港町 13

朝方、開店前の食堂の掃除をしていたリンに中年の婦人が声をかけてきた。

診療所を営むシャオ老師の娘さんだ。

娘さんはすでに嫁いでおり、町の東にある居住区に住んでいる。

週に何度か、年老いた父親を手伝っている。

母親は既に亡くなっており、弟子のいないシャオ老師を心配してのことだった。


「今日のお昼もお願いね」

「わかりました。いつもと同じでいい?」

「今日は三人前で、食べやすくて消化の良い物がいいかしら」

「承りました」

「聞かないのね?」

「まあ、こういう店なんで、噂は聞こえちゃうから」


娘さんはコロコロと笑いながら店を出ていった。

頼まれたのは昼食の出前。

毎日のように人が担ぎ込まれる診療所を一人で切り盛りしているシャオ老師を心配した娘さんが二日に一度、老師が昼食を忘れないように食事を運ばせる。

自分よりも患者を優先してしまう老師を配慮してのこと。

リンが働いている酒場から歩いてすぐなので、出来立ての温かい食事が食べられるということで、老師も気に入っている。

店も開店直後で食堂には宿泊客くらいしかいない為できるのだ。


昼前に来た娼婦たちと軽食を取り終わったリンは、彼女たちを見送りがてら出前桶を持って出かけた。

基本的に食堂で食事を提供するが、頼まれれば家まで届けることもある。

出来立てほかほかの料理を木桶に入れて、冷めないうちに届けるのだ。

利用者は殆どおらず、専ら老師専用となっている。


東の中路より二本北の路地の角、こじんまりとした建物。

酒場から診療所まで子供の足でも百歩もない。

リンが二年前に運び込まれた診療所だ。

日中は扉はずっと開いており、誰でも入りやすい雰囲気がある。

港からも近く、荷下ろしに失敗した人夫や喧嘩で拵えた怪我を負った人が毎日のように世話になっている。

入り口からひょっこりと中を窺う。

手前の広い部屋は診療室で、食事はそこに運ぶ約束になっている。

急ぎの患者はいないようなのでいつもの調子で入室する。


「ちわーっす! 老師(せんせい)、飯ですよー。今日は野菜炒めと蒸し鶏と……」


勢いよく部屋に入ると、老師と娘さんの他にもう一人男がいた。

余程の大怪我を負ったのか上半身裸で幅の広い包帯をぐるぐるに巻いている。


「あれ、お客さん?」

「珍客だ」


すでに桶から皿を取り出しており、引っ込みがつかずそのまま机に並べた。

頼まれた食事は三人前。

重症という話だったが、起きているということはここで食べるのだろう。

老師の診療所は常に人が出入りしている。

多くは港で働く男たち。力仕事をする者たちは怪我が多い。

珍客ということは、やはり例の男だろう。

様子から軍人っぽい。

屈強揃いの港町の男たちとは違う雰囲気がある。

包帯の上からでもわかる。筋肉のつき方が違う。

背を向けているので顔は見えない。

店の常連ではないとは思うのだが、見覚えのある気がした。

最後の料理を桶から取り出し、患者の前に置く。

ついでに患者の顔を見て、ぎょっとした。

男と目が合う。

知っている、この顔。見慣れた顔だった。

相手もリンを知っている。

同時に互いの名前を呼ぶ。


「リャン!?」

「リー!?」


リャン。邑で兄貴分だった幼なじみ。

同じ師につき、一緒に学び、共に戦った同志。

遠く離れた港町で会うはずがない男だ。

何故ここに? という疑問が大きくて桶を持つ手が震えた。


「リー、生きてたのか!」


知らない場所で知った顔を見つけたリャンは勢いでリンを抱きしめた。

昔から感情表現が大袈裟だが、ここまでする質ではない。

余程嬉しかったのだろう。

その顔には喜色が表れている。

無理もない。死んだと思っていた弟分がいたのだから。


「ちょ……っ、待ってくれリャン!」

「よかった、クロ……っふえ!」


リンはリャンの口を勢いよく手で塞いだ。

勢い良すぎてパンッと高い音が診察室に響く。

全身大怪我しているリャンへの仕打ちとしては容赦ない。

顔にも擦り傷切り傷と多彩にある。

だが『クロウ』という名を誰かに聞かれるわけにはいかなかった。


「とりあえず食おうか」


老師が座るよう促す。

我に返ったリャンは身体の痛みを思い出し、のろのろとリーから離れ、元の椅子に座った。

