来の顔を見ないわけでは無い。

 学校から三十分ほど電車に揺られていると、家の最寄り駅へ着く。今から違う電車に乗り換えて、塾に向かわなければならない。

 丁度反対路線の電車も到着したらしく、ホームは二つの電車から降りた人々で途端にごった返す。

 歩きながらリュックサックに単語帳をしまおうとすると、黒髪交じりの煌めく金髪が目に入った。

(……あ、)

 じっと見つめていると、向こうもこちらに気付いたようだ。視線のぶつかった瞳が細められ、微妙に丈の足りない袖から覗く手が、二、三度こちらに向けて振られる。反応しないと、とまごついてるうちに、天来は電車に乗るところだったようで、学ランの背中があっという間に電車の中へ消えていってしまう。

 時々、こうして駅でばったり会うことがあった。といっても立ち話をできるほど長く留まれることは無く、こうやって向こうがちょっと無言の挨拶をしてくれる程度だ。昔自分勝手にキレた引け目があって、それに挨拶を返せることは無かった。

 金平糖のように小さな後悔が、心をチクリと刺しながら山を成していく。それでもあの背中を追いかけることなんてできなくて、ただ機械のように乗り換えの改札へ向かわなければならない。

 塾までは精々十分かからないくらいで、単語帳を少し捲っていればすぐ着いてしまう。駅を降りてすぐ目の前のビルがその塾の場所だった。

 今日の講義は何だったか、と頭の中でスケジュールを確認しながら靴を履き替える。

「中村くん、ちょっといいかな」

 丁度スリッパを履いてたたきを上がったところに声を掛けてきたのは、スーツを着た塾講師の一人だった。

「あ、はい……。何ですか」

「この前の模試の結果が帰ってきたから。渡そうと思って」

 ひと月ほど前に受けた、塾で実施された模試を思い出した。はい、と軽く返事を返しつつ、塾のロゴが入った茶封筒を受け取る。

「センターまであとひと月くらいだけど、これで気を落とさないで、最後まで頑張ろうね」

 。と。人の良さそうな笑みと共に、確かにそう言われた。それだけで──、茶封筒の中身、ひいては今日帰宅した自分の処遇。そのすべてを察することができてしまったのは、伊達に『中村幸』として十八年生きてはいない、ということなのだろうか。


          *


 ある程度想像はできていたけど、珍しく母親にまで暴力を振るわれるとは思わなかった。父や兄に比べたら大した痛みでもないけれど、張られた頬はじんわりと後から痛みを滲ませてくる。

「ねえ、何? この判定は。あんた一体夜中まで何勉強してるの?」

 茶封筒の中身は思ったより酷いものだった。前回、第一志望の判定結果はCランクだったが、今回はEランク。といっても読んでみる限り、自分の成績がひどく下がったわけではなく、周りが伸びているのに対して追いついてないのが理由のようだけれど。

 それでも判定が悪くなって、自分が怒鳴られている事実に変わりはない。

「……僕、ちゃんと勉強して、」

「だったらどうしてEなんて酷い判定が出るの? 塾の人があんたの点数を間違えたって言うの? ねえ、どっちが現実的? お母さん、何か間違ってること言ってる?」

 矢継ぎ早に飛ぶ疑問符に、何ひとつ答えを返すことはできない。

 母は家族の男性陣に比べて、暴力や怒声で自分を怯えさすようなことはしない。むしろ今だったら、自分の方が力で押すことができるだろう。

 それでも反抗ができないのは、こうしてねちねちといやらしく言葉で責めてくるから。昔からそうだ。お母さんは間違ってない。幸が全部悪い。その前提を崩さずに、自分が謝るまで延々と続くお説教。それに対して、拗ねた幼稚園児のように俯いて、ぼそぼそと反論にもならない尻すぼみな声を出すことしかできなかった。

「お兄ちゃんなんて、この時期にはもうB判定くらいは取ってたのよ? それを、何? こんな調子で、本当に合格できると思ってる?」

「……ごめんな、さい」

「謝るくらいなら最初から勉強しなさい!」

「ごめんなさい……」

「もう止めてよ! あんたのフリだけの『ごめんなさい』はもう聞きたくないの! 本当にこの子は、謝れば済むと思って!」

 だって謝らなきゃ終わらないじゃん。そう言えればどれだけ楽だろう。

「私やお父さんがこんなに頑張って大学合格させようとしてるのに、あんたは……! 本当に昔からそうね、やる気無くって、お母さんたちが言った通りの成績も出すことができないじゃない!」

