港町 8

男の顔はどす黒い色に爛れていた。


「魔憑き!?」


魔に侵された人間はまず精神を喰われる。

体の自由を奪われ、精力を吸われ、人ではなくなる。

中には体を乗っ取られ、人間離れした見た目に変貌する個体も出る。取り憑いた魔に操られ、凶悪なまでに人を襲うようになるのだ。

最終的には精神も肉体も魔に喰われて命を落とす。

魔は人間以外にも獣や植物、生命あるものすべてに取り憑く。

魔を宿した人間や獣を魔憑きと呼んだ。


「殺す殺す殺す殺すっ!」


男の肩が盛り上がり、腕が倍の太さになり、手の先の爪が獣のように長く尖っていく。

地面に倒れた際に崩れた髪は、更にぼさぼさになり乱れて鬣のように逆立っている。


吐く息から禍々しい黒い靄が混じる。

魔に侵され人間を何人も見てきたがこの男はもう手遅れだ。

神官の炎があっても助からない。

体の隅々、神経まで魔が入り込み、獣のような振る舞いしかできなくなる。

理性の箍が外れて制御が効かない状態まで侵されていた。

魔に完全に喰われる前にとどめを刺すことしか魔から救うことができない。


「お前が! お前が生きているせいでおれたちが惨めな思いをするんだ!」

「何言ってんだ……」

「お前のせいだ! お前のせいだ! お前のせいで! お前が! お前が神官を誑かしたせいで!」


男がリンに向かって振りかぶる。動きが先程と比ではないほど早くなっている。

紙一重でうしろに飛んで避ける。

あの爪に裂かれたら擦り傷だけでは済まなそうだ。

リンがいた場所が抉れている。


「俺一人じゃ無理だろこれ」


剣を構えているが魔に強化された力技の前では無力も同然。

この街に来てから魔に遭遇したことがなかった。

腕が鈍っているだろうし、神官の炎なしで魔憑きと戦うのは初めてだ。

勝機が見えない。


男は腕を振り回しリンを殺そうと何度も襲いかかった。

攻撃は単調で隙が多いけれど攻撃を仕掛ける余裕はない。

防戦一方で、剣で勢いを去なすか避けるかしかできない。

力任せな攻撃は一撃受けるだけで手が痺れる。

師より剣術のお墨付きをもらってはいる。

魔に挑むときは常に二人組で誰かが補助をしてくれたし、クロウの炎が魔の動きを封じていた。

この状態を切り崩す糸口が見つからない。

せめて神官の炎があれば。

魔憑きの男の方も、決定的な一撃が決まらないことに苛立っていくようだった。

動きが荒くなっていた。


攻撃を受ける度、足が一歩一歩後退していく。

港の門付近まで来てしまっていた。人目についてしまう。

明るくなった視界と共に、男が港に入っていけなかった理由を見つけた。

門前の篝火ーー神官の朱炎だ。

魔憑きだったのなら、神官の炎に怯むのは当然の反応だった。

朱炎ではクロウの白炎のように魔を滅する効果はない。

しかし魔を近づけさせない守りの炎である朱炎なら、男の動きを止められるかもしれない。

男はおそらく実戦経験がない。

邑で指導を受けていたのは放置街から来た者が多く、名家を気取る者たちは彼らと同席を嫌がり指南を受けてこなかった。家でそれなり訓練を受けたかもしれないが、魔の森へ実戦に出ていたのは元避難民ばかり。

