リン 19歳 港町5
港町 22
御年七十余になるシャオ老師が見たものは、彼の怒りの許容量を充分越えるものだった。
床に倒れる重症患者、暴れたことがわかる乱れた寝台、血が滴る腕を押さえた女、床に転がる血の付いた剣。
老師が入室する少し前に男の怒鳴り声がした。
先に病室の戸を開けたのは偶々訪れていた役人。
患者の身元は怪我を理由に役所に伏せたまま。何度聴取に来られても面会謝絶を通していた。
港町では外からの客が度々やってくる。目の前の二人のような身元を伏せた者が。
声が聞こえてしまっては仕方がない。
しかし、彼なら悪いようにしないだろうと判断し、案内していた所だった。
「診療所で怪我をこさえるんじゃない、馬鹿たれがっ!」
近年張ったことのない大声で、叱りつけた。
リンが自分でつけた腕の傷はすでに血が止まり、治りかかっていた。
普通では考えられない治癒速度に傍で見たスエンは声なく驚いていた。
それでも目につく傷であることにかわりはない。
シャオ老師は治療を施し、包帯で隠した。
リャンはというと、特に問題なし、とのことで再び病室で横になっている。
腕の処置を終えると、リンとスエンは治療所を追い出された。
二人の目的であったリャンは再び面会謝絶。
後日に改めろ、と老師の言葉だ。
昼をとっくに過ぎ、一日で一番賑わう時間帯。
荷を運ぶ商人、品を物色する観光客、忙しなく歩く町民、いろんな人が行き交っている。
人通りの多い路地をスエンとふたり、とぼとぼと連れ立って歩く。
その間、スエンの視線がリンの腕と剣を落ち着きなく行き来しているのがわかった。
酒場までの短い距離が遠く感じる。
「痛くないのか?」
「もう殆ど治ってる。ほら」
包帯を巻いた腕を軽く振る。引きつる感覚さえない。
一晩寝たら傷痕さえないだろう。
隣を歩いていたスエンの足が止まる。
振り返ると、スエンは痛ましげに顔を顰めていた。
「…………間違いじゃないのか?」
「だったらいいのにな……」
スエンが疑うのは理解できる。
一般的に知られている魔憑きは、完全に乗っ取られ、理性を失い暴れ回る。時には姿形をも変える個体もいる。
一目でリンを魔憑きと見破る者はいないだろう。
神官のように、魔の匂いを嗅ぎ分ける能力がない限り。
今の所、リンを魔憑きと一目で見破ったのは地方神官のロアンだけだった。
「見えねぇ、んだが?」
「普通にしてればな。でも知ってんだろ、力とか……」
「…………あー、御前試合の時か」
「前の俺はあんな動きできなかった」
魔に取り憑かれた影響で身体能力は跳ね上がり、生身の人間ではありえない域に達していた。
大の男を打ち負かす怪力も、獣より速く動ける脚力も、暗闇でも衰えない視力も、すべて魔によって齎された。
「だから、嬉々として剣握ってんのか」
「それは元からだけど」
「元からかよ」
港からの荷は朝早く解かれ、昼一番の新品が軒を連ね、我も我もと客たちが押し掛ける。
小腹を満たすために食べ物を扱う店に人集りが出来ていた。
狭い路地を行き交う人の足は絶えず賑やかだ。
頭上には店から店へ渡された提灯がぼんやりと光っている。
まだ日が落ちるには早いが、小路は陰で暗がりになっている所為だ。
小路で何人かとすれ違うが、道幅が狭くとも聞き耳を立てる者などいない。
リンとスエンの間に沈黙が流れる。
潮を打ち消す酒と香の匂い、時折響く笑い声。
すぐ近くにあるのにまるで別の世界のように遠い。
「それで……」
「何所行ってたんだ! 早く手伝っておくれよ」
どちらが先に口を開いたのだろうか。だが、それを掻き消す女将の声に遮られる。
いつの間にか酒場の前まで来ていた。
待ちわびていたと言わんばかりに、女将がリンの腕を引く。
店内は大きな体の男たちで埋め尽くされており、席も厨房も目が回る忙しさだ。
「やっと来たか不良娘」
「色男と一緒とは妬けるじゃねーか」
「女将、もう一杯注いでくれや」
客たちがリンを見つけると、陽気な赤い顔で囃し立てる。
リンたちを肴に飲もうという。
すっかり出来上がった男たちに向けて呆れた息を漏らす。
「しょうがねえ兄さんたちだなあ」
急いで厨房脇にかけてあった前掛けを腰に巻き付け、狭い席と席の間を縫うように酔っぱらいたちを捌いていく。
粗方配膳が終わると、出入り口で突っ立っているスエンに声をかけた。
「今日は巻き込んで悪かったな。食っていくだろ。詫びに一皿奢るから」
