5・8① 都会の色

――2011年7月――


 100グラム200円以上もする豚バラ肉をなんの躊躇もなく買える大学生なんて、どれくらいいるのだろう。


 肉じゃがやカレーに毎回牛肉を使っていた我が家は、実はリッチだったんじゃないか。そんなことを考えながら精肉コーナーを往復し、鶏むね肉だけ買っていくことが当たり前になりつつある。


 新生活がどうなるのか、東京に馴染めるのか、同期とやっていけるのか、ひたすらに怯えていた過去の俺に伝えたい。


 医学部では、徹夜が一番重要な必須科目であると。クマを作った先輩たちの形相に驚愕するが、いつしか自分もそっち側に行くことになると。あれやこれやと母さんと買った食器や便利グッズの、半分も使っていないと。


 東京は、同じ日本のようで日本ではなかった。いや、地元が日本ではなかったのか。


 カルチャーショックを、国内で何度も体験することになるとは。どこぞの外国よりも、東京の方がよっぽど異文化だ。


 常にコンビニが見えないと東京人はパニックを起こすのかと思うほどに、あちこちにコンビニが並んだ光景。10番線以上もある駅と、ちょっとした移動でも複雑になる電車の乗り換え。人口密度の限界に挑み続ける満員電車。数分間隔でやってくる時刻表いらずの山手線。制服を着て私立学校に通う小学生。


 まあそれに驚いていたのはせいぜい上京1年目くらいなもんで、今じゃ新宿にそびえ立つ高いビル群を素通りだ。カフェで何時間もノートパソコンを広げる大学生やサラリーマンに唖然とすることもない。高くて甘くて飲めたものではないと避けていたスターバックスも、最近ではそれを片手に講義に参加するようになった。


 東京都民に擬態している気分。住民票こそ東京になったが、本当の意味での東京人にはなりきれていない感覚。


 入学直後、同期と下北沢に行った時、古着なのにとうしてこんなに高いのかと文句を言ったことがある。


 服を買うとしたらジャスコか駅前くらいなもんだった。古着なんて、てっきり三桁で買えるものだと思っていた。電車を乗り継ぎ、ユニクロやGUよりも高い古着をわざわざ買う価値というものを、全く理解できなかった。


 俺の異文化理解はここから始まっていたのかもしれない。


 都会には、自分の上位互換で溢れている。それどころか、到底手の届かない場所にいるやつらが平然とそこらを歩いている。


 天は二物を与えないと聞くが、一部の人間は二物どころか三物持っている。

 顔も良くて頭も良くて運動もできて実家が太いやつ、とか。幼稚園受験して、エスカレーター式で大学まで進学したやつとか。毎月家賃とは別に10万以上仕送りをしてもらっているマンション暮らしのやつとか。インターナショナルスクール出身とか、高校生の時に親の勧めでオーストリアでホームステイしてたやつ、とか。


 地元じゃ知らなくて済んだ格差社会を、嫌でも直視する羽目になる。世の不平等が恐ろしいほど表面化した環境は、井の中で楽しく生きてきた者たちの心をいとも簡単にへし折ってくる。


 今でも時々、缶コーヒーに手を伸ばす。自販機で買えるありきたりな味だが、スタバでは得られないものに手を伸ばしたくなる瞬間があるのだと思う。


「なあ、俺と一緒に住まないか?」


 月曜限定のA定食を食べながら、唐突に言ったのはスミスだった。織田無道そっくりな顔で真剣に言われたものだから、思わず味噌汁を吹き出しそうになった。


 初めてその呼び名を聞いた人は大抵動揺する。「もしかして日系の留学生なのか?」と変に勘繰る人もいるが、スミスというのはただのあだ名であって、岐阜出身の純日本人だ。高校の頃、英語が得意だという安直な理由でスミスという謎のあだ名をつけられたのだという。俺もスミスと同じ高校にいたらきっと、「フォレスト」と呼ばれていたに違いない。


