邑 14 (アイリ視点)

早朝から邸の至る所から騒がしい声が上がっていた。

空はまだ薄闇で陽が昇るまでまだ数刻ある。

邑の中でも、神殿を除いて一等広く大きな邸であるイ家。

一番大きな北の殿が邸の主であるカンの宮。

主に騒いでいるのはここだ。

西奥にあるアイリの宮まで聴こえているのだからよっぽどのこと。

なにかあったのかと侍女に尋ねると、ト家のソンが騒ぎながら神殿に向かったという。

何でもマオが自室の離れからいなくなったらしい。

アイリは溜め息を吐いた。

いつかこうなる予感はあった。


「あの人は何しているの?」


アイリの言うあの人とは父親であるカンのこと。

もうずっと、十何年もアイリはカンを父と呼んでいない。


「ご当主さまは日が昇った頃に神殿へ参内すると準備をしておいでです」

「……わたくしも行くわ。それと、誰か遣いをやってくれる?」

「どちらに?」

「ハ家へ」




邸の門の前に俥が二台用意されていた。

カンと、アイリ用に頼んだもの。

牽くのはもちろん人。車輪がついた興から伸びている取っ手を牽いていく。

一台に乗って待っていると、悠々と歩くカンが現れた。

アイリがいるとわかると、鋭い眦を丸くさせた。


「おまえ来る場所ではない。戻りなさい」

「わたくしがいる方が何かと都合がよろしいかと思いますが」

「…………女がしゃしゃり出るものではないぞ」


ふんと一つ鼻を鳴らしたあとはさっさとアイリに背を向けて、俥を走らせるよう命じた。

置いていくつもりだったとしても関係ない。

力づくで止められない限りは勝手にさせてもらう。

牽き手にあとを追うよう指示を出す。


カンは賢しい女を厭っていた。

アイリが口を挟めば、あの女に似て、とアイリを産んだ女性を引き合いに出して蔑んだ。

アイリの自我が目覚める前に亡くなった女性を出されても困るのだが。

生前、余程カンの自尊心を傷つけたのだと想像できるくらいにしか母親を知らない。

女が学術を修得して何が悪いのか。

歌は褒めるのに詩を詠むと途端に機嫌を損ねる。

あの男は、女は着飾り朗らかに笑っていれば良いだけの人形だと思っている。

アイリがカンに見切りをつけたのは早い頃だった。

未だカンの庇護下にいるのは、彼の目的とアイリの目的が同じだから。

残念な事に、都では女性の地位は高くない。

都よりはましだけれど、元は都の人間だった所為かその傾向にあり、女性の官吏は殆どいない。

目的のためにカンを利用するのが手っ取り早いと踏んだのに。


「困った殿方が多いこと……」


カタカタと音を立てて前を走る俥を見た。

要請があったわけでもないのにカンが神殿へ行く理由は一つしかない。

候補者が一人消え、アイリを正式な妃へ後押しするため。

神殿はそれどころではないだろうに、カンは好機と捉えたようだ。

候補者の一人であるメイは、アイリたちの監視役。

カンは知らなかったようだが、メイには他に将来を誓う相手がいる。友人のよしみでアイリは聞いていた。

もう一人の候補であるミアンは義務的に選ばれた。

父親のトゥンは元地方神殿勤め。リオンの兄である地方神官から推薦されれば候補に入れないわけにもいかなかったのだろう。

神官の血を持つ家名持ちの中でも有力候補だったマオがいなくなり、混乱の中、妃に相応しいのはアイリしかいないとカンは押し切るつもりなのだ。

それは悪手だというのに。



到着した場所はもちろん神殿。

衛兵たちが慌ただしくしている様子から、既に事が知られたことを悟った。

妃候補の身分を出しても中に入れそうもない。

案の定、門の前で止められた。

しかし、カンは構わず衛兵を振り切って神殿の内部へ進んでいく。

何が起こっているか詳細を知りたいけれど、おそらく望めない。

邸に戻るか、カンを追うか逡巡する。


「あ、アイリ!」


呼ばれて振り返った先には、同じく妃候補のメイがいた。

メイの父親は神殿の官吏で、彼女も神殿の女中として働いている。