「いいや。今日は帰る」
軽く手を振って役場の宿舎に足を向けるスエンを一瞥して、リンは仕事に戻った。
一瞬、こっそり暗い光を目に宿していたことに誰にも気づかれずに。
リンが『魔憑き』であることを告白してから一晩明けた。
早朝に起き出し、いつものように宿泊客を捌き、店の中を掃除、客室を整え、昼前に娼婦たちと賄いを食べる。
いつも通りの日常。
おかげで頭も冷え、落ち着きを取り戻した。
姦しい娼婦たちを同じ卓にいても考えるのは昨日のこと。
きちんと説明をしていなかったと思い返す。
リンは嘘を隠し通せる程器用ではない。そもそも下手だ。
特に子供の頃から付き合いがあるクロウやリャンに嘘がばれなかったことはなかった。
正直に話すしかないのだが、頭に血が上ったリャンは聞いてくれるかどうか。
こっそり溜め息を吐いた。
開店からしばらく経って老師の娘が顔を出し、リャンが待っていると聞くや否や、手伝いもそこそこ、愛剣だけを持って診療所へ向かった。
昨日の今日だ、機嫌が良いわけがない。と、扉を開ける手が止まる。
大きく深呼吸をして取っ手に手をかける。
意を決するが、ひとつとても気になる事案を解消せざるを得なかった。
「なんでいるんだよ」
リンはちらりと横に並んだスエンを見る。
「事情聴取」
着ているものはいつもの役人の支給服ではない。
いつも通り、昼食をとりに店にふらりとやってきて、先程までちびちびと独り酒をしていたので非番だと思っていた。
役人の非番は休みではないらしい。関わった手前、同席するという。
「休みの日に聴取とは、仕事熱心だな。赤い顔して」
「ついでだ」
「何のついでだよ。担当じゃねぇって聞いた気がするんだけど」
「ついではついでだっつってんだろ!」
スエンは顔を更に真っ赤にして話を終わらせようとする。
恐らく酒だけの所為ではない。
意地っ張りなスエンをこれ以上揶揄っても正解は貰えなさそうなので、この辺りが止め時だ。
結局、スエンもリンについて病室となっている部屋に入室する。
病室には寝台が並んでいおり、部屋に染み込んだ薬草の匂いがふわりと鼻に届く。
窓際の最奥の寝台には、もはや病室が住居となっていたリャンが、明かり取りの窓から差し込む光を背負い、寝台の側面に座って体を拭いていた。
よく見ると、リャンの腕から大袈裟に巻かれていた包帯が取れていた。骨折を支えていた添木が外れたようだ。足はまだだが、隣に松葉杖があるので歩行可能と見ていいだろう。
顔色は良くないが、一月前に比べたら確実に回復している。
入ってきたリンたちに気づくと緩んだ表情を改めた。
「誰だ、アンタ?」
ほぼ初対面のスエンにリャンは怪訝な色を浮かべる。
基本誰にでも友好的に接するけれど、知らない土地ということもあり、警戒心が強い。体が万全でない為、余裕がないのだろう。
「俺の友人だよ」
「友人ねぇ……?」
今はまだ役人ということは伏せておく。下手な勘繰りをさせたくない。
リャンは細めた目でスエンを見据える。
値踏みでもしているかのようだ。
「あっそ」
興味を失ったようにスエンから視線を外す。
そのまま標的をリンに戻した。
真っ直ぐ見据えるリャンの目にたじろいでしまう。
リャンの首についた真新しい痣が目を引く程度に目立つ。
つい目を逸らした。
「昨日の続きだ。答えてもらう」
「…………」
左腕を摩る。
剣でつけたはずの傷はたった一日で塞がった。包帯はもう外れている。
リャンも腕に目を止め、ちっと吐き捨てた。次いで溜めた息を吐き出す。
訓練や戦闘中以外では常に余裕を崩さないリャンにしては珍しい荒々しい態度。
可愛い恋人の前では荒んだ一面を絶対見せないのに、と胸中で呟くが口に出さない。図星を突いて睨まれるのがオチだ。
普段は緩いくせに説教の時だけ兄ぶるリャンに、リンはツンと横を向いた。
答えづらくはあるけれど、答えないわけではない。
言わずに済むなら、言いたくなかった。
「詳細」
「……もう話しただろ」
「起こったことの詳細を正確に報告しろっつてんだよ!」
「…………」
渋々頷いた。
さすが『猛将』ルオウの甥なだけある。
リンも騙すのは本意ではない。
「ちょっと待て」
「うん?」
振り返るとスエンが眉尻を下げていた。
「それは、俺が聞いていいのか?」
「帰ってもらって構いませんケド?」
確かに、役人であるスエンに聞かれるのは拙い。
