漆黒の翼は物語る

 図書館の扉は建物に比例してとても大きなものである。サラの身長は決して小さくないが、それでもサラ三人分の身長を足しても通れてしまうであろう大きさだ。故に重たい。

 サラは全身の力を振り絞って二枚扉の片方を押した。錆び付いた重低音を建物内に響かせながら開いた扉。中に入ると、湿気に混じった本の匂いがブワァッと、三人の鼻を襲うように香ってくる。

 建物の外観があれだけ大きいと、中もさぞかし広いのだろうと想像するが……圧倒的な高さの棚が何列にも並び設置されており、その一つ一つの棚には隙間なくギッチリと分厚い本が並んでいる。この建物内は圧迫感に押し潰されそうだ。それに室内は薄暗い。真ん中の通路の両脇に設置された、各棚に備え付けてあるライトしか明かりがないのだから。それも、今にも消えそうな灯しか。

 そんな通路を歩き出すや否や、ルカは女々しい様な奇声を発した。

「ヒエェ!」

 いきなりの大きな声に、サラとピピの肩がビクッと跳ねた。二人は揃ってルカに冷たい視線を送っている。

「な、何だよ! 何かが肩に落ちてきたんだよ! そんな目で俺を見るな!」

 逆ギレするルカが着ているダウンジャケットの肩には、水が一滴乗っていた。

「ただの水じゃない。いきなり大きな声出さないでよ。前にも来たのならその時も濡れたでしょう」

 サラはただただ呆れている。

 そんなサラに、「いや、前に来たと言っても……扉を開けたらすぐ目の前に悪魔がいたから……中には入ったことがないんだ」 と、小さな声で言ったルカ。

「何だ、そうなのね。ルカの肩に落ちてきたのは、あそこから落ちてきた水滴よ。だから大きな声出さないでね。疲れるから」

 優しいのか、冷たいのか、サラのルカに対する態度は相変わらず雑なものだ。

 ルカはそんな態度にも慣れっ子なので、何も言い返さず素直にサラが指を差した先を目で追うと、本棚の上に天井を覆い尽くすほどの透明の傘が開いて吊るされていた。その傘からはいくつもの水滴が滴っている。

「なあ、この水滴まずくないか? 本が濡れるだろ」

「そう、可哀想な本たちなんだよ。このジメジメした室内に閉じ込められて、いつ濡れるかも分からない恐怖に怯えているんだ。そして濡れたが最後、使い物にならない本は事も無げに捨てられてしまうのさ。なんて無慈悲で残酷な……」

 ルカの問いに答えたのは、サラでもピピでもない男の人の声。その声の人は両手で顔を覆い、肩を震わせている。その姿から察するに、泣いているようだ。しかしサラは心配する素振りは一切見せずに強い口調で言う。

「ちょっとシャルム! ルカが信じちゃうでしょう! その下手な嘘泣きもやめてちょうだい!」

 サラがシャルムと呼んだこの人物こそが、ルカが悪魔と恐れていた人。『悪魔』 改め、シャルム・アヴァンシーブルである。背の高いスラッとした体格に、長く艶やかな黒髪は、とても男性とは思えない容姿だ。

「……バレた?」

 シャルムがそう言いながら顔を覆っていた手を離すと、その美しい顔立ちが露わになった。悪戯にニヤリと笑う表情がまた美しく、人々を十分に魅了してしまうであろう、色気がダダ漏れだ。

「美しい……」

 ルカは早くも魅了されてしまったようだ。だが、そのウットリとしたルカの表情も次の瞬間、恐怖に支配されて固まってしまうのであった。

「誰だお前は。生け贄の分際で私とサラとの会話に口を挟むな」

 シャルムの纏っていた雰囲気が一瞬でガラリと変わった。まさしく悪魔のような凄まじい形相だ。その雰囲気で相手を凍らせてしまいそうなほど、冷酷そのもの。

「ルカは私とサラの幼馴染なの! そんなこと言わないでよね!」

 ピピがすかさずルカを守るようにして間に入ると、シャルムの表情は美しさを取り戻した。 

「そんなこと言ってるから友達ができないのよ」

 そしてサラがそう言うと、シャルムはシュンとした口調で言う。

「別に私は友達が欲しいわけじゃないよ、サラ。君とピピが、月に一度しか来てくれないから寂しくて寂しくて」

 シャルムがサラとピピに向ける表情や声色は、ルカに対するものとはまるっきり違う。彼にとって二人は特別な存在なのだ。

 サラとピピは月に一度、この図書館に通っている。ミレーヌのお使いで、魔法のキャンディーをシャルムに届けるためだ。湿気と水滴から本を守るため、魔法のキャンディーが必要不可欠である。だから本が濡れることも、湿気で痛む事も絶対に無いのだ。

