かくれ鬼

二藤真朱

第1話

 この村は、「鬼」に守られている。

 村の子どもたちはその寝物語を聞いて育つのが習わしだった。

「鬼」はこの山の主だ。「鬼」は村に悪いものが入らないよう、山から睨みをきかせている。山に四方を囲まれたこの村で生きていくには、「鬼」とそんな約定を結ばなければならなかった。

 十になる子を山へ還すのが、この村の掟だった。

 厳かに行われる送りの儀式をぼんやりと眺めながら、りょうは母の声で語られるその物語を思い出していた。

 子どもをひとり、まびきすればいいだけのこと。

 ただそれだけで村は守られ、安寧が約束される。

 うなだれる。頭が重いのは、結わえつけられた花簪のせいだけではないだろう。力任せにぐいぐいと締めつけられても文句のひとつすら出てこず黙りこくるりょうに、村人たちは哀れみの目すら向けなかった。じゃらりと揺れる玉飾りの音すら耳障りで、せっかくの綺麗なべべも動きづらくて仕方ない。ずっしりと重くのしかかって、息が詰まる。

「すまないね、りょう」

 ふりかかる言葉に、いいえ、と首を横に振る。もう数えるのもやめてしまった養父の謝罪には、しかしたしかに安堵の色があらわれていた。

 感情に蓋をしてしまえば楽になれるから。

 真一文字に結んだ唇を噛みしめる。かたくなに握りしめていた両手は、いつしかちいさく震えていた。

 自分に白羽の矢が立つことは、なんとなく予想していた。

 親は流行り病ではやくに亡くし、祖父母もいない。なんとかここらの顔役が引き取ってくれたものの、そこでの生活はけしてここちよいものとはいえなかった。どこの家だって、自分たちのちいさくささやかなしあわせを築くだけで手一杯なのだ。居候の身で贅沢はいえない。だからたとえ十になるまでだとしても、こどもらしいわがままを口にすることははばかられた。

 昼も夜も懸命に働いた。なにか粗相でもしようものなら出て行けと言われるような気がして。

 りょうのその態度を養母なんかは当然だと振る舞ったし、養父も改めさせようとはしなかった。なにかを選ぶ前にその権利すら奪われてしまったりょうに与えられるようなものなんて、なにひとつとしてなかった。

 横笛がぴぃと鳴り響き、囃子の音がいっそう華やかに散る。

 たったひとつの救いは、そこの姉やがやさしかったことだ。

 姉やはいつも、りょうに心を砕いてくれた。寒い夜には湯たんぽを忍ばせてくれたり、ほかのひとには内緒よと、こっそり甘いものを分けてくれたり。

 硬い石と化したりょうの心を真綿のようにやさしくくるんでくれたのは、姉やしかいない。

「おまえしかいなかったんだ。どうしようもなかったんだ」

 赦しておくれ。そう頭を下げる養父の姿に、しかしりょうは淡々と頷いた。彼が謝る必要なんてない。むしろそうすべきだと、幼いりょうですら理解していた。

 その有様に泣いたのは、婚姻を間近に控えた姉やだけだった。

「そんなの、父様たちの言い訳じゃない」

「おまえは黙ってなさい」

「そうやってりょうに全部押しつけるんでしょう? そんなの、りょうがかわいそうじゃない」

 影が踊る。舞い手の意思とは無関係に、それだけが愉快に。

 そんな姉やも、あと十日もしないうちにこの村を出ていってしまう。

 里の男が姉やのことをいたく気に入ったらしい。あちらは商家で、跡取り息子に気立てのいい娘を探していたという。大事な娘を嫁入り先として、それ以上のものはない。勿論養父は諸手をあげて喜んで、話はとんとん拍子に進んでいった。

 姉やには縁談が決まったとだけ伝えられ、どんな相手であるかはまったく知らされることがなかった。姉やも姉やで、ただはいとうなずくばかりでなにひとつ尋ねようとはしなかった。自分のことではないにもかかわらず、りょうにはそれがひどくもどかしかった。