「なんだよ急に」


 まさか同居の誘いをされるとは。学生で溢れる食堂のように、俺の頭も混沌とした。


 東京で信用できるやつを見つけろというテツさんのお達しを胸に、学部の新入生歓迎会でこのスミスを捕まえた。スミスは学年こそ同じだが、二浪したらしく年齢で言えば俺の一つ上だ。


 洋画が好きという共通の趣味から仲良くなり、いつしか互いの家を行き来する仲になった。週末でも会いたいと思う数少ない同期。


「最近、俺の同居人が留学したの知ってるだろ? せっかく家賃も光熱費も折半できるからルームシェアしてたのに、急に留学だぜ? 裏切られたよお。一人で家賃払うのきついのに。でも引っ越すのも金かかるし、物件探すの面倒でさ」

「まあ確かに。で、なんで俺?」

「杉山なら一緒に住めそうだから」

「え?」

「やっぱ一緒に住むなら、信用できるやつじゃないと無理だろ? 金銭感覚とか衛生面とか考えても、お前なら大丈夫かなーって思ってさ。それにお前、俺の部屋来るたび羨ましいって言ってただろ? 自分のとこはユニットバスだしゴキブリ出るし壁薄いし洗濯機は外だから最悪だって。だからちょうどいいと思って」


 スミスの家に遊びに行くたびに、俺は自分のボロアパートの文句を言っていた。家賃の安さを最優先に選んでしまったがために、生活の質を度外視したことを悔い、愚痴を吐きまくっていた。


 正直スミスの家は広いし綺麗だし部屋数も多くて住めるものなら住みたい。でも。


「ごめん。いい話だけど、引っ越せない」

「は? なんで?」

「いや、まあ、事情があるんだ」

「はぁ? どういう事情だよ?」


 誤魔化すように、ほとんど残っていない味噌汁を飲み干すふりをしてみる。


「すぐ断らずにさあ、ちょっとは考えてみろよ。多少は待てるからさ。な?」


 スミスの声は、子どもをなだめるみたいだった。ふと、あの場所に置いてきたものを思い出した。


 あの日の俺も、いつでも待てると言った。答えを出せなくてもいいとすら。


 その決意はどこへやら、いつまでも開かないドアを見るたび、心の中で明日こそと祈っている。ガチャリと開けて、あいつがひょっこり顔を出すのを期待している。





 家庭教師というバイトは、東京の最低賃金を加味しても、嘘みたいに稼げる。国立大や医学部在籍、もしくはその両方を兼ね備えた場合、通帳を二度見するくらいにはもらえる。


 他のバイトと比べて、大学名というブランドを持ち合わせるだけで時給が信じられないほど跳ね上がる。テツさんのもとで働いた時は終始走り回って汗水垂らしていたのに、今ではその倍以上の時給で、のんびりと椅子に座って女子高生に公式を教えている。


 国立大。医学部。その肩書だけで。


 ただその肩書は、誰かが死に物狂いで勝ち取った席でも、やむを得ず諦めた席でもある。


 3月、東北で大地震が起こった。東京も決して無害ではなく、翌日は休校になるほどの大混乱だった。


 もちろん、俺の住むボロアパートも例外ではない。棚に置いたものは基本落下していて、調味料や電子ケトルなどが散乱するという大惨事だった。


 学生寮に住む同期に口利きしてもらって、その日は男子寮に避難することになった。早くテレビが見たくてラウンジに入ると、お昼時の食堂のように混雑していた。みんなテレビが見たいのだろうと理解できたが、食堂と違ったのは、空気が異様に静かだったということだ。


 あまりにも静かすぎる。人を掻き分けテレビに近付くと、ある背中が、テレビを見ながらケータイを強い力で握りしめていたのが見えた。周りは、一定の距離を保ちながら、その人を囲むように立っていた。


 その人の正体に気が付いたのは、「出てくれ、出てくれ」という祈りの言葉が耳に届いた時だ。目に涙を浮かべながら、ケータイを何度も確認しては耳に当てる横顔。見覚えがあった。医学部の、同期だった。

