クロウ 20歳 邑4
邑 10
鬱蒼とした森に闇が蠢く。
大陸中の負を糧に在る魔が活発になる夜は、特に警戒を強いられる。
どんなに風が強く吹こうとも、太陽が出ている間は、縫い止められたように葉の一枚も落とさなければ、囀りさえもない。
自然の摂理が通らないのは、森そのものが魔の意思によって存在している証明である。
そんな魔の森を背後に建つ神殿は真夜中であっても明るい。
魔が避ける赤色の柱を各所に用い、光が膨張する白色の壁を基調に造られた神殿は、灯りを絶やすことはない。
常に炎が焚かれ、邑の安寧であり象徴となる存在である。
更に警備を強化し、民を脅かす魔を退ける。
神殿を守護する衛兵は原則二人一組で行動する。
万年人手不足の邑では民全員がなにかしらの戦う術を身につけている。
いつ何時、魔に襲われも対処できるように。
邑をぐるりと囲む石壁を越えてくる魔がいないとは限らない。
森の中以外にも、魔が住んでいるのだから。
魔の森には生き物が住んでいない。
生命あるものはすべて魔の糧になってしまう。
獣の息遣いも虫の羽擦れも邑にはない。
聞こえてくるのは絶壁の岩壁を打ちつける波の悲鳴だけ。
木の葉さえも魔の意思でざわめき、人心を掻き乱すのだった。
邑の祭事を取り仕切る年若い神官は、混じりのない白い髪と輝く金の瞳の持ち主。
魔を滅する炎を生み出せる彼は、大陸に存在するどの神官よりも強大な能力を有している。
叔父である先代神官が邑を興して十数年。
多大な犠牲を払って彼は邑に君臨している。いや、彼の為の邑といって良い。
つい先日、魔によって喪われた人々を癒す鎮魂霊祭の大役を終え、やっと肩の荷を降ろした所だった。
魔は生気を吸い、魂を喰らう。残された肉体は魔に乗っ取られ人を襲う。
肉体は魂の容れ物という思想が主流である為、魔に魂を喰われてしまった肉体は、魔の器になる前に処分されるのが常識だった。
屍を焼くのも神官の役目の一つ。
遺族の元には何一つ戻ることない。
彼らの心に区切りをつける為の祭事でもある。
そして今、私室の卓にだらしなく突っ伏していた。
「糞ジジィが」
呪いでも吐きそうな恨めしい声と共に顔を上げる。
こういう時は幼馴染みが傍らに寄り添い、苦笑混じりに慰めてくれるのだが、その姿はない。
失って二年も経つのに、まだ慣れないでいた。
卓の上に転がる赤い石に触れる。
歪な形の石は、炎に照らされて不規則に光を反射する。
一月前に魔の森で拾った。
持ち主の姿はなく、クロウの元に戻ってきた。
リーがいなくなる一年前にクロウが贈った物だ。
朱色を神聖視する大陸で、朱は神官のみが持つことを許されている。
類似色である紅や橙は誰もが所持できる色であるが、高価で入手が難しいとされている。
また、神官から朱や赤の品を贈られることにも意味がある。
男性へ下賜される剣や兜などの武具は、命を預けられる程の信頼を。
女性へ贈与される装飾品は、心からの求愛を。
男性に装飾品を贈ることもなくはないが、鉱石なら原石のまま、加工品なら釦や腰紐の留め具など服飾の一部となる物が。着物なら技工を凝らした帯が過去の記録が残っている。
首飾りや耳環など、華美な装飾品はない。
クロウからリーに贈った物はその類いになり、周囲と本人からの反対を押し切ってリーの手に渡った。
クロウとて、リーが男だったら剣だけに止め、装飾品など贈ろうと思わなかっただろう。
クロウにとってリーは最愛の片翼だった。
正しく求愛だったのだが、伝わっていたかは不明。
だが、石を眺めては嬉しそうにしていたので贈って良かったと心から思っている。
森で見つけた赤い石。
リーが常に身につけていた。もちろんあの夜も。
クロウが贈ったものをリーが無意に投げ捨てる等あり得ない。