 姉やの本心なんてものを、りょうは知らない。もしかすると心に決めた、いいひとがいるのかもしれない。しかしそれを聞きだすことははばかられた。どんなに姉やが心を開いてくれようが、りょうと姉やの間には深い溝がある。まして婚儀なんて家と家との結びつきを大事にするものに、赤の他人であるりょうが口をはさむ隙なんてありはしない。

 ――いいひとだといいね。

 励ますような、自分に言い聞かせるような、そんな言葉を吐きだすだけで、りょうにはせいいっぱいだった。

 それだから、姉やはよけい、りょうの処遇を悲しんだのかもしれない。

「旦那さん」

 それはいまにもかききえてしまいそうな、か細い声だった。

 自分でもびっくりしてしまうようなそれに動揺しつつも、りょうは努めて、平穏を装う。

 視線だけはひたと、前を見据えて。

「姉やはきっと、しあわせになってくれますよね」

「……ああ、もちろん」

 一拍の間ののち返ってきた言葉を、しっかりと胸に刻む。

「それならいいんです。それならば」

 それならばわたしは安心して、「鬼」のもとに行ける。

 自分自身にすら言い聞かせるようなそれに満足したのだろう。養父はそれ以上なにも言わず、りょうもまた口を結んで、彼のほうを見ようとはしなかった。

 そのかわり。

 神仏にすがる心地で、姉やの花のかんばせを思い描く。

「…………姉や」

 彼女が、この先ずっと笑って暮らせるならば。そうなってくれるならば、この身がどうなろうと惜しくはない。

 心残りがあるとするならば、姉やの婚礼を見られないことだ。

 衣紋掛けの真白い婚礼着をじっと見つめる姉やの横顔を、りょうははっきりと覚えている。そうして深々とため息をつく姉やに声のひとつもかけられず逃げ出していた。

 どどん。最後の太鼓が打ち鳴らされて、しおらしい仕草で舞い手たちが引き下がる。

 後ろで控えていた養父がすっと立ち上がり、りょうを残して社の外へ出ていった。こちらを振り返ることはない。りょうも、彼を視界に入れることはしなかった。

 入れ替わるように進み出てきた正装の宮司が、冷ややかな視線を投げつけてくる。いつものことだ。特にここ数年実りのよくない年が続いたから、大人たちは気が急いている。ぶつぶつと祝詞を唱えながら、ずいと杯をこちらに押しつけるように差し出した。宮司を睨み返しながらそれを受け取り、一息に飲みくだす。きりりと冷えた液体が喉を駆け抜けて、胃の腑に落ちていく。と同時に焼けつくような強烈な感覚に顔をしかめながら、そうしてしきたりどおり、深々と手をついて一礼した。

 一日かけた儀式はこれでひととおり終いだ。宮司はそれを見届けるや否や、さっさとりょうに踵を返した。ぱしり、叩きつけるように引き戸を閉めて、社のなかにはりょうだけが残される。

 村人たちが引き上げていく足音と、かかげた松明の灯りが遠ざかっていく。

 薄暗い社のなか、四方を囲んだろうそくがゆらりと揺れる。ほう、と不気味な鳥の鳴き声がして、忍び寄る孤独の影がよりいっそう色濃くりょうを包みこんでいった。

 そろりと指をはわせて、自分自身を抱きしめるようにきつく腕を抱く。

 春になったとはいえ、山の上にある社ではとかく寒さが身に染みた。霜でも降りているのだろうか。寒くて仕方なくて、全身を震わせる。村人たちがいなくて本当によかった。こんな姿を見られたら、命乞いをしているのかと嘲笑われる。