「今日も来てくれたと言うことは、一緒に遊んでくれるのかな?」

 昨日がその月に一度のお使いの日。サラは今日も遊びに来たわけではない。サラはシャルムの嬉しそうな明るい表情を切り裂くように淡々と言う。

「遊ばないわよ。探し物をしに来たの。昨日私たちが帰った後、何か落ちてなかった?」

 するとシャルムは人差し指を立てると、「ノン、ノン、ノン」 三回、左右交互に横へ振った。

「そう言うことなら話は別だよサラ。いつもの、忘れていないかい?」

 露骨に嫌な顔をするサラに対して、シャルムはまた一段と美しい妖艶な笑みを浮かべると、両手を広げた。

「さあ! 生け贄を捧げなさい!」

 ーーバサァ!

 その言葉と同時に、シャルムの翼が姿を現した。パレードで見た騎士たちと同じくらいに大きなその翼だが、騎士たちと違うのは一目瞭然。シャルムのそれは、漆黒の翼。艶やかな光沢のある黒色の翼は、自ら輝きを放っているかのようだ。

 それまで硬直状態だったルカだが、虚ろな目にその漆黒の翼を映すと、吸い込まれるように一歩、二歩と足を運びだした。

「ルカしっかりして!」

 サラは素早くルカの腕を掴んで自身の後ろへ隠すように誘導すると、シャルムをキッと睨みつけた。

「本当に嫌な趣味してるわ! 最低、最悪。あなたのそう言うことろが嫌い!」

「わお。ピピ、どうしようか。サラに嫌われちゃったかも」

 シャルムはそう言うも、落ち込んだ様子は微塵もない。

 ピピもサラ同様に怒っているようだ。小さな頬がプックリと膨れている。

「嫌われて当然よ!」

 可愛らしい舌を突き出し、瞼を下に引っ張るピピに、シャルムは「二人は起こっても可愛いから、私は大好きだよ」 と、投げキッスをしたのだった。

 ピピは投げられたそれを避けるようにサラの耳元へ飛んでいくと、シャルムに聞こえないように耳打ちをした。

「サラ、今日もあれ持ってるの?」

 サラは目の前のシャルムを見据えつつ、首を横に振った。

「いつものがもう終わってたから、今日は違うものなのよ。気にいるかどうか……」

 サラがカバンから取り出したのは、キャンディーが一つ入った小指くらいの小さな小瓶。薄い緑色のリボンが巻かれている。

 おずおずしと差し出すサラから、シャルムはそれを受け取ると、「いつものとリボンの色が違う。私のお気に入りのキャンディーじゃないねえ」 と言い、口を窄ませた。

 シャルムのお気に入りのキャンディーとは、一粒食べるだけで全身エステを受けたようにスベスベ、もちもち肌になるものだ。その効果は数週間続き、サラが作った自慢のキャンディーなのだ。

「それは私のお気に入りなの。試してみて」

「サラのお気に入りなのかい!? それは是非とも味わってみたいな」

 シャルムはサラとお気に入りを共有できてなんとも嬉しそうにキャンディーを口へ運んだ。だがシャルムの外見には変わりないようだ。少しすると、彼は鼻をヒクつかせた。

「おや、これはあの花の香りだねえ。私の髪から香ってくるのかな?」

 サラが渡したキャンディーは花の香りを閉じ込めたもので、ヘアフレグランスとして使うものだった。少しクセのある独特な甘い香りがシャルムの美しい髪から発せられている。

 サラはこの香りが好きだが、万人受けはしないだろう。いくらサラを特別視するからと言って、好き嫌いがハッキリとしているシャルムは妥協はしてくれない。今、サラの心臓はバクバクしているに違いないのだ。

「それで、どうなの? 教えてくれるの?」

 すこしの間、自身の髪を顔に近づけ、その香りを確かめるように嗅いでいたシャルムは、その甘い香りを全身に纏うように身体を一回転させると、美しい笑みを浮かべた。

「気に入ったよサラ! とてもいい香りだ! そうそう、落し物だったね。何を落としたんだい?」

 交渉は成功だ。サラは心臓を落ち着かせるように詰まっていた息を吐き出すと、「ブレスレットよ」 と、返答した。

 するとシャルムは、サラのお気に入りを身に纏っているからだろうか、浮かれた様子で答えた。

「ブレスレットは見ていないねえ。落ちてなかったよ」

 ……ストンと、サラはシャルムのその言葉に肩を落とした。

(ここにもないなんて……)

