港町 2

二年前、崖から落ちたリーを助けてくれたのは港町の漁師の船だった。

目が覚めた時は町の診療所の寝台の上。怪我の治療もされていた。

邑に戻れない。もちろん都にも行けない。

行くあてのないリーに、港町の商業区域で住み込みをすれば良いと教えてくれたのは、診療所の老医師だった。

賑わいは周辺の村では最も大きく、どの商店でも人手不足をいつも嘆いている。

そう聞いたリーは大衆酒場の戸を叩いた。

そして、リーという名前を捨て、リンと名乗ることにした。


邑に戻ることが、クロウの側にいる事が許されないなら、リーを殺してリンとして生きよう。


リーは崖から落ちて死んだ。

ここにいるは、リンという女性だ。

もうあの閉ざされた邑の誰にも会うことはない。

ないはずだった。

探されていた。

遠く離れた魔に侵されていない港町にまで捜索の手が伸びている。


クロウに会いたい。

会って無事だと、生きていると伝えたい。

でも知られてはいけない。

会えばきっと、



ーーカーーン



指から滑り落ちた木製の皿が床に当たって高い音を立てた。

珍しい光景に客たちも話を止めてリンに注目する。

店内が一瞬無音になった。


「あ……あちゃー、ごめん。手が滑っちまった」

「リンちゃん大丈夫かい」

「平気平気。片付けるから飲み直してよ」


散らばった料理を片付けながら客たちにへらりと笑いかける。

蒸し上がったばかりの柔らかな魚の身を木皿に戻し、汚れた床を雑巾で拭き取る。

気も漫ろに手を滑らせたリンの落ち度だ。


「悪いな兄さん。すぐ新しいの用意するから」

「問題ない」

「こらリン! おまえの給料から今の分引くからな」

「ごめんって大将。すぐ新しいの作ってくれ」

「ったくよー」


厨房から顔を出した大将は包丁片手に戻っていった。

落とした魚は奇麗な所を選り分けて賄いにしてもらおうと思う。

栄えているとはいえ、食べ物は貴重だ。無駄に出来ない。


「兄さん、残念だったなぁ」


客の一人が旅人に絡んでいった。

赤い顔で酒の匂いを巻き散らかしている。


「大丈夫だ」


先に出した搾菜をつまみながら苦い顔で返している。

どうやら人付き合いが苦手なようだ。

楽しく飲むのは結構だが、余所の客に迷惑をかけるようなら注意しなければならない。


「リンが失敗するなんて珍しいもんが見れて幸運よぉ」

「可愛いのに有能って、大将自慢の看板娘だ。ちょっと目つきと口が悪いけどな」

「うちの店にも欲しいくらいだ」


がははと笑いながら客たちはさらに酒を煽る。

一言余計な言葉がついているが、褒められるのは素直に嬉しい。

文字の読み書き、数の計算、人のあしらい方、他人の顔色の窺い方、子供の頃からクロウの側で学んできた。

おかげで仕事で苦労したことがない。


「ここの娘なのか」

「いんや。1年……2年前だったか? 海で溺れてるのをハンの船が助けたんだよな」

「そうそう。いく所がないっつーから大将が面倒見てんだ」

「えーっと、確か……」

「はい! これ詫びの焼豚だよ!」


勝手にリンの素性を喋り始めた客たちにリンは割って入った。

乱暴に置いた小皿には焼豚の切れ端が乗っている。

大将お手製の人気商品でよく捌ける。夜も更けると切れ端くらいしか残っていなかった。

旅人がリンに興味を持ってもらっては困る。

これで気が逸れてくれれば給料の天引きなんて安いものだ。

リンがリーだと気がつけば連れ戻されるのは必至。

顔は笑っているが内心冷や汗が止まらない。


「兄さんはどこから来たんだ?」


客たちはまだ旅人に絡もうとする。

彼らは商人だ。

客になりそうな旅人を取り込もうと狙っているんだろう。

旅は何かと入り用だし、帰る家があるなら土産の一つでも購入する。


「西、の方から」

「西かい! あれだ、賊が出るっていうから逃げてきた口だろ」

「最近物騒な話を聞くぞ。村一つ燃やされたんだと」

「けっこう大規模な組織だってよ。うちの荷が狙われたらたまんねぇな」

「……いや、人を捜してるんだ」


旅人は懐から人相書きの紙を取り出した。

リンがぎくりと顔を強張らせる。

男が持っている人相書きがリンと似ていないが特徴を捉えている。

港町の商人は勘が良い上、聡い。商売柄、情報を得ることも容易いだろう。

様々な情報から探し人とリンをつなげる可能性が高い。


「ほう、顔絵かい」

「上手いが、チンの所の絵師のが腕がいいんじゃないか?」

「あの絵師は本物のように描くぞ。良い腕を持ってる」


やいのやいのと絵の出来に口を出している。

旅人は困り顔で成り行きを見ているしかなかった。

けれどもいっこうに核心に触れそうもないので方向を修正する。


