5・1② 秘密
鏡の中に写る男の頬は若干の赤みと腫れを持っていて、明らかに誰かに殴られたのだと分かる面だった。
口が切れたわけではなかったが、頬に静電気が走っているような鈍い感覚がある。やっぱり冷やした方がいいだろうか。保冷剤か何か取ってくるべきか。
弱火で焼かれているような熱がある頬を見ているうちに、女子でもここまでの腕力は発揮できるのかとつい感心してしまいそうになった。夏から手加減無しにぶん殴られたのはいつぶりだろうと考えていると、ドアが開いた。
早人だった。学校帰りなのだろう、制服姿のまま右耳だけイヤホンをしていて、手にiPodを握っている。寝癖が残った頭で、前髪が無造作に跳ねていた。
「派手にやられたなあ」
俺の顔を見るなり笑う早人は、どこか疲れ切っていた。散々同級生からイジられて憔悴しているのだろうか。
靴下を脱ぎ、タンスに向かっていく背中をなんとなく目で追った。
俺の顔を見て何も聞いてこないあたり、きっと家を出ていく夏と遭遇したのだろう。
部屋着を選んでいるのか、早人はタンスから服を引っ張り出したりしまったりを繰り返すだけで、俺には目もくれない。
無言で漁り続けるその背中に、思わず尋ねた。
「なんで聞かないんだよ」
「何を?」
「殴られた理由だよ」
まだ服を漁っていた。見えるのは背中だけで、顔は見えなかった。
「どうせまた夏に変なこと言ったんだろ。いつものことじゃん。聞くまでもないよ」
部屋着選考に落選したシャツたちが無造作に床に散っていく。
部屋着なんて何でもいいだろうに、こちらに振り返りもせずにいちいち吟味している背中。無性に蹴飛ばしてやりたくなる。
俺がもしこいつの立場だったら。
何があったのか、どういう会話をしたのか、夏がどんな様子だったのか細かく問いただすのに。二人の間に何があったのか気になって仕方ないのに。
まだ部屋着を選んでいる。心配も不安も何も抱いていない様子で、どうでもいいことに時間を費やしている。
「あのことも聞くまでもなく分かってるってことか」
引き摺りだされたグレーのスエット。その柄を眺めている背中は隙だらけで、簡単に蹴飛ばしてやれそうだった。
「なんのこと?」
無関心なふりをしているのか、本当に無関心なのか、本当のところはまだ分からない。ただその背中を、少しでも崩すことができるなら。
「俺がなんであの曲を歌ったのか」
細い背中がスイッチを切られたように停止した。石のように固まって、押し黙っている。喉元に冷たい刃物でも押し付けられたかのように。
呼吸が聞こえそうなほどシンとした空間。水面に投じられた小石の音が聞こえた気がした。
早人は一呼吸おいてから、首だけ回してこちらを向いた。
「どうして?」
俺にようやく問いかけた薄い顔。感情の測れない真顔だったが、口角が微かに引き攣っている。
明らかに探求心が宿った瞳を見て、思わず笑いだしそうになった。
「秘密」
答えると、マヌケな面が突然水をかけられたかのように歪んだ。
「教えてやんねえ。ムカつくから」
わざと明るい声で言った。一拍置いてから、早人の顔は柔らかく解れ、細い息を吐いた。
「……はあ? じゃあなんでそんな話したんだよ」
早人は床に散った部屋着を拾い、タンスに押し込んだ。そして制服から部屋着に着替え始めた。
脱いだ制服にリセッシュを吹きかけている早人の横顔は、霧を吸い込まないように息を止めているせいか、どこか苦しそうだ。
「そういえば早人ってさ、結局どこ受けんの」と声をかけると、「へ?」とこちらを向いた。目の下にはクマができていた。
「大学だよ。志望校どこなわけ? もう秋だろ? さすがに決めただろ」
シュ、という音とともに、霧のように舞う飛沫が床に落ちていく。早人は口を
寝癖が残った前髪を適当にいじりながら、早人は答えた。
「秘密」
♢
早めに昼食を終え、机に突っ伏していると、「杉山」と誰かの声が降ってきた。
森崎だった。紙パックのリプトンをストローで飲みながら机の前に立っている。わざわざ教室に訪ねてくるなんて珍しいなと思っていると、森崎は俺の目の前の席に腰かけた。
「写真、もらってきたぞ」
「写真?」
「文化祭のだよ。実行委員が撮ったやつ」
森崎が差し出してきたのは、手帳サイズの茶色い封筒。
渡されるがままに受け取り、中を確認すると、十数枚の写真が現れた。
まず目に入ったのは体育館ステージ。俺がマイクの前に立ち歌っている姿がローアングルで撮られたものだった。我ながら写真写りがいい。卒業アルバムの一ページに採用されそうなほどよく撮れている。
他の写真もパラパラと確認すると、どれも俺たちの体育館ステージの写真のようだった。
由利、森崎、三木。みんな綺麗に写っている。
記憶の海に浸りながら写真を眺めていると、森崎が突然「お前さ、彼女と別れたんだよな?」と言った。
突然だったこともそうだが、質問が質問でいい気はしなかった。忘れようとしていた記憶を無理やり召喚された気分。わざと眉間に皺を寄せて「なんで?」と森崎を睨んでやったが、森崎は構わず続けた。
「文化祭に彼女って来てた?」