 『頑張って』。機嫌がいい時は夜食なんて出してみちゃったりして、機嫌が悪ければ怒鳴って殴って。それを『頑張って』と言うなら、世の中にパワハラなんて言葉は存在しないんじゃないか。

 口の中で外へ飛び出そうとする不平不満。言えない。唇が震えて思うように動いてくれない。代わりに膝の上で握られてた拳にぎゅうっと力が入る。かじむしられて無い爪が、掌に食い込むのが分かった。

「本当に……こんな出来が悪い子ならいっそ、うちはお兄ちゃん一人で十分だわ! そうだったら親戚に面目も立ってたのに! 私だってお父さんに怒られることなんてないのに!」

 ──瞬間、何かが切れる音がした。

 今、この女は何て言った? こんなにも言いなりになって頑張っている自分に対して、『お兄ちゃん一人で十分』?

 母親はまだ何か喚いていたが、不思議と何ひとつ音として自分へ届くことはなかった。ただ、相も変わらず自分を否定する内容であることは分かる。

 お父さんみたいな立派な人に。お兄ちゃんみたいに良い学校へ。それだけ言われて、勉強、勉強、勉強……。自分の意思なんて殺して生かされた。そんな自分の、僕の存在意義を否定するんだ、この母親は!

 じゃあどうして自分は生きている? 家族の言いなりになってまで、どうして存在してる?

 

 あ、そうか。死ねばいいんだ。


 ふと、そう思った。親の意のままに育てられ、苦しめられ、その親が自分を否定するのであれば……。さっさと死んでしまえば、家族は一家の落ちこぼれを掃除出来て大喜び。自分は親や兄のくだらないプライドに二度と付き合わなくて済むんだ。

 そう思い至ったら、ますます母親のヒステリーなんて耳に入らない。自分を攻撃する怒鳴り声から身を守るように、ただ頭の中で死ねばいい。死ねばすべてが終わる。そう繰り返すだけだった。


          *


 その晩のうちに、明日には死んでしまおうと決意した。思い留まる理由が無かったからだ。

 ベッドの中で目を閉じながら死ぬ方法を考えていた。どうせ最近は目を閉じてもなかなか眠れなかったので、考え事をするには好都合だ。

 首吊りは縄をかけられる場所が思いつかない。睡眠薬は生き残ってしまうことが多いと聞いたことがある。焼死は考えるまでもなく苦しそうだ。

 なかなか決められなかったが、ふと明日も学校へ行かなければいけないことに思い至った。隣町にある学校へ行くためには、電車を使わなければならない。

 耳障りなアナウンスと共に迫る鉄塊。黄色い点字ブロックを乗り越えてしまえば、自分は物言わぬ血肉の飛沫ひまつになれる。

 そうだ、飛び込みにしよう。朝はラッシュとぶつかるからホームが混んでいる。夕方塾へ行く時にしよう。

 まるで遠足の目的地に行くための道のりを考える時のような、そんな高揚感。深夜という時間帯も相まって、自分は完全におかしくなっていた。おかしいことに気づいていてなお、狂った思考に身を任せようとしている。

 ある程度の算段をつけると、心のどこかが安心できたのか、眠気が心地よく包み込んできた。うつうつと、瞼が重くなってくる。

 朝が待ち遠しいなんて思ったのは、一体いつぶりだろうか。


 いつも通り、日が沈み始めた最寄駅のホームで電車を待っていた。

 近くにある高校の制服を着た女子たちが、人目も気にせず騒いでいる。お年寄りが杖をついて階段をゆっくり降りている。大学生らしき男が、怠そうに頭上の電光掲示板を確認している。すべてがいつも通り、平日の夕方の駅でよく見られる光景だった。

 いつも通りの自分なら、単語帳でも開いて電車が来るのを待っているはずだ。でも、手袋をはめた手は落ち着きなくダッフルコートの表面を撫でている。ふたつの眼の玉も厚いレンズ越しに柱に据えられた時計を何度も確認していた。自分だけが、いつもから取り残されている。

 もう、いつ役に立つかもわからない英単語を詰め込む必要は無い。息苦しい塾の机上でシャーペンを走らせることも、数字の羅列を持ち帰って怒鳴られたり殴られたりすることも無い。それだけで、こんなにも晴れやかな気持ちになれる。コンクリートの足場を踏み外すくらいはなんてことない程に。

 遺書も書いた。授業中に教師の目を盗んで、破ったノートの切れ端に走り書きで一文。『もう勉強したくない』とただそれだけ。今はスクールバッグの外ポケットにしまい込んである。