森の中で落としたと考えるのが自然。
魔が人を喰うと魔憑きとなるか、森に吸収され亡骸は消える。
物も同様、魔に襲われた人が身につけていた衣服や武器なども跡形ない。
朱の類似色の赤も魔は嫌う。
赤い石だからか、二年経っても魔の気配が濃い森の中に残っていた。
同時に、リーが肌身離さず携えていた剣がなかった。
石が残って剣を吸収するとは考えにくい。
何故なら、リーの剣はクロウの力が宿っている、魔にとって最悪の剣。
片方だけがないのは不自然だった。
リーは剣を携えて生きているーー生きてると思いたい。
幼い頃から傍らに侍り、何をするのも共に育った。
今更リーなしで生きていけない程に依存している。
どれだけ月日が経っても、未だ半身が空虚で、片割れを渇望している。
成人となる十四歳で神官を継いでから見合いの申し込みが倍増した。
邑の家名持ちは多くない。
候補に、と上がる名前はいつも同じ。
移住はリオンの側近とその家族、避難民と、どこからか聞きつけてきた特権位を持ついくつかの家の者がついてきた。
特権位の家名持ちは都で出世を見込めず、リオンに期待をかけた為と見ている。
その故、都で大神官を務める実父に捨てられたクロウは彼らに舐められている。
神官と敬うのは口先ばかりで、鬼児だ異端だと陰口を吐いていることはクロウも知っている。
邑では家名持ちであっても平民であっても家格関係なく皆平等を説いている。もちろん避難民も。
彼らは納得していない。
神殿に上がることを至上とし、神官の血を家に混ぜようとしている。
その為に日夜血族の娘をクロウの妃にと見合いを持ちかけているのだった。
成人するより前、クロウの近くにいるリーやリャンを排除しようとする動きもあった。
血だけでなく側近の位置も狙っている。
信用できない者を側に置くことなどありはしないのに。
しかし、いつまでも逃げられることでもなかった。
つい数刻前のこと。
「リーが生きていると仮定して、海沿いを探すのは現実的ではないね」
「タオが言うこの港町に行くには森を迂回し、山を越えるとしたら八ヶ月から一年。最短でも半年かかります」
「半年で行けるか?」
「馬も使って夜も休まず走れば行けますよ」
「鬼かお前は」
「魔に喰われた覚えはありませんよ」
リオンの執務室でリーの捜索について話していた時だった。
遠く離れていても居場所がわかれば迎えに行ける。
気持ちは高揚し、リーが戻ってくる希望で満ちていた。
戸を叩く音と共に無粋な訪問者がやってきたのだ。
「ーー失礼する」
「先触れもなく申し訳ない」
イ家のカンをはじめ、家名持ちの当主たちだった。
神殿は誰でも入館できる。
けれど、時間的にも突撃した場所もけしてよろしいものではない。
止める衛兵を押し退けてずかずかと入室したカンは、持っていた木簡を差し出す。
見覚えのあるいつものやつだ。
不快度が一気に高まった。
「言ったはずだ。リーが見つかるまでその話はしないと」
「寝ぼけるのも大概になさいませ」
カンの冷たい叱責が飛ぶ。
それを切っ掛けに次々と不満が叫ばれる。
「子供ひとり行方不明になっただけではありませんか。それにもう二年。霊祭は終わりました。いい加減吹っ切ったのではないのですか」
「いつまで人ひとり探すのに人手も資金も提供せねばならんのですか」
「あなたに必要なのは森に飲まれた者でなく次代を産む妃ですぞ」
忠告に混ぜられた悪意を吐き出される度にクロウの目つきが険しくなっていく。
いなくなったのがリーでなければ彼らの言う通りにしたかもしれない。
けれど、リーなのだ。
必要だから探したいのだ。
他の何者にも代えられない存在なのだ。
「あなたたち。リオン様の執務室ですよ。勝手に入ってこられては困ります」