 早鐘を打つ心臓がぎしりと痛み、熱を持っていた。深く息を吐いて、吸って。それを何度か繰り返して、そうしてようやく、ざわりと波立つ心を落ち着かせる。 

 いつ死んでもいいと思ったのに、いざ死の淵を覗きこむとどうして恐ろしい。

「――はやく、」

「鬼」に喰われるより前に凍え死ぬなんてまっぴらだ。

 唱えるように口にしているうち、まぶたが重くなってきた。呂律もうまく回らなくなってきて、ぶつりぶつりと意識が途絶えだす。

 だからそれが社に姿を現したのを、りょうははっきりとは覚えていない。

 ぼんやりした視界に、のそりと白い影が入りこむ。

 そうしてりょうはだれかの、あたたかいだれかの背中を、感じたような気がした。





 次に目覚めると、知らない天井がそこにはあった。

 山の社ではない。かといって、長年世話になった養父の家でもなかった。本当に見知らぬ、初めて訪れた家だ。

 がばりと飛び起きて、あたりを見回す。粗末な小屋だった。ともすれば隙間風が入りこんできそうなそこには私物らしい私物もなくて、すっかり寂しい風景が広がっている。寝かされていたくたびれた布団が、かろうじてこの家の主がいるのだということを主張していた。

 どうしてここにいるんだろう。儀式は滞りなく終わったはずで、山へこの身は還されたはずだ。ならば、何故。

 ぐるぐると頭のなかで飛び交う疑問に押しつぶされそうだ。

 記憶の糸を手繰り寄せようとしたちょうどそのとき、がらりと戸が開けられる。ぱっとそちらを見れば、ひとりの男がそこに立っていた。

「起きたか」

 入ってきたのはすらりと背の高い、年若い男だった。頃合いでいえば姉やと同じぐらいなのかもしれない。ただその出で立ちは有体にいって奇妙だった。

 首から足の指一本まで全身に包帯を巻き、髪は雪のように白い。しかもこちらを見返す瞳は、兎のそれのような赤だ。黒々とした髪と瞳をもつりょうとはどこもかしこもちがう。きわめつけは左側の額に盛り上がる角だった。こぶと呼ぶには明らかに異なるそれに、容姿に、すっかり目を奪われる。

 目が合うと、男はくすりと小さく笑った。ぱっと視線を外してから、もう一度、おずおずと顔をあげる。

 本当に、このひとが「鬼」なのだろうか。

 もしそうであるならば話で聞いていたものとずいぶん違う。「鬼」はこわいものだ。村の子たちはそう聞かされている。「鬼」は村の外からやってくる禍に睨みをきかせ、村を守ってくれているのだと。もし万が一のことがあれば山から降りてきて、尋常ならざる力で助けてくれるとも。

 しかし男からは、そういうものはまったく感じられなかった。

 否、容姿はそうなのだが。なんというか、言葉で表すとなると難しい。

 りょうがもどかしくしていると、嗚呼とひとり合点したように男が口を開いた。

「山では一切口をきいちゃあいけないんだったか」

 白い男はその身にまとうものさえ白かった。一点の曇りもないそれは、白い髪と赤い瞳をもつ彼によく似合ってすらいた。儀式のためとりょうが着せられたただただ白い衣は、死に装束すら思い起こしたのに、そんな気配はみじんもない。

 むしろ、とりょうは思う。

 あれは姉やの部屋に飾られた花嫁衣裳と、よく似ているのではないか。

 そう思うや否や、ふっと涙がこぼれ落ちた。あ、と声にならない声をあげると、また一粒。ぽろぽろと転がり落ちるそれはとどまることをしらない。

 そんなりょうの頭を、男はそっとひと撫でした。

「おまえは、賢い子だな」

 起き上がれるならついておいで、と言う男の背を、りょうはぽかんとした表情で見上げた。

 こうして面と向かって褒められることなんて、いつぶりだろう。

 両親が生きていたころならばあったのかもしれない。しかしそれは遠い昔のことのようで、おぼろげな記憶はあまりに頼りなかった。姉やはよくかわいいなんて言ってくれたけれど、りょうを人形かなにかのように扱っていたような気さえする。

 ふと振り返ってりょうがついてきていないのを見た男は、わざわざ引き返してきておぶったほうがいいか、なんて尋ねてくる始末だ。必要ないといわんばかりにぶんぶんと頭を横にふって自分で立ち上がろうとしたが、うまく力が入らずころんと転げてしまう。つい顔を赤くするりょうに男はただちいさく笑んで、包帯だらけの手を差し出す。掴んでいいものか逡巡すると、あちらから握り返されてこっちだ、と引っ張られた。

