邑 23 (ミアン視点)

神殿内の控室に案内され、茶で濡れた襦裙を着替えた。

付き添ってくれたメイに替えの服を貸してもらう。薄い黄緑色の襦裙、神殿で働く女性の衣装だ。

元着ていた襦裙を畳み、じっと濡れた箇所を見た。茶は濃い色でなかったので染みにはならなそうで安心した。帰ったらすぐに洗わなければならない。

数えるまでもない枚数の衣装を大切に着ているのだから。

着替えはひとりで行った。途中で、メイが護衛のライに呼ばれて席を外したからだ。

ミアンの生家、ハ家は家名持ちが集まる邑の北区に住居を構えているが、都から移住してきた者たちより蓄えが少ない。

地方出身であることも起因しているが、元々の地位が低く要職に就くこともない。神官の血が混じっているといっても何代も遡る。

家では自分のことは自分で。女中はいるけれど、家内を切り盛りしてもらっていて、ミアン一人に付いているわけではない。

なので襦裙は一人で着られる。

お礼も言わず帰るのも忍びないのでメイを待つことにした。

襦裙を抱え、一人掛けの椅子にちょこんと座る。


白い壁と朱塗りの柱。

何度訪れても神殿は緊張する。

ましてや、美貌の神官や麗しい妃候補たちとお茶をするのは恐れ多い。

神官は勿論、アイリとメイだって、ミアンにとっては雲の上の人。

緊張でいつも味などわからなかった。

舌が縺れて何を喋っているか混乱するし、きちんと話せているかも不明だ。

けれど、ミアンの話をアイリはにこにこしながら聞いてくれる。


「優しい人、なんだろうなぁ」


イ家のお嬢様のアイリ。家柄も血筋も最上の姫君。

神官の妃は彼女以外いない。

詳しくは知らないけれど、メイは名前だけの候補者だとわかる。

ミアンが候補になったのも、地方神官のロアンの推薦があったからに他ならない。

そうでなければ、特別美しくも教養もないミアンが選ばれるはずがなかった。

見目の良い二人は並んでいるだけでため息が出る程美しい。

見た目だけでなく優れた頭脳を持っていて、発言にも知性が表れている。

理想の夫婦になれるに違いなかった。


「なんで私なんか……」


マオが殺されても、神官の妃選びは中断されなかった。

アイリもメイも拒否しなかった。できるはずもない。娘というのは家長の命令は絶対。

父でありハ家の家長のトゥンは降りるつもりがなかった。

もとより降りられるはずがない。

ミアンをクロウの妃にと宛てがったのはロアンだ。

トゥンもミアンも否を唱えることはできない。

だが、今になって後悔している。

あの日から数日後、ミアンの家に石が投げつけられるようになった。

目撃者はなく、誰も見ていない時間帯を狙って行われる。

ミアンや家族に直接当てられたわけではない。

もしかしたら、風が運んできた魔の悪戯かもしれない。

直接的な被害にあったわけではないので、誰にも言えずにいた。

もし、マオが『妃候補だから』狙われたのなら。

怖くなり妃候補を辞めたくなった。

妃になるのはアイリしかいないのに、いつまで茶番のような見合い期間を設けるのだろうと愚痴めいた思いが浮かぶ。


「入って良いかしら」


扉の外から声がかけられる。

メイが帰ってきた。


「は、はい!」


返事から間を置かず扉が開く。


「大丈夫かしら、ミアン様」

「!?」


驚き過ぎて声が張り付く。

メイはアイリを伴って戻ってきた。

東屋にいるはずの麗人が、そっとミアンの傍に寄る。


「あまりお話しできなかったので来てしまいました」

「あ、アイリ、様」

「なあに?」


柔らかく微笑むアイリに胸が高鳴った。

華やかな美貌が間近に迫る。

やっと解放された緊張が舞い戻ってきた。


「し、しん、神官様は……」

「神官様はお忙しい方なので、すぐにお暇しましたわ。ミアン様が心配でしたし」

「し、しんぱい……」


頬が熱い。沸騰しそうだった。

生粋のお姫様に心配させてしまう自分は、なんて罪深いのだろうとさえ思ってしまう。


「お話ししてればいいのに」

「したい話はしてきたわ。この茶番ももう終わるでしょう」

「あら。クロウ様は妃を決められたのかしら」


メイに喜色が浮かぶ。

アイリと仲の良いメイは、アイリが確実に妃になれるよう働きかけているように見えた。

心配しなくてもミアンは妃になるつもりはない。

妃になれる器量も度量も持ち合わせていない。

推薦者のロアンと父の顔を立てていただけで、アイリたちと並んで候補者を名乗っているなんて烏滸がましいとすら思っている。