 

 テレビに映る残酷な光景。淡々と伝えられる、映画のようにも思える嘘みたいな情報。


 誰も、慰めの言葉なんて言えやしなかった。経験したことのない絶望と、目の前にいる当事者に、かけられる言葉なんてなかった。


 その同期は、しばらくして大学を辞めた。


 友人と言えるほどの関係ではなかった。必須科目でしか基本関わることのない、顔見知り程度。


 ただ一度だけ、彼にルーズリーフをあげたことがある。たまたま席が隣になった時だ。数十秒程度の会話だったと思う。次の講義の時、律儀にチョコレートをくれたやつだった。助かったわ、サンキューと素直に礼を言えるやつだった。


 彼も俺と同じくらい、もしくはそれ以上に必死に努力してここまで来たはずだ。テレビに映るあの場所で、何度も悩み、家族と話し合いを重ね、励まされながら送り出してもらっただろうに。



「あのさあ、それってもう遠回しに振られてるよ」


 小林さんは問題集を解きながら、呆れたように言った。俺がショックで何も言えないままでいるうちにも、数式が大学ノートに綴られていく。女子らしい、丸みのある可愛らしい字だ。


「……ストレートに言うね。ちょっと傷つく」

「だってそうでしょ。話聞く限り、脈ないもん」


 まじかあ、と溜息を吐くと、小林さんは少し意地悪に笑った。えくぼが印象的で、幼さも感じた。


 小林さんは、俺が家庭教師の担当をしている生徒だ。国立大を目指している高校二年生。ポニーテールにシュシュをつけた、KARAと少女時代が大好きな今どきの子。彼女の部屋には、少女時代と思わしきポスターが数枚貼られている。


 俺が教える必要があるのか分からないくらい優秀な子で、授業の半分くらいは雑談で時間を潰す。

 今日は女性の一意見を聞いてみようと勇気を出したのだが、希望もくそもない返答を食らった。


「その子と最後に話したのはいつ?」

「……地震の時。電話で」


 地震があった日、夏と電話で話をした。上京してから初めてのことだった。ただし、電話をかけてきたのは勇人で、途中から夏に電話を替わったのだ。


 大丈夫? 無事? なんともない?


 夏から飛び出してきたのは、たった3つの質問だけ。慌てて「今年のお盆は帰るかも」と言うと、分かった、と返事をされて終わった。


「それ以上は何も話さず?」

「まあ……そうだね」

「んー、やっぱノーだな」


 またしても、非情な現実を突きつけられる。他人からすれば、俺はとっくに玉砕しているように見えるのだろう。スミスにもそれとなく話してみたが、似たようなことを言われた。


「だってさ、告白してから1年経っても音沙汰なかったんでしょ? それで3月にようやく話したんでしょ。ならノーだよ。付き合う気があるならこんなに放置しないし、たとえ結論が出なくてもせめて一報入れるでしょ。もう少し考えさせて、時間をくれって」


 バカみたいに信じていた。自分の希望通りの答えが返ってくると。いつか叶うと。でも同時に、やっぱりおかしいよなと思い始めていた。いくら驚いていたとはいえ、ここまで返事どころか連絡もしてこないものかと。


 俺から連絡すると返事を催促しているようでよくないと思っていたが、それがよくなかったのだろうか。


「じゃあ今はなんの放置期間なわけ? ノーならノーって言ってもらえたらすっきりする気もするけど」

「幼馴染だから気を遣ってるんだよ。それくらい察しなよ。面と向かって振ったら気まずくなるでしょ」

「今でも十分気まずいけどな」

「直接ごめんなさいって言われるよりマシじゃない?」


 ぐさぐさと傷を抉られていく。他人事だからか、小林さんの言葉に一切の容赦がない。今どきの子は、サバサバしているのだろうか。


 それでも俺は、あの部屋に固執し続けてしまう気がする。


「きっと他に好きな人でもいるんだよ」

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