 そうして支えられるように誘われた先で、りょうはあっと息を呑んだ。あばら家とは打って変わって、そこには美しい花畑が広がっていた。ぱぁっと目を輝かせて、広大な花畑と男とを交互に見比べる。あたたかな手をもつ男は、それからすっと花畑を指差した。

「おれが育てたものだ。不格好なものもあるが、愛嬌があるだろう?」

 こくりとうなずくと、おまえは素直だな、と男はまたくしゃりとりょうの頭を撫ぜた。姉やのようにたおやかかと思ったそれは、しかし父の手のように骨ばっていた。

「好きなものを見繕っといで」

 促されるまま、花畑へとゆっくり歩を進める。

 多少ふらつきはしたが、足は自然と動いていた。

 溺れるような花の香りにうっとりとしながら、手が伸びるまま、花を摘み取っていく。不出来なものなんて、りょうが見るかぎりひとつもなかった。どれもうつくしく、鮮やかな色彩を見事に体現している。

 あれもこれもと手を伸ばすうちあっという間に両手がいっぱいになって、どうしよう、と途方に暮れる。それを見て取ってか、男は苦笑気味にりょうの手から花々を受け取って、またお行き、と背中を押すのだった。

 何度かその往復を繰り返したのち、もういい、と男はやさしく言った。そうしてりょうが摘んできた花々からいくつか選び取り、これなら、と男はうっすらと目を細める。

「姉やの花嫁姿によく映えるだろうよ」

 この男は、なんでそんなことを知っているのだろう。

 言いかけて、りょうは急いでそれを飲みこんだ。

 「鬼」だからだろうか。いつかおとぎ話で聞いた千里眼とかいうやつを、この男も持っているのかもしれない。だからあの目はあんなにも赤いのか。なんの力もない、りょうのそれとは異なって。

 むっとした強い花の香りに、瞬きひとつで意識が浮上する。

 いいや、きっとそんなことはない。

 誰に言われるまでもなく、ぷるぷると首を横に振る。

 男はきょとんとした表情をしていてが、すぐにそれをかき消してりょうが摘んできた花を丁寧に束ねていく。その手つきはほんとうにやさしいもので、養父や村の男たちといった無骨なそれしか知らないりょうにはなんだか物珍しいものに映った。

 さらさらと風に遊ばれる白い髪に触れたくなって、しかし寸前のところで手を下ろす。触れたらすぐに壊れてしまいそうな気がして、りょうにはそれがとても怖かった。そうしてあの禍々しい角が、どうしても。

 じっと男を観察していると、それに気がついたのだろう、どうした? と男が首を傾げた。赤い瞳にりょうが映りこむ。秋の日の夕焼けのようなそれになんだか気が引けて、なんでもないといわんばかりに目をそらす。

「・・・・・・おれの姿が気になるか」

 そうではない、が。

 言い返すための言葉を持たないりょうは、ぐっと押し黙ることしかできなかった。山では喋ってはいけない。小さいころから言い聞かせられているそれを破るだけの度胸を、りょうは持ち合わせてはいなかった。

 なんだか泣きたくなって、潤んだ視界で男を見上げる。すると男もまた、どこか痛ましいような顔をしていた。

「気にするな、と言ってもどだい無理な話だろう。無理もない話だ。こんな姿の奴は、きっとおれくらいしかいないんだから」

 だからひとつ約束しよう、と言って、男はその場に膝を折った。りょうの目の前に、白と赤、それにいびつな角が奇妙なまでに調和する。

「おれはおまえを傷つけるつもりはないよ」

 風にとけてしまいそうな声色を、りょうはしばらく忘れなかった。

 その言葉どおり、男は「鬼」であるくせに、りょうのことをちっとも食べようとはしなかった。それどころかおまえも食べろと自分でつくった汁物をこちらに寄越してくる始末で、なにがなにやらさっぱりだった。はじめこそ目を白黒させるばかりのりょうだったが、嫌いだったか、と子犬のようにしょんぼりする男を見てからは、素直に与えられたものを受け取るようになっていた。