魔憑きが町中、しかも二年間も潜伏していたのだ。
どんな事情があろうが即逮捕即追放案件である。
今仔細を黙っていても、すでに見られているし知られている。
ついでに、港町の管理を任されている地方神官であるロアンも知っている。
なら、本当のことを知ってもらった方がいい。
友人なのだから。
「どこから話すかな……」
「あの夜のことから」
「この間も話しただろ」
「見落としがあるかもしないだろ」
「
あの夜、邑に大嵐が襲った夜。
多くの住民は神殿に避難しており、巡回の兵から強風で壁が崩れて魔が邑に侵入したと知らせがきていた。
神殿に詰めていた兵士たちの多くは応援に現場へ走った。
リャンもその一人だった。
「あの時、おまえは神殿にいたはずだった」
「ああ。クロウに止められて、神殿で待っているように言われてた。だけど、巡回に出ていた兵士が帰って来ないって聞いて、探しに行ったんだ」
「そう聞いてる」
「それで……、それで…………」
リンの言葉が途切れる。
言いにくい、という様子ではない。
記憶をひとつひとつ探るように視線を彷徨わせ続きを手繰り寄せる。
「北の門の前に、ジジェが倒れていて……」
「北の門?」
リャンの目が丸くなる。続いて眉間に皺を寄せる。
ジジェとはあの夜に邑を囲む壁沿いの巡回をしていた兵士のひとり。
リンは目を瞑り、その続きを思い出そうとする。
しかし、何も浮かばない。
魔に憑かれたことは漠然と受け止めているのに、経緯がわからない。
いつ魔に襲われたのかも、どうやって身の内に潜ませたのかも。
捻り出そうとすると黒い靄に邪魔される。
「気づいたら崖から落ちてた」
「崖から……!? 良く生きてたな!」
横からスエンが驚きの声を上げた。
普通の人間が崖から落ちたら、まず命はない。
魔憑きだからこそ今生きている。
記憶が抜けている自覚はあるが、今はこれ以上思い出せない。
「溺れてた所にこの町の漁船に助けてもらって今に至る」
「運がいいのか、悪いのか」
「悪いだろ。魔憑きだぞ? ……リャン?」
ずっと難しい顔で黙っているリャンを窺う。
正確な説明も出来ない不出来な弟分に怒っているのか。
「……ジジェは、北門の前にいたんだな?」
「え、うん。暗くてよく見えなかったけど、門の前だった」
「西側じゃなくて?」
「さすがに西門とは間違わない」
邑の西門は、神殿の目と鼻の先。
リンには広くジジェを探した記憶と、周囲に家名持ちの邸があった風景が浮かんでいる。
「そっか」
「ジジェを見つけてからの記憶が飛んでるんだけど。ジジェって、帰って来たか?」
「……いいや。おまえらふたりとも帰って来ないから、ふたりで逃亡したって噂も出た。クロウ様が否定してすぐ消えたけど」
「そう、なのか……」
リンは魔憑きとなって生きているが、ジジェは恐らく助かっていない。
崖から落ちたときはリンひとりだったし、暗い雨の中倒れていた同僚は剣を握れない程弱っていた。
「…………?」
何かが引っかかる。
ジジェの傍らに何故剣が落ちていたと思い出したのだろう。
彼は見回っていただけなのに。
北の門の前で魔に襲われたのだっただろうか。
「魔憑きになった経緯は……」
リャンに問われるが首を振る。
暗い雨の夜から光が照り返る大荒れの海に至るまでの記憶がぽっかりとない。
「だよなー」
「リャンこそ」
問い返すと、リャンは人ごとのように肩を竦めた。
「海に投げ落とされるまでは意識あったんだけどなあ」
「おまえもかよ」
同じ経験をしている師兄弟に、スエンは呆れた声を上げる。
「だからリャンも俺と同じで、魔憑きかと思ったんだ」
「生きてるから? 酷い有様だったけどなあ」
「この剣が違うって教えてくれた」
「……クロウ様の特別な剣だもんな」
リンが持つと剣身が微かに淡く光っている。
剣のおかげでリンは魔に飲み込まれずに過ごしていた。
リャンが触れても変化がない。つまり、リャンの中に魔はいない。
仮にいたとしたら、リャンの怪我は既に治っていることだろう。
「なんにせよ、憶えてないんだな」
「…………そうみたいだ」
あまりに違和感なく記憶が繋がっていたから指摘されるまで気づかなかった。
口に出してみると不自然だったのに。
不安に襲われ、ぎゅっと袖口を握りしめた。
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