リンももちろん前線に出ていた。

武術の腕前はリンのが上。しかし魔憑きは体力が底上げされる。

男が諦めない限り持久戦になる。

そうなるとリンに取れる手段がなくなってしまう。


男は大きく跳び、リンに向けて爪を閃かせた。

男の体が影になって逃げ場を見失った。

ただでさえ地面にいくつも穴を開けているのに、大きな衝撃を与えて港が抉れてしまいかねない。

前後にも左右にも動けずとっさに剣を両手で構える。一か八か落ちた瞬間を狙うしかない。

剣の耐久では折れてしまうかもしれないけれど、門の炎までまだ手が届かない。今はそれしか切り抜ける方法が思いつかなかった。

男を見据える目の端で何かを捉えた。


「がぁっああああーー!」


それが男に命中し、男は宙で体勢を崩して落ちた。

続いて横から流星のように赤いものが男へ目掛けて降ってくる。


「いたぞ! 矢を放て!」

「魔憑きだ、討て!」


駆けつけた役人たちが矢を構えていた。

矢の先には火がついている。おそらく神官の炎だろう。

思わぬ援護に好機を見つけた。

男は蹲り、自身を燃やす炎を手で払うが消えるどころか腕にも火の粉が移り燃え広がった。

朱炎は魔を消すことができないが、魔に反応して大きくなる。

男は腕を振り回し、必死で炎を払おうとするが、炎は勢いを増すばかりで消える気配はない。

やっと出来た好機に男に向かってリンは走った。


「ーーはあっ!」


リンの愛剣が炎を映し、煌めいた。

薄墨色だった剣身が僅かに白く発光する。

その剣先で、男の首を撥ねた。

男の体は地面に崩れた。切った断面から黒い靄が吹き出し、炎に焼かれて消えていった。

宿主がいない魔は存在を保てず消える。


「……ふぅ」


魔に憑かれた人間を討ったことは初めてではない。助けたくても助けられなかった。

初めてではないが、人を斬るのは慣れない。手に残る感触に身震いした。けれど罪悪感はなかった。魔は討たなくてはいけないのだから。

地面に転がった男の首を見下ろす。

邑では見覚えのない顔。


「名前、聞いておけばよかった……」


邑に帰してやれないけれど、商人の伝手を使って訃報を知らせるくらいはしてもよかった。

魔に憑かれた者の遺体は骨も残さないほど焼き切ってしまうのが定石。体内に魔が残っていないとわかっていても、万が一を考えてすべて灰にしてしまう。古くからの習わしだ。

何か身元がわかるものがあればと、リンは男の体を漁った。

魔に侵されていた肉体は、魔が抜けて元の人体に戻っている。

懐に入っていた短剣の鞘を手に取った。


「これは……ホ家、のか?」


邑の武具の殆どはルオウの実家のロ家が作ったもの。製作者がわかるようにそれぞれ印が彫られている。

リンの愛剣も、剣身にリャンの父であるカナンの印、後で作られた鞘にはロ家の大老の印が刻まれている。

男が持っていた短剣の印はロ家のものではない。都に大きな工房を持っていたルオウの叔父が婿入りしたホ家の印。

閉ざされた邑でホ家の武具を所持しているのは、ホ家の者。

都で鍛冶屋といったらホ家だったが、リンたちが都を出る頃は家名を賜ったばかりのロ家の人気が出てきていた。丈夫な品の量産を目的としていたホ家と、品質を大事にしていたロ家。腕に覚えのある者や収集を趣味とした嗜好人はロ家の作品を好んだ。

ホ家と懇意にしてた者かもしれないが、頑固なロ家の大老が我を通した息子を許すとは思えない。そんなはみ出した長男家族と懇意したい者は邑にはいないだろう。

男が吐露した『惨めな思いをした』という言葉から推測して、ホ家の身内しか思いあたらない。

ホ家は邑の集まりに顔を出すことが殆どなかった。ルオウの叔父なら数度見かけたことがあるが、彼の家族はまったくと言っていいほど人前に出ることがなかった。身内の恥としたロ家が許さなかった。知らない顔に該当する。

男の置かれた状況では卑屈にもなるだろう。邑を出てすぐ魔に狙われてしまったに違いない。そういった薄暗い感情を持つ人間を魔は好む。

だからといって、クロウを侮辱したことを許しはしないが。


「またお前か」


役人がすぐそばに来ていた。

見覚えがある。娼館に駆けつけてくれた役人だ。そして女らしくしろと説教してきた。

リンより頭一つ分高く、がっしりとした体格を持っている、いかにも武人といわんばかりの男。

図体はでかいのに妙に細かいことを指摘された。比較対象がルオウやリャンなので、武人の印象が大雑把な所為かもしれないが。


「……またあんたか」


あの夜を思い出してリンは渋面を作った。

相手も呆れているのか眉根を寄せている。


「女が暴漢に襲われてるって通報があったんだが。襲われたのはお前か?」

「そうだけど……」

「襲われてる女が剣を振り回して魔憑きの暴漢を倒すって…………何のための役人だと思ってんだ」

「…………」


寝込みを襲われたら反撃するのは当然のこと。

怪しい男に狙われているのは知っていても殺されそうだとは思っていなかったし、暴漢が魔憑きだったことも知らなかった。

通報する間もなく追い回され、魔憑きだったので退治した。

どう説明したら良いものか言葉に迷う。

初めから説明しようにも、都の神殿の管理下にあるこの町の役人に、邑の存在を教えるわけにはいかない。

役人も呆れているようですぐにでも説教を始めそうだ。


「女だからって剣を振ってはいけない決まりなんてないだろ」

「女は男の半歩うしろで淑やかに笑ってればいいんだよ! 人体ぶった斬るとかどういう腕力してんだ!」

「コツがあるんだよ」

「そんなもん女が知ってるとかおかしいだろ!?」

「おかしくないだろ。まあ……あんたたちが来てくれて助かったよ。礼を言う」

「ったく…………変な女だな」


役人は頭を掻いた。

リンから礼をもらえると思っていなかったのだろう。

魔から町を防衛するのは役人の仕事。

魔憑きに侵入され襲われたのだ。文句を言われる程度のことは想定していたはず。

役人はリンから視線を逸らし、首が離れた胴体を見た。


「こいつは知り合いか?」

「いや…………数日前、店に来た客だが、知らないな」

「娼館の?」

「宿屋のだよ、東区にある。食堂もやってんだ」

「娼婦じゃないのか?」

「あれは……偶々居合わせただけだ」

「偶々、ねぇ。今日も偶々、か?」

「…………偶々だよ」


偶然で片付けるしかなかった。何も説明できないのだから。


「スエン」


役人の上司らしき年配の男が彼を呼んだ。

リンと死体を交互に見て顎をしゃくった。


「その女を連行しろ」

「はぁ?」


役人ーースエンとリンの声が重なった。

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