家名持ちたちの前にチェンが立つ。
普段より手を煩わされている所為もあり、声色が厳しい。
「ニの分家が、口を挟まないでもらおう」
「家格など関係ないでしょう。いつまで都の身分に縛られているのですか」
「なに!?」
「あなた方がどのような覚悟でこの地へ来たか知りませんが、神官に付き従えないのなら都へ帰っていただいて構いませんよ」
「文官風情が我らに意見するな!」
文官風情と言われ、リオンもルオウも冷静でいられず奥歯を噛む。
チェンも家名持ち出身であるが、本家と枝分かれした分家末席の出であるため、本家筋であるカンに家格がやや劣る。
彼らは都での実家の威光が抜けきらず、チェンばかりかリオンにも強気に食って掛かる。
彼ら自身は何も成し得ていないのにも関わらず。
自分たちこそが正しいのだと叫んでいる。
「互いに熱くなりすぎているな。本日のところはお引き取り願おう。後日時間を改めて……」
「先代殿に、ひとつ尋ねたい」
「何かな?」
喚き立てる家名持ちをカンが制する。
くい、と顎を突き上げてリオンに向き直る。
「そちらの要請で、私の息子やこの者たちの身内をお貸ししたのだが、誰一人として戻ってこないのです」
「そう、聞いているね」
「身内の安否もわからず、悶々とするばかり。神官殿の我が侭で息子たちは危険に曝されているのです。私たちはそちらの言い分を飲んだ。ならば、そちらも我らの要請を通してもらいましょう」
「と、言うと?」
「彼らの帰還を待たず、我々の身内より妃を娶っていただく」
彼らの言い分は尤もだった。
要求への見返りがない。不満が大きくなるはずだ。
クロウの余裕がなかった所為もあるが、隙を見せてはいけない相手だったのに今日まで放置していた。
失策だった。
家名持ちでも特権位の家柄であれば、神官の婚姻事情を把握している。
神官の妃は家名持ちでなければならない。
しかも、神官の血が混じる血族であることが求められる。
これは風習でも慣例でもなく、絶対条件だ。
神官の血は、魔を祓う炎を生み出せる特殊な血。
神官の血族が皆炎を出せるわけではない。
男児であっても炎が出せないこともあり、無能の烙印を押され、神官になることなく臣下にくだる。
神官になれるのは炎が出せる男児のみで、女児は炎を生み出せないかわりに神官の子を産む。
神官の血を持っていれば、二代三代後に炎を操る男児が生まれた稀な例もある。
邑に必要なのはただの血族ではなく次代の神官。
それ故、クロウの妃は神官の血が混じる家名持ちの『神官が産める』娘でなくてはならなかった。
家名は神殿での功績から賜ることもあるが、神官になれなかった血族が新たに家を興すこともある。
家名持ち同士での婚姻が一般的であるので、家名持ちの多くは神官の血が僅かでも混じっている。
妃になれるのは成人した未婚の家名持ちの娘。
邑で該当するのはイ家とト家、リオンの部下のヘ家、中立のハ家。
見合いの申し入れは四家以外にも来ていたが、妃に選ばれるのはこの四家からになるだろう。
特にイ家は、力の強い神官を排出する家柄で、クロウの実父の生母はイ家の姫。
特権位の家名持ちが大きな顔ができる理由の一つだった。
いくら寵愛しようと、なんの後ろ盾も血統もない平民のリーは妃になれない事情があった。
「回避は、無理か」
クロウは髪を掻き上げ卓に用意された酒入りの杯を睨んだ。
赤紫の水面に映る炎が揺れている。
酒に逃げるなど普段はやらない。
少しずつゆっくり味わう方が好みだ。
募る苛立ちを消化するには酒でも飲まなければやっていられない。
乱暴に杯を持ち上げ、一気に飲み干した。
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