 書かなくてもいいかな、とも思ったけど、単なる事故と思われるのもなんとなく癪だった。自ら死を選んだのだと、それだけ思い知らせたかったから。

 きいっ、とごく遠くの方でブレーキ音が聞こえ、それに被さるように天井のスピーカーから電車の到着を告げるアナウンス音も響く。黄色い線までお下がりください、なんて聞き飽きた文句。普段ならほとんど無意識に一歩後ろへ下がっているところだが、今日ばかりはその注意に耳を貸せなかった。

 逆に半歩前へ踏み出したりして。そんな情けない背徳感。

 ブレーキ音が強くなるより前に、点字ブロックを踏み越えた。その先は冷たい線路が走るだけだと言うのに、まっすぐな廊下を歩いてる時と同じ足取りの迷いの無さ。

何も怖くはない。あるのはただ、死という終焉がもたらす一筋の光。


これで、全部終わり。


「────、」



 誰かに呼ばれたような気がした。踏み出した右足が一瞬の迷いを見せる。


「──幸!」


 気がした、じゃなかった。大きな声で呼ばれたのは、確かに自分の名を表す二文字。同時にスクールバッグを持っていない右手が強く掴まれ、後ろに引かれていることに気づく。

 いつの間にか電車はとっくに止まっていて、すぐ目の前に銀色の金属壁があった。乗客が降りる波の中で振り返って、右手に感じる熱の持ち主を確かめる。

「たから、」

「お前っ……! 今何しようとしとった⁉」

 そういえばこの時間に駅へいると、たまに天来と会うんだった。それがよりによって今日と被るなんて、と真っ赤な頬を見ながらぼんやり思う。

「何って、電車……」

「そんな酷い顔して、電車止まってへんのに歩き出して、何がっ……!」

 酷い顔。目の前で声を張り上げて怒る天来の方がよっぽど酷い顔に見えるのに。自殺衝動を止められた反動なのか、自分のほうがかえって冷静だった。

 電車が行ったばかりのホームで大声を出すものだから、周囲がちらちらとこちらを窺っているのがわかる。

 強く握っていた右手を左手に持ち替えて、天来は改札の方へ爪先を向けた。相変わらずぎゅっと握られた右の手首は引っ張られるような形になる。

「定期出し、出るから」

「お前、学校……、あるん、じゃ、」

「休むわ、そんなもん!」

 結局、ダッフルコートのポケットに入っていた定期入れを勝手に取って握らされる。

 改札を出たらまた手を掴まれた。もう二度と離すまいとでも言うように強く、強く。

 駅の外は一段と冷え込んでいた。天来はこちらを見やることも無く、コンクリートの地面を大股で蹴る。分厚いコート越しにもわかるくらいの寒風が吹き付けてくるのも構わずに。

(……久しぶり、かも)

 そう思ったのは、呼び起こされた昔の記憶のせい。手こそ繋いでなかったけれど、わざわざ待ち合わせまでして、二人並んで夕闇の中を帰ったこと。

 小学四年生でこちらに引っ越してきてから、ずっと二人で一緒に通学路を歩いた。それこそ、今日みたいに寒くったって。逆に太陽が強く照りつけてくる時だって。クラスが別々になっても、進学してもそれは変わらなかった。自分のスケジュールと子どもじみた八つ当たりのせいで、自然と無くなってしまったけど。

 こうやって二人で住宅地の歩道を歩くのは、随分久しぶりだった。

「────、」

 そう自覚した瞬間、自分が泣いていることに気づいた。知らない間に涙がぼろぼろ零れていて、もう涙ぐむなんて表現では足りないくらいだ。

 さっきまでは死にたいと思う気持ちばかりが胸を駆け巡って、このまま弾けてしまうんじゃないかと思うくらいだった。それが今涙に溶けだして、一気に薄れていくのがわかる。希死の涙は吐き出すだけで苦しい。それ以上に、四肢を縛り付けていた鎖が一本ずつ錆びて砕けていくような開放感。

 暫くは連れられるがままに歩きっぱなしだった。すれ違う人に時々怪訝けげんな目で見られることもあったが、当然だろう。それなりに大きい男子高校生が手を繋いで歩いて、そのうちのひとりは泣いているんだから。

 天来の歩くルートはめちゃくちゃで、三回連続右に曲がったりとか、同じコンビニの前を二回通ったりとか、そんな調子だった。多分、とにかく連れ出さなきゃとでも思われていたのだろう。その間、駅を出た時から変わることなく強く手が握られていたから、それが嬉しいということ以外何も思わなかった。

