5・8② 募る

――2011年7月――


 今日の『情熱大陸』は前田敦子だった。AKBに詳しいわけではないが、日本で生活していれば嫌でも彼女たちが目に入る。特に、常にセンターに立つ彼女のことを知らない人は少ないだろう。


 関心こそないものの、画面に映し出される彼女の日々は、同世代とは思えないほどの多忙なもので、なんとなく目が離せなかった。

 流行という荒波の中心部に立っている彼女の下には、「アナログ放送終了まであと14日」という文字が躍っている。


 リサイクルショップで購入した俺のテレビは、確か地デジ非対応だったはずだ。買い替えるか、いっそテレビを見ることをやめてしまうか、選択が迫られている。


 アナログの終わり。取捨選択と文明の転換。それが摂理で当然で、ある意味、猿人類から今のヒトへと進化したように、徐々に徐々に小さな変化を遂げて発展していくものなのだろう。でも時々、「進化させられている」気分になる。


 今どき携帯電話を持っていない大学生なんてほとんどいない。パソコンだって、レポート作成や論文検索に必要不可欠だ。

 ただなんとなく、文明に適応することを強制されているようで居心地が悪い。いつまでも子供でいることは許されず、年齢の変化とともに相応の行動をとらなければならなくなるとか、幼少期のような娯楽を成人になったらできなくなるとか、そんなものにどことなく似ている。


 過去にしがみつかないように、そのままでいないように、社会ができているのだろう。


「なあ知ってるか? 人類は2012年に滅亡するらしい」


 前田敦子に見向きもせずポテチを頬張りながら、スミスは言った。俺のアパートとは比べ物にならないほど広く綺麗なはずなのに、床に転がった空き缶やゴミ、畳まれていない洗濯物で見事な汚部屋になっている。テレビの前に置かれたテーブルの上には、豪快に開封されたポテチやするめいかが散らばっている。


 スミスに食い尽くされないよう、俺もポテチを数枚、一気に口に入れた。


「なんだそれ。なんかの予言?」

「その通り。マヤ文明の暦が関係しているらしい」


 そういえばアメリカにそのような映画があった。2012年に人類が滅亡するという仮説をもとに制作されたSF作品。


「バカバカしい。どうせ当たりゃしないよ。ノストラダムスの大予言だって外れたろ」


 あの頃小学校では、人類滅亡や地球の終わりの話でもちきりだった。もし本当に世界が終わるなら勉強している場合じゃないんじゃないか、遊べるうちに遊んだ方がよくないか、なんて言うやつもいた。


「それはそれ。これはこれだろ。今回こそ本当に当たる可能性はあるだろ。もし本当に滅亡するとしたらどうする?」

「どうするって……もし本当の本当に滅亡するなら今すぐ休学届出して貯金はたいて旅行でもするよ。金は天国に持って行けないからな」

「それもいいなあ。俺はさ、一回くらい海に向かってバカヤローって叫んでみたいかな。もう死ぬって分かってるときなら恥もくそもないだろ。普通だったら酔っててもできないけど、滅亡するって分かってるならそれくらいできそうだ」


 素面でそれをやってしまった人間がここにいますよ。心の中だけで挙手する。


「とにかくさ、いつ滅亡するかも死ぬかも分からねえんだし、やり残したことは片付けようぜ」


 スミスはするめいかを齧りながら、俺の背中を強めに叩いた。


「やり残したこと?」

「引っ越してこい。あのきたねえ部屋で最期を迎える気か」

「なんだ、そのことか。もう断っただろ」

「だからもう一回考えてみろって!」

「じゃあ最低限掃除くらいしろよ! 広い部屋が台無しだ!」


 確かにスミスのアパートは俺のよりずっといい。広いし、ボロくないし、虫は出ないし、壁も薄くないし、居心地がいい。それはスミス自体の空気のおかげなんだろう。息苦しい毎日の中で、スミスと晩酌する時間だけが穏やかだ。それに何をしても楽しいと思えるし、スミスのおかげで人脈も広がった。


 今年の夏休みなんて、スミス含めた同期5、6人でレンタカーを借りて本州横断しようという冗談みたいな計画が持ち上がっている。飲み会のノリでできた話だが、その悪いノリが現実になりそうで頭が痛い。


 半ば強引に連れていかれた元旦の初日の出計画はなんだかんだ楽しかった。本州横断も、しんどくも結果的にはいい思い出になるのだろう。きっと大人にならなかったら、上京しなかったら、スミスに出会わなかったら、経験しなかったことだ。その点を考えたら、大人になることも悪くはないのかもしれない。


 ただ、いくら一晩中飲んでも、金をかけた旅行をしても、あの頃の夏を超えたことはない。どうしてあの頃の夏がどうしようもなく輝いて見えるのか、その理論は不明だ。


 今よりずっと不便で娯楽の幅も狭かったはずなのに、蝉やカブトムシを一匹捕まえただけで大喜びして、安い駄菓子やめんつゆだけで食べるそうめんがご馳走に思えて、今じゃツッコミを入れたくなるようなお粗末な怪談話に朝まで怯えていた。扇風機一つで自然と心地よく眠ることができた昼下がりの和室が、恋しくて仕方ない。


 あの頃にもっと遊んでおくんだった。今更後悔しても遅いけれど。




 なんとか期末レポートや試験を終えたころ、いわゆる夏休みというものが始まっていた。エアコン代をケチって寝るものの、朝方暑すぎて飛び起きるというのが習慣になりつつある。