 可能性がどんどんと減っていく。だがサラは諦めるわけにはいかないのだ。不安な気持ちは勇気でしか払拭できないということは、よく知っているのだから。

 するとピピがサラの後ろのルカを見ながら言った。

「ねえ、これどうにかしないと。シャルムの魔法でしょ?」

 ルカの様子はあからさまにおかしい。シャルムの、あの悪魔のようなオーラに晒されてからというもの、意識を朦朧とさせ言葉を発しないのだ。ウットリとした笑みを浮かべたかと思うと、途端に顔を青白くさせる。

 ピピは、「ルカ怖い……」 と呟き、後退りした。

「ほんとね……物凄く怖いわ。なんの魔法? 元に戻してもらわないと、怖くて連れて帰れないわよ……」

 だがシャルムは、愉快だ、とでも言いたげな表情でサラとピピの様子をただ見ている。

 サラがルカの顔を覗き込むと、彼はまた笑みを浮かべた。しかしルカの目の焦点は合っていない。そのルカの表情にサラは、「ひっ!」 と、悲鳴を漏らし顔を退けた。

「やだ、気持ち悪い! 早く元に戻してよ!」

 サラの言葉に、シャルムは声を出して笑った。

「アッハッハッハ! 気持ち悪いだって! 生け贄くんもなかなかいい仕事をするねえ。けど私は何もしていないよ。生け贄如きに私の限られた魔力を使うなんて、そんな勿体無いことしないさ」

 口を豪快に開けて笑う姿でさえも美しいシャルムはルカに魔法をかけていないと言う。

 『限られた魔力』 とシャルムが言うのは、彼が禁忌を犯した囚人だからである。シャルムは自身の魔力量の一割にも満たない、ほんの少しの魔力を残して取り上げられてしまっているのだ。シャルムにとってこの図書館は脱獄不可能な牢獄。国の中でも指折りに知識が豊富な彼は、重要な本が保管されているこの図書館を牢獄の代わりとして、番人となり刑期を全うしろとの命令が下されているのである。

 サラはシャルムの言葉に、納得したようだ。

「確かにそうね。魅了の魔法とか精神を操る魔法は魔力の消費が激しいもの」

 サラはルカの両肩を掴んで、「正気に戻ってー!」 と、グラグラと彼の身体を揺りだした。……が、ルカの様子は変わらない。サラがヤケになりコートを腕まくりしてもっと強く揺ろうとしたその時ーーシャルムがいきなりサラの左腕をガッ! と掴んだ。

「痛っ!」

 顔を歪めて痛がるサラの左腕は、背の高いシャルムの顔近くに掲げられた。

「サラ、ブレスレットはどうした。まさか落としたと言うのはディオンのブレスレットなのか!?」

 シャルムの表情は、サラが今まで見たこともない真剣なものだ。声のトーンも先程までよりずっと低い。

 サラは釣り上げられているこの体勢を、なんとか抜け出そうと試みるがシャルムの力には敵わない。下から睨みつけることしかできないサラは、声を張り上げて言う。

「ディオンって何なのよ! 離しなさいよ!」

「私の質問に答えろ。ディオンのブレスレットはどこだ」

 シャルムの口調はサラの知る、和やかなものではない。さっきルカを生け贄と呼んだ時の冷酷なものだ。

 ピピが「サラを離してよ!」 と、シャルムを叩いているが、彼はピピに目もくれず、サラの腕を離そうとはしない。

 次第にサラの腕を掴むシャルムの力が強くなっていく。シャルムを睨みつけ、痛みに耐えるサラの目には涙が浮かんできた。

「っ! 今日の朝起きたら失くなっていたのよ! だから探しにきたの!」

 サラがそう言うと、シャルムの力が少し緩んだ。サラは『今だ!』 とばかりに力一杯、腕を引いて抜け出すと、その左腕にはシャルムの手の跡が痛々しく赤く残っている。サラは素早くシャルムと距離をとり、腕を庇うようにしてまたもや彼を睨みつけた。

 するとシャルムの表情は何とも切なげなものだった。悲しい顔をするのは、痛い思いをしたサラの方だ。なのにどうしてシャルムがそんな表情をしているのか、サラは訳が分からない。

 ピピが横に飛んできて心配そうに、「大丈夫?」 と尋ねると、サラは口角を上げて応えた。

 再びサラがシャルムに目線を移すと心なしか、シャルムの薄いグレーの瞳が潤んでいるように見えた。だがサラは警戒を怠らない。シャルムの全てに注意を払うように、神経を集中させている。