 左手で零れるしずくを拭っても追いつかずに、眼鏡のレンズが汚れて前が見えづらくなった頃。前を往く早足は、最寄り駅からかなり離れたファストフード店の前で止まった。

 入ってすぐのところにあるテーブル席へ「ここで待っとけ」と座らされる。注文口に向かって歩き出した黒いアウターの背中を、自分でも泣きはらしたと分かる重い瞼越しに見つめていた。

 暫くして戻ってきた手には、いくつかの商品が乗せられているトレーがあった。やや乱暴に机上へ置かれたそれを確認すると、ハンバーガーが二つにLサイズのポテト、ケチャップが一つ。

「ん」

 ハンバーガーの包みと共に差し出された一音は、『これを食え』ということだろう。

「お金……」

「食え、アホ」

 それだけ言って、分厚いポリエステル素材の袖から覗く右手は、もうひとつの包みを開けた。その声に押されるような形で、おずおずと包装紙を外す。

 よくある全国チェーン店の、薄っぺらいハンバーガー。小さく齧りつくと、甘いケチャップと脂っこい牛肉の味。

 ジャンクフード独特の濃い味を舌先へ感じた瞬間、少しは収まったと思った涙の波がまた双眸そうぼうを襲ってきた。バンズの縁を小さく齧った後、少しも食べ進めずに止まってしまう。

「なあ」

 既に三分の一程食べ進めている天来が、口端についたケチャップを舐め取りながら呟きを漏らす。こうやって顔を合わせて話すこと自体、随分と久しぶりだった。

「何しとったん、あんな危ない所でフラフラして……」

 どうも、傍目にはぼんやりして歩いていただけにも見えたらしい。先ほど言われた『酷い顔』と、ここに来るまでに流した涙のせいでただの不注意とは誤魔化せなくなっていたけど。

「……ごめん」

「どうして謝るん? 俺は理由知りたいだけなんやけど」

 やや強い語尾でそう問われ、思わず怯んでしまう。気が弱っているせいなのか、脂の味で誘発されて堪えていた悲しみが、また実を結んで落ちそうになる。

「別に責めとるんとちゃうけどさ。友達が電車来とんのに、線路に向かって歩いとったら心配もするやろ。理由くらい聞かせてや」

 ともだち。しんぱい。ああそうか、自分は今友達に心配されてるのか、と遅れた自覚がやってきた。

「歩いとったら泣くし……、無理に言え、とは言わへんけど」

「ううん、ごめん。……天来の思った通りだ。線路に、……飛び込もうと、してた」

 改めて宣言した自殺企図に、小さく息を吞む音が聞こえた。

「何で、そんなこと」

「言われたから」

「……何を?」

「子どもなんかお兄ちゃん一人で十分、って言われたから」

 前髪越しに見えた天来の顔は、いささか不可解そうな表情を浮かべていた。説明とも言えない説明だ、理解しろという方が無理がある。

 殆ど独り言に近い回想を、トレーの上に落とす。

「二人の……親の思い通りになったのはお兄ちゃんだけだって。僕はいっつもできなくて、苛立たせてばっかりだって。昨日模試の判定見せたら、散々言われたよ。僕なりに頑張って勉強した結果だったのに」

「…………」

「僕、塾だって志望校だって全部お母さんたちの言う通りにしてきたのにさ、受験勉強だって毎日頑張って……、それでも期待外れだって言うんだよ。そんなの、そんなの……僕にこれ以上どうしろって……」

 それ以上の言葉は出てこなかった。家族に対する恨みつらみはいくらでも湧いて尽きないはずなのに、いざ言語化しようとするとままならない。

「僕って、一体、」

 そう呟いたのを最後に、重い沈黙が流れる。性懲りもなくまた落ちそうになる涙をこらえるのに必死で、手つかずの冷めたフライドポテトを睨みつける。

「……幸、」

 静寂を破ったのは、天来の方だった。

「俺には幸んちのこと、よう分からへんけど……。勉強のこととか、親に色々言われて辛いってこと?」

 肯定の意味を込めて、首を縦に振った。

「そっか」

 短い返事を返されて、今さらながら胸の鼓動がいやに音を大きくし始める。四年前に脳裏をよぎった不安が蘇ってきたからだ。

 そんなことくらい。ただ教育熱心なだけ。そう思われたらどうしようと。

 それを今さら思案したところで、ここまで吐き出してしまった以上は後の祭りだ。

 縦に丸い猫目が、一瞬テーブルの上に視線を揺らした。

「幸の親も会ったことないし、俺には想像できひん世界やけど……。幸っていっつも澄ました顔しとって、不満とか悪口とか全然言わへんやんか。だから今の聞いて、お父さんとお母さんにいっぱい言われとるんやなって思うし。本当にしんどいんやろうなってのも、分かるわ」