 家庭教師のバイトとアパートの往復の日々。そして8月に決行することになったレンタカー旅の準備など、それなりの時間を過ごしていた。


 勇人から久々に電話がかかってきたのは、バイト終わりにアパートで一人、晩飯を食べていた時だった。晩飯と言っても、ほぼ日付が変わりそうな時間で、夜食のようなものだ。


「もしもし勇人? どうした」


 電話の向こうでは、何かしらの音楽と、人の笑い声、雑音が鳴っている。あまりの騒がしさで、一瞬でそこが居酒屋なのだと察した。


『……もおしもしい』


 ようやく聞こえてきた声は、だいぶ発音が曖昧だった。確実に酔っている。また飲んだのか。弱いくせに。


「なんだよ。酔った勢いで電話するなよ。お前酔うと記憶無くすタイプだろ。この前みたいに変な暴露でもするのか。録音しちまうぞ」


 どうせ今回も、酔いが覚めた頃に「俺何言ってた!?」と連絡してくるんだろう。記憶がなくなるほど飲むのが悪いのだ。何を言っても、絶対に教えてやるものか。怖いなら飲まなければいい。


『この前先輩んちで飲んだらさあ、気持ち悪くなってさあ。俺一晩中便器にしがみついてたんだぜ。マジうける』

「ウケない。何やってんだよ。てかその話前にも聞いたよ」

『なぁ早人お』

「なんだよ」

『今回は帰省すんのかあ』

「あ? あー、まあな。一応そのつもりだよ」

『そうなのかあ。帰ってくるのかあ。そっかあ』


 まともに相手するのは面倒くさい。なんとなくテレビを点けると、27時間テレビがやっていた。タイトルが『めちゃめちゃデジッてるッ!』になっていることから、 どうやら地デジ移行の大イベントとして制作された番組のようだ。アナログ放送終了は明日の正午。結局、テレビを買い替えるか決めないままになってしまった。


『早人はずるいわあ。俺は昔から変に勘だけはよくてさ、気付きたくないことも気付くんだよ。でもお前はこれでもかっていうぐらい鈍いよなあ。全然察しない。本当にノロマで鈍臭いムカつくやつだったなあ』


 急になんだ。なんで俺の悪口を始めるんだ。聞き流そうと、テレビを注視してみる。


『俺は知ってたから何もできなかったのに、お前は、お前は何も知らないから好き勝手できていいよな。俺だって好きにしたかったよ。俺だってさ。でもお前が、お前のことが頭から消えなくて……なのにお前はさ。せめてお前じゃなかったら……早人じゃなかったらよかったのに』

「は? なに? なんの話?」


 俺はひどく、無関心なのかもしれない。部活動に熱を出すこともなければ、学校のイベントに全力で取り組んだこともない。何事も、頼まれたから仕方なくやる、そんな姿勢が多かったように思う。


 クラスの誰かが他校の人と付き合ったとか、先生が産休になったとか、来年から修学旅行先が変わるとか、そんなことを言われても特に心が動くことはなかった。今何が流行っていて何が人気なのか、一切知ろうとしなかった。

 テレビの向こう側で、たくさんの命が失われたことを知っても、気付けばおいしく飯を食べ、ゆっくり眠りについている。


 ようやく自分が何かの当事者になってから、時が静止したのを感じるのだ。


『俺だって、あいつが好きだったんだ』


 そんなはずはないのに。有り得ないことなのに。

 その時だけ耳の奥で、暑くて仕方がないと絶叫する蝉の声が聞こえた気がした。


『俺、あいつに告った。お前も告ったって知らずにさ。お前、どうせあいつと連絡取ってないだろ? 俺も同じだよ。俺だってずっとあいつと話してない。もしかしたら避けられてるのかもな。こんなんなら俺、告らなきゃよかったよ』


 振られたらどうするつもりだよ。


 いつしか尋ねられた言葉。あの時、あいつはどんな顔をしていただろう。


 お前のそういうとこ、本当にムカつく。


『あーもしもし、すんませんね』


 唐突に、知らない男の声に変わった。


『杉、酔っちゃって。こいつ酒飲むと記憶無くすんですわ。多分今回の電話も覚えてないと思うので、ほっといてやってください。ご迷惑おかけしてすみません。じゃ、切りますねー』


 何も音を出さなくなった向こう側。通話を終了した、真っ暗になったスマホの画面。視界が暗転する。


 いつから。もしかして最初から。


 自分があの頃どんなことをしていたのか、思い出そうにも何も蘇ってこない。こんな俺を、あいつはどんな思いで見ていたのだろう。どうしてもっと、関心を持たなかったのだろう。


 

 どれほどの時間が経ったのか。眠っていたのかもしれないし、呆然としたまま呼吸だけをしていたのかもしれない。


 カーテンの隙間からは眩しいほどの日が差していて、背中が濡れるほど気温が上昇していて、騒がしかったはずのテレビは、真っ青になっていた。


 ご覧のアナログ放送の番組は本日正午に終了しました。今後はデジタル放送をお楽しみください――。


 気が付けば、握り締めたままになっていたものを、再び耳に押し当てていた。


「……あ、もしもし、スミス?」


 思えば、彼女はまさにこの季節そのものだった。


 前触れもなく突然現れては、人を殺める寸前ほどの暴力性を見せる。こちらがいくら根を上げようと一切容赦なく襲いかかり、年々その威力を増す。


 昼には寿命一週間の命が、夕暮れ時には小さな吸血鬼が鳴き、俺たちを苦しめるけれど、それらは気付かないうちに姿を消し、理由のない喪失感に襲われる。終わりが近づくと自然と哀愁を感じる、唯一の季節。


「やっぱり俺、引っ越すよ」


 言葉はすんなりと出た。とっくの昔から決意していたように。この歳になって、心にも痛覚があることを知った。


 俺の初恋は、こうして終わった。

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