5・9 もしもまた、会った時に

――2011年12月――


 大晦日の夜、雪が降った。といっても、「とりあえず雪をどうぞ」と空が投げやりに仕事したような、積もりもしない寂しいものだ。


 その不格好で中途半端な様子は、毎年恒例だった豪華な年越しが無くなり、自分の家で静かに過ごすようになった現状と似ている。


 母さんとばあちゃんと三人で。狭いリビングの中。本当は見たいガキ使を堪えながら紅白を待つ。


 部屋着と寝間着が混同し、数日前から同じ格好をしている。今日なんて、朝から一度も外に出ていない。今までじゃありえない年越しだ。


 近所だからといって毎年のように家族のように集まっていたのは、今考えればおかしな習慣だった。それでもしつこく毎年集まり続けていたのは、俺たち子どもたちがいるからこそだったのだと、俺たちのためにわざわざ集まっていたのだと、自分だけが取り残されてから気が付いた。


 お盆には帰ってくると言っていたはずの早人は、あれから一度も帰ってくることはなかった。今年の年末も大学のメンバーで初日の出を見に行くのだとか。夏も就職が決まってからは友人と外出ばかりしていて、大晦日も友達と会うらしい。


 縛られたように家に居座るのは俺ばかりで、二人は各々生きている。

 お互いが同じ世界に存在しなくとも、互いの時間が交差する瞬間がなくなったとしても一切構わないようなその姿は、律義に習慣に従い続ける俺を揶揄からかうようだった。


「勇人、七味取ってきて」


 食卓にそばを運んできた母さんが思い出したように言った。惰性のままに席を立ち、キッチンに行く。お勝手口から覗ける外の世界は僅かながら白く、雪が花弁のように散っている。


 そういえばクリスマスも少しだけ雪が降っていた。


 24、25のどちらかは最低限出勤してくれという店長の指示のもと、24はバイトに。25はサークルメンバーでクリスマスパーティーという、いかにも大学生らしい時間を過ごした。

 恋人と過ごすやつらも多い中、俺のロンリークリスマスはあと何年更新することになるのだろう。


 夏果ちゃん、彼氏でもできたのかしら。


 母さんがそんなことを言ったのは、俺がほろ酔い状態でクリスマスパーティーから帰ってきた時のことだ。


「なんで?」

「だって、23日の夜からどこか出かけてたのよ。なんかおめかししてた。行き先は分からないけど……さっき勇人が帰ってくるちょっと前に、キャリー持って帰って来てたよ。だから彼氏さんとデートでもしてたのかなーなんて思ってさ」

「ただ短大の友達同士でクリスマスパーティーしてただけかもよ?」


 それは論理や事実に基づいたものではなく、単なる願望だった。咄嗟に打ち消そうとしたとある可能性。そうであってほしくないという傲慢なエゴ。


 他人の人生を操る権利なんて、誰にもあるはずがないのに。



 紅白の終了と雪の終わりは、ほとんど同時だったように思う。年の終わりに一度くらい外の空気を吸おうと、勝手口から外に出てみると、一瞬で鼻先の感覚がなくなるほどの冷気に包まれた。


 口から吐き出される息が白く着色され存在を可視化される。通常なら目に見えないものでも、こうして別の形で姿を捉えることができるのなら、どんなに楽なんだろう。


 粉砂糖がまぶされたような土の上を、風通しの良すぎるクロックスで歩く。もう二、三歩歩いたら引き返そうかと思った時、遠くから進む光が見えた。


 家の近くで徐行したその光は、ゆっくりとこちらへ向かっていて、ある家の前で正確に停車した。 


 ここらへんでは見たことのない、燃費の悪そうな車。ナンバーには隣県の都市が刻まれている。運転席から現れた見知らぬ顔と同時に助手席から降りてきたのは、見慣れた顔だった。久々に見るその横顔は、同一人物かと疑うほど俺の記憶とかけ離れていた。