その様子が危なっかしく、リンは思わず支えてやる。

利き手は添え木をしていて肘を上手く曲げられず、逆の手に匙を握らせるまで手伝った。

リャンは少し眉を顰めながらゆっくりと粥を啜る。

口の中を切っているのか、湯気が立つ粥を熱がる様子を見せたが、吐き戻しすることなく胃に収めていく。

大袈裟な怪我だが内蔵に問題はなさそうで一先ず安心する。

聞きたいことはたくさんある。

何故、で頭がいっぱいだ。

だが今は仕事中。

常連客が来る前に、宿泊部屋の掃除をしなくてはいけないし、湯沸かし用の水汲みだってリンの仕事だ。

食事を運びに来ただけなのでもう店に戻らなくてはいけない。


「じゃあ、また……」

「リー!」


リャンに腕を掴まれた。

驚いてびくりと肩が震える。


「話がしたい」

「……まずは怪我を治してくれ」

「そりゃあ治すさ。だから話をする約束をしろ」

「わかった。老師、俺の兄みたいな奴なんだ。よろしく頼む」

「相分かった」


三人に見送られて診療所を後にした。

早足で店に戻る。

辻で人にぶつかりそうになった。

いつものリンならありえない。

混乱している。

何故ここにいる。

どうやってこの町に来たのか。

その怪我はどうした。

邑は、クロウはどうしてる。

勝手なことをして、クロウは怒っていないか。

吹っ切った筈の過去がまざまざと思い起こされ、胸の奥がぎゅっと掴まれるように痛んだ。

何故リャンなのか。

リンを探しに来たのか。

否、仲が悪い家名持ちを動かすくらいだ。

クロウが腹心であるリャンを邑の外にやるはずがない。

それともリンと同じように……

色々な憶測が頭を駆け回る。

『リー』が生きていることを喜んでいたリャン。

クロウもリンが帰ったら喜んでくれるか。

じわりと罪悪感が沸き上がる。


「…………ろ。いやだ……っ」


ズキズキと痛む胸を抑えて走った。

逃げ込むように開けっ放しの戸をくぐる。

大将に断って落ち着くまで休ませてもらおうか。

けれど、心配を掛けてしまうのも悪い。

せめて客前に出られるまで裏方に引っ込んでいようか。

いつもと違う態度を取ったら怪しまれてしまうのではないか。


「……ぉ……、おいっ!」

「!」


ふらふらと食堂を通り過ぎ、厨房へ向かおうとしていたところ、大きな声で呼び止められた。

スエンだった。


「あ、いたのか。いらっしゃい」


いつもの席でいつものように沢山の料理を注文していた。

昼時に来るということは、このあと役場へ行くのだろう。


「どうかしたのか?」


リンの様子がいつもと違うことに首を傾げた。

いつも酔っぱらいを小気味よく捌いているリンが、スエンの横を素通りしようとしていた。

どんなに忙しくしていても一言でも言葉を交わす。

おかしいとしか言いようがない。

一言で表すとしたら、余裕がない。

魔憑きに襲われても堂々と対峙していたのに、自分の思考に囚われて他所に気が回らないようだった。

声をかけられてやっとスエンがいることを認識した。

その上、おかしいことを指摘されると過剰に反応する。


「へぇ!? な、なにが?」

「……嘘つくのが下手なくせに、隠そうとすんな」

「別に……」


視線がスエンから逃げる。まともに目を合わせられなかった。

あってほしくない事態が起きた。

リン自身の問題で、他者に介入してほしくない。

動揺を悟られたくなかった。


「そういやあ、西門に現れた男の話は聞いたか?」

「はあ!?」

「…………お前がさっき行ってたシャオ老師の所に運ばれたって」

「へえぇー、そうなんだぁー」

「隠す気あンのか?」

「なんのことだ?」


わかりやす過ぎる態度にスエンは呆れた。

あからさまに恍けようとする様は、知っていると言っているようなものだ。

深く詮索する気はないらしく、この話題はここで終わった。


スエンが帰ったあともリャンが気になって仕事に身が入らなかった。

客に話しかけられても気づかなかったり、注文を間違えて出してしまうなど、いつにない失敗を繰り返し、皆に心配をさせてしまった。

ついに、呆れた大将に早々に休むよう言い渡された。

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