「こんなに早く、どうしたの?」

「あなたも早くからお務めご苦労様」

「もしかして、お父様が慌てて出て行ったことと関係あるの?」


メイの様子から、何かあったことすら知らされていないのだろう。

軽率に話してしまうのも躊躇われる。

そこへちょうど見知った姿を見つけた。


「おはようございます。トゥン様、ミアン様」


アイリが呼んでおいたハ家の父娘だ。

自分に声を掛けたのがアイリだとわかると、ミアンの顔に明らかな動揺が浮かんだ。

市井の民ならともかく、格式のある家柄の家人は往来で気軽に声をかけたりしない。

なのでトゥンもメイも驚いている。

だからといって、挨拶を返さないのも無作法というもの。


「お嬢様方、おはようございます」

「お、おはようございます……っ」


理由もわからず呼び出され、物々しい雰囲気の神殿に足を踏み入れるのを躊躇っていたようで、自分以外の部外者の姿にほっと安堵したようだった。


「お嬢様方もお呼びがかかったのですか?」

「私は神殿勤めです。アイリは……」

「わたくしは父に付いてまいったのです。既に内にいるようですので、トゥン様もお急ぎになられては?」

「そうですね。ですが……」


ちらりとミアンを見る。

おろおろとする娘にトゥンは眉を寄せた。

伴って来たはいいが、アイリとメイが後見人と別行動をしているので、一人残していくことに心配になったのだろう。良い父親ではないか。

ふとミアンと目が合った。

すると、びくりと大きく肩を振るわせて思い切り顔を背けた。

過剰な反応に首を傾げる。


「ミアン様、この後お時間あるかしら」

「ぇえ……!? はい。だっ、大丈夫、です」

「お茶を一緒にいかがかしら? もちろんメイも一緒よ」

「おちゃ!? え、えっと、でも…………こ、光栄です!」


ミアンは隣に立つ父親の顔色を窺い、トゥンが頷くと力一杯応じた。

力み過ぎたミアンの声が響き、衛兵が何事かと振り返る。

ミアンは羞恥で更に顔を赤くした。

初々しさが可愛らしく、アイリはくすりと自然と笑みを零す。


「ミアン様はお預かりしますわ。ご心配なされませんよう」

「では。よろしくお願いします」


トゥンは一礼をして神殿へ入っていった。

カンと、おそらくソンもいるはず。

衛兵たちも深く追求せず案内をしていく。


「ちょっとアイリ。私、これから仕事なのよ?」

「仕事をしている場合ではなくなるわよ。妃候補のあなたは」


なんのことかわからないと、メイが首を傾げる。

満足な情報を得られないままふらふらと邑内を出歩いた方が危険だ。

妃候補を名乗っている以上無関係ではないのだから。


「神殿のお庭をお借りしましょう。いかが?」

「わたしは、ど、どこでも……」

「よかった。メイ、お願いできるかしら」

「いいけど、いきなりね?」

「だって……ねえ、邑で一番安全な場所はどこ?」

「え? それは、神殿でしょ」

「そうね。だからよ。あと、人目が少ない場所がいいわ」


衛兵たちは普段よりも緊張した面持ちをしている。

三日とおかず神殿に通っていたおかげで、アイリたちはすんなりと申請が通った。

案内された場所は行政区と居住区の間にある中庭。

神官の私生活に近い場所の所為か表の喧噪も遠い。

点々と石畳が敷かれた先に小さな東屋がぽつんと建っている。

機能性を重視した建物は自然の色のままの石に、神殿であるという主張をする朱色の木の柱。余分な飾りなどない。

都の職人ならば、柱や梁を金属飾りで飾ったり、細かな模様を描いたりするだろう。

灯籠にしても、炎が灯ればよし、といわんばかりの単調さ。

それでいて整備はされているのに無駄な物がない所為で広く見える。

味気ない、否、殺風景な庭だ。

アイリがこっそり持参した茶葉と菓子、メイが用意した茶器と湯で小さな茶会を始める。

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