「絵師ではなく、この絵の男を探してるんだ」

「この絵の男ねぇ」

「オレは見たことないなぁ」

「女の顔なら忘れねぇんだけどな!」

「そうだそうだ。先月見た隣村の若い娘に似ちゃいるが、もっといい女だったな~」

「オレも見たぞ。目の覚める美人だった」


また脱線していく。

酔っぱらいに聞いたのが間違いだと悟ったのか、旅人は紙を懐に戻す。

ちょうど出来上がった蒸し魚を黙々と食べて部屋に帰っていった。


男の姿が見えなくなって、ほっと息を吐いたリンを客たちは見ていた。






住み込みで働いているリンの寝床は、宿の二階の端にある一番狭い部屋。

寝台と横にある小さな棚、数枚の着替えを入れている籠以外に家具らしい物がない。

起きている間は仕事に追われているし、店主夫婦から家族同然に衣食住を与えられているので、少ない給金で買う物と言ったら好物である甘味くらい。

水飴を練って固めたものを少しずつ大切に食べている。

甘い焼き菓子も好きだが日持ちがしないので、良いことがあった日の贅沢だ。

瓶で数日保存できる飴は値が張るので干した枇杷もよく食べる。


仕事が終わるのは、酒場の最後の客を見送り片付けを終えるまで。

片付けの間に賄いを食べ、最後に店の裏手で水浴びをして部屋に戻る。

今日の賄いは落とした魚を再調理してもらった。ほぐした魚の身と豆が入った粥だった。


夜の港町は昼とはまた違った喧噪がある。

昼は活気がある賑やかさ、夜は静まった水面に波が立つようなざわざわと蠢いている騒がしさがある。

大通りも娼館に続く細道も明かりが消えず、客を誘う夜商売の女たちが立っている。

リンも、大将に拾われなかったら道に立って客を取っていたかもしれない。

幸運だった。

十九になるがまだ男を知らない身体。

自分の身体で金を稼ぐ。リンには出来そうもない仕事だ。

きっと怖気で手が出てしまう。


「……クロウ」


幼なじみの名前が零れる。

子供の頃、放置街で拾われてからずっとクロウと一緒だった。






貧民窟と化していたあの街は腐臭が漂い、住む家のない避難民たちが地べたに寝転んで、明日も知れない日々を渇望するだけの瓦礫の街だった。

何日かに一度、神殿の役人が来て浮浪者を放りにくる。

大人たちが魔に脅かされた所為で孤児になった子供も沢山いた。

リンは孤児だった。

都の塀の近くで魔に侵された母親に首を絞められていたところを役人に助けられ、放置街に捨てられた。

食べる物もない。この街で腐っていくだけ。

いっそ助けないで放っておいてくれれば良かったと思ったこともあった。

父を亡くし、母に殺されかけ、行く宛のない寂しさはまさに絶望。

ある日、霞んでいく視界に光が見えた。


『クロウと同じ年頃だ。可哀想に』


抱き上げられどこかに連れて行かれた。

気がつくと身体はきれいに洗われ、汚れのない服を着させられていた。

そして、クロウに引き合わされた。


『今日からおまえの主人だ。仲良くするんだよ』


そう紹介された。

同じ年頃の男の子との初めての出会いは衝撃的だった。

肩で切りそろえた乳白色の髪。真っすぐ映す金色の瞳。

まるで作り物のように美しい子供だった。

美しかったが陶人形のように表情がない。

生気がまるでなかった。少し前のリンのように。


『おまえ、名は?』


人形が喋った。それくらい衝撃があった。

幼いながらも凛とした知性的な声。


『……ィ…………』


反対にリンの声は出なかった。

喋り方を忘れたかのようにかすれて音にならなかった。


『リ? では、リーと呼ぶ。お前はリーだ』


それ日から、どこに行くにもクロウのあとをついて回った。

もちろん、都を追われて忘れ去られた土地に逃げる時も。

余所者だ避難民だと謗られても、クロウの傍を離れる気などなかった。

クロウの傍にいることが存在意義だと本気で思っていた。






「遠いな……」


ちらりと寝台に横たわっている一振りの剣を見る。

長くはない、でも子供が持つには大きい直剣、邑から唯一持ってきたリンの愛剣。

剣を売ればもっと遠くに行けたかもしれないけれど、これだけは手放せない。

リンの為に誂えられた鞘に刺されているのは白い炎、クロウを表す模様。


もう眠らなければ、明日の仕事に響いてしまう。

朝食のあとは井戸から水を汲んで、宿泊客の部屋の掃除をして、市場へ買い出しに行って……


横になって間もなく、狭い部屋に寝息が立った。

一振りの剣を胸に抱くリンの額には、小さな玉の汗が浮かんでいた。

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