やっと終わるのだ。


「妃にはミアン様が選ばれるでしょう」

「えぇええ!?」

「はぁ!?」


狭い部屋中にミアンとメイの悲鳴が響く。

驚いたライたちに扉越しに声をかけられたが、何でもないとアイリが冷静に収めた。


「なんでそうなるのよ。妃はアイリがなるんじゃないの!?」

「初めからそんなものになる気はないわ」

「どうしてよ!?」

「どうしてって……メイ、神官様とわたくしが並んでいるところを想像できて?」

「絵になるってくらいにできるわよ!」


ミアンも同意だと何度も小刻みに頷いた。

しかし、アイリはお気に召さなかった様で、溜め息を吐く。


「神官様には、わたくしよりも相応しい方がいらっしゃるわ」

「それが、ミアン様だと?」


それはない。

アイリの足元にも及ばないのに、神官の妃に相応しいはずもない。

今まで感じたことのない緊張で掌が濡れる。


「まさか! ミアン様の魅力を欠片もわからないあの方には勿体ないわ!」

「え……?」

「…………とにかく、わたくしは神官様の妃にならないわ」


こほんと咳払いをして締めくくる。

アイリが嫌だと拒むなら、ミアンに反対はできない。


「なら、クロウ様のお気持ちはどうなるの……?」

「メイ?」

「クロウ様にあなたへの想いを捨てろと言うの!?」

「神官様のわたくしへの想い?」


メイの剣幕にアイリはきょとんと首を傾げた。

神殿の女中であるメイは、ミアンたちでは知り得ないクロウの気持ちを知っているのだろう。


「神官様は、わたくしを小賢しい女くらいにしか思っていらっしゃらないわよ?」

「嘘! 私聞いたのよ!? クロウ様があなたに愛してるって」


ミアンは思わず持っていた襦裙を顔に押し付けた。

顔が熱い。耳まで真っ赤だ。

自分ではなくても、顔見知りの恋愛話は照れてしまう。

妃候補と言われても現実味などまるでなくて、クロウもアイリも、自分とは違う世界の人物だった。

まるで、物語の『片翼の翼人』のような運命の相手なのだと。

だから、ほらやっぱり、という感想しか湧かない。


「……それ、わたくしにではないわ」

「ふたりでクロウ様のお部屋にいたでしょう!?」

「相談に乗ってもらっていただけよ」


アイリは否定するけれど、メイは譲らない。

クロウとアイリが隣り合う姿は素敵だとは思うけれど、ミアンから見てもクロウからアイリへの思慕はないように思える。


「神官様が想いを寄せてられているのはおひとりだけよ。その方についてお話させて頂いたの。憶測で決めつけるのは止めてちょうだい」

「ひとりって、まさか……」

「その方が戻っていらっしゃれば、わたくしたちはお役御免ね」


その『ひとり』が脳裏に浮かぶ。

明るくて気さくで、堂々としていて、とても強い人。

クロウが心を許す唯一の人。

二年前に突如行方が消えた。森に住む魔に喰われたと言われている。

あの夜を思い出して、ミアンは背中にゾッと冷たいものが走るのを感じた。


「で、でも……かえ……なかったらわ、わたしが……」


名指しされてミアンの顔は蒼白。

緊張を通り越して倒れてしまいそうだ。

呼吸が上手く出来ず、わなわなと唇が震える。


「家名持ちで残るのはミアン様だけになってしまうわ。他のお家の女性は、まだ成人前だったり、すでに結婚されているから」


目の前が真っ暗になった。

アイリとメイが候補から降りたら、残るのはミアン以外いない。

魔が住む森に攫われて帰って来た人は皆無。

二年経っても帰って来ないのだから期待は絶望的。

それ以前の話、どう足掻いてもミアンが妃になるしかない。

『リー』は男性なのだから。


「大丈夫ですわ、ミアン様」

「え……?」


アイリがミアンの手を握る。

柔らかな感触に弾かれたように顔を上げた。


「妃になるのが不安なのなら、手を尽くしましょう。わたくしを信じて?」


にこりと微笑むアイリと目が合う。

指から伝わる熱で、胸までじんわりと温かくなった。


「はい……」


アイリの声色はすべて身を任せてしまいそうなほど優しい。

まるで母親のように、姉のように、無条件で信じられる。

一方、穏やかな雰囲気を醸すふたりを隣で見ていたメイの目は冷めていた。


「なんだか、詐欺師みたいね……」

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