登校

心淋海月

第1話

 春の風が人の間接の隙間を縫って、地団駄を踏む。どこかもどかしくて、どこかやるせない。雲一つない青空の下、春風は桜の脇役で、薄紅色に落下する花々を舞いらせる。風の通る場所は彼らの道しるべであり、晴天に魅了されながらやがて茶色い地面に身をゆだねる。やっぱり、桜は王女様で、結局春風はそれに踏まれるレッドカーペットさながらでしかない。そんな嫉妬心を纏わせて、仕事を終えたように僕の肺に入り込む。僕は彼らの名前も知らないし、どうやって生まれるかも知らないし、どの方向に走り去っていくのかも知らない。あたり一面に泳ぎ続ける彼らを鼻を膨らませるだけで吸い取ってしまう。それが少し、寂しく感じた。


 一年かけて肌に沁みついた中学校は、緩やかな勾配を暫く登った先にある。坂の端から端まで、明るい色彩に塗装された一軒家が在学中に次々と建てられて、今では小さな高級住宅街として、反対に広がる壮大な畑とは対照的に知られている。途中にある小さな階段はすっかり新築に埋もれてしまっていて、昔からあるはずなのに、見るたびに思い出が突然浮かび上がるくらいに慣れない。それは白い柵と家の土台のコンクリート壁に挟まれて、窮屈そうだったからかもしれない。脳裏に浮かぶのは鉄の棒の手すりに座って、滑っていく自分の姿ばかりで、まともに階段を下ったのは数えるほどしかない。始業式が始まるまで時間があるので、久しぶりに上からの景色を眺めてみると、四本の木の間から小さなアパートが見えた。見知ったアパートだ。そして、見知った木でもあった。どちらもちゃんと記憶に保管されている。薄っすらと霧がかかった肖像だけど、実物を見るとそれも多少晴れてくる。僕が生まれた家だ。今はもう、他人の肌にくっついて、塗り替えることは出来ないだろうけど、その核はしっかり残ってある。


 家を出て、空を確認して、駐車場の茂みからバッタを捕まえたりして、擦り傷を作りながら木に登って、そこから隣の車を眺めたりして。幼い僕はそうやって躍動していた。家の周辺だけで様々な遊びを見つけ出していた。そのアパートから少し歩いたところには同級生の友達がいて、家の前でよくサッカーをしていたものだった。たまに近所の車にボールを当てて、見つからないように一緒に逃げ出したこともあった。そして、今、それを記憶を探りながら客観的に当てはめているのだから胸が閉まる思いだ。時間をかけて積み上げてきたものは自分を構成する適当な要素だ。幼少期に過ごした時間で培った大きな大黒柱の上に自分がいる。そこから微かな綻びを、あるいは大きな綻びが底のない崖に落ちてしまっても立たなければならないのだ。


 ふと、枝の位置を見知った木に黄色い看板が縛られているのに気付いた。思わず辟易するほど禍々しく、陽光を照り返そうとする意欲が伝わってくる。昔は、そんなものなかったはずだ。もしそうならば、それが邪魔で木登りすら叶わないだろう。誰かが木登りの最中に誤って転落してしまったのかも知れないし、老衰して倒れる危険性のある木になってしまったのかも知れなかった。たった数年前の物でも、現在に至って原型をとどめていないなんて、ごく当たり前のことではあるし、それが集落にぽつりとある観葉植物のなれ果てのような木なら許容できるはずなのに、ズキズキと心が痛む。ただの看板がついただけ。なのに、明らかな差異が生じていた。昔の状態をそのままに、感慨深くなるのは趣がないのかも知れない。が、哀愁漂う懐かしさをそのまま保管するには記憶しかないことを思い知って、自信なさげに制服のズボンを握った。


 春の恵風が目頭に当たって、ほんのりしみる。最初は擦れを引き起こした靴も今では生活に欠かせないものとなった。制服も、鞄も、背丈にあったサイズに縮んでいる。


 同じ制服を着た人たちの談笑の音を聞いて、我に返った。腕時計を上げて見れば、もうそれなりに良い時間だ。今日から新学期が始まるので、いつもより余裕をもって家を出たはずなのに、優雅に情緒に浸かっているおかげで、時刻は普段に早変わりした。新学期の期待も相まってか、踏む道、進む道、歩む道、足音から、制服の擦れる音まで、華やかに、軽やかに感じる。そして胸の中から匙を取り出して、幾重にも位置する変わった新鮮さを掬いあげる。慎重にそれが零れないように歩いているせいで、地面を踏む力が弱まるが気にしない。かつて、あの家に住んでいたころの幼い自分の足跡を道しるべに、一風変わった登校が始まった。

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登校 心淋海月 @urabisi_kurage

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