 毎日の花の世話に始まり、炊事洗濯、掃除に水汲み薪割りなど、すべてのことを、男はたったひとりでやっていた。

 見様見真似でりょうがそれを手伝うと、おまえはいい子だな、と頭を撫でてくれる。慣れない感覚だったが、りょうにはそれが気恥ずかしくも嬉しかった。 

 男と暮らす日々は、養父のもとで下女のようにあくせく働くばかりだったいままでよりもずっと呼吸のしやすいものだった。

「おまえに見せたいものがある」

 そう言われたのは、そんな日が三日ほど続いたころだった。朝餉の片付けもそうそうに出立するという男の背中を追いかけるようについていく。男はなんでもないかのように進んでいく森の道でも、りょうにとってはなにもかもがきらきらと輝いて映った。鳥の声や水の音、木々のざわめきなんかに目をとめ、足をとめ。そのたび男もあれは川蝉、これは片栗だと丁寧に教えながら行くものだから、時間がかかって仕方なかった。

 とにもかくにもそうして森を抜けると、急にひらけた草原に出た。ほう、と息をのむりょうに、男はよくがんばったなとねぎらいの声をかける。そうしてあらぬ方へ視線をやり、ちょうどいいな、とひとりごちた。

「ほら、おまえの姉やだろう?」

 予想外の言葉に目を見開いて、思わず走り出す。

 草原のはるか下方、つづら折りになっている細道を、しゃなりしゃなりと進む行列があった。黒の紋付き袴の一張羅が列をなしているなか、ただひとり白鷺のごとくきれいに着飾った姉やの姿を、りょうが見間違えるはずもない。そうして姉やが携えるあの色彩豊かな花々を。

「別嬪さんだな。里の旦那も鼻が高かろう」

 当たり前だ。自慢の、姉やなのだから。

 思わず言葉になりかけたそれを、すんでの所でぐっとこらえる。

「おまえの好きにすればいい」

 言って、つっと花嫁行列を指し示す。

「ついていくも知らん顔して背を向けるもおまえ次第だ。なに、あの村の連中はめったなことがなければ山を越えてくることすらしない。余程のことがなければ、この先二度と顔を合わせることもないだろう」

 見上げた先にあった男の目は、ひどくやさしい。

 その視線に耐えきれなくて、一度目をそらす。

 それからなにかを決意したように、りょうはすっと、彼を見据えた。

「あなたは、ずっとここにいるの?」

 数日ぶりに発したせいか、ひりひりと喉が痛んだ。

 とたんに男は厳しい目つきでこちらを見返してきた。膝を折り、りょうと視線の高さを合わせる。赤い瞳は燃え盛る炎のようにぎらぎらと輝いていて恐ろしい。先程の穏やかさの欠片もない。無意識に逃れようとする足を止めるだけで精一杯だった。

「言われただろう。ここでは何も喋っちゃあいけないと」

 声色も幾分か低い。まるで父に叱られたような気分だ。しょんぼりと肩を落として、地面とにらめっこする。雨蛙が一匹踊り出て、りょうを小ばかにするようにこちらを見やってから、草むらに飛んで消えた。

「黙っていればわかりゃあしないもの。ここにはあたしとあなたしかいないじゃない」

 そう言うと、男はひどく困ったような顔をした。白い髪が風にもてあそばれるかのように、襟足のところでたなびく。それはきらきらと輝いて、季節外れの雪のようにも見えた。

 こんなふうに痛ましい顔をのぞかせるこの男は、本当に「鬼」なのだろうか。

 ぽつりと浮かんだ疑問が、深々とりょうの胸に突き刺さる。

 禍から村を守ってくれるような強さがあるようには思えない。それどころかいますぐにでも、ぱきりと根元から折れてしまいそうな、そんな錯覚さえいだかせる。

 目をぱちぱちさせて、ぎゅっと袂を握る。

 りょうが見る限り、彼はいたってふつうのひとだった。ここ数日いっしょにいたのだから間違いない。たしかに姿形はほかのひととは異なっている。けれども男はなにか特別な力をもっているわけはない。