 手の込んだ化粧。転びそうな程高いヒール。器用に巻いた髪。


「じゃあ、気を付けてな」

「うん。今日はありがとう。楽しかった」


 俺には向けられたことがない、穏やかで華やかな笑顔。軽く手を振ると、男は車を発進させ、街頭の少ない暗闇へ帰って行った。

 俺の知らない別の誰かになったその背中は、いつまでも車に手を振っていた。


「今の、彼氏?」


 俺がいると思わなかったからか、久々に話しかけたからか、夏は「へっ」と声を上げ、脅えた顔でこちらを向いた。


「な、なんだ勇人か。脅かさないでよ。急に話しかけられて心臓止まるかと思った。て、てかそんな格好で何してんの?」

「お前こそ、大晦日にこんな時間まで何してたんだよ」


 分かりやすく顔が曇る。答えるのが面倒なのか、言いにくいことでもあるのか。


「寒いからもう中入るね。あんたも風邪引くからさっさと戻んな」


 歩き出そうとする肩を、咄嗟に掴む。夏の目の温度が、ぐんと上がったのを感じた。


「あの男、全然香取慎吾に似てないな。あいつのどこがいいわけ」

「は、はあ?」


 身を捩って肩にある俺の手から逃れようとする姿がどこか滑稽だった。


「お前とは合わないと思うよ。それにあいつ知ってんの? お前がどんなに暴力的で短気で自分勝手な女か」

「もう、なんなの? あんたには関係ないでしょ」


 夏が勢いよく腕を回し、俺の手を振り解く。手の平から肘にかけて、鈍痛が走った。


「別れろよ」


 本音が言語化され、音として発せられたとき。夏の目が大きく揺れた。


「……なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないの」

「気に入らねえんだよ。納得できない。なんであんなやつなんだ?」


 言葉を発するごとに、夏の顔が歪んでいく。眉間に刻まれた皺が、俺たちを隔てる壁を見事に象徴していた。


「あんな得体の知れない男に取られるんだったら、早人のほうがまだマシだった」


 寒空に、破裂音が響く。あまりの寒気に感覚がなくなっていた頬に、時差で痛みがやってきた。


「さっきから、ほんとなんなの」


 殴ったはずの夏が、俺よりも痛みに耐える顔をしていた。


「あの人とは別に付き合ってない。そんなんじゃない。でもさ、あんたになんの権限があってそういうこと言ってくるの? 何様?」


 ああ、痛い。でもそれは頬じゃない。冷たくなった鼻先や耳でもない。布に隠れた皮膚の下。ずっとずっと奥が軋んで全身を毒していく。


「私にはあんたかお兄ちゃんかの二択しかないわけ? 逆に聞くけど、あんたは私の気持ちを今まで一度でも想像したことある? 私が今までどんな思いをしてきたとか……何を考えてきたとか何も知らないくせに、勝手なこと言わないでくれる? 私が平気な顔して普通に過ごしてきたとでも思ってた?」


 かつて鬼の化身だった人が泣いていた。誰よりも弱そうな声で、震えた目で。


「もう私に構わないで」


 冷たい道を、変わってしまった背中が進んでいく。やがて、今年も俺が過ごすはずだったその扉の先に消えていった。

 

 闇の遠くから鐘が鳴る。俺は2011年の終わりと新たな幕開けを自分の家でも夏の隣でもない半端な空間で迎えた。


 春になり、夏は短大を卒業し、就職先である食品関係の会社近くで一人暮らしを始めた。


 人の適応能力は意外と有能なもので。すぐに俺にも恋人ができ、平凡でありふれた大学生生活を送った。


 酒との付き合い方も、単位の取り方も、進路決定のノウハウも、無難に、一般的に、道逸れることなく習得していった。


 夏と久々に会ったのは、俺の就職が決まった春のことだった。




――2015年3月――


 就職祝いという名のお別れ会。おじさんの提案で開かれたそれは、いつもみんなですき焼きを食べ、早人の合格祝いもした例の場所で行われた。


 大袈裟だな、と思いながら出前寿司を食べていたところに現れた夏は、いわゆるオフィスカジュアルなブラウスとスカートに、緩くウェーブのかかったショートボブで、すっかり大人びた風貌になっていた。