「なわけないだろ。別れたんだから」
「そっか、違うのか……」
「なんだよ急に。何が言いたいんだよ」
森崎は数秒の沈黙の後、俺を真っ直ぐ見据えて言った。
「お前さ、好きな子いる?」
「は!?」
その瞬間、教室にいた全員が俺の方を向いた。自分でも驚くほどの大声を出してしまったのだから当然だ。森崎は周りを気にしながら「うるせえよ」と俺を小突いた。
「お前が変なこと言うからだろ!」
「だってこの目は違うだろ。尾崎の時とはまるで別人。この写真見た時確信したんだよ。やっぱり感情は顔に出るよなあ」
森崎は一枚の写真を机に広げた。そこへと視線を落とした瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
どこにも写真の情報は書いていない。それでも、それがあの曲を歌っている時のものということが一瞬で理解できた。
俺がマイクスタンドを握って歌っている横顔のアップ写真。観客もメンバーも映っていない、俺だけの写真。瞳の色と、頬を伝う汗だけが視界に飛び込んでくるような一枚だった。
俺が何も言えないまま黙っていても、「もとからおかしいと思ってたんだよな。お前が急にSMAP推しだしたからさ。なーんか裏があるんじゃないかって思ってた」と森崎は続けていた。
「なあ、どこのクラス? 俺も知ってる人?」
「教えるわけないだろ」
「あっそ。別にいいけど……まあ、いい報告を待ってるよ。うまくいくといいな」
「そりゃどうも」
これ以上深堀してはならないと、俺の表情からなんとなく察してくれたのか、森崎は何も尋ねてこなかった。かわりに、別の写真を取り出した。
「ちなみにこっちの写真もあるぞ」
「……げ」
飛び込んできたのは、赤、青、黄の三色。その色を纏った汗だく男三人衆が手を振っている写真。胃液が逆流したような嫌悪感が背筋を震わせた。
「捨てろ」
「は? なんで? いい写真じゃん」
「よくねえ! 一生の恥だよ! 思い出したくないから見せるな!」
俺の反応がおかしかったのか、森崎はケラケラと笑っていた。俺は森崎から写真を奪おうとあれこれ画策したが、結局失敗に終わった。
ひとしきり笑いきった森崎は、小さく呟いた。
「でもなんか、文化祭終わると気が抜けるよな。なんもやる気出ない。やり切った感っていうかさ」
燃え尽き症候群とでもいうのだろうか。確かに俺も、何の気力も沸かなくなっている。
あれほど熱中したバンドが終わり、目標がぶつっと切れてしまったせいだ。途方もない脱力感と、夏バテが延々と続いているような倦怠感。
かといって、また一から何かをしたいかと言われると、それもまた億劫だ。
何かやりたいけどやりたくない。何もしないのは嫌だけど何かをやりたいわけではない。
そんな抜け殻状態の俺に、張り手をくらわせるような出来事が起きた。
放課後、駐輪場で自転車を探している時だった。
「なあ、俺偶然聞いちゃったんだけど」
「何を」
「杉山、どこにも出願しないらしいぜ」
話していたのは、俺の横でチェーンを外している男たち。一人は角刈り頭で、もう一人は離れ目でどこかで見たことのある顔だった。
杉山ってどの杉山だ、と思ったが、そんなひと学年に何人もいるような苗字でもない。
俺が沈黙している間にも、角刈りの男は食い気味で「マジで? なんで? 就職すんの?」と言った。離れ目男は、「知らねー。でもどこも出願しないってことはそうなんじゃね?」と笑いながら自転車をいじっていた。
「はあ? 頭いいのにもったいないな。学年トップじゃん」
「まああいつ、母子家庭だしな。家庭の事情ってやつじゃないのか」
嬉しそうに話す離れ目。そうだ、思い出した。カエルに似ている面。早人に何かとちょっかい出していた、赤松だ。
赤松はチェーンを外し、跨ろうとしていた。俺は思わずその肩をつかみ、動きを阻止した。赤松が困惑の表情で振り返る。
「今のどういうことですか」
早口で迫ると、「は? 誰お前」と赤松が、「急になんだよ」と角刈りが俺を睨みつけた。
俺も赤松を睨み返すと、離れた目は俺が誰なのか悟ったような色をした。
「あれ、お前どっかで見たことあるな。……あ、あれだ、文化祭で尾崎歌ってたやつだろ?」
角刈りが俺の肩を叩く。陽気に笑う。「ちょっと歌ってみろよ」と煽ってくる。
固まっているカエル顔が、昔早人に言った小言。それを黙って聞き流し、何もなかったような様子を見せる早人の顔。俺が赤松に対して怒っても、早人は眉一つひそめることなくただ笑っていた。滲み出すように思い出した。
あいつが後夜祭の出来事をクラスメイトからいじられているのを、廊下で見たことがあった。その時のあいつも、笑っていた気がする。悲しげもなく、誤魔化すわけでもなく、ただ目の前の現状に諦めていたような気がする。
「どういうことだって聞いてるだろ!」
胸倉を掴んだ瞬間、赤松が握っていた自転車がガシャンと大きな音を立てて倒れた。
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