「……本当?」

「うん。大体、もう死んだ方がええって思ったくらいなんやろ? だったら本当はどうであれ、幸がそのことで苦しんでるのは事実やんか」

 否定されなかった、という安心を通り越して、拍子抜けしたくらいだった。何だ。あの時『理解されなかったらどうしよう』なんて思い悩んだのは、全部杞憂きゆうだったんじゃないか。

「俺さ。幸のこと、高校行ってからもずっと気になっててん。もっと言えば、中学くらいから家で何かあったんかなーって思っとったんやけど。……あの、ほっぺたの痣のこと」

 二人で一緒に帰らなくなった、例の原因のことだ。

「俺の聞き方が下手なせいで、幸のこと怒らせてしもうて……。でも、ずっと気にしとったから。ちょっとやけど、こうやって話して、幸の口から思っとること聞けて良かった」

 優しく、穏やかな声色。演技でもなんでもなく、言っている内容が天来の本心であることを示していた。

「言ってくれてありがとう。あと、ごめん。中学ん時もそうやし、今日も駅で人おるのに怒鳴ったりして……。多分、そういう無神経なとこよな」

 迷惑をかけたのは明らかに自分の方なのに、それでもなお優しい言葉をたくさん並べてくれる。昔に比べて少しえらの張った大人っぽい顔立ちが、変わらない思いやりを滲み出していた。

「ぁ、何で、天来が謝る、ん……」

 相変わらず子どもじみた反応しかできない自分は、お喋りの下手な幼子のように、切れ切れに言葉を吐き出した。

「僕の方こそ、……ううん、僕が全部、悪かった。あんな態度取ったりとか、いつも手振ってくれたのに無視して……。ごめん。本当にごめん」

 ようやく言えた数年越しの謝罪に、今日何度目かの涙の波が襲ってきた。天来と話すのも久しぶりだというのに、何回も泣いてばかりで情けない。

「ええよ。幸も苦しかったんやなって、今分かったから」

 謝罪が受け入れられたこと、初めて人へ自分の辛さを吐き出せたこと。根元の黒くなった金髪から覗く、昔からずっと変わらない、僅かに釣り上がった子猫のような瞳。すべてが、綿のように柔らかく、暖かだった。

 自分と天来の間に、またも沈黙が訪れた。しかし先ほどのように重苦しいものではなく、自分が嗚咽を漏らして泣き続けるのを、ただ包み込んでくれるだけの静寂。

 冬の夜は早い。透明なガラス壁からは、濃藍色に塗りつぶされ始めている空が、ただ静かに沈んでいた。


 冷めたハンバーガーとフライドポテトを片付けて店を出る頃には、帰路へ着く車が道路を埋め尽くしていた。響くエンジン音に、それくらい時間が経っていたのだと悟る。

 一緒に店のドアをくぐった天来が、「ん」と右手を差し出してきたのに気づく。

「……、何?」

「手、もう一回繋がんでも大丈夫?」

 そう言う口元は、明らかにからかいを含んで笑っていた。

「繋がない、バカ」

「照れんなって」

 泣いて赤くなった目元とは対照的に、軽口を叩く口角は自然と角度が上がってしまう。

「……でも、一個ワガママ言ってもいい」

「何?」

「歩いて帰りたい。電車使わずに」

 ここから二人の家がある辺りまでは、数十分を要する。それでも歩きたかったのは、やっぱりいつまでも心の中で染み付いている、一緒に帰った記憶のせいだ。

「奇遇やな」

 そう言って、天来はにやりと悪戯っぽく笑った。

「俺も歩いて帰りたいなーって思っとったとこ」

 二人で改めて顔を見合わせて、もう一度笑って。凍みたアスファルトの歩道を歩きだす。

 ──結局のところ、何も解決はしていないわけで。家に帰ったらまた勉強しなきゃいけない。天来だって、あの酷い扱いを受けていた家に帰らなくてはならない。それでも、夕方までの汚泥が身体を埋め尽くして破裂しそうな、あの苦しい感情は随分と影を潜めていた。

「天来」

「んー?」

「……ありがとう、今日。止めてくれて」

 照れくさくてマフラーに語尾を沈めてしまった、心からの感謝。

「ええよ」

 寒い夜を一緒に歩いてくれる友達が居る。ただそれだけで、あの家に帰って、明日を迎えるという選択をする理由には十分なんだから。

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みにくいアヒルの子たち/雪六華 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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