 おばさんが連絡をしたんだろうが、特に抵抗なくひょっこり俺の前に座った夏への動揺が、その変貌に対する驚きを上回っていた。


「久しぶり」


 そう言って、すぐに寿司を飲み込む。語尾の震えを誤魔化せただろうか。夏はふふっと笑い、「ほんと、久しぶり」と俺の目を真っ直ぐとらえた。


 そこに幼さは微塵もなかった。ひどく落ち着いた瞳は、同じ場所に立っていたかつての幼馴染ではなかった。


 みんなで交える酒の味。かつてコーラやオレンジジュースで幸せを噛み締めていた席に、アルコールしか並んでいない。


 酒で気持ち良くなったおじさんがソファで豪快な寝息を立て始めたころ。「久々だし、ちょっと話そう」と俺が提案すると、夏は快く承諾し、俺を部屋に招いた。


 久々に踏み入れると、壁いっぱいに張られていたはずのポスターは一枚だけ、CDやアルバム、写真集で埋まっていた机や棚も綺麗に片付いていた。


 夏の部屋だけど、別の世界。そう思った。


「仕事は順調? 事務だっけ?」


 ベッドに腰かける夏に無難な話題を投げかける。俺も学習机の椅子に、夏と向かい合うように座った。


「まあまあかな。私もまだまだ下っ端だし。それに上司があんまり好きじゃなくてさ。正直、毎日辞めたいって思ってる」

「マジかよ。来月から社会人の人に向かってそんなこと言うなよ。出勤してないのに鬱になるだろ」

「ごめんごめん。でも社会の荒波はなかなかだよ。勇人ならなんとかなりそうだけど……まあ、いい先輩を見つけることだね」


 ああよかった。普通に話せてる。胸の高鳴りと安堵が同時に押し寄せる。


「あのさ」


 夏の目が俺の顔を不思議そうに見つめる。長い睫毛。彩られた瞼。春色の頬と赤い唇。


 不意に見ては、この人は誰だろうと首を傾げそうになる。


「彼氏とは良好?」


 長い睫毛が柔らかく動く。夏は頬を緩ませながら「まあね」と恥ずかしそうに言った。


「あのときとは別の人だけどね。この前ちょうど半年になった」

「へー。よかったじゃん」

「そっちこそ彼女とは順調? なんだっけ、文学部の子だっけ」

「いつの話だよそれ。とっくに別れたよ。今はバイト先の子」

「え、そうなの? 初耳なんだけど」

「だって誰にも言ってないし。まあ、その子ともこの前別れたんだけど」

「マジ? あんたほんと長続きしないねえ。タラシ?」


 風の噂と、親から聞いた曖昧な情報を頼りとした探り合い。本人同士がはっきりと伝えあったわけでもないのに、気が付けば互いに把握している。不可解で意味不明で不気味な幼馴染のメカニズム。それですら懐かしくて愛おしいと思ってしまう。


「そういえば、最近配属先が決まったんだ。だから今日お別れ会みたいなことしてたんだけど」

「そっか。転勤とかある職場なんだっけ。どこなの」

「福岡」


 数秒の間があった。夏は開いたままの口をゆっくりと閉じると、「そっか。遠いね」と言った。


「なかなかこっちに帰ってこれないかもな。帰省するにも交通費かかるし、奨学金の返済あるから金ないんだよ」

「そっか。まあ無理しないでね」

「一人暮らしなんて初めてだし、ホームシックになったりしてな」

「あんたらしくないなぁ。大丈夫だよ。なんだかんだ向こうでやってけるでしょ。気付いたら福岡に染まってるんじゃない? 住めば都って言うし、楽しみなよ」


 なんとなく感じる。


 俺たちはきっと、今日が最後だ。このまま永遠に会えない。会えなくなる。会いたくなくなる。会いたくないと思うようになる。


 もし会うとしたら、その時はきっと……。


「あのさ」


 ん? 不安気な目が、俺に問いかける。


 今さら、何を言うつもり? 


「いつか分からないけど、何年後かもしれないし、何十年も先かもしれないけどさ」

「……うん」

「……いつかまた会った時、もしも夏の隣に誰もいなかったら、そんときは俺のこと、ちょっと考えてみてほしい」


 喉が震える。血流が加速し、脳まで沸騰する。


 往生際が悪い。何年引き摺ってるつもりだろう。こんなこと言っても困らせるだけだろう。


 漫才のように、もう一人の自分が俺の言動一つ一つの問題点を指摘する。


 夏は眉を下げながら細い息を吐いた。俺に返す言葉をなんとか探しているようだった。


「……あれだよ、相手が見つからなかった時の最終手段でいいから」


 かつて、俺たちがおじさんから投げられていた言葉。潜在意識のように植え付けられてきた、俺たちを縛り続けるある種の呪い。


 懐かしく思ったのか、呆れたのか、慈悲の心なのか、凍っていた表情筋が解けたように夏の眉尻が動いてゆく。


「バカじゃないの」

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