邑 24 (アイリ視点)

ミアンをフォウに任せて見送った。

不安で真っ白になっていた顔色も、落ち着きを取り戻してほんのり赤みが戻った。

アイリよりも先に帰ることに恐縮しきってあわあわしている様子も愛らしかった。

思い出し、ふふっ、っと笑みが溢れる。


「アイリ?」


横に並んでいるメイに不信者を見るような目を向けられていた。

メイは友人だ。

イ家の娘としてではなく、アイリというひとりの人間として見てくれる。

同い年ということもあり、隔てのない関係を築いている。

ただ、思い込みが強いところがあり、アイリを多少の毒舌ではあるが完璧な淑女だと信じている節がある。

光栄であり、そうありたいと思っているが、事実だとは言い切れない。


そもそも完璧な淑女とはなんなのか。

アイリに母はいない。アイリを産んでしばらく後に儚くなってしまった。

現在カンの妻を名乗っているのは四人目の女性。兄妹の誰とも血の繋がりはない。

夫に逆らわず、ワンリやアイリとあまり関わろうとしない。

次兄のサイリと会話をしているのを何度か見かけたくらい。

やや卑屈で、邑に来たことを後悔しているという愚痴を何度聞いたことか。

家名持ちの美しい令嬢だったはずが、今では実年齢より老け込んで見えることもある。

アイリの身近に見本となる淑女がいないのだ。

夫を立て、美しく着飾り、常に微笑みを絶やさないという世間で言われる理想の女性はアイリの目指す淑女ではない。

しかし、異性に請われる淑女とはそういうものだという。

まるで人形ではないか。

アイリは人形になる気などない。けれど、立ち回りを間違えれば潰される。

だから周囲が望む淑女を演じた。

儚げに微笑むだけで皆勘違いしてくれる。

今はまだ、虚像の衣を脱ぐ時ではない。


「書庫に寄っていいかしら」

「いいけど。そろそろ日が暮れるわ」

「外に護衛を待たせているから大丈夫よ」


メイと護衛のライを伴って神殿内を歩く。

書庫があるのは執務室がある宮。メイの職場もそちらだった。


「さっきの話、本気なの?」

「さっきって?」


ライが口を挟む。

護衛とはいえ女性が着替えている部屋に入ることはできない。

三人の会話を知りようがなかった。

恋人とその友人という間柄の所為か、気安くなっていたのだろう。


「アイリってばさっき……」

「そのお話は神殿内(ここ)でするものではないわ」


人気がないとはいえ、何所で誰が聞いているかわからない。

メイは慌てて口を噤んだ。


「噂になったらあっという間に広がるわ。気が弛んでいるのではないの?」

「……そうね。気をつけるわ」


もし、カンの間者が聴いていたら、増々メイとミアンが危険に晒される。アイリの命も危うくなるかもしれない。

あの男は、自分の野心の為なら利にならない身内をも切り捨てる。

赤髪を持つサイリばかり可愛がり、嫡男であるはずのワンリを蔑ろにしているのが証拠。

ましてや、政敵となり得る家の娘なら……。

想像だけでゾッとした。


「メイ、あなた」

「な、なに?」

「神殿内でもひとりでいるのは感心しないわ」

「大丈夫よ。衛兵だっているし」

「まさか、帰り道も一人で歩いているなんて、ないでしょうね?」

「すぐ近くよ。働きにきているのだもの。ライだって……」

「メイ」


アイリはメイの手をぎゅっと握った。

ふわりと柔らかな香がメイの鼻をくすぐった。

爽やかだけれど甘い、アイリの雰囲気によく合っている。

メイの頬が仄かに朱色に色付いた。


「知らない人についていっては駄目よ」

「小さな子供じゃないんだから……」

「たとえわたくしの侍女や護衛であっても、返事をしては駄目。何処かに行く時は必ず神殿の衛兵に付いてもらいなさい」

「アイリ?」

「あなたに何かあったら、わたくし……泣くわよ?」


友情を盾に取った脅しだ。

隣のライも驚いている。

情に厚いメイには、とても効果のある言葉。

アイリは滅多に泣かない。最後に涙を流したのはいつだったか。

けれど、嘘ではない。

大切に思っている友人に何かあって、気丈でいられる自信などない。


「本当よ」

「アイリ……」

「ご心配いりません。メイはオレが必ず守りますので」

「ライ……」


胸を叩くライにメイは胸を高鳴らせた。惚れ直したのだろう。

頼もしいとは思うがアイリの心は動かない。


「まあ、羨ましいことですわ」

「いつもなら二人で警護に当たりますから、心許ないかもしれないけど」

「そういえば。フォウはひとりで大丈夫かしら」


邑では基本二人一組で警備に当たる。

ライの相方のフォウは小柄を生かした戦法で活躍を見せる軍人だ。

ミアンの護衛についている為、しばらく別行動をしている。


「その方、腕がよろしいのね」

「ええ。特に弓が得意なんです」

「アイリ、フォウを知っているの?」


魔に素手で対抗するのは無謀過ぎる故、邑の住民は皆何かしら武器が扱える。

軍人ともなれば扱える以上に長けているもの。

アイリは『腕が良い』と断言したことが気になったようだ。


「妃候補の護衛に選ばれるのだもの、先代様に信頼される程の腕を持っている、ということでしょう?」


フォウは放置街出身のリオンに救われた子供の一人。

武術の訓練を始めた頃から特にリーに懐いていた。

何にでも一生懸命でクロウの信頼も得ている。

少し前にあった魔の森でのリー捜索にも加わっており、ボロボロになりながらも帰還した。

仲間を失ってもクロウを守るという気概と、魔を目の当たりにしても折れない精神力を持っていることも評価されている。

ライは自慢げに相方を語った。

だからミアンのこともしっかり守る、と言いたいのだろう。


書庫に着くと、ささっと目的の冊子を手に取った。

妃候補として神殿に上がるようになってから何度も通った部屋だ。

イ家の邸の蔵書は殆ど読み尽くしてしまい、新たな書物が欲しかった。

女に文学は不要と考えるカンは、アイリに書物を与えなかったので、これ幸いと神殿に行く度に足を運んだ。

おかげで書庫までの道のりは完璧に憶えた。

神殿の書庫は宝の山。

アイリが読んだことのない書物で溢れていた。

多くが魔に関することと神官に関すること。どんな力があるか、過去の偉業や成り立ちなど、細かく分かれている。

中には落書きかと思われる走り書きが雑にまとめてあるものまであった。

特に咎められないので好き勝手に読んでいた。


「楽しそうね」

「あら。顔に出ていたかしら」

「素のあなたを知っているからよ。面白いの?」

「ええ。とても興味深いわ」


書を読むことが好きだが、内容が面白ければ尚良い。

借りた冊子を抱いて書庫を出た。

執務宮の外廊に出た途端、ねっとりとした風が肌を撫でた。

ついと空を見上げる。


「あら、お天気が崩れそうね」


いつの間にか青かった空が厚い雲に覆われている。

まだ暗くなりきってはいないが、間もなく雨が降るだろう。


「お邪魔したわ。お仕事頑張ってくださいな」

「ええ。気をつけて」


メイたちに見送られながら護衛のもとへと急ぐ。

邑は海が近い所為か一度の雨量が多い。

雨に捕まると視界が悪くなり、すぐ近くでも見えなくなってしまう。

安くない襦裙が泥塗れになるのも避けたい。

黒い雲がどんどん近づいている。


「降られる前に家に着けば良いのだけど」

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