 りょうとおなじ、ただの哀れな人柱だ。

 それなのに、とりょうは唇を噛む。

 それなのに、村人たちは男を「鬼」だなんて呼びつけて一方的に恐れている。揶揄するどころか、本当に自分たちとは別物だと思い込んでいる。

 彼は、こんなにもやさしいひとなのに。

 じっと、足元を睨みつける。

 本人を目の当たりにすると、なおさらそれが腹立たしかった。

「だっておかしいじゃない。あなたはなにも悪くないのにこんなところで、独りぼっちで暮らさないといけないなんて」

「そういうきまりだ。別にいまさら悔んじゃいない」

 しかしその瞳に宿るほのかなさみしさの色を、りょうははっきりと理解していた。

「それに、ここがおれの居場所だから」

 赤い瞳が揺らぐ。よくよく見れば、男の瞳は姉の婚約者が送ってきた万華鏡の中身とよく似ていた。きらきらと光って姿形を変える。このあたりではまだ物珍しいギヤマンをふんだんに使った、高価な代物だ。姉やはひがな一日それを眺めては、まだ見ぬ旦那の顔を思い浮かべていたにちがいない。

 りょうは歩きつかれた幼子のように、すとんとその場に膝を抱えて座り込んだ。

「あなたにも、名前があるの?」

 すんと鼻をならすと、草と泥のにおいがした。雨上がりによく嗅ぐ、安心できるにおいだ。

「草介」

 やがてぽつりと呟かれたそれを、口の中で何度も繰り返す。

 ごう、と風がとどろく。流れる雲を見上げてから、草介はちっと舌打ちした。黄色の蝶がひらりとりょうの頭上を舞う。草介は強く唇をかみしめたが、やがてどこか諦めて力を失ったように、それをはなした。

「おまえは?」

「りょう。男の子みたいな名前でしょう?」

 髪も短いからよく間違われた。蝶を追いかけるよりは小鹿のように野山をかけずりまわるほうが好きだったから、その意味ではちょうどよかったのかもしれない。

 無理に笑ってみせて、ゆっくりと立ち上がる。

 そもそもそんなふうに遊んでいられる時期だって、それほど長くはなかった。気づけば父母はそこにいなくて、りょうはひとりきり。頼るべきものも、すがるべきものも十分には与えられず、ついには切り捨てるように山へ還された。

 なにもかもを与えられ、そうしてこれからもしあわせに暮らすのであろう姉やとは、なにひとつおなじものを持たずに。

 見上げた男もまた、痛々しげに微笑んでいた。

「いい名前だ」

 そして会ったばかりのときと同じように、豪快にりょうの頭をかきなぜる。その手はやっぱり、あたたかかった。

「さあ、そろそろお行き。ここに長くとどまるといけないから」

 背中を押され、少しずつ、歩き出す。

 華やかな姉やの花嫁行列には背を向けて。――生まれ育った村にも、踵を返す。

 駆け下りていく。まるで背中に羽が生えたようだ。どんどん、前へ前へと進んでいく。駆け抜けていく。

 そのまま風にでもなってしまうかのように。

 心臓がどくどくと早鐘を打っていた。すこしでも気を抜いたら、足がもつれて転んでしまいそうだった。息が、喉が、苦しかった。

 しかしここちよい満足感で、胸はいっぱいだった。

 その途中で、はたと気づいたように足をとめ、男のほうを振り返る。

 しかし彼の姿はとうにそこにはなくて、ただざわりと風が吹き抜けるばかりである。

 鼻の奥がつんとする。なんだか無性に泣きたくなって、でもそんなことを認めたくなくて。ぐちゃぐちゃな頭のまま、それでもと、袖で顔を拭いながら懸命に足を動かす。

 その道の行きつく先は、だれも知らない。

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