「ねえ、ブレスレットの事何か知ってるの? ディオンって何?」

 サラがそう尋ねると、シャルムは静かに口を開いた。

「ブレスレットの事も、ディオンの事も、何でも知っているよ。ディオンは……私の唯一の友人だからね」

 その口調はどことなく寂しげで、穏やかなものだった。

「ディオン……お父さんの名前ね!?」

「……ディオン・アルマン。私の尊敬する人。偉大な騎士隊長……」

 シャルムはその言葉の続きを、ポツリポツリと語り出した。

「かつて私が魔法研究機関に勤めていた頃、この図書館でディオンと出会ったんだ。彼は史上最年少で騎士隊長に任命された国の人気者だったから、きっと傲慢で人を見下す奴だと、私は偏見を持っていてね。初めは好きになれなかった。だがそんな偏見は、すぐに吹き飛ばされたよ。大らかで、寛大で、自分のことよりも常に他人の事を考えていた。誰からも愛される存在。誰にでも平等で、誰よりも多く愛を与える人だった」

 警戒している今、サラは表情には出さないが、心の中は嬉しさと誇り高い気持ちでいっぱいだ。なにせ、ようやく父の名前を知ることができた。そしてその父がこんなにも誇れる人なのだから。

 しかしサラは気になった。

「……だった? ……お父さんは、今どこにいるの?」

 シャルムがどうして過去形で話すのか。過去の話だからか、それとも……

「彼は今……天国だろうね……ディオンが地獄にいるはずがない」

 シャルムのこの切ない表情は、サラと心情と同じものなのかもしれない。唯一の友人、ディオンのブレスレット。それはもはや形見だったのだ。サラがこの図書館に来るたびに、シャルムはディオンを感じられていた。シャルムにとっても目に見える繋がりは、やはり特別なのだ。

 サラがシャルムの言葉を理解するのに時間は掛からなかった。「……そう」 とだけ、静かに呟いた。確信はしていなかったが、ああ、やっぱり。と、素直に腑に落ちたのだ。

 ピピは口元を手で覆い、絶句している。サラになんて声を掛けたら良いのか戸惑っているようだ。

 するとシャルムが今の今までとは一転して、ハキハキとした口調で言った。

「サラ。交換条件だ。私がブレスレットを探す手伝いをしよう。どんな協力も惜しまない。そして無事見つけることができたら、それは私に預けてもらおう」

「なっ! 何を言い出すかと思えば!」

 ピピはシャルムに食って掛かった。そしてサラに向き直す。

「サラ、こんな提案、真に受けちゃダメよ! あれはサラのお父さんのブレスレット。そしてそのお父さんがサラに託したものだもの!」

「ええ、分かってる。あれは、誰かに預けるつもりも、譲るつもりもないわ」

 サラのエメラルドグリーンの澄んだ瞳はただ一点、シャルムを見据えて揺るがない。

「その瞳、本当にそっくりだよ……」

 そう言ったシャルムは、どこか儚げに微笑んでいた。

 するとシャルムはゆっくりとした動作でサラの前まで歩み寄ろうとするが、サラは退いてしまう。そんなサラに、シャルムは後ろめたさを前面に押し出した表情でその場に跪いて言った。

「サラ、先程は痛い思いをさせて申し訳ない。腕を見せてくれないかな……」

 差し伸べられた手をジッと見るサラ。少しずつ、少しずつシャルムに近寄ると、赤く腫れた左腕を恐る恐る差し出した。

 シャルムはそのサラの腕をそっと労るように自身の掌に乗せると、顔を近付け、キスを落とした。

 シャルムが顔を離すと、サラの腕の赤みが消え、腫れも引いていた。サラは腕を引っ込めると、大きく一歩下がって距離をとった。その様子に、苦い笑みを一瞬見せたシャルムは覚悟ある眼差しをサラに向けた。

「二度とあんな真似はしないと誓うよ。だから、また遊びに来ておくれ」

「……二度目があったら本当に許さないから」

 サラが怒りの混ざった震える声でそう言うと、ピピは、「二度目の何も、私は絶対に許さないわよ!」 と声を荒くして叫んでいる。

 そうして立ち上がったシャルムは、「でも、気が変わったらいつでも言ってきてくれて構わないからね」 と言い残し、図書館の奥へ去っていった。ブレスレットの件だろう。サラもピピも『そんな事あり得ない』 と言った眼差しでシャルムの後ろ姿を見送ったのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る